tottoryの観てきた!クチコミ一覧

461-480件 / 1881件中
気づかいルーシー【8月3日~14日公演中止】

気づかいルーシー【8月3日~14日公演中止】

東京芸術劇場

パルテノン多摩・大ホール(東京都)

2022/09/10 (土) ~ 2022/09/10 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

初めてのパルテノン多摩訪問で、再々演にして漸く初お目見えの「ルーシー」を観劇(ちょっといい旅気分)。松尾スズキ原作、ノゾエ征爾脚色演出。ノゾエ氏は松尾氏と浅からぬ縁らしいが、舞台人の中では芝居で「うんこ」と言える人種、で括るも可だろうか。
都心でやるより子ども率(親子率)高めと見受け、地方公演の風景だなとワクワク。明らかに子どもに向かって前説するノゾエ氏が子どもモードになっている。
後方席からは俳優の判別が困難だがノゾエ氏と川上友里氏は声で判る。最初コロスのように立ち回る三人の内、舞踊的な動きは女性が引っ張っており、振付の人?等と一瞬思ったが川上氏であった。身体の切れもあるのだなと改めて。
終演後の「答え合わせ」では、おじいさん役に小野寺修二氏、馬役に大鶴佐助、王子役に栗原類、ルーシー役は岸井ゆきの、結構美味しい座組であった(調べりゃわかるつうの)。
「気づかい」がキーにはなっているが、話そのものは物質的にグロい。(登場人物の皮を剥ぐ、糞をポロポロと出す、馬の前と後ろで人格(馬格)が分かれる、等。)
ただ、話が大団円へと向かうあたりでナレーターの馬が、「気づかい」を奨励するような事を言う。シュールな話に真っ当らしいオチを付けなくても・・とは正直な思いであったが、私は子どもがどう受け取ったのかと、それを思いながら観ていた。「言っちゃいけないこと/やっちゃいけないこと」に次第に包囲されて行く社会(その最大の被害者は子ども)の中で、「何でも言っちゃっていいノダ」の世界に触れているかな??と。

評決 The Verdict

評決 The Verdict

劇団昴

俳優座劇場(東京都)

2022/08/31 (水) ~ 2022/09/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

キンダースペース原田一樹氏の演出舞台はどうやら初めて。映画の印象が強いこの作品であったが、ほぼ映画と同じ流れを辿り(時系列に沿って進む完成されたサスペンスに手を加えるのは容易でなさそう)、イメージが固着した物語のディテールを新たに味わい直す楽しみがあった。
作品と演出とを総合して(どちらの比重が大きいかは判別できない)、物語のもつラディカルさが堅実な作りによって観客の前に差し出された、という手触りがあった。余計な細工をしない演出で若干淋しかったのは、裁判を決定づけた最後の証人と被告側(要は悪者=医療ミスを隠蔽した)弁護人とのやり取りが、映画ではカット、ズームアップによりドラマティックに編集されていたが、同じやり取りが舞台だと平面的になるため、スポットで強調、受け芝居の側が判りやすく動揺してみせる、などを観客なりに考えるがそれは無く、医療事故当時、問診票の改竄を執刀医に頼まれて従い、看護師を止めざるを得なかった無念を吐き出した劇的な証言も、淡々と処理される。ただ、明らかに偏った裁判指揮、証拠の不採用といった処理にも関わらず陪審員が要求額以上の賠償額を添えた有罪判決を静かに読み上げる神聖なクライマックスは、その前段の演出如何に関わらず訪れるのであるが。

真実とそれに拠って立つ公正さを希求する精神が、なぜ「ラディカル」と呼ばれるかは、それを許さない厳しい現実がある、という単純な事実を記すのみである。私達の目の前に恰好のサンプルがあり、かつて相対的穏やかな時代には(この映画も)ドラマの中の話であったもの。それがリアルに切実に臨場感をもって感じられるというのは、演劇界的には有難い事なのか・・。

老獣のおたけび

老獣のおたけび

くちびるの会

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/09/03 (土) ~ 2022/09/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

昔雑遊あたりで観た切り、と思っていたら割と最近吉祥寺でも観ていたくちびるの会。どちらも中々イケる舞台だった感触のみ記憶に残ってい、期待値やや高で観劇。

役者力に頼んだ芝居、とは言え、不条理な設定がじわじわと効力を発し、花開いたと感じた。日本の不条理演劇の開祖別役実の作品に肖った訳ではなかろうが、、チョイスは正解。子供に好かれるキャラ、しかし害獣、の二面を備えた存在に頼んだ芝居、とも言えるか。
終始目に映っていたのは認知症老人という「困った存在」で、そのデフォルメされた表現としてのそれ。「困り」つつも理解に努め、「共生」を模索している所へ排除主義が介入してくる。安全を掲げ、遵法精神を発揮して(法の奴隷)、正義面して人の弱みを突く(コロナが増産した、否見える化した)何とか警察的な人間共を自分はつい重ねて見ていた。
ひいては、そうした大衆の反知性化を歓迎し「何もしない」政治で「やってる感」の演出だけに勤しむ、我が国の統治者たちに身を預けておる現状へのやるせなさも。(まァこれは個人的な、投影ではあるが..。)

父権的で一方的に価値観を押し付ける父、であれば結婚は双方の合意のみで成り立つ、父無視で良いではないか。実家を出て10年間近寄ってもいないのだし・・とはならない所は、現今の何でもありな風潮にはそぐわぬが、慣習は内律的なもの。どこか韓国ドラマを思い出させる(かの国では家父長制が強いがこの理不尽な代物と「付き合う」事を良しとしている所がある・・映画等の印象だが)。
役者力に頼んだ、と書いたが、とりわけN氏の設定を体になじませ「認知の揺らぎ」を無言で見せる演技に感服な一時間半であった。

ネタバレBOX

今回も出演陣はノーチェック。登場のつど嬉しい瞬間が訪れた。開幕ノートPCに向かう主人公らしい青年(明利)。と、そのパートナーらしい女性(千春)。おや橘花梨(見てすぐ判らず声で認識。そう言えばくちびるの会常連であった)。深夜連ドラの脚本の締切が迫る中、恋人はいつ父親に自分の事を話してくれるのかと彼に言い募る。と、兄からの電話で一人暮らしの父の変調が知らされる。「私も行こうか」と彼女。断る青年。彼の側にも理由があり、父は父権的な男で今の自分の状況では結婚を納得させられないと踏んでいる。相思相愛ではある。
所変って実家の居間。あれ中村まこと?そうだっけ(そんな大事なキャスティング見落としたのけ)。象になった、というのは後の台詞と衣裳とを重ねて徐々に理解される。中村氏の痒い所に手が届く気持ちの良い演技(=声の威力はデカい)を味わう。兄登場。木村圭介、間違いなくどこかで見ており、後で調べるとゴジゲンのアゴラ公演、そうあのへんな気がした。が他にも前回のくちびるの会、劇団献身でも二度、少なくとも4回見てるとは...(脳の老化)。
「象になっている」の演劇的表現は、「長い鼻」のついた衣裳の他、上半身の仕草、歩き方で。父権的な態度が一発で知れる。「ああこの父なら逡巡するな」と即座に思わせる。
ピシッとスーツを着込んだ兄(雅史)は、父(徹)の「稼げる職につけ」に従い銀行員になっている。それが嫌で弟・明利は家を出た。実家に近い兄と違い、久々に帰郷した明利には、近所の者も冷たい。父の土地を耕作地に借りている隣の農家の父(大村)と、息子(タカシ)。父が小うるさく、自治会だ何だと顔を出しているが、打算的な裏面が次第に露呈。息子はマイペースで叱られキャラだが、徹とは馬が合う。「象」になった徹にも気づかない(気づいても気にしない=徹と認識しているので)。この息子タカシ役は名に覚えのある藤家矢麻刀(青年団系のユニット、ジエン社、東京夜光で実は見ていた)。不知は大村役の堀晃大のみであった。
残る主役・明利役の薄平広樹は、鮮明な記憶はなかったが、調べれば新国立研修所出身、しかも花の第8期生(私が勝手に親しみを抱いてる)であった。荒巻まりの、滝沢花野、西岡未央、坂川慶成の居た期のメンバーであり、卒公の「親の顔」にも出ていたのだ、と個人的に大いに懐かしむ。若い作家志望の等身大、と思える姿を演じていた。
絵に描いたよなハッピーエンドに、なぜかやられてしまった。
カレーと村民

カレーと村民

ニットキャップシアター

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/08/26 (金) ~ 2022/08/29 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

だいぶ前に一度だけ観た関西の劇団。その時の印象とは随分違う。先日のトリコ・Aに続き、作り込んだリアル美術の前で、こちらは時代物。日露戦争後の世相を描く。とある町の名主の屋敷の土間(町の人らも出入りするセミパブリック空間)にお出ますは、洋行帰りの次男、その許嫁、家督を継いだ長男と嫁(ごりょんさん)、老母。ご近所からは戦地還りの兄とその妹、息子を失った母、息子が復員する事になった夫婦。屋敷には出戻りの手伝い(孫を失った)、そして新しい女中。
(日清戦争と違って)戦死者も多かった日露戦争を終えた年。戦後賠償の額に庶民は注目している。「死に甲斐」を戦後賠償の額でせめて納得しようとした遺族が「賠償金ゼロ」の報に落胆し、やがて妥結した政府に対し撤回を求めて人々が立ち上がるという、史実の断片が切り取られている。提灯行列まで起こった「戦勝」だが、実際には人海戦術のロシア軍との際限ない営みにとりあえずピリオドを打ったに過ぎず、賠償を引き出せる内容でもなく、サハリン南部を取っただけでも御の字であったと、今は知られているが、考えてみれば戦争という賭け事の結果に相場など無いものを何がそうさせたのか。10年前の日清戦争で予期せず高額な賠償金を得たことにより「列強並み」へと持ち上げられた庶民の自意識の為せる業か。
資本主義化の進行と共に、「お金」「領土」獲得ゲームに熱狂する俗物性が露骨になって行く分岐点はこの日露戦争であったと言われる。西欧コンプレックスから明治維新の混乱を経て、国民国家経営の仕組みを整えて行く内部の努力が、対外的に通用したのが日清・日露の戦勝であり、二度目の「成功」はその規模から10倍の賠償金を取りざたさせたが、それが不本意な結果に終わったのだった。

作者はこの史実であまり語られない国民の犠牲(戦死)に焦点を当てたが、芝居の核は反戦にはない。ロシアによる「戦争」を扱う芝居の上演となったが、昨年中止された公演だからウクライナ侵攻を受けて書かれたものではない(改稿してれば別だが)。
作者は特徴的な人物として、知識があり進歩的だが芯の無い次男という存在を置いている。維新以来、付け焼き刃の文明化を走り来った日本の「知」の脆弱さの象徴と見え、その一方情緒的で打算的な庶民はそうとは知らずに歴史を前へと押し進める。

コーリングユー

コーリングユー

快快

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2022/08/26 (金) ~ 2022/09/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

快快を一言で言えば「全く読めない」、製作と思考のプロセスが「想像がつかない」。こりっち的には第2回アワード第一位を岩井秀人作品をアレンジした舞台で受賞とのこと。
自分の初見は2018年アゴラにて、メンバー3名による奇妙なパフォーマンスにはトークゲストの岩井氏が「あれ何?」とガチ突っ込みして笑いが起きていた。その後KAATで多田淳之介の「再生」を岩井演出バージョンで上演、後藤剛範や元メンバー中林舞も加わり、私的には「再生」初体験で衝撃であったが、快快の正体は依然不明。
身体表現に傾倒したグループではあり、集団制作を行なう集団のようで一つのポリシー、才能がリードする製作でないため、構成メンバーによって変容すると思われる。今回の作品も海のものとも山のものとも、であったが、詩人・鈴木史郎康を扱うというので鋭い方向性はありそうと踏み、足を運んだ。
多彩な局面が飛び出てくる。休憩を舞台上で行なうが、客の姿は見えない体でやるので成立している。アゴラで観た時と同じ3名プラス上手側でキーボードと機材で音を出し続けている女子の4名で作る舞台はまるで子供の遊び時間のよう(即ち永遠)であるが、詩人から作り手が受けたもの、授かった何ものかをじんわりと伝えて来る。それは「現代」が、あるいは現代を生きる自分が、時間と共に失って行くもの、あるいは負わせられて行くものからの「解放」を示唆する。史郎康の言葉を言う天の声(雑音混じりのラジオから聞こえる女性の声)が、宇宙との交信のよう。・・人は人生を線で捉えるが、過去は一切なく、未来もなく、現在という点だけ。
延々と続く時間を象徴する舞台上の大きな三角形の上で、演者は移動したり止まって何かをやったりする。時にそこを下りて歩いたり、三角形の中にある水場(浮き輪が浮いている)や、電話ボックス。演者の衣裳も含め風景としてはリゾート地。電話ボックスの使い方が面白い。開幕してのっけに誰か(多分史郎康)に電話をかけ、今から舞台やるんだけど大体○○分位、受話器置いとくから聴いてて、途中眠くなったら寝てもいいし・・半前説的な台詞で始まる。で、電話ボックスだが、途中何度か演者が置かれた受話器を手にとって電話の向こうに話しかけるのだが、相手が実は認知症かのような仄かしがチラと過る。この仕込みによって、聴く者は、折節に読まれる言葉が「詩人の言葉」とも「痴呆老人の言葉」とも解し得ることとなる。すなわち、一詩人という存在を超えて行く。聖書にある預言者(神の言の媒介者)は詩人と同義と言われるが、権威が認める者だけが詩人であるとは限らない。
さり気ない工夫の数々、ディテイルに知とユーモアが潜み、相変わらず快快という集団の正体は判らぬが遊び時間を存分に堪能した。ラッキー。

コスモス/KOSMOS

コスモス/KOSMOS

サイマル演劇団+コニエレニ

シアター・バビロンの流れのほとりにて(東京都)

2022/08/25 (木) ~ 2022/08/28 (日)公演終了

実演鑑賞

「狂人と尼僧」が秀逸だった同ユニットの今作は、テキストの解読が難しかった。(と言っても毎度難しいのであるが、、)
時計の秒針を鳴らしながらの上演という(お馴染みの)演出が、観る自分の胆力もあって催眠効果になったか・・。テキストを読んで観劇に臨むか、パンフに梗概が載っているとか、必要ではないのだろうか。
抽象性の高い舞台は観慣れてはいなくとも面白がれる自負だけはあったが、今回は自分はあと何がほしかったか、抽象舞台の成立の要素は何か、つらつら考える事になった。発語者の感情表現、的確な物言い、そこではないか。
テキストはこうした作品(サイマル演劇団の得意とする)の例に漏れず、モノローグが主であり、出演者同士の(役人物の)関係性を知らせる台詞情報は薄く、冒頭近くに最小限の説明が為された感はあるが、それで事足りるはずはなく、ドラマの発展の中で通常はそれらが明瞭に浮かび上がるものであるが、その説明には殆ど字を割いておらず、人物個々にしゃべらせたい事をひたすら喋らせているといったような・・。常連の葉月結子の突出感(おどろおどろしさ)は、ヒントの少ない舞台にあっては有難く、それは意味的な情報をもたらすというよりも、心情表現自体がもたらす快楽である。言語を嚙み砕き征服し、己のものとして吐き出す事が出来ているから、だと思う。台詞を追いかけている演技の段階(モノローグではそれが許されそうだが)では、あの声は出せない。役者的にはその声は役の中心からしか発せられない、という事であるならば、役をどう捉えるかも大きな課題で、テキストを提示する、という役割だけでは舞台として自立しないのだろう。役者の役割は大きい。「人のせい」にする訳ではないが、役の「心」が見える演者が一人増えれば、もっと立体的に見えたのかも・・等と想像を逞しくする。
舞台のビジュアルはよく、演出の手の内に自分がある感じがするし、言葉を発する役者の力量は否定しないのだが・・。

毛皮のヴィーナス

毛皮のヴィーナス

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2022/08/20 (土) ~ 2022/09/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

二人芝居。内容にも拠るが全編ダイアローグで成立する二人芝居を泳ぎ切るだけでアスリートに送る声援と同じ種類の拍手を送りたくなる。一人芝居にも感服するが、二人の方が不確定要素が混じり(いや厳密には一人芝居もそうなのかも知れぬが)、正しくライブ。取り組み甲斐のある題材を剛腕という印象の溝端淳平、ミューズの高岡早紀がポテンシャルぎりぎりを出し切る激しさで好演。戯曲はマゾッホ作品を脚本化した青年が(他に演出できる者がいないという理由で)演出をするオーディションに、遅れて入ってきた女優とのやり取りである。
劇中の戯曲の場面を演じる役者としての二人、素に戻ったときの二人、を行き来するが、「役を変わって」と言われて逆の役をやる場面もあって、人格としては一つなのだが、憑依する演技によって、素の自分(たち)にその影響を及ぼし、二人の関係性をも侵食して行く事で「今誰なのか」が必ずしも判別できなくなる様相。他者を演じることはそこに自分を見出す事でもあるが、この戯曲は眠れるマゾッホ性を見出していく二人という「変化」により、この戯曲総体としてマゾッホ文学=常識の解体(の危険性?)が図られている。ある性嗜好の発見・理解から人間の本質に迫るアプローチと言えるか。対等でなく主従の関係を求め、服従する事に快感を覚える背徳性(「服従するに値する」相手が現われなければ実現しないが)は、人権思想の否定に繋がりそうなタブーな世界観だが、どの時代にもタブー領域は先見性とも言える。(これと似た物として思い出すのは、「人間とは忘却によって辛うじて救われている」、と述べた思想家が居たが、これは「歴史を忘れてはならない」という正論に土砂を掛ける手強い論理である。)
この視点に即して、今舞台では戯曲が何を狙ったのか、というあたりが必ずしも見えて来なかったが、スリリングで楽しく、演技としては指定されている動き(例えば帰ろうとして帰らずに戻る等)を十二分に正当化し、臨場感ある流れを作る様は見ていて気持ちよく、ノリで行くタイプが高岡、計算しているのが溝端、という印象ではあった。
「貴婦人の来訪」で実力を見た五戸演出の、こちらも成功作となった。

銀河鉄道の夜

銀河鉄道の夜

東京演劇アンサンブル

池袋西口公園野外劇場 グローバルリング シアター(東京都)

2022/08/26 (金) ~ 2022/08/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

池袋西口広場、以前はどんな場所だったっけ・・・変ってしまうと中々思い出せないが、かつてここは秋季開催の演劇祭FTトーキョーの会場になる事もあり、忘れもせぬインドネシアのグループが竹で組んだ巨大な「船」で行なった無言のパフォーマンス、その後、広場の奥側に作られた恒常的なステージ(今もある)に組んだ客席から、広場を縁の方まで広く使った豪州だったかの障害者と作るグループ(昼日中飄々としたパフォーマンスが微笑ましかった)、そして今年何年目かの「東京演劇祭」の初年、野外劇「三文オペラ」等等。
野外劇と言えば「夏」、のセオリーに則り、今回は東京演劇アンサンブルの往年のレパートリーが装い新たに出現した。
広場奥の常設ステージには盆に乗った岩場(客が乗る=銀河鉄道を表す)から、後部座席辺の円形の台まで一直線に道が延びる(高さは70cm位か)。広い空の下、会場自体が物語のスケール感に相応しい「装置」となっている。ジョバンニは学校からの帰り道、草の上に寝ていていつしか「銀河鉄道」に乗っている。ジョバンニの日常のこと、すなわち、カムパネルラやザネリ、父のこと、牛乳を取りに行く事などは道中、あるいはラスト、最小限の台詞で説明される。物語の大部分はカムパネルラと銀河の旅程で見る様々な不思議な場面だ。
「歴史の歴史を掘る」博士、鳥を採って押し葉にする鳥獲り、人間界からやって来た船舶事故で溺れた姉弟とその家庭教師のお話、赤く燃えるサソリの話・・。新演出としてはサソリが炎のように踊る踊りは以前見たのと振りが変わっていて、見ると振付に三東瑠璃の名前。そして出色は、スペーシックなイメージの映像が新たに加わって場面転換で流れる。これが何とnibrollの高橋氏によるもの。
一度は長い上演期間を経て終了したアンサンブルの「銀河」、今回はこの会場仕様の誂えという事かも知れないが、一度も洗った事のない寸胴に入ったソースが、新しい素材を加える事で常に新鮮に(作品の本質を変えず)蘇ることを改めて発見できた。

加担者

加担者

オフィスコットーネ

駅前劇場(東京都)

2022/08/26 (金) ~ 2022/09/05 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

昨年の「物理学者たち」で知った20世紀の劇作家ディレンマットの名を目にする機会が、今年6月新国立「貴婦人の来訪」、そして今作と(なぜか?)続く。
挑発的な、濃い戯曲で、科学者の倫理を問う今作と「物理学者たち」は共に寓意性が高いが、今作がよりグロテスクである。というのは、既に死んだ者が平然と’(時系列を無視して?)登場したりする事以外は「リアル」の範疇で、描き出されるのは(「物理学者たち」が不条理劇に近いのに対し)人間同士が日常の延長で関わる風景であったりする。
舞台となる「地下」の用途目的、状況(死体溶解装置が置かれている)自体が異常であり、(装置を作った)元科学者が日常を送る場であるという設定は、異常を意識する時間と、無意識化される時間とを作り出す。
現代の「異常さに慣れ切った」側面が凝縮されたとも言える場に高給と住処を宛がわれた彼は、最も観る者が感情移入する登場人物ではあるが、それが観る者の正常感覚を揺さぶる。
ドイツ語圏スイスのこの作家は上記「物理学者たち」で名声を手にし、本作の「大失敗」(Wikiより)で戯曲に手を出さなくなったとか。元々小説家、エッセイ作家でもある彼の戯曲は数は少ないがどれも20世紀的問題臭を強烈に放つ。ただ今作「加担者」は世紀を跨いで跋扈する「神から最も遠い」呪われた何かの影を突き出してくる。
話の展開は神経を石臼で挽くようだがどこか甘味で、人間(自分)への深い疑いと絶望を抱いたときに却って人間(自分)を愛おしくなるあの瞬間の記憶が掠める。

ネタバレBOX

メメントCの前回公演「わたしの心にそっとふれて」は認知症医療の実践家であった医師が自らの認知症に直面して苦悩し、家族との繋がりの中に辛うじて居場所を見出す物語であった。この中心人物を圧倒的な存在感で演じた外山誠二(後で思い出した)が、本舞台で「悪」の元締め役を演じたのだが・・。
自分が観た回では台詞が心許なく、そのせいかどうか、このボス役本来のありようとの距離を感じながら見ていた。
本作は、科学と倫理の根幹があやふやで正邪との境界すら霞んだ現代の、本来なら不安に満ちた状況とは裏腹に、物質的充足で日常の「生」が成立してしまう有りようを残酷な皮肉で抉り出す。
主人公である元研究者に死体溶解の仕事をオファーするボスは、倫理不在の象徴的存在であるが、この人物にもっと肉薄した「見え方」があったとすれば・・と考える。悪に染まる者の精神構造の「見えなさ」に当て嵌まるキャラクターを思い浮かべるのには、映画が手っ取り早く、「タクシードライバー」の主人公や「ゴッドファーザー」の人物たち(無論中心はマーロンブランド演ずるドン)、「ノーカントリー」の殺人鬼あたりに考察の手掛りも。。当人は優れて論理に従って「正しく」生きている、矛盾なく成立している姿。だから怖い。芝居の中で主人公はそれこそ平然と死体を処理し続ける身分となっているが、収入によって地位が決まるアメリカ社会で「教授」職でなくとも自分の科学的知見の活用により「金」を生んでいる状況に彼は満足する(しようとして成功している・・何しろ評価の証である収入が保障されている)。だが最後にその無防備さゆえにしっぺ返しを食う。
再度映画に戻れば、コーエン兄弟の「ミラーズ・クロッシング」では主人公のボス(アイルランド系)の対抗勢力であるイタリア人マフィアのボスが、自らの行動を律する論理(哲学)を折節に口にするのだが、この描写は中々実態に迫っているのではないか。悪は正当化し続けなければならない。舞台の方のボスもやたらと喋る。己の思考を全て辿り切らなければ済まないかのように。
T Crossroad 短編戯曲祭<花鳥風月>夏

T Crossroad 短編戯曲祭<花鳥風月>夏

ティーファクトリー

雑遊(東京都)

2022/08/23 (火) ~ 2022/08/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

昨年初頭吉祥寺シアターで大々的に開催されていた短編戯曲祭は1プログラムだけ覗く事ができたが、多彩な戯曲と舞台はしっかりと作られており、コロナの1年を経て生み出した凝縮した何かに思えた(劇場の空気感も暗鬱な世情を投影して今と少し違ったのだろう)。さて、TFactoryのホームの感のある雑遊(ただし昔の地下劇場とは別物になってしまった)に場所を移し、春に1つ、今回の夏に1つ、足を運んたが、随分簡素になった。劇場の方は素舞台の黒い床に蓄光テープが貼られた粗末さは、以前せんがわ劇場で観た「厳しい」舞台が思い出された。照明でフォローできないのか、とか考えてしまった。中身が厳しいと舞台もみすぼらしく見えるのか、それとも使い方の問題か・・等。
戯曲が「悪い」とは言わないが、春はまだ川村氏の戯曲の一部粗読みを混ぜて3作あって1時間少々、しかし今回は20分程の抽象的な言葉が並んだ戯曲が2本、終演して時計を見たら45分だった。芝居は「長さ」ではないが一般論としては短ければ短いなりの内容だ。20分やそこらで言いたい事が「言い切れる」訳はなく。ダイアローグと違いモノローグは一人称で完結できる。近しい主体が対立でなく同意しつつ言葉を紡ぐのも同様。演劇では言葉の行方も観たいが人物の「反応」も見たい。私が観た回がそうだったのかも知れぬが、自分には物足りなかった。
若手劇作家志望を励ますスタンスででも見れば良いのか、どうなのか・・この短編集の位置づけが実はよく判っていなかった。コロナ禍下での演劇人の内的叫びを開陳するTFactory広場、な風に勝手に理解していたが、企画としても作品自体もヒントが少なすぎる。

春琴SHOW!!【公演期間変更】

春琴SHOW!!【公演期間変更】

劇団ドガドガプラス

浅草東洋館(浅草フランス座演芸場)(東京都)

2022/08/19 (金) ~ 2022/08/25 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

ドガドガ復活祭2本目も拝見。3時間近い舞台も飽きさせず台詞の調子も良く望月六郎の筆ぢからにはいつもながら感服する。音楽、歌もじつは本域で作られ場面に相応しい。
明治大正の文学を軸に荒唐無稽も交えて時代を描き、現代を透視する望月節が好むのは闇世界、演じ甲斐ある各種アウトロー、各種裏世界の女たちは日本映画全盛時代の活劇が常套とした世界で通じるものがある。
今作は女性が多数出演。タイトルロールの春琴、狂言回し=タイムボカンのドロンジョ(ボヤッキーとトンヅラを従える)、あともう一人をドガドガ三人娘(トップ3)が飾るが、この図が映えるのは他の出来る(跳べる)役者、歌える役者、踊れる役者、キャラで押せる役者等、適材適所により舞台総体で群像を描けているからで、そのあたりの塩梅もよくしたものだが一人一人が弾け切っておる。限りなく演劇に近いレビューとも言えるが、荒唐無稽で色物でB級に括ってしまえそうだがB級を侮る勿れと一言も添えたくなる。

そう言えばコロナ前はこの公演におっさんらが結構席を埋めていたが・・(かつてなら場末の映画館に出入りしていただろうような・・。)

今は昔、栄養映画館

今は昔、栄養映画館

みやのりのかい

OFF OFFシアター(東京都)

2022/08/12 (金) ~ 2022/08/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

知った名は小宮氏。「楽園」での一人芝居が強烈であったので氏の関わる公演は観たいという気持ちはある。んな事でシリアスと真逆らしい二人芝居に出掛けた。栄耀栄華もとい栄養映画の館にて、懐かしの映画の話題も織り込みつつ、来ない客を待つ二人の待ち時間を引き延ばしに延ばす劇。映画を撮った監督がスピーチの練習をしている所から始まるが、疎ましい助監督に無理難題を言ったりと撮影風景が忍ばれる二人のやり取り。その映画がこのたび賞を獲り、何やら所縁の映画館らしいその場所で祝賀会がある、という事なのだが、一つには「賞を獲る監督に見えない」。だからいつ「なーんちゃって」の種明かしがあるかと構えてしまう(もっとも冒頭から会話のテンポとパワーでそこは気にしなくなるのではあるが)。もう一つには「客が訪れる気がしない」。不ぞろいの椅子が数客だったり、祝賀会そのものが二人の妄想(又は一人の妄想にもう一人がつき合っている)と見えてしまい、その種明かしもいつ為されるのか、という目と耳になってしまう。とは言え「ローゼンクランツと・・」や「モジョミキ」のようにシャチこばらず見られる二人芝居、「ゴドー」に思い切り寄せても良し、ブラッシュアップするなり新ネタ開拓するでも、再び見える日が来ると素朴に嬉しい。

へそで、嗅ぐ

へそで、嗅ぐ

トリコ・A

こまばアゴラ劇場(東京都)

2022/08/20 (土) ~ 2022/08/23 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

主宰山口茜によるもう一つのユニット、サファリ・Pよりはストレートプレイ寄りの作品を出している事は数年前の下北沢公演で承知であったが、今作はうんとそちら寄りに振り切り、「静かな演劇」そのもの。アゴラ劇場を覗くと日本家屋の裏庭の縁側と柱、少し奥の障子戸、下手寄りに湾曲した松、といった具合にリアルな美術(実はお寺の裏庭)で、芝居は時系列に沿って進んで行く。ただし青年団界隈の「余白」の多い作風よりも強い何かがある。家族及び近隣(お寺だけに)で形成された小さな円環の中にはどことなく問題が横たわるが、やがてそのありかが明確になる。このドラマは解決困難で虚しい現実を前に頽れる人間の「涙」を描く代わりに、さり気なく、力みなく、だが決然と、人物各々の「最もそぐわしい」行き方の結果として、問題を乗り越える姿を描く。
急遽登板となった山口女史の役は中々要な役で、書いた当人ゆえだろう細部にわたり的確であったが、他の人物も独特な「らしさ」を醸して頗る快かった。

魔と怨の伝説

魔と怨の伝説

劇団1980

シアターX(東京都)

2022/08/17 (水) ~ 2022/08/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

そうだ藤田傳・・・今回のは初見だがずっと前に1、2作お目にかかった事がありこういうタッチだった。戯曲としての完成度はぶっちゃけた話、高くない。というか戯曲という形を取った詩と言った方が良い。人物は役を与えられているが多くの場合コロス的に立ち回る。そう見えるのは台詞総体が一つの詩でありモノローグであるからだ、と思う。
だがそれは芝居を観終えて、咀嚼しようと思いを巡らして思い当たる事で。。役者は十分に魅力的に演じ、切り取った場面の視覚的・聴覚的な「完成度」は高く「ドラマ」の展開への期待は高まる。が、ドラマとしての完結は見ない。
この作家の筆致は歴史的な事件・事象を舐め、思わせぶりな台詞をフックに観客に岩山を登らせ、作者の世界観、眼差しを共有させるのだが、事件や事象を一望できる山頂には着かない。これは「歴史」に依拠した作風のためだ、と理解する。
歴史という下地のあるカンバスに、上塗りしていく手法が、つまり下地とのコラボがうまく結実すれば作品としての美を放つが、今作は下地が何であるかは不明。戦後日本の事件に横たわる病理を取り上げた(又は具体的な事件を念頭にした)感触は残すのであるが(永山則夫が浮かぶ)、作者としてはそれが下地となり得ると想定したのだろう。最初に示されるフィクションとしての「事件」は、観客の関心をその先へと引っ張るが、事件の犯人(主人公とも言える)がそうする必然性に辿り着いた実感がない(あるいは描き切れてない)。
事件そしてその謎解きという典型的なミステリーの形を持つ今作のラスト、個別具体の事件の種明かしが訪れる事はない。社会背景、生育過程の風景から、事件の原因を推定せよ、で一個の人生を描いたと言えるだろうか。
書かれた時期には作品の背景として想像し得たものがあった、のかも知れないが。。

ポンペイ

ポンペイ

さんらん

上野ストアハウス(東京都)

2022/08/17 (水) ~ 2022/08/22 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

今回はがっつり長編のさんらん。歴史的な大災害に見舞われた町を「災いを予見できた」想定でドラマ化。
大規模な厄災(の可能性)に直面した人間と社会の普遍的な問題が浮かび上がる。

ヘンシン

ヘンシン

イデビアン・クルー

座・高円寺1(東京都)

2022/08/18 (木) ~ 2022/08/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

久々二度目のイデビアン。格好いいの一言。完璧なスタッフワーク。
前回はどこで観たのだったか・・舞台としてはとある旅館の風景という事で幾分言語化しやすい(紹介しやすい)世界だったが、今作は背後に横長にパネル(壁)が三枚わたされ上手下手に出入口が開いてる恰好。他は衣裳に特徴がある(途中で見事に変身する)のみで間断なく続く「舞踊」は日常動作のコミュニケーションから抽象的な群舞まで、「ニュアンス」が高解像度で眼前に迫る。ナチュラル演技の対極、研ぎ澄ました動きでナチュラルのイデアを造形する。修練の賜物だ。

観るお化け屋敷「カーテン」

観るお化け屋敷「カーテン」

下北沢企画

ザ・スズナリ(東京都)

2022/08/18 (木) ~ 2022/08/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

チラシを見た時は判然とせず打っちゃっていたが、芝居の上演と知って空いた時間に足を運んだ(上演時間1時間という事で幸い予定が組めた)。
お化け屋敷のエッセンスを演劇的表現とする構築力、「恐怖の物語」を舞台上に具現した技術にまず感心。「怖いもの見たさ」をくすぐるイベントを昔アパートであったスズナリという場所に因んで行う趣向が無駄なく形になっており、楽しんだ。演者も良い。

ひとつオノレのツルハシで

ひとつオノレのツルハシで

MyrtleArts

ザムザ阿佐谷(東京都)

2022/08/18 (木) ~ 2022/08/22 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

主催はMyrtleArtsマートルアーツだが出演 3名と演目はドレンブルシアターそのもの。元新宿梁山泊の僚友3名による「アンネ・フランク」が昨夏漸く実現したMyrtleArtsは未だ正体知れずだが(それでも応援したくはなっている)、ドレンブルの近藤結宥花と土屋良太、川口龍3名の奇縁の方がマートルとの縁以上に謎で気になる。
ドレンブルの旗揚げは確か土屋氏の元パートナーが新人戯曲賞の審査で推していたくるみざわしんの最終候補作という事もあって想像を逞しくする羽目になったが、舞台は実直に(芝居は狂気混じりだったが)作られていた。同ユニットの活動が続いている事は素直に嬉しい。
さて作品。くるみざわしん氏である。小編を目にして(主に戯曲で)抱いていたイメージを良い意味で裏切り、躍動感ある戯曲。面白い。加えて今回の演出は鈴木裕美、実はそれ程その仕事を見ていないが、不可思議な現象を起こしたり、細やかな技術的なワークで架空の歴史上のドラマを象徴的で幻想的な場面を挿入したり、作品に適った演出と言えた。力の籠った三人芝居、芝居はある意味ギャンブルであるが今回は自分の幸運を噛みしめた。

鴨川ホルモー

鴨川ホルモー

アトリエ・ダンカン

吉祥寺シアター(東京都)

2009/05/15 (金) ~ 2009/06/07 (日)公演終了

実演鑑賞

ある俳優の出演履歴を眺めていて目に止まった「アトリエ・ダンカン」、最近全く耳にしなくなった名前が懐かしく、唯一観たダンカン・プロデュースのこの芝居の事を思い出した。(この時期はこりっちなど全然知らなかったな..。)

出演していた芦名星が亡くなった時期もつい調べたが・・もっと前かと思ったら三浦春馬の直後、コロナ期に自死した一人であった。
芝居の方は、映画が良かったので(脚本・演出が鄭義信という事もあって)当時の自分には高いチケット代を払って吉祥寺シアターで観た。
超常現象を扱うのに適した映画の方にはっきり軍配。この出来の「差」が、出演者の芸能人としての「売れ方」の差と重なって見え、同情と反発を感じてしまった舞台鑑賞でもあった。映像出演の機会が頭打ちなタレントが、舞台に流れるパターンであったとすれば、仕事に熱も入らぬだろうし観る者にとっても甚だ迷惑な話・・という反発と、見た目だけのタレントが売る芸もなく殻も破れず困惑する姿への同情。当時はそんな想像しかできない自分だった、て事かも知れぬなぁと思わないでもなかったが、しかし主演だった女優の死の報を(十余年を経て)耳にした瞬間、当時この舞台から思い描いた殺伐とした芸能界の風景が、蘇って来た。
この「痛かった」舞台の風景は、芸能界に足を突っ込んだ一人の人生の断面として焼き付いた。ドキュメントである。それほどに、彼女は役ではなく本人の気分を発散していたように映った(不満の原因を探った記憶ははっきりとある。ただ純粋に演技上の混迷であった可能性も今は考えなくはないが)。演技者としての現在地から「あんな時代もあった」と振り返る道もあったのに・・とは、他人の無責任な願望であって、事実を飲み込むしかない。

HEISENBERG【Aキャスト全公演中止】

HEISENBERG【Aキャスト全公演中止】

conSept

ザ・ポケット(東京都)

2022/07/29 (金) ~ 2022/08/14 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

オフブロードウェイでバズったという二人芝居をA・Bキャスト、演出も変えて上演というユニークな企画。Aチームがキャストの体調不良で公演中止と聞いて観劇候補に復活した(外した理由は2チーム観る予算は無く、一つに絞る事も出来ず)。
だが結局観劇には至らず、たまたま覗いたサイトに配信情報あり、運よく見る事ができた。(BONBONは物理的な距離と同時にアウェイ感があり二の脚を踏む。)
配信は2日間と短く、ワンチャンス集中して鑑賞する必要があったが方法を見つけた。配信鑑賞のネックは音声。これが悪いと二回以上視聴してどうにか舞台の視覚情報・聴覚情報を受け取れるという具合なのだが、スマホからイヤホンで聴くのが性能面では断然良く、優れている事に気づいた。無論映像の方は(暗い舞台でもあり)スマホは厳しく、PC画面で(無音で)視聴。乱れ易いPCのネット接続も結果的には無事故、台詞も明朗。上質な音で劇場にいる空気感も味わえた。
面白いのでついまた再生すると最後まで観入ってしまう(お替り2.5杯)。会話で進行する二人芝居だから台詞だけ聴いていても二人の距離感や息遣いが伝わって来て、心地よい。台詞の運び(戯曲)、間合い(演技)に加えて、演出上の主張は二つ。音響は5場の転換音が良い。電車音、都会の喧騒といった音を重ねた効果音だが、金属音の中に微かな通奏低音を響かせて、都市の冷厳さと包摂性を醸す。そして場転の間、二人は舞台奥の左右にある細い縦長のパネルの前に立って薄暗がりで着替える(それが姿見なのかどうかは客席からは見えないので不明だが二人はあたかも姿見であるようにしている)。この趣向が照明が美しく慎ましやかに彩る。

この戯曲は色んなパターンで舞台を描けそうだ。というより俳優の持ち味で二人の間に流れるリアリティは変わり、微妙なニュアンスの中に神は宿り、含意も変わるのが想像される。だが戯曲が役者に課する制約、即ち最低限形象されるべき人間性があり、それ抜きにこの話は成り立たない条件がある。で、それは何かと考える。
42歳のジョージーと75歳のアレックスの間で真摯なコミュニケーションが結果的に成り立ち、強い紐帯で結ばれる(かに見える)結末を迎えるためには、二人が会話の中で互いに対して十分警戒し、それぞれが持つ厳しい審査基準を潜り、ある信頼に辿り着かねばならない。その事に加えて(今は75と言えども気力体力現役の方も多い)物理的、生物的な次元で特に女の側に相手に惹かれる必然性が求められる。私の考えではこのアレックスという老人は世間的な価値基準で物事を見ない、肉屋らしからぬ(と言えば偏見になるが)インテリジェンスがある。つまり自分と頭と感性で物事を判断し、その態度によって自分も他者も、事象もありのままに見詰める眼差しを得る。女はかつての夫の面影をアレックスに見た、と言外に言っているがそれは後付けにせよある真実があり、彼女は自ら男に近づき突然首筋にキスをしたのだが男の側に彼女を引き寄せるものがあった、つまり受動的な能動性による行動。受動性、衝動性は説明がつかないが虚偽性と最も離れている。女は男の背中に理由の曖昧な妥協をしなかった人間の匂いを嗅ぎ取ったと仮定するも可能だ。女の虚偽性を男が一度疑う場面があるが、女が正直であろうとするあまり疑惑を否定した直後に疑惑を強める返答をする。ジョージーは饒舌だが自分が変人の部類であるとの(経験からの)自覚があらゆる予防線を貼る発話へ突き動かされる様相。つまりは自頭が良い。だが予防線を張ると言っても彼女から男に迫っている。結果的に二人の会話は知的レベルにおいて拮抗して戯曲のあるべき姿として理想的な展開となるが、惹かれ合うから拮抗が生じる。ただ、不安定さを病む女を男の安定(多くの場合それは甲斐性に裏打ちされる)が包み込み形で終わるが、息子を探す旅の費用が1年程度の財産しか男は持っていないとしたら、とも考える。
女の側の心底は分からぬ。が、戯曲は彼女が男の財力を当てにして安心に辿り着いたのではない事を実証するため、男がいつも側に居る事さえ信じられたら他には何もいらないと女に言わせる。
まとめれば、男の己を基準に生きて来た強さ(世間的な成功や名声と無縁でも)にしか、この女の傷を包み込む事はできない、という「そういう女」らしさの片鱗が、見えていなければならない。そして願わくは男は金を投げ捨てる事を厭わない男であり、女は金ではなくその人間性(が存在する事)によって救われその事に感謝する、という事でなければならず、その最大の返礼として女は男と「共に生きること」(書かれてはいないが男の死を看取ること)を選ぶ、そういうギブアンドテイクで対等であろうとするのでなければならない。

このページのQRコードです。

拡大