雨が空から降れば
Pカンパニー
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2021/05/12 (水) ~ 2021/05/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/05/13 (木) 14:00
座席1階
昭和を生きた人なら口ずさむことができるだろう小室等さんの歌「雨が空から降れば」は、元々は別役実さんの戯曲の劇中歌だったという。その戯曲とは別に、1997年に別役さんが曲と同名の戯曲を文学座に書き下ろした。Pカンパニー代表の林次樹さんは別役作品に没頭して芝居の道に入ったという(パンフレット)が、この戯曲を2016年に上演している。今回は別役さんの追悼公演としてコロナ禍、緊急事態宣言の中をいつもの池袋の劇場で上演した。
別役さんの不条理劇の中でも分かりやすい展開だけに、面白さ抜群である。流しの葬儀屋という発想がまず、ものすごい。何といっても最初のシーンがすごい。
別役作品にはおなじみの笠のついた電球がぶら下がる「電柱」に、首をくくるロープがついている。そこに棺桶など葬儀一式のアイテムをリヤカーに積んだ葬儀屋が通りかかる。葬儀屋は死んだ人を探していて、別の葬儀屋との縄張り争いがあるというのも強烈な発想だ。
ほかの別役作品がそうであるように、物語は次々と意外な方に転がっていく。生きていても仕方がないから死ぬのか、死んでもどうしようもないから生きるのか。電柱がある街角に続いて舞台は病院に移るが、縄張り争いをしている葬儀屋が院内を徘徊して「お客さん」を奪い合っている。医者は「あんたらは霊安室にいなさい」と命令するところなど、場面ごとにシュール感があふれる。
「死を笑う」というのは当然、不謹慎ではあるのだが、ここで笑うのは死だけではなくその裏返しである生をも笑う。人間が心の中に隠している、いや、隠しきれない嫌味な部分を容赦なくさらけ出し、舞台は笑いに変えていく。
別役作品だからか客席は高齢者が多かったが、若者が見ても絶対面白い。別役さんの追悼芝居はほかの劇団も行うであろうが、Pカンパニーのこの舞台はぜひ見ておきたい。一度見たらやめられないような「中毒性」がこの芝居にはある。見ないと損するかも。
囲まれた文殊さん【4月27日~4月30日公演中止】
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2021/04/21 (水) ~ 2021/04/30 (金)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2021/04/22 (木) 14:00
座席1階
京丹後市の経ケ岬にある文殊の神様は、左を自衛隊基地、右を米軍基地に囲まれているという。Xバンドレーダーが配備され、ミサイル防衛の任務をしているという。しかし、もし仮に中国や北朝鮮からミサイルが飛んできたとしても、数分で日本に到達するミサイルをレーダーがとらえて(とらえたとしても)イージス艦に伝えて迎撃ミサイルで撃ち落とすのはほとんど不可能とされている。結局は、グアムなど米軍基地を守るための装備であろうと言われ、じゃあ、この基地は日本国を防衛するのに役立つのか、という話だそうだ。
前置きが長くなったが、そういう基地を作るために肩身の狭い思いをしてきた文殊さんを通して、この舞台が問いかけることは多い。
まずは、言うべきことは言わねば、ということだ。主人公の青年の実家で、その父親は米軍基地の建設にずっと反対をしてきた。今も反対をしている。沖縄もそうだが、基地で働いている地元民も多く(この舞台でもこのお父さんの義妹が営むクリーニング店が米軍人も重要顧客。基地でバイトしている女性も登場する)、反対運動を快く思っていない人は少なくない。だが、このお父さんは地域統合のシンボル的存在であった文殊さんに、毎日お参りをしながら反対運動を続ける。
もう一つは、反対運動によって地元が分断されないようとことん相手の意見を聴く、という姿勢だ。意見は違ってもお互いを認め合う、ということだろう。いずれも、とても大切なことだと思う。
この舞台のいいところは、そうしたメッセージを単に基地反対というワンイシューで語るのでなく、コロナウイルス患者に対する差別、という視点でも切り取っていることだ。地元に一人も感染者がいないため、東京から帰省する若者への風当たりは非常に強い。全国どこでも、今でもそういうことが起きていると思うが、感染者への差別はコロナ患者を診る医療従事者への差別につながり、感染者を取り巻く家族など周囲への差別につながる。「感染させるかもしれないのに東京から来るな」という地元の人々の内なる差別にも真正面から向かい合っている。とても共感できる物語だ。
青年劇場らしい分かりやすい筋立て、そして鋭いメッセージを発するにもどこか優しさを感じる舞台。今回もしっかりとそれを感じることができた。秘密保護法のために、基地の中を探ろうとする反対運動者が摘発されるかもしれないという怖さもきちんと描かれていた。
ビルマの竪琴
劇団文化座
俳優座劇場(東京都)
2021/04/15 (木) ~ 2021/04/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/04/20 (火) 14:00
座席1階
竹山道雄の名作の舞台化。文化座創立80年記念の公演という。文化座は戦時中に創設され、満州にわたって演劇を続けた。引き揚げるときの苦労は、まさに他人事ではなく劇団のDNAとして刻まれている。この演目が創立80年として選んだのも、文化座の歴史を体現している。
それだけに、熱のこもった舞台であった。この演劇の肝ともいえる合唱シーンは卓越している。「埴生の宿」、ラストシーンの「仰げば尊し」。どの楽曲も見事な男性ハーモニーで心を打たれる。
主人公の水島上等兵を演じた藤原章寛の実直な演技が光る。隊長役の白幡大介もぶれることのない役どころで印象に残った。埴生の宿を敵味方が合唱するシーンは、物語の筋をわかっていても感動できる場面だ。
壮絶だった先の戦争でも、苛烈を極めたと言われるインパール作戦。無謀な作戦に犠牲を強いられるのはいつも末端の将兵である。無謀な外交の犠牲になるのも国民であろう。
当時の人たちはそういう考えに及ぶことはなかったと思うが、一体何のための戦争なのか、何のために死闘を尽くすのか。それは、教訓として残っている。戦争を避けるための道具が外交であるなら、今の日本の外交のファーストプライオリティーは「非戦」になっているのだろうか。戦いを避けるための努力が外交交渉の中で行われているのだろうか。首相訪米のニュースなどを見るにつけ、とても不安になる。
インパール作戦の教訓を未来のために学び続ける責任が、日本国民にはある。そうした中での「ビルマの竪琴」は、胸に刻むべき舞台だ。戦争に翻弄された歴史を持つ文化座だからこその力作に、拍手を送りたい。実際、私が見た回もスタンディングオベーションという空気の拍手が続いていた。
俳優座劇場の席は半減させての感染対策。客席の年齢層は高かった。本当にいい舞台だ。もっと若い世代に見てほしい。
どん底 ―1947・東京―
劇団民藝
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2021/04/08 (木) ~ 2021/04/18 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2021/04/09 (金) 14:00
座席1階
日本の新劇人は今も昔も「どん底」が大好きなのだという。最初は1910年の小山内薫、市川左団次だったというから、もう歴史の世界だ。極貧というのは演劇のテーマとして取り上げたくなるのだろう。パンフレットから学ばせてもらった。
民藝による今作は、新型コロナで1年延期になった舞台だ。まずは、何はともあれ無事に上演に至ったのを喜びたい。
設定は終戦から2年後の1947年、新橋の焼け跡。食べるものも着るものもなく、その日を生きるだけで精いっぱいの人たちのそれぞれの哀感、人生を描く。
生きるだけで精一杯なのだが、どの人もエネルギッシュである。そうでなければ生きていけない時代だったのだ。末端の警官がやくざとつるんで小金を稼いでいるのだから、頼るものは自分しかいない。それでもこの、どん底の簡易宿にしがみついている人たちは、仲間意識のような空気も持ちながら、前に進んでいく。
当時は当たり前だが、生と死は隣り合わせだ。この簡易宿でも、病気の住人が死んでいく。だが、死んでも弔う金が無い。つい2年前までやっていた戦争ではそれこそ街に死があふれていた。空襲で亡くなった人も、弔われることなくこの世を去って行った。その戦禍をせっかく生き延びても、尽きていく命はたくさんあったのだろう。食べ物も薬もないなかで、主人公の「正体不明の老人」が、重病の女性の身の上話を聞くシーンは印象に残った。
最初に「新劇」はどん底が好きだと書いた。今回の舞台、若い人の姿も客席に見かけたがこの「どん底」。今の小劇場ブームを支える若い演劇人たちに取り組んでほしい演目だ。
チムドンドン~夜の学校のはなし~
劇団銅鑼
銅鑼アトリエ(東京都)
2021/03/18 (木) ~ 2021/03/29 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2021/03/24 (水) 14:00
座席1階
沖縄の夜間学校を舞台とした物語。戦後の混乱期、米軍の占領下で学校に通うことができなかったおじい、おばあたちの学びたいという前向きな思いと、授業を心から楽しむ姿を描く。沖縄の夜間学校だから沖縄戦の話は避けて通れないが、山谷典子作なのだからだろう。ここにも真正面から切り込んでいる。
卒業式で、沖縄戦をテーマにした演劇をやることに。生徒たちが行うその演劇の台本を、インターネットで沖縄戦を調べるだけで今ひとつピンときていない沖縄の今の高校生が書くことになった。驚いたのは、沖縄戦を桃太郎に擬した、という流れだ。舞台で1人のおじいが「沖縄での戦争を桃太郎でなんて」と憤慨する場面も出てくるが、当然の思いだろう。だが、その答えはすぐにわかる。要するに、占領軍の米国、そして返還後の日本政府を鬼退治に行く桃太郎という設定とし、沖縄に対する加害者の視点から客席に考えてもらうのだ。
ようやく占領から開放されても、米軍基地はわが物顔で沖縄を蹂躙し続け、日本政府もそれに加担しているという歴史。途中の換気休憩後の第二幕はほとんどこの劇中劇に費やされる。言いたいことは十分に分かるのだが少し教条的な感じもして、自分は若干引いてしまうところがあった。
むしろ、前半部分で繰り広げられた「学び」の本当の意味を考えるというところをもっと見たかった。
東京で一流の進学塾の人気講師だったという女性が、夜間中学の教師をしている姉の出産に伴う代用教員として赴任する。覚える順番を教え、効率よく学習内容を吸収できるようにする、という女性の教授法が空回りする。こういう設定に、すごく共感が持てた。自分たちは何のために学んできたのだ、という人生の根源的な問いを真正面から突きつけるからだ。
この舞台はや「学びの意味」と「沖縄の思い」と二兎を追っている。座っているのがややきつい、2時間半を超える長さになったのは、そのためかもしれない。
沖縄戦の経験をひ孫のような高校生に語るおじい、おばあのところは確かに感動的だった。だが、これを夜間中学の学びの意味を考えるような設定で取り上げられなかったのか。後半の劇中劇は努力賞だと思うが、二兎を追った結果としては満足できなかった。
Don’t say you can’t
一般社団法人グランツ
ラポールシアター(神奈川県)
2021/03/13 (土) ~ 2021/03/14 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2021/03/14 (日) 13:00
知的障害者の演劇集団である横浜桜座が、青年座やテアトルエコーなどプロの役者たちを集めて一緒に公演するプロデュース公演。障害のあるなしにかかわらず、同じ役者として一緒の舞台に立つ。障害者が舞台に立つことが当たり前の世の中を目指す、劇団のパフォーマンスだ。これは障害者福祉ではない。舞台芸術なのである。
物語は、障害者施設を舞台に進行する。コロナ禍で自宅のパン屋が休業に追い込まれたシングルマザーが障害者施設で働き、そこでかつての恋人であり、演劇仲間であった男性に再会する。男性は頸椎損傷で車いす姿で、息子に付き添われて施設に来ていた。人生を投げているところがあった男性だが、施設内で演劇会を開いてはどうかという提案に盛り上がり、生き方が変わっていく。演出は青年座の磯村純。
出演する桜座のメンバーは、オーディションで選ばれた。自分の持ち場をしっかりこなしているという印象だ。主演のシングルマザー役は小飯塚貴世江。彼女は桜座の舞台を見て、「頭をたたかれるような衝撃を受けた」という。「自分は役者をやっていて、どこか上手に見せようという雑念がくっついていた。演劇をやるのに必要なものを、教えてもらったから」と話した。障害者とそうでない役者たちがお互いをインスパイアする存在として、今回の舞台に立っている。
自分は横浜ラポールシアターで見た。シモキタで多様性を体現した役者たちの舞台があるということが、小劇場文化の一つのエポックメーキングになってほしい。
日本人のへそ
こまつ座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2021/03/06 (土) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2021/03/11 (木) 12:00
座席1階
劇作家・井上ひさしの実質的デビュー作という。初演は1969年にテアトル・エコーが行った。こまつ座としては震災のあった2011年以来10年ぶり。演出の栗山民也は1985年の公演がこまつ座での初めての演出だったそうで、今回が4回目。いろいろ歴史のある井上喜劇だ。
見終わって、いや見ながら思ったのは、役者たちの大変さというか、これは死ぬ気で向き合わないと演じられないな、と。実際に、栗山は出演者たちに「これまでの自分を壊すような気持ちで」という趣旨の指示をしたというが、実力派俳優たちも自分がこれまでやってきた実績とか経験とかをすべて忘れて飛び込んでいかないと、それこそ舞台から弾き飛ばされるような勢いなのだ。
あのバイデン大統領もそうだったという吃音症を、さまざまな役を演じることによって治す試みだということを、学者役の山西惇が冒頭、説明する。「患者たち」が舞台を歩き回りながら唱える「あいうえ王」は、井上ひさしの言葉遊び。繰り広げられる劇中劇が、本作の舞台である。
劇中劇の一つが、昭和の香りが色濃く残る浅草のストリップ劇場だ。朝海ひかるや小池栄子らスタイル抜群の女優たちが長い手足をピンと上げての演技は圧巻である。SKDも顔負けの、脚が描く真っすぐな直線、ぴたりと合ったすばやい動きは拍手喝采ものだ。すばやいと言えば、各劇中劇で早変わりが連発するところはものすごい。一人何役も与えられているのだから、観ている方が目が回りそうである。「日本のボス」の劇中劇は、料亭政治を皮肉っているようなところがあって風刺も効いている。
「ハチャメチャ」と言ってしまえばそうなんだけど、劇中劇の一つ一つが非常におもしろくて、それが連続して繰り出され、客席もついていくのに必死という感じなのだ。
ラストのどんでん返しもいい。
出演した俳優たちを一回りも二回りも大きく鍛え上げるような、まるで道場だ。これをこなした出演者たちは、相当な自信を得たのではないか。
ウィーンの森の物語
東京演劇アンサンブル
東京芸術劇場アトリエウエスト(東京都)
2021/03/06 (土) ~ 2021/03/14 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2021/03/10 (水) 14:00
座席1階
ドイツの作家ホルバートの作品。ブレヒト劇をやり続けてきた劇団だが、ブレヒトと同世代を生きた作家を「生誕120年」として取り上げた。
演出家の公家義徳氏がパンフレットに記したところによると、革命家たちを描いたブレヒトとは対極にあるように小市民の生活を描いた作家だという。
父の決めた嫌な相手との結婚から逃れ、駆け落ちした相手の男はどうしようもない輩で、主人公の女性は乳飲み子を夫の実家に預けて懸命に働く。当時はドイツだけでなく欧州も米国も日本もそうだったと思うのだが、女性が夫の所有物のような扱いで自分の人生を生きられなかった、ラストは救いようもない悲劇である。究極の児童虐待が起きるのだから。主人公の叫びが、何とも言えない重さを突き付ける。
この劇が今日性を持つのは、女性の貧困、抑圧が今もあまり変わっていないところだからだ。時代は100年近く回転して主人公のような女性の悲劇がなくなったかというと、そうではない。日本でもDVがあちこちにある。結婚して仕事を辞めるのは当たり前のように女性であった。非正規労働による貧困に苦しむのも多くは女性である。シングルマザーの苦闘は日本でも欧州でも同じであろう。
途中、2回の「換気休憩」が入って約2時間半。前段は若干、緩いペースだと思うが、後半は引き締まってくる。特に、主人公のマリアンネを演じた仙石貴久江が光った。若手の劇団員が育っているということなのだろう。長年慣れ親しんだ武蔵関のブレヒトの芝居小屋を出た今、新しい劇団になっていくためにもこうした女優さんがいるのは明るい。
アフタートークでは背景にある戦争の話も出てきたが、この舞台には戯曲が書かれた直後に出てくるヒトラー政権の空気も感じさせない。男たちはどこまでも身勝手なやつばかりだが、それでも戦争で抑圧される空気はないのだ。戦争とは一応、切り離されているだけに、現代社会での今日性が舞台に浮き上がってくるのかもしれない。
岸辺の亀とクラゲ-jellyfish-
ウォーキング・スタッフ
シアター711(東京都)
2021/03/06 (土) ~ 2021/03/14 (日)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2021/03/08 (月) 14:00
座席1階
2011年に初演の舞台だという。震災があった年だ。今年で10年目の再演。
中学校の女性教師のアパートの部屋が舞台。最初に出てくるのはこの女性教師と付き合っている彼氏で、洗濯物の女性下着を取り込んで、丁寧にたたんでいるという非常にシュールな場面から始まる。
最初に訪れる珍客は上階の部屋に住んでいるらしき中年男だ。泥酔して部屋を間違えるという設定だが、ここから果てしなく間違いが連続して起きていく。
その各々の間違いが微妙な糸でつながっていて、結局この部屋を訪れる人たちは、一見主人公と何の関係もない人たちであったはずなのに、結局何らかのかかわりが持たざるを得ないところまで追い込まれていく。何というか、これがまた微妙な「破局」につながっていく。
2時間余りの舞台だが、この舞台設定と物語を織りなす縦横の糸が非常にうまくできていて、目を離すことができない。要するに、この演劇は面白いのだ。
その面白さは、人間が誰しも持っている、他人のふるまいや出来事を「他人事」として話のネタにして楽しむような感覚だ。「眼鏡を掛けた地味なおばさんが万引きをしたところで目が合った。見つめられて気持ち悪かった」。いかにも、他愛のないエピソードなのだが、笑っているうちにこのエピソードに深くつながる災難に巻き込まれていく。都会の「他人事」の人間関係をシニカルに描いているのだが、実はドロドロの関係であったりする。
いろいろ書きたいが、書くものすべてtがネタバレになってしまうからこの辺で。残りは劇場で確かめよう。チケット代の2倍は楽しめます。
この舞台の教訓。アパートのドアを開けたら、ちゃんとカギをかけること。鍵さえかけていたらなあ(笑)
花樟の女
Pカンパニー
座・高円寺1(東京都)
2021/03/03 (水) ~ 2021/03/07 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2021/03/04 (木) 14:00
台湾出身の女性作家・真杉静枝の物語。戦前から戦後にかけて、生まれ育ちや性別で差別され、貶められてきた真杉静枝の人生を描く。
冒頭。あることないこと織り交ぜて静枝をひぼうするような小説を書いた作家の元に、静枝の妹とその娘が抗議に乗り込んでくる。舞台は、妹がナビゲーターとなって静枝の半生を振り返りながら進んでいく。
女性が社会で働いてそれなりの地位を占めるようなことが当たり前になりつつある日本だが、森元総理の女性蔑視発言に象徴されるように、日本の男尊女卑のDNAはそう簡単になくならない。日本が台湾を占領していた当時は「女が男を支える」のは当然であり美徳であった。石原慎太郎元都知事の「第三国人」発言にこれもDNAとして引き継がれているように思うのだが、外国人や少数民族、アジア諸国の人たちを「劣等民族」と言わんばかりにさげすむ差別感情も当時は、当たり前のようにあった。こういう時代にあらがって、「書くべきことを書く。言いたいことを言う」という女性が生きるためにはどんなことでもやらなければならなかったのだろう。それが、時には体を預けてまで力のある男性に取り入ったりすることがあったのかもしれない。それが「恋多き女」と評された静枝の一面であった。
でも、「恋多き男」とは表現しないから、文芸作品やジャーナリズムの世界でも、男尊女卑も相当根深く残っている。休憩をはさんで3時間弱の舞台を見ながら、「女は男よりも劣っている」「日本人は優秀民族である」というDNAをどう、拭い去っていくのかを考えていた。舞台を見ながらこういう思考回路になったのは、Pカンパニーの「罪と罰」シリーズの力点であるからなのだろう。
この舞台が、森発言があったからタイムリーだとは思わない。むしろ、森発言のあるなしにかかわらず僕たちが考えなければならない「罪と罰」なのだ。
それともう一つ。冒頭に出てくる作家先生は、書かれる者の痛みを全く理解していない。面白ければ何を書いてもいいのだ、多少誇張や嘘が入っていて何が悪いのだ、という人だ。悪い奴だと思うから悪く書かれて当たり前だ、というバッシングは、現代日本に、特にSNSに巣食い続けている。自分としては、こちらの「罪と罰」の方に思いを寄せる。
「差別」は、される側でないと痛みは分からない。差別がはびこる嫌な社会から一歩でも抜け出すためには、相手の痛みを想像する力を養うことが必要だ。Pカンパニーの舞台は、そういうことに気づくヒントを与えてくれる。
ドレッサー【2月26日(金)は公演中止/兵庫公演中止】
加藤健一事務所
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2021/02/26 (金) ~ 2021/02/28 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2021/02/28 (日) 14:00
座席1階
シェークスピアの劇中劇の舞台裏という設定。ドレッサーとは衣装係兼付き人で、舞台裏を支えるスタッフがこの物語の主役である。
第二次世界大戦のさなか、ドイツ軍の空爆を受けて空襲警報が鳴るロンドンで、「リア王」の幕が上がる。空襲という非常事態で、肉体的にも精神的にも弱気になり周囲を困惑させる座長で、王様役を演じるのが加藤健一だ。舞台に穴をあけてはと、なだめすかして座長や座員を鼓舞して舞台の遂行を図るのが今回のドレッサーで、加納幸和が演じた。
1988年にサンシャイン劇場で演じられ、この時は座長を三國廉太郎、ドレッサーを加藤健一が演じたという。それから三十余年。年を重ねたカトケンが満を持して座長役として舞台を引っ張ることになった。
この舞台、戦争とは異なるが、ウイルスとの闘い真っ最中の緊急事態宣言下での上演だ。カーテンコール後のいつものカトケンのあいさつによると、本当はプレイハウスで3日間の上演だったが、午後8時までに終わるという緊急事態宣言ルールに引っかかって一日休演があり、二日間は席を一つ空けての客席だった。三日間で集客は本来の三分の一だったという。それでも、今回の舞台の役者たちは「開演できてよかった」という。僕たちも見られてよかった、と思う。空襲の中、劇場に集まったロンドン市民のような気持ちで舞台を見つめた。
座長のせりふの中で「俺は映画は嫌いだ」という趣旨のものがあった。この演目、演劇人の生きざまを真正面から描いている。なぜ演じるのか、そして我々はなぜ見に行くのか。爆弾とウイルスは本質的に違うけれど、生の演劇の持つ意味を十分に教えてくれる。
カトケンも気に入っているとパンフレットに書いているセリフがある。「役者というものは、他人の記憶の中にしか生きられない」。名セリフだ。自分は役者でないからその思いは分からないけれど、舞台に通い続けるというのは、心に刺さる記憶を刻み続けるためだと感じている。
僕の庭のLady
文化庁・日本劇団協議会
赤坂RED/THEATER(東京都)
2021/02/17 (水) ~ 2021/02/23 (火)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2021/02/18 (木) 14:00
座席1階
日本劇団協議会が制作した、文化庁の海外研修制度から戻った演劇人たちによる公演。演出を担当した河田さんもその一人で、イギリスの国民的作家アラン・ベネットの実話を基にした作品だ。
かつては著名なピアニストだったホームレスの老女が住まいにしているワゴン車を、なぜか自宅の庭に止めさせて何かと面倒を見るベネット氏の目線で物語が進行する。
このベネット氏をふたりの役者がかけあいのように会話しながら演じるのがおもしろい。この老女はとんでもなくわがままであれこれベネット氏に文句を付けたりするのだが、ベネット氏は追い出すこともせず、亡くなるまで15年間も住まわせてしまうのだ。
この作品は、映画化もされている。高齢社会を考える物語としてきっとこれからも受け継がれていくのだろう。ラストシーンが泣かせる展開だ。泣かせるというよりは、明るい涙というべきか。すべてはここに持ってくるための積み重ねであったように思う。
草の家
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2021/02/05 (金) ~ 2021/02/18 (木)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2021/02/08 (月) 14:00
座席1階
物言う舞台が特徴の燐光群では異色の家族劇か。しかし、過疎化と高齢化で古里が廃れていくという日本社会の現実を、家族の会話劇を通して鋭く告発しているとも言える。
「ここ数年はお客が来るのを見たことがない」と自嘲気味に語られる「はかり屋さん」。舞台の小道具としてさりげなく置かれている計器類は、すべて本物だという。より正確に計量する器具は、日本の高度成長を支えてきたとも言える。物言わぬ小道具と、この古い家をどうするのか、と繰り広げられる兄弟の会話。そのコントラストがなんだかシンクロして少し悲しい。
男ばかりの兄弟たちは、地元に残る者、都会に出る者といろいろだが、実家に残された年老いた母親の元に集まってくる。だが、その兄弟たちももう若くはない。「親亡き」後をどうするか、兄弟それぞれの思いが交錯する。
「家を売る」という話もちらりと出るが、土地価格が高く一財産になる都会と違うから、話が出ても相続争いとかにならないところがなんだかほっとする。子どものころや若いころはけんかをしたり確執があったとしても、お金さえ絡まなければ、兄弟が骨肉の争いをするということにはならないだろう、と舞台を見ながら安心したりもする。
「小道具」に触れたが、この舞台では見えない「小道具」もよかった。それはホタルや大木だ。実際にホタルが飛ぶわけではないが、まるで本当にそこにあるかのように感じた。役者たちの力量のなせる技だろう。
時間の流れを感じさせる最初と最後の場面。うまい台本だと思った。
正義の人びと
劇団俳優座
俳優座劇場(東京都)
2021/01/22 (金) ~ 2021/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2021/01/28 (木) 14:00
座席1階
カミュの古典を実力派の劇団が上演。カミュといえば降ってわいた新型コロナで「ペスト」がバカ売れする社会現象が起きたが、この戯曲は、人民の平和と安寧のために圧制者を殺害するテロは正義か、という現代でも通用する命題をめぐって暗殺者集団が大論争を繰り広げる。
舞台は暗殺前と暗殺後の2幕。翻訳に苦労したという難解なカミュの思想なのだが、役者たちの緊迫感に力を得て、客席の視線は緩むことがない。
今風に言えば、北朝鮮国民を貧困と飢餓、不自由から解放するために首領様を暗殺するのは正義かという話である。今回の舞台では二幕で、殺害された大公の妻が暗殺者に面会し、愛する夫を殺害された自分の思いをぶつける場面がある。首領様にも家族がいて(もっとも、この人は家族であっても粛正する人なのだが)果たしてその家族の安寧を破壊するのは人民のためとはいっても正義なのだろうか、と考える。
もう一つ、絞首刑になる暗殺者と恋仲の同志の女性が、恋人の処刑(死)に対して、それが自分の愛を貫くうえでも価値あるものだと半狂乱のように自分を納得させるような場面がある。主義のために死ねるか、社会をただすために愛を犠牲にできるのか。そういうことを考えなくても済む現代日本に住んでいるのは、よかったと思う。ただ、いつそういう世の中になるかもしれない、という不安は感じているわけだが。
このような戯曲を見た後は、酒場で少し議論したくなる感じだが、今はそれが一番してはいけないこと。そういう意味では不自由な世の中なのである。
シェアの法則
劇団青年座
ザ・ポケット(東京都)
2021/01/22 (金) ~ 2021/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2021/01/22 (金) 18:00
座席1階
シェアハウスの物語というと、住民の人間模様とか軋轢とかの話だろうな、と軽く予想して中野へ向かった。果たしてこの舞台、大家一家の人間らしい物語が絡むというちょっと予想外の展開で、満足度は非常に高かった。脚本の勝利だと思う。
駅近なのに格安のシェアハウス。住民たちの話題は大家の奥さんにとてもよくしてもらった、というところから始まる。その奥さんは入院しており、1か月もすれば退院してくるだろうという。ところがこの奥さん、住民たちの物語を結ぶ影の主人公なのにもかかわらず、最後まで姿を見せない。この点が最大の「予想外」であり、ここから涙腺が緩むストーリーが転がっていくのである。
ラストシーンかと思われたところ、人への思いやりが大切、という話がでてきて失礼ながら「ちょっとありきたりで説教臭いな」と感じてしまった。ところが暗転後にまだ、舞台は意外なエピソードが盛りだくさんという形に花開いていった。
あまり書くといけないのでこの程度にしておくけど、とにかくこのシェアハウス物語、いい意味の意外性が何度も訪れ、そのたびに舞台に気持ちが吸い込まれていく。まさに見ずにはいられないという気持ちになる。
脚本を書いた岩瀬晶子さんは青年座研究所を卒業して、劇団日穏を主宰している。青年座に書き下ろすのは初めてのようで、いわば故郷に錦を飾ったようなものだ。戦争や差別など社会派の作品が特徴というこの劇作家に、注目していきたい。
とてもすっきりした気分で久しぶりの中野、ザ・ポケットを後にした。演劇のよさというのは、こういうところにもあるのだ。緊急事態宣言下で、なんだか演劇を観に行くということすら周囲に言いにくいような雰囲気である。でも、観てよかった。私にとってはこの舞台はお得感満載の、価値ある舞台だった。
ハンナのカバン
劇団文化座
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2021/01/09 (土) ~ 2021/01/17 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2021/01/13 (水) 19:00
座席1階
文化座には珍しいミュージカル。ストレートプレイでなくミュージカルでホロコーストを取り上げたのは、子どもたちへのメッセージとして成功していると思う。
アウシュヴィッツ博物館から東京のホロコースト教育資料センターに、展示品の一つとして届けられたのが、ホロコーストで命を絶たれた少女、ハンナ・ブレイディの旅行かばんだった。家族でただ一人生き残ったハンナの兄・ジョージが、これをきっかけに訪日し、日本の子どもたちと出会った。この物語は児童書になっていて、今回、文化座も忠実に舞台化した。
ヒトラーによるユダヤ人虐殺は教科書にも載っているから、多くの子どもたちが知っているだろう。だが、なぜユダヤ人が迫害されなければならなかったか、という疑問は出る。今回の舞台で、そこにきっちり答えを出しておくと、子どもたちにもより分かりやすい舞台になったと思う。
途中休憩をはさんで二時間半弱。鍛えられた役者たちによるミュージカルは、物語の説得力を増すのに十分効果があった。やはり、戦争と平和という大きなテーマでは、文化座の舞台は力強さを感じる。このコロナ禍ではあるが、多くの子どもたちに見てほしい作品だ。
ザ・空気 ver. 3
ニ兎社
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2021/01/08 (金) ~ 2021/01/31 (日)公演終了
満足度★★★
鑑賞日2021/01/08 (金) 19:00
座席M列
価格6,000円
二兎社の「ザ・空気」シリーズは評判である。Ver.3上演と知って、コロナ禍ではあるが初日のチケットを予約した。おりしも緊急事態宣言発令直後。劇場はどうかと思ったが、一番後ろまでキチキチの満員だった。私のようなファンがそれだけ期待しているということだ。
今回は、テレビ局の討論番組制作をめぐる物語。政府べったりの発言をする評論家(佐藤B作)を迎えての番組が異動前の最後の仕事となったチーフプロデューサー(神野三鈴)。彼女はリベラルで政府に批判的な番組を作ってきたため更迭されたとのうわさもあった。しかし、舞台は意外な方向に転がっていく。この評論家は新聞記者上がりなのだが、社会部時代は政府すり寄りどころか国民に知らせるべきニュースを発掘して報じてきたという過去が明らかにされていく。そんな中で、彼が持ち込んだ大変な特ダネ。そのまま報じれば、時の内閣が吹き飛ぶほどの大変なニュースだった。
このテレビ局は局幹部が政権上層部と会食をするなど、まあ、政府に忖度をするような姿勢であった。テレビ局は放送法で縛られ、総務省からの免許事業であるため、多かれ少なかれそういうところはある。だが、内閣を直撃するようなネタを得たとすると、それに局の幹部がストップをかけることができるのだろうか。
舞台では「編集権」という言葉を持ち出して、経営者が編集権を持っているから、現場がいくら報じようとしても編集権を盾にストップする、ということが紹介される。確かに、社の幹部が編集局長とか編集担当取締役とかの職について現場を抑えるという会社もある。しかし、これはマスコミが批判されている一つの側面ではあるものの、日本のメディアのすべてではない。新聞記者も放送記者も、気骨のある奴は少なくない。書かねばならぬことは左遷されようが職を賭しても書くのだ。忖度するやつもいるが、そんな奴ばかりじゃない。日本のメディアはそこまで落ちぶれてはいない。
永井愛さんのシナリオは社会性にあふれていつも面白いが、この舞台に限っては見方はかなりステレオタイプであり、一面的と言わざるを得ない。舞台の観客が日本のメディアはこの程度だと思ってしまうことの方が、害悪が大きいのではないか。ちょっと大げさかもしれないが、アメリカのトランプ大統領が大手メディアをフェイクニュースと決めつけているようなところを感じた。
だが、ストーリーや仕掛けは面白い。今回はコロナ禍ということをひっかけ、登場する評論家は体温を測るのだが、こうしたギャグや、スガ総理の迷言を借用しているのも爆笑だ。
ある八重子物語
劇団民藝+こまつ座
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2020/12/18 (金) ~ 2020/12/27 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2020/12/24 (木) 13:30
座席1階
劇団民藝が井上ひさし作品に取り組んだ。こまつ座とのタッグだ。
誰もが知る初代水谷八重子をめぐる舞台なのだが、八重子が登場するわけではない。物語は、全員が熱烈な八重子ファンという医院を舞台に進行する。
民藝の舞台には珍しいドタバタ喜劇という側面もある。マスク着用だから、劇団側としてはこういう閉塞的なご時世だからなおのこと、思い切り笑ってほしかったという意図も感じる。杖をついたご高齢者も目立つ客層で、なかなかゲラゲラ笑うという状況は見られなかった。だが、陸軍への入営に寝坊して間に合わずに逃げて兵役拒否になったような若者をかくまったりする昭和のバラエティー番組のようなエピソードや、注射器で水を噴き上げて遊ぶなど「八時だよ!全員集合」みたいなギャグも登場する。
舞台は10分間の休憩をそれぞれ挟んで3幕。戦中戦後の時代に沿ってまとまっている。第三幕は戦後で、ようやく訪れた平和にがらりと舞台の空気感が変わるが、基本的には全編喜劇である。79歳の日色ともゑはこの舞台でも元気な姿。いつもながら勇気づけられる。
アルジャーノンに花束を
劇団昴
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2020/12/17 (木) ~ 2020/12/20 (日)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2020/12/18 (金) 18:30
座席1階
ダニエル・キースの名作。彼が亡くなったというニュースが流れた時はショックだった。1990年から上演し続け、キースがメッセージを寄せた記録もある劇団昴のメンバーにとってもショックだったろう。この名作は、小説よりも舞台で輝くと思う。今もこのコロナ禍にもかかわらず上演が続けられているということで、キースも喜んでいるのではないだろうか。
この演目は実際、日本の他の劇団でも上演されていて、自分も機会があればみてきた。だが、やはり今回の舞台は感動的だった。コロナ下での厳しい状況での上演だったことも、役者の思いとなって客席に伝わり、それが感動の度合いを増したのだと推察する。
主役のチャーリー・ゴードンを演じた町屋圭祐は秀逸だった。知的レベルがどんどん高まっても、それに情緒的な力が追いついていかない、このいかにも人間らしい部分をうまく表現していた。そして何よりも、チャーリーが元の知的レベルに戻った時の彼の安心しきったような、底抜けな安堵感の表情がとてもすばらしかった。人間は実験道具でもないし、知的障碍者は単に知的レベルが普通になれば幸せになるなんてことはない。人間は一人一人が多様で、そのままで認められ、愛される存在であるのだ。
そういうところを、結果的に実験に協力する形となってしまった知的障碍者センターの先生を演じたあんどうさくらもすばらしかった。特にラストシーンに近いところでチャーリーに愛情をあふれさせる場面は見る者の胸を熱くさせた。パンフレットによると、昴の名作(であると私は思っている)「谷間の女たち」にも出ていたとある。あの舞台ではどんな役を演じていたのだろうか。もう一度見たいという思いだ。
もう一つ、アルジャーノンの姿をどう舞台で描くかというところもこの原作からの焦点だと思うが、もう少し実在的に描いても良かったかもしれない。実験動物が意思や知能を高めていき、人間のパートナーとなったのだ。その姿がもう少しリアルにあったほうが自分は好きだ。
シアターウエストの席を互い違いに封鎖して満席の半分以下にして行われた。東京都の感染者数が過去最高になるような状況だから、神経質になるのは分かる。自分も行くのは少しためらわれたが、この舞台は本当に行ってよかった。
花トナレ
劇団桟敷童子
すみだパークシアター倉(東京都)
2020/12/01 (火) ~ 2020/12/13 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2020/12/09 (水) 14:00
座席1階
桟敷童子の舞台の楽しみの一つは、その舞台装置だ。同じ敷地内に新劇場として移転した最初の舞台。検温、消毒をして入ると真っ赤な曼殊沙華が咲き誇っていた。言うまでもなく、今回の舞台の象徴である。
物語は、二つの寒村の住民がぶつかるという設定で進むが、本当の敵は舞台には表れてこない都会の住民たちだ。物語では直接触れられていないのであくまでも客席からの推測だが、都会の住民はゴミや汚物を寒村に運んで捨てる。猛烈な悪臭。それは物語の登場人物が時々鼻をつまむ「へ」とは比べ物にならないくらいの強烈さだ。村人たちは、そういう匂いの中で暮らさなければならないのだ。
臭いを舞台空間に流すのはさすがにできない。その代わりのアイテムが「死人(しびと)花」とも言われる曼殊沙華なのだろう。真っ赤に咲き誇る曼殊沙華は、やがて、舞台の中央にも現れる。他者の痛みを顧みない日本の社会への警告だろうか。その赤さは、暗い舞台に不気味なほど存在感を持って迫ってくる。
もう一つの舞台装置は、風である。相当強烈な風を出す送風機が客席側から舞台に据えられている。それはまるで、都会の住民が、被害者である寒村の住民をなにごともなく吹き飛ばすような装置に見えてくる。
一度捨てれば「なかったもの」として都市の住民が忘れる廃棄物。においを発するものだけではない。音も臭いもなく人間をむしばむ放射線だって過疎地に捨てられているではないか。「花トナレ」と連呼する役者たち。客席に届くメッセージは、鋭いものがあった。