蝶のやうな私の郷愁
ひなた旅行舎
こまばアゴラ劇場(東京都)
2021/05/26 (水) ~ 2021/05/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
延期された公演の中でも観たかった一つ。期待は裏切られず大満足。変哲のない夫婦の日常の刹那性と永遠性。のっけから永山演出の読み解きに感覚動員され、松田正隆作品である事を忘れていたが正に松田作品。
二人芝居の出演者の一人は2018年永山氏による東京レジデンス作品「島」にも出演していた日高氏、そして“我らが”多田香織女史(KAKUTA)。子のない夫婦の一つの関係の図は、過去に規定されつつ現在に縛られつつたゆたう。何気ない生活の断面が、黒い舞台の中に儚く切なく映えて美しい。
日常の場面をかたどる俳優の演技は、陥りがちな定型にハマらず、生き生きと時間は過ぎて行く。俳優両氏に敬意を表する。
さて永山氏の演出には抽象表現がさりげなく多用されるが、読み解きが追い付かない事がままある(「島」でもその経験をした)。本作のラストも何か大切な事が示唆されていそうであったが、「何」であるかは判らず。ただしこの舞台の醍醐味はその時間経過にあり、謎解きの比重は高くなく結末は何にも置き換えられる(解釈を完全に観客に委ねている)感も。
特段の「幸福」エピソードもないこの夫婦を、作者は一つの理想として描いたのだろうか、と永山演出のこの舞台から想像した。
うちのばあちゃん、アクセルとブレーキ踏み間違えた
劇団チャリT企画
座・高円寺1(東京都)
2021/05/16 (日) ~ 2021/05/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
チャリTらしい舞台である(当たり前だが)。インターネットに流れる議論や情報のいかがわしさと、それに見合わぬ影響力。このアンバランスの弊害はコロナ禍に目を奪われている間に実は加速しているのではないか。
作品が描く事件はSNSを介した情報の錯綜が起こした騒動である。三世代家族に祖母からの電話の一言だけが残され(その後は圏外不通)、現状を知り得ない状況にもたらされる不十分な情報が憶測を広げ、勘違い情報がまことしやかにネットに流れ、それに翻弄される人たち。荒唐無稽な要素もあるが、これが交通事故ではなくコロナに関わる出来事であれば今は笑えない深刻劇にもなりそうである。
「母 MATKA」【5/17公演中止】
オフィスコットーネ
吉祥寺シアター(東京都)
2021/05/13 (木) ~ 2021/05/20 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
前日の公演が中止だった事を当日知った。体調不良者が一人出たためだという。メールの「中止」の文字に一瞬ドキッとしたが、趣旨は「全員陰性を確認したので今日の公演は予定通り」。ホッと胸をなでおろす。陽性者がなかった事にでなく、自分が芝居を観られる事に。エゴも極まれりだが本心だ。
舞台は期待通り。役者に心酔し、演出に心酔した。「演出誰だっけ・・上村聡史?」と当たりを付けたが、稲葉賀恵であった。着実にキャリアを積み、力を示している。
2年ほど前「チャペック戯曲全集」という分厚い本を(高いので買わず)借りた時、『母』はざっとは読んだらしい。「息子の死」がリフレインであった事を徐々に思い出してきた。
チャペックの戯曲は『R.U.R.』が有名で2回観たが、最も秀逸であったのは小説『クラカチット』の舞台化(演劇アンサンブルのブレヒト小屋最終公演)。どの作品にも万人が共感できる普遍性と同時に、作者が生きた「時・場所」を思わせる要素があり、それも含めた風味がある。
この作品で男らが肯定的な響きで口にする「戦争」には、第一次大戦によって覆される前の戦争イメージ(限定的な場所でルールに則って為され、軍人だけが闘って死ぬ)が同居しており、戦争を巡っての男たちと(唯一の女である)母の論争は絶妙に拮抗している。大量破壊兵器が連想される現代の「戦争」が否定的な意味しか持たないのとは違う。医学や科学の進歩に対しても、懐疑的な現代とは異なるものを感じさせる(が、作者は懐疑的視点を織り込んでいる)。
その事情からか、増子倭文江演じる「母」が唱える非戦は、知的なイメージを帯びがちになる。増子氏の好演がこの舞台の質を確かなものにしていたが、時代性の違いを「翻訳」「変換」する作業は(自分が勝手にだが)幾ばくかはやっていた。
喜劇として場面は仕上がり、喜劇である分だけ母の悲哀が迫る舞台。反戦という一つの確立された思想への帰着は回避されている。母の人生というものを想像し、イメージの扉が開かれる(母を体験する事がなく、そういうタイプの母を持たなかった者としては)。
舞台は、軍人であった亡き父の部屋である。この部屋に息子らはよく忍び込む。母はこの部屋で息子らが父に「感化」される事を嫌い、恐れている。部屋の隅に大きな額縁があり、その後ろに肖像画の主人公である父(大谷亮介)が立って風景の一部になっている。武器の類はワイヤーで吊るされ、喧嘩ばかりしている双子はフェンシングの剣を取って大はしゃぎ。国内で紛争が起きると銃を取った。
母はこの部屋では死者と対話ができる、という設定がユニーク。それゆえ、初めは息子が死んだ事に気づかない。息子はおずおずと母の許しを乞うように(悪戯をした子どもが叱られる前みたく)「死んじゃった」と報告する。
開幕時既に死んでいた長男オンドラ(米村亮太郎)は伝染病の研究をしていて感染。次に死ぬのが技術畑に情熱を傾けていた次男イジー(富岡晃一郎)、母に止められていた飛行機に乗って墜落。そして内戦が激しくなると、国軍派と反乱軍派に分かれた双子がそれぞれ、ペトル(林明寛)は反乱罪で銃殺、コルネル(西尾友樹)は戦闘で死ぬ。芝居の冒頭から「この子だけは違う」と信じ、可愛がっていた末っ子・トニ(田中亨)が、ラジオから流れる切実な声に使命感を焚きつけられ「行かせてよ母さん」と告げた時、母は狂乱する。女性の「国家の危機です、起ち上って下さい」と呼びかける声がラジオから響く。部屋には母の父(鈴木一功)も息子・孫らに駆り出されて登場し、既に死者となった男たちが内戦という事態に浮足立ち、「男に目覚めた」トニのためにと何のためだか判らない作戦会議を開いている、という光景。それへ入って来る母が、彼らに対決を挑む。だが全く平行線に終わる論争の後、再びトニと対峙した母は、息子の変わらぬ意志を確かめると全てを諦めたように脱力し、「行きなさい」と言う。
舞台は黒褐色を基調とした昔の欧州らしい調度が点在するが、奥には広いレースの白いカーテンが張られている。このカーテンが不確実な外界(息子らを死に追いやる)との境界を示すかのよう。自在に揺れ、開くカーテンはいつでも息子らを飲み込み、逆光に照らされたシルエットを残して去って行く。作品の幻想的な側面を引き出した演出が舞台に膨らみを持たせていた。
みえないランドセル
演劇集団 Ring-Bong
こまばアゴラ劇場(東京都)
2021/05/13 (木) ~ 2021/05/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
文学座俳優にして「書く人」である山谷典子女史のring-bong観劇は久々の二度目。休憩10分を挟み二時間半とアナウンスを聞いてお~と思う。前に観た芝居は(失礼ながら)この時間に耐えるだけの戯曲が書けるという印象を持たなかった。
だが開幕し、出だしから作劇に磨きがかかった事を実感。母子の世界と、なぜかパン屋に設定されたセミパブリック空間に自然に入り込め、序盤で登場する殆どの人物らを手際よく紹介し識別もしやすい。休憩後の二幕は照準を当てた人物に接近し、生々しさを増す。深みに降りていく筆捌きは中々。ここで漸く登場となる、水野あきの貢献が大きい。
ただ大団円は「長い」と感じる自分がいた。その感じ方はよく女性だけの会話の場に立ち会った時のそれに似ている気が。性差、とは簡単に言いたくないが・・
ビルマの竪琴
劇団文化座
俳優座劇場(東京都)
2021/04/15 (木) ~ 2021/04/25 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★★
映像で鑑賞。劇場に行かれず大そう悔んだが映像配信と聞いて一も二もなく視聴券購入。時間のある日曜夜ゆったりと鑑賞した。
小説も読まず映画も観ていなかった自分には、シンプルな物語素材と構成による本作は新鮮で、シンプルである事の強さに感じ入った。歌われる唱歌もシンプルな旋律のものばかりだが素朴に琴線を叩いて来る強さがある。
演劇のカテゴリー的には新劇の範疇になろう演目、冒頭流れるインストの旋律だけの音楽が、一気に「現代」の時間へと物語を引き寄せた。
舞台はニッパの葉で織った小屋と、薄茶けた兵隊服、背後は恐らく映写でもって和紙を刷毛で汚したような肌合いに、遠く高山の頂き付近と見える稜線がさっと墨で描かれ、全体で見事に調和した絵となり自然の広大さも感じさせる。既に終戦と間もなく知らされる時期、兵士らは長引く駐屯の殺伐を合唱で和ませている・・やや浮世離れした閉じた世界と、外界との対照がいい。
水島上等兵という特異な一人の存在の投げかけるものを、受け止める余地が隊員たちにある。これらの人間像は「戦後文学」(と言われるカテゴリー)の中で、あるいは現実の日本人においても一つのモデルであり、平和憲法を頂く日本の戦後レジーム(安倍が用いたネガティブな意味でなく)の平和思想を象徴するようにも思う。
水島は「目にしてきたもの」を心の内に秘め持つようだが、具体的なエピソードとしては語らず思想の問題として孤独に乗り越えようとし、仏教へ傾斜する。そして彼を遠い人のように眺める凡人らは、しかしビルマに残るという水島を「忘れない」という決意をする。
戦争の惨禍に見合う決意を、今描くとするなら、「水島を忘れない」ではなく「水島が何をどう見たか」を忘れないと言わせたい。だが捕虜生活を終えた兵士らには彼を忘れないという宣言が精一杯の良心の発露であったと想像する。
戦争はそれが終わった時、生存者に様々な恩恵も与えた。だが日本はその恩恵を使い果たしてしまった。
アンティゴネ
SPAC・静岡県舞台芸術センター
駿府城公園(静岡県)
2021/05/02 (日) ~ 2021/05/05 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
丸一年お預けを食ったSPAC訪問。休日の小旅行を兼ねた久々の観劇にほくほく。目当ての『アンティゴネ』は2019年NY公演からの凱旋上演が1年越しで実現した舞台(とは前説で知った。何しろ昨年はそれどころではなかった)。
夕刻辿り着いた広大な駿府城公園内の特設舞台は、西向きの客席の前に横広に広がるステージを挟んだ向かいに荘厳な高い壁(足場に網を張ったもの)がそびえ、薄い残照に骨組みが透けている。目の前のステージは全面に水が張られ、下手、中央、上手に石が組まれ、クリーム色の布をまとった者らが火をともしたガラスの器を手にうごめいている。衣裳は一枚物のドレスにターバン、顔の下半分に薄布を垂らした形で、顔が見えないのはもどかしかったが、本編に入って(話者=スピーカーでない方の)演者=ムーバーはいつの間にかマスクを取り素顔を見せていた。アンティゴネの演者を初め若手の新人と見ていたら、終盤漸く美加里氏と認め、驚いた。
開演の合図は鳴り物。団扇太鼓等を手に上手・下手奥からプールサイドの畔を通って6名が道化よろしく登場、観客に向かってフレンドリーに「アンティゴネ」をかみ砕いて概説。だがラスト手前までをほぼほぼ説明し、「さてどうなる事やら」で去ったので、ごっそり省略して終盤をどんな上演に?と見ると、物語はやはり最初からやられていた。
宮城總によるギリシャ悲劇演出の肝は、音楽にあった。もっとも宮城舞台の殆どに棚川女史の打楽器主体の音楽は欠かせないので、言うなれば我々の耳馴染みのある「和」の音を橋掛かりに、翻案されていた。それが明白になるのは吉植氏が日本の盆踊り風の音頭で謡いをやった時。開演時の火入り器の縁をなぞって音を出す導入から、筏を漕いで出る僧侶、彼がラストに水面に流す燈籠と、「弔い」を介在して和洋を取り結ぶ舞台となっていた。
この物語での「悪役」である王クレオンは、アンティゴネ、及びイスメネの二人の兄の死(差し違えによる)に際し、国家への貢献と叛逆それぞれに報いる扱いをする。即ち弟エテオクレスには天に送る弔いを、逆賊の兄ポリュネイケスは遺体を放置し、弔った者を死罪にするとのお触れを出す。見せしめの処置である。これについてクレオンは政道に従ったのみと自らの哲学を語る場面がある。
だがアンティゴネはお触れに背き、兄ポリュネイケスを土に埋葬し、三度水を垂らす正式な儀式で天に送る。妹イスメネは姉の身を案じ、自分も死んではならない、姉が行くなら自分も行くと説得しようとするが、アンティゴネは決意揺るがず妹をこれに加担してはならぬと制止する。
王の死とその息子兄弟の死により王位を継承する事となったクレオンは、アンティゴネら兄妹の叔父に当たる人物だが、アンティゴネはクレオンの息子、ハイモンの許婚でもある。アンティゴネの所行により、クレオンは息子の許婚を処刑せざるを得ない巡り合わせとなるが、父は「政策の一貫性」にこだわり、庶民の間にアンティゴネの所行を賛美する声もあると聞いても曲げようとしない。
この父に対するハイモンの説得場面が「歌う」ギリシャ悲劇のリズムを逸して、現代的な高速台詞での議論となる。政策の失敗を認めないためだけに「政策の一貫性」にひたすらこだわり続ける様は、日本の現政府の態度そのものだが、その愚かしさをこの場面はあぶり出す。弁の立つ議員とそれに答えようとする大臣が居れば、このようであろう国会質疑を見る感覚である。
ハイモンの必死の説得の後、クレオンはアンティゴネを洞穴に閉じ込める(これは餓死に導く死罪に当るのか本人の努力次第で生き延びる余地がある措置なのか不明)。ただ物語は、アンティゴネの自死とその後を追ったハイモンの自害が「事件」としてもたらされ、王は初めて悔い己を死をもって罰せよと天に叫ぶ。(二人の死がまとめて事件として伝えられるので、ハイモンの死だけが予期しなかった事件なのか、アンティゴネの死も事件の範疇なのか不明、作者はうまくぼかしている?)
クレオン「気づくの遅いよ」と、突っ込みが入りそうになる。
じつは解決法は簡単で、現代の我々ならこう整理する。
アンティゴネの「弔い」は肉親の情愛からのもので「個」に属し、クレオンの処置は国家としての処置であってそれはそれで成り立つ。個人は弔い、国家は死者に罰を与えた、で終われば良い。つまり「奴を弔った者は死罪」が余計なんである。
逆賊を他者が弔うならそれは政治的な叛逆の姿勢の表明になるが、肉親が弔っても世人の理解も得られる(王への叛逆とは考えない)。お触れの出し方がまずかったんでしょ、で収まってしまうと言えば収まる。
それでもこのお話、見始めて暫くは、以前新国立研修所の『アンチゴーヌ』を観て今一つであった事を思い出したが、時間を追うごとに普遍性の土台をもって迫ってきた。
お後がよろしくありますように
大人の麦茶
ザ・スズナリ(東京都)
2021/04/14 (水) ~ 2021/04/25 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
ほのぼのチラシで名のみ知る劇団を「配信」で観劇。舞台は舞台として、まず劇団の持ち味を知りたい自分は「いつもと少し違ってた」らしいレビューも参考に探ってみる。若手のインディペンデント色の強い劇団と勝手に想像していたのだが、俳優が割と容姿的に粒揃いでハードボイルドやっていたのは意外。その意味で(年齢の問題でなく)「若手」という印象ではない。後で調べてみると15年前あたりに第十二回公演とあるので実は20年選手、紀伊國屋ホールでやってたりしたと知れば益々印象は変わる。
「カッコ良さ」を演出する石澤氏のギター生演奏は今回の趣向でなく、過去からお馴染みのものらしく、チラシが醸すほのぼのイメージはほぼ消えた。
こどもとつくる舞台『花をそだてるように、ほんとうをそだてています。』
ひとごと。
こまばアゴラ劇場(東京都)
2021/03/24 (水) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
後日、映像で鑑賞。
思っていた以上によい。大人の言語に翻訳できない不分明な子どもの言語世界の秩序(又はカオス)を大人が体現する。
壊れやすいしゃぼん玉の中の世界を、守ろうとする感覚は自然や健気さや美に対する人間の本能的な性質に通じるのだろうか・・。演者はそれぞれ子どもの味方となる「大人」に同期した存在。父親になって間もないお父さん、生涯独身で自分の生き方を楽しんでる親戚のおばさん、女子高生の娘を持つ何でも話せるお母さん、バレリーナを目指す近所の憧れの的のお姉さん・・。
原作者=子どもたちの作ったと思しい登場キャラ・・ふたしかちゃん。いっぱいいっぱい先生。あるがまま(有賀茉奈、のイントネーションで。以下同)ちゃん、あるがわかちゃん? どっちでもないばあちゃん。
パンドラの鐘【4月25日~5月4日の東京公演中止】
東京芸術劇場
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2021/04/14 (水) ~ 2021/05/04 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
当日券発売が中止になり落胆していたが「見切れ席」というのが代りに売られ(同じ料金)、あっさり観劇と相成った。松尾諭、緒川たまき以外は不知。ヒロイン役の女優が、観劇後パンフを開いて門脇麦と知り、容姿と名前が初めて一致。相手役を務めた金子大地も観客の大半を占める若い女性には叱られる程のネームなのだろう。
若い二人の初々しさ(小悪魔的と研究馬鹿の取り合わせがまた破れ鍋に綴じ蓋)と、対照的な年輩男女の天晴な屈折具合とが拮抗した役者力で飲み込む。
最大の関心、野田戯曲の検証(他演出家の手による舞台化)は、コトバの表層でテーマらしさを並べる野田作品の印象を覆して、深い部分に触れてきた。パンフには演出の熊林氏が独自な読み込みをした、といった風な書かれ方をしている。私のような者にとってはこの戯曲に「光を当ててくれた」という事になるのだろう。劇を通じて何か一貫する目線があり、言葉のバトンリレーもその構えの中にあって、言葉遊びがうざくない。言葉が遊ぶ時、人物自身も遊んでいる(遊んだ言葉さえも身体化している)ので、舞台上では台詞に合わせてコマ割りのように身体と場の変化が刻まれ、目まぐるしいが心地よい。
秀逸であったのは台詞にもある「空気」への言及。一瞬の事であるが人物がさらりと(素を見せて)現代批評を語ったかと錯覚した。
「鐘」とは長崎のそれであり、古代の遺物が発掘される現代と、古代そう呼ばれたパンドラの町の場面とが交錯する。若い男女と年輩男女+もう一人の男の5名が現代(といっても設定は戦前)と古代では別の役を演じる。この交錯の仕方は80年代流行っただろう「走り回り叫び回る」感じの荒唐無稽系の「お話」であるが、熊林演出はこの荒唐無稽さに汚しをかけ(ぼかし加工?)、含みのある風景に仕上げていた。舞台中央にでかでかと置かれたギリシャ建築風の一部の肌合い、舞台上に置かれた近代的な縦型白色照明、なぜか靴が持ち込まれてドカッと置かれたり回収されたり(視覚的な美を損なわない範囲)、底の抜けた棺の活用など、一つ一つの寓意は読み解けなやいが今回の『パンドラの鐘』の世界観を全体で形作っていた。
終盤、相合傘の落書きが原爆きのこ雲を表すという展開があるが嫌味なく受け止められた。芝居がこの重いテーマ(売る価値のある?)に着地する事で「成立」するという構成ではなく、そこに至るまでに十二分に「人間」の本音が暴露為され観客的には快楽を得ているので、帳尻合わせに「原爆」を持ち込まれたように感じない。史実の一つとしての原爆の長崎を思う時間は、ふと訪れるのである。
緒川たまきの中年女性役(二役)は突出していたが門脇麦も「女王」を演じるだけの素材であった。
いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校【4/28 (水)・29 (木・祝)公演中止】
ロロ
アトリエ春風舎(東京都)
2021/04/19 (月) ~ 2021/04/29 (木)公演終了
実演鑑賞
不思議な感触、架空の世界観にアトリエ春風舎という劇場もよく貢献している。
物語は危ういバランスで進み、見入らせて行くが惜しい所で(私としては)塗料が剥げる的な(好きな人には待ってましたなのかもだが)展開になる。ただこの「世界」の構築への役者の貢献には感心。「世界観」だけあって、ストーリーは前面に出なくても良いのでは?等と思ったりした。(これポストドラマの事を言ってるかな。。)
てくてくと【4月28日~4月30日公演中止】
やしゃご
こまばアゴラ劇場(東京都)
2021/04/17 (土) ~ 2021/04/30 (金)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
「アリはフリスクを食べない」「きゃんと、すたんどみー、なう」「アリはフリスク」再演(観ていない)に続き、今作も知的障害者を捉えた劇であったが初めて合格点を出した。援助者と障がい当事者の関係のあり方が軸に据えられ、現場のリアルを踏まえて普遍的な作品に仕上がっている。
自分が近い所にいる「障害」当時者を「用いた」ドラマにはよりリアリティを求めてしまうが、それ以上に親族らが十分味わい、乗り越えた苦悩を本人が成人した時期に未だ翻弄されているような描写は(たとえそういう事例が実際にあったのだとしても)、彼らの力を舐めている、人間はもっと胆力を養い、現実を生きていると作者に言い返したい思いが湧いたのであった。
私が見なかった「フリスク」再演はしかし評判がよく、劇評家を納得させる明確な視点を持ちえたようだ。あの台本では自閉症の兄を持つ弟が嫁の家族の気持ちを忖度して兄との別居、即ち兄の施設入所を決めるというあたりが物語の焦点であったが、20年以上生きてきた兄弟の歳月を無視して近視眼的になる弟や、事情を分かって交際したはずの嫁のあまりの非寛容さにリアリティの欠如を感じたものであった。が、「劇的」らしく声を張り上げる事をせず態度に葛藤を滲ませる、等の演技上の工夫でも成立したかな・・等と想像を巡らしていた。
過去二作は家族の物語であったが今回の舞台は家庭ではなく障害者の就労支援を行う施設(菓子作りが中心らしい)。冒頭、女性のジョブコーチと対面する利用者(この職場では清掃を担当)演じる藤尾勘太郎が最初「どこかで見た顔」だが「その人」にしか見えない。この職場で彼のサポートを担当する(職場の責任者でもある)男(岡野康弘)は彼の隣に座り、忙しく紳士的。もう一人の「障害者」は井上みなみ演じる発達障害を持つ女性で、この風情もリアルで「障がい者」の居る現場にはこういう控えめなヒーローが潜んでいるのも真実である。彼らの事を「思い」ながら己のエゴを映す鏡の存在に日々静かな格闘に臨まされている。音楽のない平田流を受け継ぐ劇にひたひたと情感が流れる。・・「我が意得たり」な瞬間色々と挙げたいがそれはまた。
ドップラー
KOKOO
シアター風姿花伝(東京都)
2021/04/20 (火) ~ 2021/04/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
芝居をハシゴして山手通り側から劇場に到着。「目白駅からの徒歩でない」行き方を前回に続いて開拓して一つ地理に詳しくなった(要町から椎名町まで徒歩ですぐとか..)。
本日も未知数度95%初お目見えの劇団を風姿花伝にて鑑賞した。チラシ、サイトから想像された「落ち着いた」イメージをひっくり返し、喧噪とスピードと汗の2時間(休憩有)であった。
鮭スペアレ版・リチャード三世
鮭スペアレ
銕仙会能楽研修所(東京都)
2021/04/17 (土) ~ 2021/04/18 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
沙翁の名をもじったこの集団の舞台には中々縁がなかったがようやく目にした。シェイクスピアへの拘りの所以は不詳だが遊び心の発露の態様を見た。己を醜く生み落とした創造主へ叛逆するかのように血塗られた道を行くリチャード三世の物語は、以前鵜山仁演出/岡本健一主演の新国立舞台を観て印象にある。悲惨な末路に殆ど同情の余地がないにも関わらず、そこに人間を見る。
舞台は一時間強。黒ずんでシックな能舞台にまず語り手(パンフにはウタイとあり謡い方に当る模様)の男女二人が切戸口(能の始めに囃子方・謡い方が出て来る)から現れ、次いで橋掛かりを通って5名の女優が巫女をイメージさせる白と朱の衣裳で登場。語り手は場のタイトルと地文を語り、5人は持ち回りで役を演じるのだが、場ごとに表現形態が変わり、前半にあったラップ調だけはもっと符割りにヒップホップらしいセンスを欲しく思ったが、トボケた演出であるのに場を重ねるにつれ「劇的」が高まり、「リチャード三世」はオーラスを迎える。
この「遊び方」というのが不思議に真面目さ、誠実さを感じさせ、抄訳に近い作りでも戯曲が生きていた。
一目置かれた存在らしい理由が判った気が。
「SEVEN・セブン」「岸田國士恋愛短編集」
文学座
文学座アトリエ(東京都)
2021/04/09 (金) ~ 2021/04/16 (金)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
岸田國士が目当て。日が取れず配信を鑑賞したが環境よし、岸田戯曲の繊細な空気感を堪能した。「恋愛」と括られた戯曲3つの内「恋愛恐怖症」「チロルの秋」は正に男女の現在進行形の恋愛が描写され、言葉の密度が高い。いずれも二度と訪れない瞬間のヒリヒリと痛く心地よく悲しく滑稽な駆け引きを役者は演じ、恋愛の純度を高みに押し上げた作りであった。最後の「命を弄ぶ男」は飛び込みやすい線路に訪れた二人の男が登場人物で、自死へ駆り立てた動機に女との関係がある。両名ともがメロドラマ一本作れそうな苦い悲恋物語を語るが男らの滑稽さが芝居としては救いとなり、余韻の中に人生の情感が籠る。
「命」「チロル」の生舞台は初めて。繊細な機微に寄り添う音楽も効果的でキーボードの生演奏と最後に明かされた。
『crash~M銀行人質事件~』
singing dog
小劇場B1(東京都)
2021/04/08 (木) ~ 2021/04/12 (月)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★
配信で鑑賞。
1979年に大阪で実際にあった銀行人質立て籠り事件の実況再現的な劇。同作者の作品は昨年「Crime 2」での短編を(やはり配信で)観て2度目。犯罪事件をリアルタイムに進行する形で描く点で共通する。
ただし今作の舞台は修羅場である銀行窓口のあるフロア(1階)ではなくその上、2階に潜入した警察が臨時で設置した対策本部。ここで現場指揮に当る警視正(村上航)や、その部下、米国帰りの若い警視(犯罪心理に強い)、本部から来たというベテラン刑事、交通課から異動したばかりの女性警官が、時折階下で響く銃声と不気味な静寂の中で次の策を考える。外部からは犯人から遣わされた男性行員、犯人の元愛人、一階から命からがら逃れて来た元警官という民間人(老人)が訪れ、現場を見る事のできない対策本部を揺さぶる。
結局のところ、最終手段=突入をするか否かが焦点になる。だがその対立点はベテラン刑事の登場からあり、現場指揮を本部から任されたと言う彼に対し、警視正の方も自分も本部の指示で指揮を執っていると主張するのだが、一階では既に警官二名、行員二名が死亡との報告が上がっており、これで突入しない選択肢はないとベテランが主張するのに対し、警視正はこれに強く反対する。
銀行一階の見取り図が届けられ、突入方法が練られるが、そこへ一階から使者が来る。犯人の言伝を告げに来た男性銀行員は何もするなと訴える。米国帰りは彼は犯人を絶対視する心理規制に嵌まっていると分析、因みにこの行員はこの後犯人から借りていた金を返済して来い(無論銀行から奪った金)との命を受け「外」へ出るが、彼は逃げずに銀行へ戻って来る。台詞による説明は無いが彼は間近で犯人に接し、犯人なりのいきさつがあり、それ故今は犯人に従うのが正しいと判断していると判る。このあたりから犯人の「人間像」が関心の領域に入って来る。元恋人の証言、そして漸く応じた犯人との会話(一階との電話)で垣間見せたかつて人と情を交わした生活の感触。だが無言の対応のあと又銃声が響く。「突入」への強硬論は最初、米国帰りが開陳した犯罪者心理「出口を失った者は自棄になる」で慎重論に落ち着く。次は一人目の訪問者の報告を受けてであったが、彼に聞いた犯人の位置を見取り図上で確認し実行された所、犯人が作った人の盾で頓挫する。
警視正は犯人の来歴を記した資料を繙いているが、老人は必死の形相で犯人の非人間性を訴え、警視正の態度に疑問を投げ掛ける。万策尽きたと断念した警視正は突入、と指示するが「ただし生きたまま確保!」と付け加える。結果は推して知るべし、人質解放。特設本部が片付けられ、ガランとした空間で警視正は「彼」が生きていた時間の感触をなぞるように(冒頭そうしていたように)床に耳を当て、再度「生きたまま確保」と繰り返す。
銃社会アメリカでは何かには当然、等と、やがて日本が「個人主義社会として正常に発展する」事を前提に語られる事があるが、アメリカは異常であると、思い切る時ではないか、との問題意識と共に引き出しにしまった。
タバコの害について/話してくれ雨のように
劇団夢現舎
ふらんす座(広島県)
2022/03/04 (金) ~ 2022/03/06 (日)公演終了
斬られの仙太【4月25日公演中止】
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2021/04/06 (火) ~ 2021/04/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
他に日がなく急遽足を延ばして当日券で観たのが初日であった。上演時間の立て札を二度見。だがあっという間の4時間強、三好戯曲に浸った。
フルオーディションという方式が小川絵梨子新芸術監督の下では行われ、今回がその第3弾という。フルでないオーディションとは、予め決まった出演者以外の者を選ぶという事か。ならばフルとは「本来の」と読み替えられそうだ。全て「芝居」のため、俳優もモチベーションのあるやつしか集まらない。主役の仙太郎役をゲットした伊達暁は声に存在感ある小劇場で鳴らしていた印象の役者だが、長丁場を演じきっていた。
なお清水邦夫の「楽屋」で再現される一場面を最初は気にして見ていたが(結局判らなかった..冒頭近くのあれかな?)、想像した「仁侠物」とは異なり社会批評の鋭くある硬派な作品であった。
国史を民衆視点で劇化した宮本研(明治の柩)を思い出したが、三好の本作の土臭さは拳に力が入る。知識人が言葉にする自己批判(という名の自己憐憫)を排し、百姓の目線が透徹している。
「運動」に名を借りた内輪のポジション争いの醜悪さなど、60~70年代の作品かと錯覚させる容赦ない「権力」批判は、凄惨な連合赤軍事件等を予見したかのよう(というより維新期について自分が何も知らないだけなのかも)。時代的制約を些かも感じさせない作品であった。
12人の怒れる男・12人の怒れる女
江古田のガールズ
「劇」小劇場(東京都)
2021/03/30 (火) ~ 2021/04/04 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
「・・怒れる女」を観劇。額田やえ子翻訳の古典がどの程度原作に忠実でどの程度脚色されたかは分からないが、指紋やDNA鑑定といった科学捜査の無い時代、という要素を除けば、俳優らの現代感覚と共に台詞が吐かれる舞台は、不思議と成立した。
野球観戦野郎、ヘイト野郎、個人事情むき出し野郎、確信犯的付和雷同野郎が、米国産映画でも「正義」の障害として立ちはだかり、やがて克服されて行く。
今は昔のようにアメリカ=民主主義の国、等と単純に考えてはいないが、回帰すべき場所としてそれはある(と信じられている)だけ、日本とは異なるのだろうとは思う。そして考える。普遍的感動に導く同作品は日本でも好んで鑑賞・観劇されるが、しかし果たして民主主義は本当に信じられているのか、と。そうして頭を抱えてしまう。
夢を見る
シアターX(カイ)
シアターX(東京都)
2021/04/08 (木) ~ 2021/04/08 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
シアターX「一人芝居」シリーズ鑑賞2つ目。挑戦者の中でも若い清水優華は名も覚えあり、今調べると結構見ていた(直近では「農園パラダイス」、韓国現代戯曲リーディングの前回「刺客列伝」、そしてアンサンブル時代の各舞台。容姿と相伴って思い当ったのは「農園パラダイス」のみ、ほぼ主役のあの女性役だ)。
この企画に加わった俳優諸氏が、順繰りに試演会を行ない、今回が後半戦の一回目という。一時間半の距離を走り切るだけでも唸る。激情に身を震わせる終盤、ドラマの結語に向かう感興に飲まれまいとして飲まれ、それでも走り切ったという感じであった。「ヘル」という風変わりな名を名乗る元従軍慰安婦の女性と「私」との交流を一人称で書いたのは劇作家石原然との由であるが、今回のに先行して同じ一人芝居プロジェクトのメンバー、中山マリにヘル役を当てがった二人芝居を上演。相当見やすい舞台であったと想像されるが今回は難しい一人芝居。見せられているのは「芸」ではなく、テキストに対する演者の思い入れであり、ヘルという存在(との格闘)を通して社会から異端視されて生きた/生きる人々を思い、包摂の意志を伝えんとする行為、に見える。
毎回恒例らしいアフターミーティング(観客交えたトーク)で役者が述べた、「芸を見せる等という構えを取ったが最後化けの皮がはがれ、太刀打ちできない」、そういった存在に出会った事を喜び、純粋に打ち込む俳優の姿勢には感銘を受けた。社会的ポジションを目標とする(誰もが持つ)態度はなく、役とテキストとに向き合う自身を観客との間では媒介者として立てる(自分を評価する者との対峙ではなく)。この何とも評しようのない穢れなさ、というより恐らく強さは、舞台にその片鱗が窺えたように思うがトークの場がなければ触れられなかったと思う。
役者に苦行を強いる故か不思議な光沢を放つ一人芝居。次回試演会は6月との事。
雪の中の三人
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2021/03/16 (火) ~ 2021/03/30 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
一昨年末上演されたケストナーを描いた秀作舞台では、後半ナチスによる統制が文学にも及び苦渋を舐める作家が執筆欲に負けて(と脚本は描いていた)映画の脚本のオファーをついに請けたくだりがあった。あれは確か、、そう「ほら男爵の冒険」、戦後「お前もナチスへの協力者だ」となじるリーフェンシュタールにケストナーは辛うじて「俺は作品の中で抵抗した」と返す場面が印象に残っている。
さて本作も実はナチス時代に書かれた作品だ、といった事や、それどころか作者名すらも頭から抜けた状態で舞台を鑑賞した。何時書かれたか知れない喜劇として非常に楽しく観た。
オープニングで小間使いが多忙な仕事の僅かな合間に暢気に豪邸の主人気取りで悦に入る様を音楽に乗せて華麗に描写する演出(小山ゆうな)、これが小難しい客を武装解除させる抜群の効果。そして俳優座俳優の喜劇仕様の人物造形の巧さと、少ない台詞で心理と状況の変化を観客に知らせる瞬殺演技ポイントでの確かな仕事にちょっと感心。
物語をざっくり述べれば・・億万長者(事業を成功させた)トブラー氏がお忍びで旅をする。そのお膳立ては会社が催した広告コンペの二等受賞の副賞である豪華なホテルへの招待券、そこへトブラーは身分を隠しボロをまとって訪れたためホテルに冷遇される。たまたまコンペの一等を取った若者が同日同じ副賞のホテルを訪れるが、行商をする高齢の母との二人暮らしで職を探している彼はホテルでも仕事は無いかと尋ねるありさま。「雪の中の三人」の残る一人はトブラーの指示で青年実業家を装い、同じホテルを訪れた部下。彼はトブラー氏のホテルでの遇され方に驚愕するが、決して知人である事を明かしてはならぬとの厳命のはざまで身悶えする役回り。ドタバタの仕掛けはトブラー氏の出発直後、父の身を案じた娘がホテルに電話し、みすぼらしいなりをした男が訪れるが実は億万長者である、彼には良い部屋を宛てがい、マッサージと猫三匹、等々を用意せよと依頼するのだが、ホテル側は一足先に訪れた若者の方を億万長者と勘違い、上げ膳据え膳をやる。方やトブラーは屋根裏部屋を宛がわれ、冬の冷気に凍えるが、心優しい若者が彼への扱いを見て素朴な義侠心を持ち、トブラー氏を自分の広い部屋へ招く。一方青年実業家を騙る部下は若者の悩み(仕事がないこと)を聞き、素朴な同情心からぜひ我が社に紹介してやろうと「実はあの会社の社長には顔が効く」と約束する。この三人が一堂に会する場面で、トブラーと部下が初対面を取り繕うドタバタで観客を笑わせた後、若者を軸に友情関係が育まれて行く。その象徴的場面は、ホテル側が「じじい」を追い出そうと雑用を申しつけるのに全てが新鮮なトブラーは買い物から雪かきまで喜んで引き受けるのだが、その雪の日に三人はホテルの庭で雪だるまを作る。だるまを囲んだ三人を空と雪は祝福する。
美術は白亜の色調で冒頭・ラストのトブラー家邸内、劇中では件の有名豪華ホテル内、そして雪の日の戸外。中央の回転台が適宜用いられ機能的でリズミカルな劇展開を助けていた。