太秦ラプソディ
劇団スーパー・エキセントリック・シアター(SET)
サンシャイン劇場(東京都)
2021/10/22 (金) ~ 2021/11/07 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2021/10/26 (火) 13:00
座席1階
スーパーエキセントリックシアターの舞台でいつも期待するのは、座長の三宅裕司と小倉久寛の掛け合いだ。今回も盛り込まれてはいたものの、主な笑いどころは劇団員たちによる軽妙なギャグの数々だった。それはこの舞台が大部屋俳優たちを主役にしているからであり、タイトルにもあるように「名無し」の出演者たちの軽快な動きが今回の舞台を支えている。
コロナ感染対策?のため1回に制限されているカーテンコールの後の恒例のトークで、三宅さんは「SETは非常に幅広い年齢層で構成されている」と言っていた。舞台のテーマである「いつかは主役を」という夢にあふれる大部屋俳優たちのような劇団であるようだ。老若男女が入り乱れての今回の構成に、それこそ幅広い年齢層が集まっている客席もみんな、よく笑えるわけである。
SETが時代劇を取り上げたというのもいいな、と思う。描かれている通り、時代劇はテレビの主役からとっくに締め出されていて、今や専門チャンネルのBSで固定ファンをつないでいる状況だ(NHKだけは頑張っているが)。そのテレビも若者たちは見なくなっていて、人気ドラマという言葉さえ存続が怪しい。パンフレットに「時代劇基礎知識集」が載っていたのは、なんだか寂しい気もしたが、時代劇というジャンルを次世代に引き継ぐためには必要なのだと思う。
時代劇では定番の「人情」を描いているためか、今回の舞台は派手な笑いが起きる仕掛けにはなっていない。だが、私としてはSETの面白さは思いっきり笑える舞台だと思っている。そういう点では少しおとなしい舞台であった。
大人のメルヘン絵本シリーズ 『霧野仙子』
Project Nyx
満天星Cafe(東京都)
2018/11/20 (火) ~ 2018/12/11 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
座席1階
2021年10月8日から17日にかけての公演を拝見した。
これまでに5回?公演があったというが、今回はニクス15周年記念公演と銘打ち、新宿梁山泊の芝居小屋満点星で行われた。
霧野仙子とヤルセナカスが4組。それぞれバージョンが違う。拝見したのは、霧野仙子役に吉田直子、ヤルセナカス役にジャン・裕一という大人の風格漂う「ジュテーム」組だ。前振りや舞台回しを受け持つ「ラズベリー隊」に、ニクス率いる水嶋カンナを筆頭に20,30,40代女性のトリオで舞台を仕切った。
そもそも、漫画家やなせたかしとイラストレーター宇野亞喜良が組んだ最初で最後の絵本のオマージュ作品だ。だが、リーディングのスタイルでなく、絵本をベースに宇野亞喜良の絵をふんだんにつかった、1時間余りのニクスらしい妖艶な舞台が展開する。
自分が見た「ジュテーム」組は、霧野仙子の何とも言えない色っぽさが物語を支配する。吉田直子のゾクッと来るような美しさに見入ってしまう。一方のラズベリー隊は、前振りですべるところもあったが、やなせたかしの歌詞を奏でるコーラスは満足できる。バックのギター演奏もよかった。そのメロディーに「天国への階段」があったのにはとても感動した。
新宿梁山泊は12月に、李麗仙追悼公演と銘打って「少女仮面」を上演する。水嶋カンナの熱演をここでも期待したい。
二代目はクリスチャン
9PROJECT
シアターX(東京都)
2021/10/08 (金) ~ 2021/10/10 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/10/09 (土) 13:00
座席1階
映画化もされたつかこうへいの著名な作品。これを、つか作品をやり続けるこの劇団がアレンジして新たな装いで舞台化した。神戸を仕切るやくざの親分が殺された。親分には、修道院に預けられて育った敬虔なクリスチャンである娘がいた。二代目を襲名した彼女だが、愛したのは自分の父親を殺した男だった、という展開である。
主演の高野愛は上演の時が流れるほど存在感を増し、ラストシーンになだれ込んでいく。組の親分であった父親を殺した男をつかこうへいの劇団でも出演した吉田智則が演じた。最初は多数の組員が入り乱れるようにして進んでいくが、終盤に近付くにつれ、この二人に物語が昇華していく。その筋立ては非常におもしろい。
特に、かよわい感じのした修道女の高野がその小柄で、細い体から猛烈な熱量を発出する後段は見逃せない。長い日本刀を使っての殺陣は、よく訓練されていると言っていい。飛び散る汗、つばき、そして涙。これが舞台上でキラキラ輝くのだから、その迫力には客席も満足だろう。
それぞれの役者が、つかこうへいが散りばめたと思われる印象深いせりふを発散していく。「なぜ? 大したことじゃありませんよ。ただ、気に入らねえだけです」というのは組員の一人だが、こうした脇役にも深いせりふを与えている、会話劇としてもいい感じで楽しめる舞台である。
舌っ足らずの関西弁はご愛敬か。
がん患者だもの、みつを
うずめ劇場
シアター風姿花伝(東京都)
2021/10/06 (水) ~ 2021/10/10 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/10/06 (水) 14:00
座席1階
かつては宣告されたらもう人生おしまい、という病気だったが、今は二人に一人が患者となる時代。若くしてがんになった人も治癒して社会復帰している人もたくさんいる。それでもやっぱり、日本人の死因の1位であるだけに怖い病気だ。今作は、がんを患ってストーマ(人工肛門)をつけるようになった内田春菊さんが、劇団に書き下ろした快作である。
設定の妙というか。乳がんと診断されることになる職場の先輩と、励ましているのか迷惑がっているのかよくわからない後輩のアイドル系ユーチューバーという年が離れた二人の女性。これを軸にした舞台は、暗さをまったく感じさせないポップなムードで進んでいく。
大腸がんでストーマを造設した男性がこの二人の女性の間に入って微妙な三角関係を作っているというのもいい。笑える場面はたくさんあるが、先輩の女性がユーチューバーのオタク女性を「オタクだから生身の男性と付き合ったことなどないだろう、ましてリアルなセックスなど」と思い込んでいたのが、実は子どもまで作っていたという衝撃の場面だ。このほかにも、タイトルにあるように「がん患者だもの」という現実世界で「あるある」の小ネタがたくさんあって、飽きることはない。
初日だったので、内田春菊さんが舞台終了後に登場してミニライブをしてくれた。ちょっとしたお得感があった。不勉強だが、「うずめ劇場」は初めて見た。また、新しい注目劇団を見つけたぞ、というお得感もあった。
子供の時間
劇団文化座
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2021/10/08 (金) ~ 2021/10/17 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2021/10/08 (金) 17:00
座席1階
何という悲劇的結末。映画にもなったリリアン・ヘルマンの有名な戯曲で、その結末は分かっている。分かっていてもズシーンと胸に重たいものが響く、悲劇的な結末である。
最初は他愛もない子どものウソ、言い逃れだったのかもしれない。いや、言い逃れというには少し悪質なのだが、いずれにしてもちゃんと調べればウソだとわかる与太話だったのだ。それが、大人の世界の世間体とか、あるいは自分のかわいい孫を守りたいという思いとかが、大人たちの判断を狂わせる。そして、本来は平穏な毎日と達成感を得るはずだった大人たちが自滅していく。ここまで悲劇的だと、その原因を作った孫娘のメアリーがどんな思いを胸に成長したのか、という後日談を知りたくなってしまう。普通なら、正気で生きてはいられないだろう苦しみが、彼女にものしかかっていくだろう。
真摯な舞台を通して客席と向き合ってきた文化座が、80周年記念作にこの戯曲を取り上げたわけはいろいろあるらしい。だが、半世紀以上も前の、インターネットも携帯もなかった時代に書かれた戯曲が胸に迫ってくるのは、今の世の中を見通しているからだ。半世紀後にも、フェイクニュースや根も葉もないウソで命を落としている人が現実にいるという世の中を、だ。この戯曲が記念作に取り上げられた理由は本当はそこにあると、私は思う。
子供じみた悪口や、冗談のつもりで流したでっち上げニュースは、ネット社会にあふれている。プロレスラーの女性が自殺した事件は、ネットに悪口(もちろん真実ではない)を書き込んだ人は書類送検されただけだった。そうしたことを目の当たりにして、私たちはフェイクニュースの恐ろしさを知る。ネットに書き込む前に、その話が真実なのか、真実と信じるに足るものであるのか、私たちは考えなければならない。
ニュースを扱う世界では、発信されようとしているニュースが真実か、真実と信じるに足るものであるかを検証する作業、業界用語で「ウラを取る」なんて言われる作業を行っている。いや、最近は行っていないメディアもある。しかし、ウラを取らなきゃ怖くて書けない、という感覚は、ジャーナリストには最低限必要な資質なのである。ニュースがウソだったために人が死ぬなんて結果を招いてはならないのだ。
今回の舞台を見て、ズーンと重苦しい気分になったのは、この舞台があまりにも現代社会を深く映しこんでいるからなのかもしれない。そして、ここが舞台の力強さ。カレンとマーサを演じた二人の女優の、感情や思いが黙っていても胸の内からあふれてくるような見事な芝居。そして、文化座を今も率いる佐々木愛さんの、動きは少なくともどっしりと胸に迫るセリフが、舞台の迫力を支えているといっていい。
舞台転換の際の長さと物音が気になったが、休憩を挟んで3時間。長さを感じさせない舞台だった。
ファクトチェック
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
紀伊國屋ホール(東京都)
2021/09/17 (金) ~ 2021/09/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/09/23 (木) 13:30
座席1階
中津留ワールド炸裂、といった3時間であった。15分の休憩を挟むが、長く感じられない迫真の舞台だった。
物語はある新聞社の政治部に、社会部の特ダネ記者だったアグレッシブな男が異動してくるところから始まる。現政権(自民党と菅内閣を風刺してある)の一方的で民の声を聴かない政治を、その政治の中枢に食い込んで変えてやろう、という男だ。彼は官房長官会見(当時、まだ菅氏は官房長官だった)に後輩記者を黙らせて割り込み、さっそく官房長官に質問を連発する。官邸の会見は報道官が仕切っていて、官邸クラブの加盟社が優遇されるようなところがある。この会社は加盟社なのだが、再質問なし、というルールを無視して質問を連発する。
もちろん、公式の記者会見なのだから、記者クラブの内輪のルールなど取材には関係ない。だが、日ごろルールをぶち壊すような記者はいないから、官邸サイドににらまれることになるかと思ったら、なぜか、官房長官が気に入って特定の記者だけの懇談に来ないかと誘う。
メディアは権力の監視が役割である。ウオッチドッグ(番犬)と呼ばれ、政権が怪しい方向に行くときに激しく吠えて警鐘を鳴らすのが役割である。この主人公の記者もまさに、このジャーナリズムの本質を行く男だったのだが、中津留ワールドのおもしろいところで、この男が官邸側のうまい取り込み(ここはネタバレするので書かないが)で外堀を埋められ、結局政権の首がすっ飛ぶような隠された議事録の部分を報じないという選択に追い込まれるのだ。
核心となる議事録のネタが、東京電力福島第一原発の事故による汚染水放出に関連したものであり、総理の前任者(安倍さんである)が東京五輪招致に際してアンダーコントロールと言ったことで官僚の仕事が捻じ曲げられていくところがあってとても興味深い。これは安倍前首相が「私の妻がかかわっていたら国会議員も辞める」と答弁したモリカケ問題の裏映しであるからだ。担当の官僚が自殺する(舞台では事件に巻き込まれたとにおわせるくだりもあるが)ところも、赤木さんの自殺をトレースしているようで、リアリティーが増してくる。
政治部の記者がここまで腐っているか、と言われると「実際はここまでひどくはないだろう」とは思う。しかし、結果的に政権のやりたい放題を許しているわけだから、「番犬」の仕事を果たしているとは残念ながら言えないだろう。
現実の政治やメディアの報道ぶりを想起しながら、エンターテイメントとしても十分に面白い、楽しめる舞台である。厳しい中津留ワールドに全力で応えようとした青年劇場の意気込みも感じる。
ただ、取材相手(家族にもだが)に対して怒鳴るような主人公の口調がとても気になった。芝居であるからある程度は仕方ないとは言えるが、取材相手をやり込めるようなやり方をする人は優秀な記者とはいえないからだ。この人は何を熱くなっているんだろうか、と私は冷めてしまった。それを割り引いても、この舞台はお勧めだ。
The Weir -堰-
劇団昴
Pit昴/サイスタジオ大山第1(東京都)
2021/09/10 (金) ~ 2021/09/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2021/09/16 (木) 14:00
座席1階
アイルランドでは、たくさんの不思議な話や妖精の話が今も伝えられているという。妖精というのはあの世に住む人たちであり、現世に生きる人たちと時々接点がある? まあ、その接点が不思議な話なのであり、科学や常識では説明がつかない不思議な出来事は妖精の仕業なのだとか。アイルランドの劇作家コナー・マクフィアソンの「堰」は、オカルトチックな不思議物語を紡ぐ舞台だ。
この舞台は約2時間の上演時間、ずっとアイルランドのパブのセッティングで繰り広げられる会話劇。まあつまり、日本でいえばスナックのバーカウンターでマスターと客が話すよもやま話といったところだ。アイリッシュバーは日本でもたくさんあるが、サッカーの試合を大画面のテレビで流しているような日本風アイリッシュバーではなく、地元の人が止まり木に腰掛ける、どこの町にもある日本国内のバーという雰囲気である。酔っぱらう場所は万国共通だな、と思ったりもする。
バーに来る客はこれまでの人生で傷ついたり、思いもかけなかったことに遭遇したりした経験を問わず語りに話し出すことがある。日本でもそうだ。マスターやママはじっと耳を傾け、酒を注ぎながら心を寄せてくれる。そうしてまた次の日、私たちは頑張って仕事に出ることができる。この物語でも同じである。
こうしたどこにでもある風景が妙に懐かしく思うのは、コロナ禍でも外出自粛が続き、外に飲みに出ることがパタっとなくなったからだ。この舞台もコロナ禍で一年延期されたという。去年予定通り見るのと、今年、緊急事態宣言発令中の中で見るのとは、感じ方が大きく違う。コロナ禍がずっと続くわけではないと思うのだが、「ああ、こういう時間はもうないのだろうか」としんみりとしてしまう。
傷ついた人をさりげなく励ます、言葉をかける。そうした優しい空間が懐かしい。酔っぱらいの騒々しい口げんかはまあ、あるけど。妖精たちの物語に、いつも以上に優しさを感じるのはコロナ禍だからだろうと思う。
ズベズダー荒野より宙へ‐
劇団青年座
シアタートラム(東京都)
2021/09/10 (金) ~ 2021/09/20 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2021/09/14 (火) 14:00
座席1階
科学技術の発展は軍事と切っても切り離せない。宇宙航空産業も例外ではない。特に、米ソの宇宙開発競争は、相手国にミサイルを撃ち込む狙いがへばりついていて、心ある科学者たちを悩ませた。今回の青年座は、2015年の「外交官」に続いての野木萌葱の書き下ろし。ソ連の宇宙開発をめぐる人間模様を描いた。
野木作品は「外交官」でもそうだったのだが、息詰まるような会話劇が真骨頂だ。今回、登場する女性は一人しかおらず、あとは全員が男性だ。主人公のソ連ロケット開発最高責任者セルゲイ・コロリョフは、世界初の人工衛星スプートニク1号を成功させる功績のあった人だが、死ぬまで存在が西側諸国に知られることはなかったという。この人物を中心に、第二次世界体制敗戦国のドイツから米ソが奪い合った科学者たちを周囲に置いて、物語は進んでいく。その激しい、息詰まるようなやりとりが休憩15分を挟んで3時間、たっぷり楽しむことができる。
宇宙開発は人命第一で進められたわけではない。アメリカでもチャレンジャーの爆発事故で7人の乗組員が亡くなっている。ソ連は有人飛行の前に犬を載せてロケットを飛ばしたが、その犬も犠牲になった。この舞台では、革命記念日に合わせて成果を迫る政府に翻弄される科学者たちが描かれるが、せりふの端々にも革命政府のために命を捨てて宇宙に行ったというところがあってとても印象的だ。物が違うといって叱られるかもしれないが、旧日本軍の特攻作戦を連想してしまった。
野木のパラドックス定数の舞台でもそうだが、野木作品を見ていつも感心するのは、歴史上の人物も含めた人たちの激しいせりふのやりとりをどう、想像して書いているのかということだ。その会話劇は非常に説得力があるし、本当にこのような会話が交わされて歴史が動いていった、というように思わせる舞台である。これだけのせりふのシャワーをこなせる役者たちをそろえた劇団は、限られてくるような気がする。
青年座と野木萌葱のコンビは、まだまだ見てみたいと思う。
うさぎ島霧深し
Pカンパニー
シアターグリーン BIG TREE THEATER(東京都)
2021/09/08 (水) ~ 2021/09/12 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/09/09 (木) 19:00
戦前から「うさぎ島」と呼ばれていたわけでない。しかし、旧陸軍の秘密毒ガス兵器製造工場があった当時、ウサギは実験動物として使われていたということだ。今回のPカンパニー「罪と罰シリーズ」の舞台は、いまは「うさぎ島」として世界的観光名所になっている大久野島の物語だ。
戦争の惨劇を伝える史実では、大久野島の話は知られているので舞台を見る前は脚本に苦労したかもしれない、と勝手に思っていた。しかし、冒頭のシーンで結構、度肝を抜かれる。一見、下級民を見下している上流階級のお食事の様子だと思ったら、実はこれ、島に住む実験動物のウサギの一家であった。舞台はこのウサギ一家、特に姉妹のライフストーリーを軸に展開される。実験の対象にされる、すなわち命を実験に捧げるという立場から客席は島の毒ガス兵器開発を見るので、戦禍の犠牲になる立場からこの島の歴史を洞察することができる。脚本の勝利と言っていい。
演出も印象的である。このウサギ姉妹、思春期のお年頃で箸が転んでも大笑いという明るさで始まっていく。物語が進むにつれ、この姉妹に断裂が走る。毒ガス兵器製造を真正面から取り上げていないのに、この戦争さえなければ、当時から今のような平和なうさぎ島なのにと痛切に感じられる仕掛けだ。
ラストシーンでその思いは現実の姿となって登場する。ネタバレになるのでこれ以上は控えるが、ここも脚本の妙だろう。島の土、そして周囲の美しい海に刻まれた「毒」を私たちは語り継いでいかねばならない。そういう意味で、タイトルにある霧が晴れるのはまだまだ先なのである。
2時間というコンパクトにまとめられた作品。秀作だと思う。戦争を忘れてはならないと思っている人は、この舞台、見ないと損するかも。
戒厳令
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2021/09/03 (金) ~ 2021/09/19 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/09/06 (月) 14:00
座席1階
迫力のある舞台だった。「罵りあい」のような激しいセリフの洪水。そして、様々な角度から現代社会を照らすような複雑なメタファー。基礎の出来た実力のある俳優たちだからこそできる、強烈で見ごたえのある2時間である。
平和な街に入ってきて独裁を遂げていく男と女性秘書。ペストをばらまいて市民を恐怖に陥れるのだが、秘書がデスノートを持っていて、狙いを定めた人物を消していくというのは舞台で見る物語の設定とすればよかったと思う。当然、今の時期だからコロナ禍をオーバーラップさせてみるわけだが、このデスノートの存在が、現実と適度な距離感を出して、「これは現実ではないのだ」というような安堵感を観る者に与える。そうでなければ、自宅療養者がバタバタ倒れている現実をストレートにぶつけられるようで、息苦しくなったかもしれない。
愛とは、正義とは、人生とは。そして、生とは、死とは。舞台からは次々に「考えてみろ!」と矢が飛んでくる。市民を代表するように戦うディエゴが、こうした矢が飛ぶ中で苦悩し続けるわけだが、特に独裁者と対決する最後の方のシーンは秀逸だ。
倒れる婚約者のヴィクトリアが美しい。ロミオとジュリエットのラストシーンを連想させるようでもある。
前作の「インク」も面白かったが、今回はその上を行ったと思う。原作をうまくアレンジした脚本の勝利だと思う。さらに、4つの大型モニターを使い、工事現場の階段のようなセットで立体的に役者を動かした演出もよかった。けいこ場の小さな空間で思い切り役者たちを駆け回らせたが、小さな空間だからこそ一人一人の役者の演技に同時に目が行く感じで、それこそ舞台から目が離せなかった。
パレードを待ちながら
劇団民藝
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2021/09/04 (土) ~ 2021/09/13 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2021/09/04 (土) 13:30
座席1階
カナダにも国防婦人会があるとは知らなかった。「銃後の守り」として夫や恋人を戦地に送り出した女性に愛国心を強いていた国は、日本だけではなかった。カナダでは何回も再演されているというこの演目は、国を、国民の心を滅ぼす形で作用する戦時の愛国心が、万国共通でいかに愚かしいものかを教えてくれる。
民藝の舞台には珍しい、五人の女性だけによる舞台だ。いずれも個性的な女優たちで、それぞれの銃後を時には美しく、時にはかなりの迫力をもって演じている。日本の銃後の女性たちも、おしゃべりや小さな楽しみを見つけて笑いあう日常があったというのは想像できるし、ドラマや映画でもそのように描いたものがある。だが、この5人、カナダの女性たちはおしゃべりに加え歌やダンスでとにかく明るい。ある時は密造酒でパーティーを開き、泥酔したりする。カナダでは、ちょっと派手な格好をしたり敵性語のレコードを聴いたりすると「非国民」だと憲兵に告げ口されるようなことがあったのだろうか。そんな息の詰まるような度合いは、「連帯責任」という言葉が今も生きている日本の方が強かったのだろうかと想像する。
さらに、この舞台が教えてくれるのは、軍人になって命を懸けて戦うという価値観、つまり戦争に行くという男としてのある種の「優越感」が実は独りよがりではないのか、ということだ。愛する者を守るために俺がやってやる、といういわばマッチョの思想が、守られる立場から見るとかなり空虚なものだということである。
男が一切出てこず、女性だけの視点で語られる舞台だからこそだろうが、それだけに、この「愚かしさ」を示唆するような空気が、舞台からガンガンと伝わってくる。
男たちは何のために、命を投げ出して戦ったのか。国を守るためか。愛する妻や子を守るためか。この舞台の5人の女性から見れば、そうした「男らしい」価値観がまったくかすんで見えるからおもしろい。例えば映画「永遠の0」を見れば、男である自分はそれなりに感動するのだが、その感覚と今回の舞台とは交差するところがまったくない。
「国を守る」だとか、「愛する人のため」だとか。政府がそんなことを言い始めたら、この舞台をもう一度上演してほしい。女たちがその誤りを見事にさばいてくれるだろう。
おとうふ
劇団道学先生
OFF OFFシアター(東京都)
2021/08/27 (金) ~ 2021/09/08 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/08/30 (月) 14:00
座席1階
劇団道学先生は、座付き作家の中島敦彦さんが亡くなってから活動を休止していた。主宰の青山勝が選んだ復活作がこの「おとうふ」だ。中島さんが得意としていた会話劇で、「女3人の芝居を書いて」と座員に言われて1993年に作った作品という。
物語はテレビのバラエティー番組の舞台裏。番組の進行に従って客席で笑い転げる「笑い屋」の女性3人が主人公である。この3人、大道具倉庫のような狭い場所で待機させられ、時間を持て余しておばさんトークを続けるのだが、その3人それぞれに人生の光と影があり、泣いたり笑ったりなのである。どうにもならない人生の変転がおばさんトークで交差する。チラシにある「おかしくなくても笑います」というのはなかなか鋭い一文だと、舞台を見れば分かる。
この女性3人はいずれも客演なのだが、3者3様で非常にすばらしいキャスティングだ。3人ともおばさんトークの「あるある」を存分に表現・体現していて、とにかく笑える。劇団桟敷童子のもりちえ以外はダブルキャスト。両舞台を演じるもりちえは、期待通りというか、期待をはるかに上回るマシンガントーク。結婚4回でそれぞれ父親が違う子供がいるというプロフィールで、噂話と他人の悲劇が大好物のおばさんを演じたが、この早口でセリフをかむことは全くない。また、こき使われているADの青年など、舞台を盛り上げるキャラクターもしっかりそろっていて、最初から最後まで飽きることはない。
小劇場でこそ味わえる会話劇の迫力。緊急事態宣言下、しかも猛暑日のマチネだが満席だ。やっぱりみんな「おかしくなくても笑いたい」のである。
病室
劇団普通
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2021/07/30 (金) ~ 2021/08/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2021/08/04 (水) 14:00
座席1階
価格2,500円
病室という閉鎖空間で繰り広げられる人生模様。病室は日常生活から見ると異空間のはずだが、この異空間をホームグラウンドにして、それぞれの患者がこれまで暮らした家、畑、そして家族に思いをはせながら繰り広げる会話劇を、客席はひたすら追う。
劇団主催の石黒麻衣の出身地の方言、全編が茨城弁でつづられている。茨城弁というのは女性が話すと何となく平板な感じがするが、男がしゃべるとかなり攻撃的な印象だ。四人部屋の主のような患者は脳卒中だけでなくがんもみつかったらしい。「俺は車いすで歩けない」などと同室の患者や見舞いの家族に無遠慮に話しかけるが、これが何か攻撃されているような感じだ。しかし、話を合わせる見舞客らはすんなりと流していて、茨城ではこのような会話スタイルが日常的なのか、と想像してしまう。
物語に抑揚はなく、それぞれの家族の内幕が4人部屋の中で語られる。ある患者は訪ねてきた娘に泣かれるのだが、この娘は離婚して実家に戻ろうとしていてそれを病床の父に打ち明ける場面だった。結構深刻な内幕だが、隣のベッドの患者に話はみんな聞かれていて、娘が帰った直後に「誰が悪いんだ」と部屋の主の患者からいきなり話しかけられる。結構シュールな場面が次々に登場し、新手の不条理劇かと思ってしまう。
介護施設はこのような四人部屋はなくなる方向だが、病院では個室は差額ベッド料がかかる特別な療養環境だから、こうした四人部屋はまだまだ続くだろう。劇団普通は会話劇を身上としていて、この本領を発揮する舞台設定では病室というのはある意味、ぴったりの世界だ。ただ、もう少し演出上の工夫があるとよかったと思う。だが、総じて、猛暑日の中もうろうとして劇場まで歩いた頭がシャキーンとする、面白い舞台だった。
29万の雫-ウイルスと闘う-
ワンツーワークス
赤坂RED/THEATER(東京都)
2021/07/15 (木) ~ 2021/07/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/07/21 (水) 14:00
座席1階
2010年の宮崎県での口蹄疫(家畜の伝染病)拡大をワンツーワークスや宮崎県の演劇人が取材し、古城十忍が構成した同劇団ならではのドキュメンタリーシアター。畜産農家、市職員、獣医師などから徹底的に言葉を集め、その言葉を紡ぐようにして戯曲に仕上げる。当時、宮崎で何が起きたのか、宮崎の人たちは何を考えていたのかを鮮烈に描き出した。
口蹄疫をテーマにしたのは、新型コロナウイルス感染症が日本、いや世界を覆う今だから客席にさまざまな思考を促す。これぞ、ジャーナリスティックな切り口で舞台を展開する古城の得意とするところだ。最初に出演者全員がコロナが怖いか、怖くないか、感染するのは時の運か、という質問にそれぞれ答えるところから始まるが、この部分がなくても、客席は新型コロナに翻弄される今と自分に登場人物を重ね合わせて見ることになる。
ウイルスを封じ込めるために感染した牛、豚を殺処分する口蹄疫と、ワクチン普及が切り札とされる人間の感染症である新型コロナとはその教訓は違うかもしれない。しかし、ウイルスという見えない敵におびえ、疑心暗鬼となり、口蹄疫を運んではいけないと家に閉じこもり、友人との交流も断念していたという当時の宮崎県の状況が舞台で再現されると、それは新型コロナによる状況に通じるところはあるし、さらに、宮崎での教訓が今回のパンデミックに生かされていないという忸怩たる思いが沸きあがってくる。
牛や豚は人間に食べられることで畜産農家の生計が成り立つのであるが、やはり生き物の命をいただく(食べる)というのと、ウイルス感染のため殺す(処分する)というのでは天と地の差がある。宮崎県で当時起きていたことは東京のメディアでは遠隔地で起きていることという距離感のせいであまり詳しく報道されなかったので(この距離感はメディアのいつものニュース判断の一つであり、反省すべき点である)、「飼っている牛や豚を処分するのは農家の人たちにはせつないだろうな」と何となく思っていたことを覚えている。今回の戯曲では、その点も農家の生の声をもってして鮮明に再現される。宮崎県に行って話を聞かないと描くことができない部分だ。ここが、この劇団のドキュメンタリーシアターのいいところである。
この舞台を見て「宮崎の人たちはたいへんだったんだねぇ」と振り返るだけでは不十分だ。自分の身に降りかかって気づくのでは遅い。世の中で起きていることを「自分のこと」として受け止められる想像力が問われている。
コメンテーターズ
ラッパ屋
紀伊國屋ホール(東京都)
2021/07/18 (日) ~ 2021/07/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/07/20 (火) 18:00
座席1階
劇作家の妄想の世界なんだと思うが、この妄想はリアリティーがあって単なる妄想ではない。事実が先か妄想が先か。同時進行でパンデミックの中の五輪の行方を楽しめる、笑えるし笑えない鮮烈な舞台に仕上がっている。
設定が優れている。リアリティー満載だからだ。主人公は定年退職して年金受給までには早いおじさんで、退職後に勤めた会社がコロナ禍でつぶれてしまい、ネットで仕事を探すというところから始まる。口から先に生まれてきたようなおしゃべりで明るい妻は家計を助けようとスーパーのパートに出る。一人息子は見た目引き込もりだが、観察眼が鋭く家族との関係は悪くない。このおじさんがネットでの就活に飽きて暇を持て余してユーチューブを始める。ひょんなことから大当たりしてしまった結果、テレビの朝ワイドのスタッフの目に留まり、おじさんユーチューバーとしてコメンテーターに登用される。
コメンテーターはキャラ付けされていて、本音とは違う役割を演じるという「あるある」設定だ。コロナ報道で欠かせない女性医師とか、いつも政府の味方をする政治評論家、それに対抗して野党的立場から厳しい言説を展開するジャーナリスト。とまあ、現実のワイドショーを地で行く展開である。そこに「視聴率が取れそうだから」という局側の理由で起用されたおじさんコメンテーターは、庶民的目線とおやじギャクで人気が定着するのだが、ある時、自らの立ち位置と全く逆の意見を言ってしまう。
話題転換とか場を鎮めるためにと登場するミュージシャンの歌とダンスがライブで展開され、これがまたコロナ禍をうまく歌った秀逸なメロディーだ。政治評論家とジャーナリストのバトルもおもしろい。本物のワイドショーを皮肉っていることに加え、そのシュールな展開が笑いを誘う。だが、おじさんコメンテーターが思わず選択したコメントは、この世の中を鋭く突いていて、笑いながらも笑えないのだ。
どんな展開で締めくくるのか、妄想の終着駅を妄想してみたのだが、これが意外なラストシーンだった。あまりにもベタな、というと身もふたもないが、このベタさ加減に思わずウルっと来てしまう。久しぶりに聞いたこの言葉、70年代、懐かしのキーワードだ。ああ、あの頃はまだ、日本は右肩上がりで五輪を開く意味もあったなあ。帰りの電車で思わず、こんな妄想を繰り広げたのであった。
この舞台はおもしろい。劇作家鈴木聡は「この一年、こんなにも家にいてテレビのワイドショーを見た一年もなかった気がする」と書いているが、そのお陰でこんなシュールな妄想がさく裂した。十分、家にいた価値はあったのではないか。
いのちの花
劇団銅鑼
練馬文化センター(東京都)
2021/07/13 (火) ~ 2021/07/15 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2021/07/15 (木) 14:00
座席1階
脚本の畑澤聖悟さんは秋田県出身で、青森の県立高校の教員だ。今ではもう、教員というより脚本家と言う方が名高いが、この舞台は彼のホームグラウンドの青森県。三本木農業高校は実在の学校である。
畜産や動物飼育を専門とする女子高生たちが、ある日先生に連れられてペットの殺処分の状況を施設見学する。鶏を絞めてから揚げにして食べるという「命をいただく」という授業を経験している生徒たちだが、二酸化炭素ガスで安楽死させ、焼却して残った骨をごみとして捨てているという現実にショックを受ける。そこから生まれた彼女たちのアイデアが、この舞台のメーンテーマである。
沿岸部ほど大きな被害がなかったものの、東日本大震災を経験した生徒たちの胸の内もしっかり描かれる。全編「命の授業」というだけに、小動物から人間までその命が持つ意味を問いかける舞台に仕上がっている。全国の小学校で公演したとあって、舞台は学校演劇の香りが濃いが、この日の客席は若い世代も含めて大人たち。時折涙も誘う感動の舞台になった。
シンプルな演出だが、映像をうまく使っている。特に終盤、植木鉢を持った人たちの笑顔がいい。女子高生たちが「受け入れられるだろうか」と悩んでいたことが杞憂だったと雄弁に物語る。
登場人物たち、つまり銅鑼の俳優たちの写真も出てくるが、撮影場所は銅鑼のけいこ場がある敷地内だろうか。どこかで見覚えのある背景だった。
今回は、劇団が力を入れているバリアフリーサービス付き。音声ガイドやタブレット端末による字幕、車いす対応、そして女子高生たちと同じ衣装(高校の作業着)を着た女性が舞台下手で役者たちが使っているのと同じ椅子に座るなどして手話通訳をしている。この通訳は女子高生たちのクラスメートという雰囲気がうまく醸し出されていて、手話通訳を見ない人にとっても演劇としての違和感はとても少ないと思う。「舞台手話通訳」は通訳が役者の一人として舞台に溶け込むスタイルを指すようだが、今回はそれに近い感じだ。
母と暮せば
こまつ座
紀伊國屋ホール(東京都)
2021/07/02 (金) ~ 2021/07/14 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/07/07 (水) 14:00
座席1階
ついこの間の「父と暮せば」に続き、今度は「母と暮せば」の再演。それぞれ広島と長崎と場所は違うが、原爆で命を奪われた最愛の家族が登場し、生き残った家族とかわす会話劇である。「父と暮せば」は亡き父が娘に、そして「母と暮せば」は亡き息子が母と会話をする。死者が生きる者と会話に入る冒頭も、会話から抜け出ていくラストも極めて自然で、それぞれ客席に強いメッセージを届けるという舞台だ。連続しての上演は、井上ひさしの魂というか、こまつ座の平和への執念を体現している。
医学部の授業に出ていて被爆した息子(松下洸平)。助産師だった母(富田靖子)が陰膳を供える場面から始まる。会話の中では、息子とその婚約者との微笑ましいヒトこまや、息子が被爆した瞬間の様子など、隠されたお話が次々に明らかになる。母がなぜ、助産師をやめていたのか。医学を志していた息子が母に助産師を続けるように説得する場面など、死者と現世に残された者との迫真の会話劇が続く。
そこには、原爆投下による死亡からは免れたものの放射線の後遺症で次々に死んでいく人たちや、放射線を浴びた者へのいわれなき差別・偏見の場面もつづられる。客席はその会話を聞いて、あまりの理不尽さに怒り、涙する。
再演ということもあるかもしれないが、役者としての迫力が前回より増しているためなのだろう。松下洸平も富田靖子も明らかに前作より強烈な熱波を発して客席を震わせた。また、二人芝居ゆえの長せりふを難なくこなしていく様子は、感動ものだ。
終演後のスタンディングオベーションもむべなるかな、である。思い起こすことが今、必要な多くのことを舞台から受け取った。迫力のある、いい芝居だった。こうなると、やはり数年度の再演も期待したいところだ。
七祭〜ナナフェス〜この夏、胸アツ!演劇2本に映画だ、わっしょい!
On7
シアター711(東京都)
2021/07/02 (金) ~ 2021/07/11 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2021/07/06 (火) 14:00
座席1階
チョコレートケーキの古川さんによる「その頬、熱線に焼かれ」以来のオンナナ舞台。「七フェス」と銘打っているから底抜けに明るいお祭り騒ぎかと思いきや、映画は「その頬」にも負けるとも劣らずシビアな内容に少したじろぐ。ただ、舞台の方は、別役実かと思う場面もある不条理劇ふうの作品で、最後は歌やダンスもあって明るい舞台に仕上がっていた。
短編映画「うまれる」と二本の演劇で構成される約2時間の舞台だ。
まず、短編映画。下北沢の小劇場で映画を見るとは思わなかったが、この映画は強烈だ。いかにもありそうなシチュエーションとともに、「うまれる」というタイトルによる、「女」をテーマにしたかなり厳しい内容である。生まれる子ども、いじめで奪われた子どもの命。女には月に一度の出血があり、それは子どもを産むための生理であり、苦しみの末に生まれた子どもが血を流して亡くなる、そして女である母親はー。
この一本だけでもかなり見ごたえのある中身である。
5分間の換気休憩を挟んで舞台となるが、何の脈絡もなく映画から舞台へと移行したかのように見えるが、そこにはやはり、「女」としての血が流れている。青年座の尾身美詞の甲高い声がとても印象的だ。7人がそれぞれ、うまく持ち味を発揮している。
終演後「面白かった」の声が客席のあちこちに出た。「七祭(ナナフェス)」というタイトルの意味はやっぱり少し不明瞭だが、新劇の老舗劇団出身メンバーで作っているだけに、演技の迫力が違う。それは短編映画でも舞台でも違った角度から楽しむことができる。
お菓子放浪記
チーム・クレセント
ザムザ阿佐谷(東京都)
2021/06/24 (木) ~ 2021/06/28 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2021/06/28 (月) 13:00
座席1階
チームクレセントが演じ続けている、西村滋作品。以前のミュージカルではなく、ストレートプレイで行われた。新聞用語では使えない「みなしご」であるシゲル少年の戦中戦後を描いた物語だ。
甘いものが大好きなシゲル少年は孤児院からの脱走の途中、空腹のあまりお菓子を万引きしたところを刑事に目撃され、捕まってしまう。その刑事は、シゲル少年に菓子パンを買って与えた。恩を忘れないシゲル少年は、そのパンの味をずっと胸に秘め、教官らの暴言と暴力にさらされた感化院での生活を耐え忍ぶ。
だが、感化院には富永先生という音楽好きの女性がいて、この先生が歌う「お菓子と娘」というフランスの歌をシゲルは覚える。この先生の存在と歌も、感化院を耐え忍ぶ力となった。やがて、身寄りのない老女が養子に迎えたいとして感化院を出たが、この老女は子どもを働き手としてこき使うのが目的の人だった。さらなる苦難が続く中での心の支えはやはり、あの菓子パンの味と、先生の歌。やがて日本は太平洋戦争に突入し、シゲル少年は老女の元を飛び出す。
テンポよく進む舞台。シゲル少年があざとく汚い大人たちに虐げられながらも真っすぐ生きる姿がとてもけなげだ。やはりミュージカルよりストレートプレイの方が感動できると思う。
劇中、シゲル少年が加わった旅の一座の女形に召集令状が届く場面がある。性同一性障害で女として生きることを決めて女形として舞台に立つ彼女だが、戸籍は男性のため召集されたのだ。あの時代、召集令状は絶対逃れられないものだった。「人を殺すなんてできない」と悩んだ彼女は、送別会を抜け出して首をくくってしまう。シゲル少年の物語であるのだが、彼を取り巻く多彩な人たちの物語も、この舞台を盛り上げてくれる。
千秋楽の観劇だった。小劇場を埋めたのは比較的若い世代。読書感想文の定番だった「お菓子放浪記」を読んだ世代よりもずっと下だろう。西村作品の心が、この舞台によってしっかりと引き継がれていったと思う。
インク
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2021/06/11 (金) ~ 2021/06/27 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/06/24 (木) 14:00
座席1階
何よりも演出がすばらしい。狭い俳優座けいこ場をうまく使っている。四角の角を挟んで客席を2ブロック配置し、残りの二等辺三角形のようなスペースを縦横無尽に使う。さらに、すだれのような幕を使ってその前後を分けたり、文字などを映写したり。ルパート・マードックのテレビインタビューの場面で、マードック役の俳優はそのカーテンの後ろにいて演技しているのだが、そのテレビ画面でしゃべるマードックを同時に幕に映しているという高等テクニック。近年の小劇場では出色の演出であり、舞台を盛り上げた。
物語は、英国の新聞業界が舞台。部数が低迷していた日刊紙「ザ・サン」を買収したマードックが指示して編集者たちを一新し、徹底的な大衆紙路線を推進する様子を描いた。
現代から見ると、日本でも日刊ゲンダイや夕刊フジなどのタブロイド判の「面白ければウソでもいい」、いや、言いすぎか、「裏が取れなくてもいい」というセンセーショナリズムと、お色気路線は珍しくない。だが、当時のイギリスは高級紙と言われるインテリ読者が読むような新聞が普通だっただけに、大変な反響を巻き起こし、それが部数の飛躍的増加につながっていく。
知人のある新聞記者が「面白ければウソでもいいんだよ」と言っていたことを思い出す。もちろん、大半の記事はきちんと裏がとられているはずなのだが、この言葉はある意味で、かなりいいところを突いている。一般の読者が求めているネタは何か、ということを新聞社の経営陣が考えた場合、そういう記事を読みたくてもなかなか言い出せないようなゴシップ、男性にしてみればエッチな記事が手っ取り早いということになるのは容易に想像がつく。面白いことが最も重要で、それが真実なのかどうか、さらに言えばそれを書くことで関係者が傷つくかどうかの検討などはおそらくなされない。
舞台では「女性にも性欲があるのよ」、と女性向けの性的記事の掲載の論議が行われる。容易に想像がつくと書いたが、大衆路線の導入は、当時のイギリスのメディア界では想像もできないような、時代を一新する出来事だった。
休憩を挟んで3時間の長丁場だが、演出の妙とテンポよく進むので楽しむことができる。圧巻は第二幕。当初はマードックの方がイケイケで、ヘッドハントした編集長の方が慎重だったのに、やはり編集者の性なのだろう。読者がガンガン増えると自らの編集に自信を持ち、その路線で突っ走る。そのため、サンを次々に悲劇が襲う。
ラストシーンが象徴的だ。開幕直後に出てくる5W1Hの一つ、Wに注目しよう。最終幕でこの文字が再び登場し、観ているものの心を貫く。
インターネットで自分に必要なニュースだけを拾うような時代になり、総覧性・一覧性が最大の特徴である新聞の衰退はどの国でも激しい。この物語は、ある意味で新聞に力があった、古き良き時代の物語であったと言えるかもしれない。