愛が世界を救います(ただし屁が出ます)
パルコ・プロデュース
PARCO劇場(東京都)
2021/08/09 (月) ~ 2021/08/31 (火)公演終了
映像鑑賞
本気モードのクドカンと<のん>の真剣お遊び舞台(そんな触込み?)に心惹かれていたところ配信を観られてラッキー。映像では編集の妙もあったか知らんがそれはそれ。
舞台は過去散見した宮藤官九郎のどの作品より濃く、パスタのソースをゼータクに麺に絡めて頬張る的観劇に五感が満足。(もっともオチのクドカンらしい気抜け、劇的高揚を演劇らしく作る松尾スズキとの違いは性格の違い?)
観ながらしばしば思い出したのは、その松尾スズキの「キレイ」。未来の日本、ディストピア、戦争、逞しく生きる者たち、強迫神経症な者たち、生物学的人間でない人間、ナンセンス、荒唐無稽な話・・と共通点が挙がるが、無茶苦茶加減は「キレイ」に及ばず。ただ、基本バンドによる限りなく演劇に近接したライブ、という変異種の強味は楽曲じたいの美味さ。歌、ギター、ドラム、サックス、キーボードと出演者がこなすステージは基本ライブに「演劇」なる濃厚ソースが掛かり、もはや演劇(でも元はライブ)という様態。美味なるシーンの羅列であった「キレイ」に並び、羅列礼賛論へと手招きする蠱惑的舞台ではあった。
【会場が変更になります8.7】A-hoj!2021
プーク人形劇場
プーク人形劇場(東京都)
2021/08/10 (火) ~ 2021/08/14 (土)公演終了
映像鑑賞
全容が判らぬ内に閉会となったが、プークの劇団公演ではなく、プーク主催イベントであった。イベントの目玉だった海外の9団体による上演が来日叶わず映像配信、新宿のプーク劇場では国内18団体が各1回の演目披露という4日間のプログラムである。
現在、海外グループの作品を9月初旬までバラorセットで有料配信中。
国内演目については無料配信があったが自分は最終日に発見、この書き込みはその感想(7割方視聴した)。
人形劇の演目は半数以下で、ジャンルもバラエティに富んでいたが、全体にクオリティは高かった。マイム、演奏、大道芸・・見た事のない芸を贅沢に味わったが、自分的にはやはり「人形劇」である。
子ども向けというプークの出し物はローラー車を(機関車トーマスみたく)擬人化してその活躍ぶりを見せるお話。大人が見て楽しいものでなきゃならん(子どもも楽しむには)、という持論からするとつらい部分があったが、手作りな仕掛けの考案が注目どころ。
八王子車人形西川古柳座は伝統的演目をダイジェストで紹介。文楽人形サイズの人形を基本一人で動かし、しぐさの「型」が見事で伝統芸能の「習得」の年月に想像を馳せた。
かわせみ座は「観た」はずだが場面を「これ」と思い起こせない。「おっ、なかなか」と感じた記憶のみ。
糸あやつり人形劇団みのむしは時代劇「岩見重太郎・狒々退治の段」のダイジェストという事だったが、自分にはやはり糸操り人形のシュールさが来る。人形劇とは即ち「人間でないもの」に人格を仮託する営みで、観客は人間でない事が判っている。だから逆に「人に似せることの限界」の中に、その真髄があると改めて思った所である。
さて海外作品をこれから、つまみ食いで観てみたい。
・・と思ってたら終わっていた。。TT
カンフェティでの視聴期限が9/8までで、まさか販売期限が8/24とは・・配信はまだやってるのに・・見せて頂戴!!
化粧二題
こまつ座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2021/08/17 (火) ~ 2021/08/29 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
渡辺美佐子の持ちネタであった時期、退く何年か前に観ているが、幕間から小屋取り壊しへとドラマティックに展開する後半は後年に追加執筆されたもの、という事だった。「二題」に収められたのは旧作だろうか。後半はない。
一人芝居だが客いじりあり、エアの相手役とのやり取り、又は相手の台詞まで言うパターンありと自由。
久々に見た有森也実はまだ可憐さを残し、女座長は背伸びのキャラながら演じきっていた。内野聖陽は聞かせる声を自在に使い貫禄である。
追記 この日は初日だったのだな。十日後に気づいた。ネタバレにて注文を付けたが、楽日を観たい気がもたげてきた。
カメラ・ラブズ・ミー!【兵庫公演中止】
ムニ
こまばアゴラ劇場(東京都)
2021/08/19 (木) ~ 2021/08/22 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
平田オリザ直系の現代口語演劇ユニットは多いので突出した印象を残しにくいが、ムニ又は宮﨑企画はどこかで観て「悪くなかった」との記憶だけある。
「須磨浦旅行譚」は殆ど事件らしい事件は起きないが(いや事件と言えば冒頭の「遭遇」がそれだと言えばそれで道程にさざ波を与えているが)、日常と旅の混じる小旅行独特な気分が伝わり、質素感が何とも言えず心地よい。女子二人に同道する事になった青年が不思議と馴染み、一期一会の切なさ(刹那さ)が旅気分を嵩増しする。若者だけに長い人生の旅に重なり、重さの中の僅かばかりの明るさが「戦前?」と思わせるばかりに慎ましい。無常感というのがむしろ近いか。
こちらが良かったので短編二編の方も観た。不可思議な「回る顔」はメタファーを読み取れず。後半の「昼間森を抜ける」は題名が謎だが、「須磨浦」以上に一期一会の含蓄あり、異性との儚(はかな)切ない一風景を切り取り、人生の長さの中に据えている。秀作。
地味に逞しい女子といじましい男子の小さな出会いは、数日後の「じゃ、また」で締め括られる短い電話で終わる。男は未練だが女はあっさり、が通り相場だが女性作家が敢えてこの残像をラストに据えた意図は何?と淡い期待をもって詮索する。男にとっては老いるごとに強烈になっていく思い出の一つ(と芝居でも明かされる)だが、女にとっては・・?
南風盛もえが「須磨浦」と共に出演、不思議系な女子を好演。
ヒッキー・カンクーントルネード
ハイバイ
すみだパークギャラリーささや(東京都)
2021/08/11 (水) ~ 2021/08/26 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ハイバイの芝居は戯曲の要諦を飲み込んだ作者以下ベテラン俳優の技量とアンサンブルに支えられていた・・その事を少し前に観た「投げられる石」、続いて今回も感じたのだが、ここまで書いて、このかんの試みは岩井氏による自らの戯曲の普遍性を問う挑戦なのではないか、と推測。
「投げられた石」も「トルネード」も、いやハイバイの芝居全て、笑いのポイントがあり、それと背中合わせに冷厳な事実の仄めかしがある。「痛い」話の「痛さ」が見えなければその反動のインパクトがなく、「痛さ」が深すぎると「笑い」が成立しづらくなる・・。絶妙な塩梅がハイバイの芝居には必要で、それを担える俳優をやはり選ぶのではないか、というのが(作者には不本意かも知れぬが)このかんの正直な感想だ。
もっともこれは「大変美味しく成立」した過去の舞台を基準にした評価であり、今作のラストはやはりこみあげてくるものがあったが。。
役者は映像、舞台で活躍する若手で見てくれも良く芝居も流暢だが、平原テツや永井若葉に近づこうにも及ばない一線がある、という感じがある。(劇団員である事の違い?人間の仮面を容赦なく剥ぎとって憚らない身体、含み、毒気・・)
“だいじょうぶじゃない”短編集
果てとチーク
アトリエ第Q藝術(東京都)
2021/07/22 (木) ~ 2021/08/15 (日)公演終了
映像鑑賞
青年団若手企画「升味企画」で観た劇は、とあるサークル内の現代女子の生態に宗教的要素、超自然要素を投入した感触良い作であった。今回の短編も若者の生態を窺うそれぞれバリエーションに富む4作。超自然やSF要素やが入り、そちらに目を奪われるものの、全体に漂うのは現代日本の断面、といった感じである。
二つ目、三つ目は台詞の聞こえに難あり。それぞれの趣向と味があるがもう少し観客の方に寄り添っても良い。一つ目と四つ目は日常が舞台なので分かりやすく、考えさせるテーマに触れ問いを投げていた。
勅使川原三郎版「羅生門」
KARAS
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2021/08/06 (金) ~ 2021/08/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
笙奏者とのコラボが以前評判だったので此度は観に行った。今作はそれに加えて仏人ダンサーを招き、アンサンブルの女性ダンサーが5、6人加わって舞台上は熱を帯びる密度。
「羅生門」は芥川の原作の世界(黒澤映画のでなく)。人が飢え荒む戦の世の抜き差しならなさを基調に、多様な場面が息つく間なく展開。KARASのスタイリッシュの要素は照明、音(音楽)であるが、「青い目の男」を思わせるエッジの利いた音と照明の中で踊る勅使河原、対照的に悠久の時に流れる笙の音の中で踊る佐藤利穂子、意味深で混沌とした音の中で勅使河原と超絶に絡む仏人ダンサー。
笙奏者とのコラボ、という念頭で観に行った自分としては、笙の場面は3場面と少なく、また笙と全く相容れぬ(和の音でもない)音が観客の現代感覚にアピールするのと比してバランスが気になった。
だがラスト、掠れたような笙の小さな音に儚く舞う佐藤の舞いでフェードアウトとなる。ニュアンスを作り出す勅使河原氏の才能にはやはり感服する。
その上で・・「羅生門」という題にさほどまで忠実でなかったようにも。
一九一一年
劇団チョコレートケーキ
シアタートラム(東京都)
2021/07/10 (土) ~ 2021/07/18 (日)公演終了
映像鑑賞
満足度★★★★★
昨秋配信限定の『無畏』から『帰還不能点』そして今作とコロナ以降の劇チョコは全て配信で鑑賞・・と書いた所で「待てよ..」と手帳を見たら、「帰還・・」は劇場で観ていた。
思うに記憶の中の「帰還」の風景が定点観測的で平板なのでそう勘違いしたらしい。芸劇の後部座席だった。不思議に「無畏」と「一九・・」の方は残像が濃いが、考えてみれば自分はやはり映像の世代で、俯瞰と抜きを組み合わせた「映像言語」の雄弁さが「生」より勝ってしまうのは自然なのである。ただし、「生」を見るレベルにまで集中力を高め、入り込むまでが映像鑑賞の場合ハードルである。今回の『一九一一年』も一度観た時は殆どの時間意識が飛んでおり、脳が覚醒した状態で集中できたのが配信期限間際の事だった。
余談はさておき・・日本近現代史の中心部に踏み込む硬質な歴史劇が三本続き、前の二作とも懐を掴まれる内容であったが、本作も見事な出来だった。歴史事実のスピンオフでなく事実の本質を抉り出す入射角に感服する。
本作の焦点は、明治末期「近代国家」を目指した日本司法の罪刑法定主義、法治国家の理念を大きく踏み越える「大逆罪」の立件・訴訟が為された事に対する、法律家の受け止めである。
法の正義の遂行を自任する法律家(本作では若い判事・田原)にとって、大逆事件は法が大きく捻じ曲げられた出来事であった。
「目的」のためには手段を選ばず。原則を違えてでも目的を遂行する。「原則」という所がミソである。戦前、旧憲法下では国家は何でもやれたわけではなく(法の構造の不備は戦後指摘された通りだが)、原則とすべき事は存在した。立憲制による文明立国を目指す大義あってこそ、それへの貢献とその結果としての立身出世は栄誉であり、競争を勝ち抜いた勝者である事の意味は個人でなく社会に還元されるものだ、というサイクルが成立していた(戦後においても暫くは)。
物語は田原判事を26名の被告の紅一点、菅野須賀子と対峙させる。一個の「自由」な人格と遭遇するのである。「他に現実を乗り越える術のない者らがたまさか見た夢物語」だ、と田原は彼らの社会主義、無政府主義の本質を看破して言う。1911年1月18日、24名に死刑が宣告され、「思想撲滅」の特命を帯びた「難しい裁判」を成功裏に終えた美酒を要人らがかわす中、田原は上のように言い、全員の「特赦」を求める。
謀議を為した4名(他の22名は検察のでっち上げによる冤罪)を含めて、彼らは「夢を見たに過ぎない」とその人間性を愛おしむ田原の眼差しは、当時そのような判事が存在したかどうかはともかく、共感を誘う。
物語は「当然のことを当然のこととして」描いた、かのように見えるが、はたと立ち止まれば、原則を違えることを国に許している己らが浮かび上がる。誤りを正させるべき責任を、多くの民が放棄しているのがこの国の現実だ。
段差インザダーク
コメディアス
こまばアゴラ劇場(東京都)
2021/08/11 (水) ~ 2021/08/15 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
中々うまい線を行っていたと思うが、観客の心ない観劇態度で大いに邪魔をされた。しばしば話題になる「笑い男」が今日もいて、相手にしたくはないが、冒頭から「ちょっと先に笑いをぶっこむ」という本人だけは「してやったり」と快感だろう高笑いのせいで芝居の滑り出しを掴みそこねた。
が、それでも土台もしっかり作った芝居はすぐさま様相を現わし、和製インディジョーンズらが遺跡から重量級のお宝を台車で運び出そうとして突如現れた「段差」と格闘するお馬鹿芝居を追い始めた。
その後は男の笑いも気にならず芝居の道筋が辿られて行く。いい頃合いに新たな登場人物が加わって意外な展開をもたらす。冒頭から登場の三人の会話がほぼ「段差と台車」の試行錯誤だけに終始する所、新たな情報は新人物からしか持ち込まれない、という作りが潔いというか、馬鹿馬鹿しさに拍車をかけていた。
あと木乃伊の作りがうまい。包帯の裂け目(目の部分とか)を黒塗りしてあるのがちょいグロで笑う。
プチな笑いネタにももっと目を届かせたかった。
雨花のけもの
彩の国さいたま芸術劇場
彩の国さいたま芸術劇場 小ホール(埼玉県)
2021/08/05 (木) ~ 2021/08/15 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
ほろびての名は目の端にあったが未見。さいたまネクスト・シアターは蜷川氏の死後、「第三世代」等3つばかり観たに過ぎぬ。何をもって「最終」かは、説明されない所を見ると大方行政の事情だろう。
今回の舞台は、俳優たちの力を存分に証明し、若い作家の可能性も確かに感じさせる公演となった。
岩松演出は作品の世界観を余すことなく具現する空間、豪奢な装置、調度、衣裳を配し、有終の美を飾るに相応しかった。力作である。
丘の上、ねむのき産婦人科
DULL-COLORED POP
ザ・スズナリ(東京都)
2021/08/11 (水) ~ 2021/08/29 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
DULL-COLORらしからぬハートウォーミングな(他に想像のできぬ)タイトルが、一つの謎掛けである。
蓋を開ければ・・包摂を旨とする「ねむのき」のイメージそのまま。だが語られるのは「場」ではなく、医師も看護師も登場せず、場を訪れた夫婦(カップル)数組のエピソードが綴られていく。
「妊婦」という縛りが窮屈に感じない普遍性、「新たな命」といったありきたりな感動のパターンに収めない、不思議な手触りの舞台であった。
タイトルは「守り」でなく「攻め」。私なりの謎解きだ。
新作能 『長崎の聖母』『ヤコブの井戸』
銕仙会
座・高円寺1(東京都)
2021/08/04 (水) ~ 2021/08/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
「新作能」とは「古典」に対する謂いで、多田富雄作『長崎の聖母』は2006年初演、ディートハルト・レオポルト作『ヤコブの井戸』は2017年初演。新鮮な体験となった。
シアターXのユニークなコラボ企画で最近目にしていた清水寛二氏が真正の能舞台で堂々とシテの貫禄を滲ませている。「亜流の人」と勝手に認識していたので意外であった。
個人的には昔よく見た能楽堂や屋外(薪能)の古典作とも異なり、演劇観賞者として見た現代能楽集や能のエッセンスを入れた舞台とも当然違う。能の形式にのっとった能楽師による「能」(複式夢幻能)にして、テキストは現代のものであり趣向が盛られている、という形は初めて観た。霊が登場し、舞を踊る。ワキがそれを眺め鎮魂の祈りを捧げる・・この形式が現代の文脈でも生き、「今」に迫る演劇の高揚がある。囃子方、謡い方が作る高揚にこれほど揺さぶられる体験も、初めてである。
ぞうれっしゃがやってきた
公益財団法人武蔵野文化事業団 吉祥寺シアター
吉祥寺シアター(東京都)
2021/08/07 (土) ~ 2021/08/11 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
パリッと明快で判りやすい舞台。でもって繊細な感覚を織り込んでいる。
子どもに届ける、という要素は青☆組の志向に合致する所があり、舞台表現の質をぐっと引き上げたに見えた。特に、、汽車ぽっぽの振りは秀逸で動き一つ一つは平易だが気味がよい。覚えたくなる。
笑みに包んだ悲しみに嘘が見えないシチュエーションと題材ではあるが(福寿奈央の本領でもあるが)、日常と非日常の中で双方向的な交流が可能な波長でもあり。
擬人化された物語なのだが、象という動物の知性、神秘性を思わされる。
病室
劇団普通
三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)
2021/07/30 (金) ~ 2021/08/08 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
個人的に「来た!」芝居に時々☆5を付けているが、今回は5に近い4。(欠けは聞こえない台詞。聞こえなくても成立する芝居もあるが「ここは聞こえたかった」場面が二箇所ばかり。)
数年前の初「普通」観劇から随分間が空いたが、このクオリティまでの成長は自分的に驚きではある。以前観たのは少人数、短めの芝居で「静かな演劇」の変異株、模索する若手走り出しのユニットという印象であったが、今回先行して配信のあった短編が茨城弁のそれでツボにはまった。「病室」も、ほぼ全員が茨城弁で通している。
言語にはその特徴が表れる瞬間に言語共同体の文化、感覚が発露するという事がある。方言も一言語なれば、厳密な意味で翻訳不能の領域がある。この芝居にも、恐らく作者が茨城弁でしか思い描けなかったシーンが織り込まれている。異文化との遭遇は80年代を最後に激安本並みまで値が下落している模様だが(とって付けたようなダイバーシティだのヘソが茶)、言わばエスニックに触れる美味しさで、今まで見なかった(けど分かる)感覚、心情、場面が、眼前で展開するのが楽しい。
死と無縁でない、「病気」が話題になる場所が、辛気臭さを受け入れた(デフォルト化)時に訪れる風景の見え方だろうか、とも想像する。とにかく笑った場面を反芻してまたにんまりである。
奇跡を待つ人々
東京夜光
こまばアゴラ劇場(東京都)
2021/07/24 (土) ~ 2021/08/04 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
昨夏、コロナ渦中の演劇界でポジションを得ようと足掻く青年を主人公に大所帯で描いた「BLACK OUT」が秀作であった東京夜光。アゴラで何をどうやるのか想像がつかなかったが、今作はのっけから「人類初のタイムトラベル」の訪問先の場面から始まるSF譚で全く趣向が違った。いわゆるタイムリープ物、ではないが、架空の未来世界(バーチャル世界でもある)の<ルール>を読み解く作業が(ミステリー同様)観劇の大きな要素となり、4名の俳優の内約1名が都合上複数の役に使い回され笑も取っていたが、作者は人類の未来に待ち受ける進化(あるいは退化)という視点を一本貫く事で諸々をねじ伏せつつ最後まで書ききった、という印象だ。劇団化第一作目として実験的な公演になり得たと思うが、「次」へと渡すためのどういう中継点になるのか、は見えない。見えないながらも作者の筆の胆力に期待感を持たせるものはある。
物語なき、この世界。【7月31日(土)13:30、18:30、8月1日(日)13:30の回は公演中止】
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2021/07/11 (日) ~ 2021/08/03 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
歌舞伎町を思わせる街を舞台にした一夜の物語、という三浦大輔らしいフレームだが、食傷を起こす場面は一つもなかった。台詞を追えば、自分たちの現実と、自分たちが感動を求めて見るドラマとの「重ならなさ」がモチーフになっている。だが「これってドラマじゃね?」と期待させる展開が訪れる点では、以前の「裏切りの街」の無味乾燥なオチ「やりたいだけ」の方が殺伐としていた。
夜の街では「物語なき」人生の主人公らが行き交い、人生模様を垣間見せるが、主観的にはドラマ性を否定される現実の中でも、他者のドラマを見ていたりする。現実の中で、「ドラマのように」行きたいという願望に直面した時、例えば端的に男女の関係なら不成立か成立のいずれかとは言え大半が「ドラマ始動せず」で終る。それでも限界に見えるものを何らかの形で超越する瞬間が全くないかと言えばそうではなく、きっと何処かにある、という「可能性」をこの舞台は言葉では否定しながらも漂わせており、この程よさ加減が(三浦作品に通低する)心地よさに思える。元よりニヒリズムを声高に嘆く時代でもなく。
ドラマの主人公になり得ない己の現実、つまり「ドラマを見てそれに自分を重ねることで満足している」己自身を見よ、とは出てくる台詞の意訳だ。「何処にでもいる」冴えない(かどうかは問題にしてはいないが)男らだが、この言葉はさりげなく観客を刺した事だろう。東急bunkamuraで芝居を観る私たちは「映画館に向かう人波」の一粒に違いない。
峯田和伸の歌が舞台の中で浮いてなく、程よく「ドラマティック」に彩る。人間模様あるある集・・芝居ってそういうもの。
シビウ国際演劇祭2021 招聘作品『砂女』国内プレ公演
うずめ劇場
調布市せんがわ劇場(東京都)
2021/07/27 (火) ~ 2021/07/29 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
北九州市時代からの4名の団員と、主宰ゲスナー氏の「次が読めない」ユニークな演劇製作。20数年も続けばこの独自さも持ち味という事だろうか。うずめとしては「演劇」らしい舞台(会場がスズナリだし)の二本立て企画「砂女↔砂男」から、既に7年も経ったとは・・(時の速さよ)。この時自分は「砂男」(ホフマン作/天野天街演出)のみ観劇し、天街作品にハマりかけの私は大満足だったが、並んで評判だった「砂女」を今回観て衝撃を受けた。
驚くべき舞台だ。なぜ「砂の女」か?・・の問いを殆ど無化する(舞台が全てを語っている)。原作小説を遥か昔に読み(高校か大学か)、勅使河原監督の映画もたぶん同じころ見たが、芝居を観ながら小説を思い出した。「思い出した」と言っても大昔の記憶だが断片的に附合するものを感じた。そして、この作品に流れる人間存在の根拠の危うさ、定住や婚姻、家族、共同体、人生の目的や意義、といった概念の揺らぎを措定範囲にしながら具体的な一つ一つのエピソードを時系列に刻んで行く。実在するモノを数えた方が早そうな砂丘の村の簡素な生活のなかで男と女は具体的行動により場面を作る「演劇」を体現し、「砂の女」の世界が見事に結実していた。
29万の雫-ウイルスと闘う-
ワンツーワークス
赤坂RED/THEATER(東京都)
2021/07/15 (木) ~ 2021/07/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
10年前に起きた畜産界のウイルス・パンデミックを、コロナにぶつけてきたな。だが所詮別物だ...というのがチラシを見た正直な感想だったが・・。十年前宮崎県で感染爆発を起こした口蹄疫を見事に「現在劇」化させた。
ただしこのドキュメンタリーシアターには10年の来歴がある。2010年口蹄疫禍発生、大量の殺処分により数か月で終息。これの舞台化を劇団ゼロQ(宮崎)の岡田心平氏が企画、氏は2011年故人となるが、数十人から聞き取った証言を元にこふく劇場(宮崎)永山智行氏構成・演出で2012年初上演。その後2015年演出に黒木朋子(宮崎)を据えて再演の際、監修として古城氏関わる。昨年古城氏構成・演出による当地での上演を経てこのたびのワンツー・ドキュメンタリーシアター公演となった。証言の多様さ、生々しさは「当事者」による舞台化の賜物であり、劇の完成度は10年にわたる製作の成果である事は間違いない。
一地方の一時的な事象として、当時マスコミで伝えられていた記憶はあるが、そう言えば「○○地区全頭」「数万頭」といった殺処分される牛豚の多さに僅かながら違和感を覚えたのを思い出す。テレビ報道だけでは知る事のなかった背景と当事者の心情が目から鱗が落ちるように体に入って来た。
「証言」で構成される演劇が、ドラマティックに、しかし「事実」から離れずに成立するばかりでなく、現在の状況との間に一筋の(雑草に覆われて所々見えなくなってる)小道が伸びているのを感じる。「現在が語られている」事こそ演劇の醍醐味。しかと脳に刻んだ。
森 フォレ
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2021/07/06 (火) ~ 2021/07/24 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
世田パブのワジディ・ムワワッド作品シリーズ観劇は「岸」を飛ばして「炎」以来で7年ぶりとなった。途中、静岡で作者自身による一人舞台を観たが、彼がカリカリと書き刻んだ血と縁のフィクションの方が自演による舞台(渾身の舞台であったが)より作者自身の証言のように感じる。一見不要にみえるディテイルが書かれているせいだろうか。家族というものはどれ一つとして同じものはなく(むしろとてつもなく多様で)、その有機的絡まりを紐解くことなしに家族は描けないと信じているかのよう(我々は「家族」という社会的イメージに自分の家族を当てはめてそうと信じているだけなのかも)。あるいは、実際にあった特殊なケースに取材したものかも知れない・・ただし戯曲にみる作者の明確な作劇意図がその想像を打ち消す。三部作に通底する主題とは、単純化すれば命はどのように引き継がれてきたか(今存在する者はなぜ今ここに存在し得るのか)..。
上演時間を確認せず足を運んだ所が、2回休憩を挟んで3時間40分。それでも数代前までに遡る壮大な系譜辿りの物語を事細かに把握するのは難しい。しかし目が離せず、長いとは感じなかった。
「アンネ・フランク」なぜあなたが死んで、私たちが生き残ったの?
MyrtleArts
アトリエ第Q藝術(東京都)
2021/07/07 (水) ~ 2021/07/11 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
かつての新宿梁山泊女優(現役含む)が集う同窓会公演、どんな趣向が...と想像を膨らませていたが予想を上回り、物語の深みに誘われる舞台であった。「アンネ・フランク」という、演劇界でも古典に属する作品を読んでも観てもいないが、そのためか新鮮に物語(実話であるが)を味わった。当時目にしていたはずの梶村女史は面影も覚えてもおらず、ただ太い声に舞台上の風格あり、数年前10年越しで目にした近藤女史も今作では往年の少年役を彷彿させる少女役、言わずと知れた三浦氏は見た目変わらぬ演技でもこの三人では息ピッタリで馴染んでいる。懐かしさと共に、紐帯の力を見た思いである。