tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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ライダース・バラッド

ライダース・バラッド

円盤ライダー

πTOKYO(東京都)

2022/12/13 (火) ~ 2022/12/22 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

関戸氏と聴いても判らなかったが空宙空地(の主宰)で思い出したのがアゴラで観た多役を二人でこなす疾走ロードムービー。名古屋~関西が主な活動の場のようだが幅広く活動、短編集上演歴はコロナ前から。今回の円盤ライダーでは、常連男優(若くは劇団員)三名にゲスト女優をそれぞれ当てた二人芝居×三編であった。
軽めのジャブから入って二本目そして三つ目と、いつしか深みに引き込んでいる。時系列に進む台詞劇であるが、密度が高く、それぞれ展開の面白さ、台詞の含蓄を味わわせる。円盤ライダー特有の「男の集合体」の過熱ぶりは見られなかったが、逆に男の単体が「女」との対面によって皮を引きはがさ冷や水を浴びた姿もまた一興。

ネタバレBOX

初めて訪れた会場は赤坂REDシアターからほど近い溜池山王寄り、外堀通りとの間に一本通る裏通りに入った所で、物々しい漆黒の車体が宵闇の中にそこら中に浮かんで些かぎょっとする。顔の無いアンタッチャブルな領域が公然と辺りを陣取っているのでこれは政府系か反社系か、と興味の目を注ぐが、見極められぬ内にその界隈に構えた店を見つけ、足を踏み入れた(赤坂と来れば政界の方かやはり)。
店内はバーカウンターのあるスペースを背中に、ステージ側に向けてランダムっぽく配置した椅子とソファは多めにカウントしても20程度、椅子の前には安定した台を据えてドリンクが置ける仕様。隅の席に座った自分の前には縦置きした大型スピーカーが台代り。相変わらず「予め少人数キャパ」でやるこの劇団に普段抱いている疑問=採算は取れているのか=がもたげる。もっとも劇場を借りて行うのとは当然異なるだろうが。スカスカの客席がさほど淋しくないのは場末のジャズのライブくらいだろうか。胆が座ってなければ中々やれない。

さて芝居である。
三つの短編は短い暗転を挟んで上演され1時間15分程であったか。短編と言っても40分もあればガッツリな芝居にもなるがこちらは30分を切るショートショートと言える作品で、短い程難しいのはリアリティを確保しながら劇的瞬間を作り出す事。設定やテーマ性の「手」を借りて成立する物や、あるいは散文詩的な台詞で観客の想像にほぼ委ねた「ブンガク的」な代物と違い、時系列で進むリアルな人物二名による会話劇としては質が高い、と思った。

まず男三人がざっくばらんな会話=前説で場を和ませ、ふっと二人が客席側に去り、残った男が佇む間に客席の背後のカーテンが半分引かれるとそこから女性が声を発して登場。「走馬燈って・・」と謎をかけるような発語。
再会を懐かしむ間もなく男は女の注文に従い「死ぬ前に思い出す二人で暮らした頃のこと」を慌てて捻りだすが、どれもこれも食べ物のこだわりの事で言い合ったりとつまらない場面である(これを男女が芝居で再現する)。男は申し訳なさげであるが、「走馬燈」から想像された如く死別の話である事がやがて明らかになる。間もなく旅立つ女の方から男を訪ねた格好であるが、その事を知った男はどうにか女を納得させようと必死になるが、滑ってしまう。この場面で女は客席側に一歩出たあたりでトップからのサスで頬の輪郭だけが浮かぶ演出が何気に絶妙で、涙しながら笑っていると客に悟らせる。男も半泣きになる。
ここで戯曲にない(台詞の説明がない)穴が気になり出す。
二人は何かの事情で別れ、久々に再会した様子であるが、女はこの男の所に戻って来て、最後の一瞬の時間を共にしようとした。だからこそ何故別れたのか、男が女を捨てたのか・・等々が気になるのである。
観客は自分が考えられる美しい背景事情を想像しても良いのだが、やはり表現の中にそれは欲しいと思った。今回は作演出関戸氏、ではなくが演出は主宰の渡部氏でこの一作目の演者。演出自らが演じる芝居の「感じ」があったな、と思ったのにはそのへんの理由かと。
ストーリーの面白さに加えて、裏筋というか奥行というか、俳優が籠める事も可能ではなかったかと想像された(それが困難であったとすれば戯曲の問題である)。・・例えばもし男から別れを切り出したならそれは愛ゆえの選択であったか、愛がない事に気づいた故か。。
芝居の冒頭から男は女の圧に負け、言われるがままに仕方なく?二人が暮らした時期の記憶をまさぐる。その中で生まれて来るのはその当時の「感情」ではないか。芝居では、女が「去る」となった時、男はまるで「今愛している女性が去って行く」かのように、引き留めようとし女の背中に声を掛けるのだが、果して男は「死んで恨まれたくなくて」気の利いた言葉をかけてやろうとしているのか、本当は後悔していると伝えたいのか・・それによって態度は異なるだろうしそのリアルな状態を見たいと思ってしまう。
ドラマとしては、たとえ愛していなかった女性との思い出であっても、逆にその事に申し訳なさを募らせるといった事でも、リアルな感情の中に真実がある。日常に戻った男が、ハードボイルドの目玉焼きを食べてみる・・人生は思ってもみない発見(小さな発見であっても)の可能性がある、と思わせてくれればドラマは成立する。
もし男が女をこよなく愛していたのだとすると、女の登場が男に及ぼすものは大きく、一度は去って行った女がそこに居る事の戸惑い、であったり、様々な感情が去来しそうだ。「それなのにこんな場面しか浮かばない」もどかしさが苦悶に近いものになったり・・そんな事を考えてしまった。

二作目は車の内と、時々外、で展開するこれも男女の物語であるが、婚約した事実の上にあぐらかいてそうな男と、本気で婚約を見直そうと(親と合う日を翌日に控えた今日)思っているらしい女との温度差が妙味である。雨の中、ビンゴで当たった「夢の国」(ディズニーランドと考えてよい)チケットの当日、土砂降りのなか高速を走る車中である。女性は小さい頃夢の国に行った時の思い出話をする。そうした気分に浸りたいのである。男は雨の中、大して行きたくもなかった夢の国に向かっている事にぶつくさ言っている。女が話す何度も反芻しただろう小さい頃の思い出話とは・・その日沢山サインをもらったスケッチブックを、あるアトラクションの最中に池に落とし、スタッフにホテル名と部屋番号を聴かれ「もしあったら届けます」と言ってくれたのだが、後で母親と部屋に戻ってみると、新しいサイン帳が置かれてあり、見ると窓が開いてカーテンが揺れていた、ピーターパンが届けてくれた!という奇蹟の話(親切にも観客が真相を想像できる情報も入れて)をわくわく口調で語る。男はこの話にも超自然現象などあり得ない事をズケズケと語り、「現実」と「夢」の対立軸がこれほど明確でありながら婚約した二人が、特段不自然でもなくそこまでは見えている。ところが、女は男の「夢の無さ」にそろそろ業を煮やしている、といった風が見え始める。しかもサービスエリアで男が所用中、掛かってきた電話の相手が「いつまでも待ってるよ」と言ったらしい会話。戯曲の(説明)不足はこの不明な相手の実体が伏せられていて、女性にとってどの程度の存在なのか・・というあたりであるが、女性が本心から迷っている事と、男がそれまでの会話の中から実はある種の危機を察知したらしい事が、一風変わったクライマックスに導く。男がトイレから戻った時、「現実主義」な男の一世一代の大芝居を打つ。即ち、手の平の上に居るらしいティンカーベルが、男を捨てないで欲しい事、パッとしないけど真面目でいいやつだから、と擁護する台詞を(男のしゃがれ声で)言う。これを聴いた女性は、ややあって、「わかった、ただし条件がある」と言い、喋り始める(その中身はマイムのみ、雨でかき消される)。
マリッジブルーをオチにした話ではなく、二人の関係を繋ぎとめるのは何か、どんな風が吹けば男女は結ばれるのか、といった含蓄がある。女が判りやすいサインを送り、男はやっと気づいてアクションを起こしただけにも見えるが、紙一重で変わる運命の不確かさと、個人の中にある確かさが感じられ、後味が良い。

最後のは、いつも円盤ライダー舞台では三枚目が熱く語るキャラで賑やかす俳優だが、空宙空地の代表の一人でもあるおぐりまさこ演じる一人の女性とフードコートの丸テーブルを挟んでの会話劇。父娘の話としては、設定自体はありがちであるがよく出来た戯曲であった。戯曲もうまいが俳優(父役)の存在感が何気に抜群(変な日本語だが)。聞き役に回る時間を含めて父という人物と一体化したリアリティが「場」を信頼できるものにし、微妙な心情の移り行きが表情の変化に見えるようであった。

円盤ライダーらしい男がうるさい群像劇を期待して出かけたが(大して観劇歴はないが)様々な演劇形態への挑戦も円盤ライダーの本義だろう。ただ今回のがコロナ下の苦肉の策であるとすれば(消去法で選んだ形だとすれば)少し寂しい。人は本来的に密になっていいし接触していい存在である・・コロナ(ウイルスによる病気でなく人間への忌避感という病気)を超えるあり方を見せてほしい。勝手ながら円盤ライダーは何故だかそんな期待をしたくなる存在である。
三人姉妹

三人姉妹

アトリエ・センターフォワード

シアターX(東京都)

2022/12/07 (水) ~ 2022/12/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

今公演がいつも以上に目を引いた理由は(俳優陣もさる事ながら)「自作(新作)上演でない」事にもあった。公言する如くシアターXでの上演というのもそうであるが当日は(イメージで)うっかり下北に行く所だった。
「三人姉妹」、に副題が付されており、大胆な潤色を予想したが、「三人姉妹」であった。
ただしある種の方向付けがあり、恐らくテキレジも為されているが(ラストの台詞並びは明らかに原文と違う)、一役のみ男を女優がやっている事や、主人公風情の長身俳優が脇で存在感を持っていたり、何がどうだからどうとは言えないが冒頭のイリーナ、オーリガの喋りと立ち位置から人の動線に、演出者の「意図」が行き渡っているのを感じる。
目を引くのは美術で、Xの通常のステージを作る高さ数十センチの台を両側を繰り抜く形でオーリガの家を浮かび上がらせ、奥行きを作る。最奥の両脇が出はけ口。一段下がった両側が玄関に通じる廊下となり、間もなく登場する人物が早めに姿を見せる格好になる。
台上の演技エリア(家)には前半、奥と手前の間に高さ低めの仕切りパネルが左右に置かれ、狭い中央が通り口、奥での談笑と手前の秘めたる会話の図が出来たりする。

「三人姉妹」は清水邦夫の「楽屋」のせいか一度ならず観た気でいたが(戯曲も途中まで読んだ)、東京デスロックの抽象度の高い舞台(亡国の三人姉妹)を除き、ストーリーを分かりやすく味わったのは今年アゴラで上演されたサラダボール舞台(女優三人のみで全編演じられる)が初めて。一つの趣向であったが、今回のセンターフォワード版を振り返ると、役者によって形作られる一個の「人格を持つ固有の人物」らの群像劇として(言わば普通の演劇)味わい深い劇世界を作っていた事と同時に、何がどうと言い難いがリアルさの中に儚げな風がふっと頬に当たるような、不思議な感触があった。現代を感じさせる部分もある。明白に意図的と分かる演出として、ラストが特徴的で、三人の姉妹の会話に殆ど力みがなく、自然体の風景として提示され、静かな演劇風にピリオドが打たれる。三姉妹の女優(藤堂海、安藤瞳、北澤小枝子)が良い。家をかき回す兄嫁役のみょんふぁ、イリーナに思いを寄せる兵士(を止めて工場労働者になる)役の岡田篤哉、兄役の矢内文章、等々。凋落する人間と微かな希望を描く原作を、立体化するそれぞれの人物造形にも奥行がある。

口火

口火

イサカライティング

アトリエ春風舎(東京都)

2022/12/08 (木) ~ 2022/12/12 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

こりっちデータで見る限りだが、個人ユニットを立ち上げたり役回り様々な経歴あり、中で舞台美術経験に目が止まる。照明家とのユニットというのも興味が湧くが、中味は全くの未知数。
アトリエ春風舎は美術が映える小屋で、何本か吊された裸電球、簡素な机と椅子、床に置かれたタワー模型、床から壁へ続く光沢タイルの川、と言った具合。だが、開演よりアンテナ立ち通しになるのは耳と前頭葉で、これは聴いたことのない台詞である。
平易な言葉で語られる、物事の本質を探る思考。冒頭、「道具」を巡っての思考が始まり、その思考過程で用いた語を応用しつつ他へ広げて行く。その会話が遊戯のように、それが相応しいとある研究室の一角で交わされる。心地よい。幾つかの関係(人は三人まで)の模様が順に描写され、時系列で展開が進む線もあるが、物事を「裏側」から言い当てるトーンは芝居を通じて流れている。
丁寧に思考し、言葉を探し、選び、世界に放つ物腰そのものに、ある種の癒し、救われる感覚を覚える。その事だけをもっても現今のメインストリームへの痛快なアンチとなっている(と自分は感じた)。

ネタバレBOX

そう言えば久々に変笑いの御仁がお出ましでござった。このかん一二度程見かけていたが大きな逸脱はなかった。が今回は開幕早々、台詞の間に小さく声が漏れた。もしやと覗き込むとそこに居た。続いて「ハハ」、ややあって「ハハ」、そして最後は「ハハハハ!」と4音節の笑いをやらかした。この公演ではその後にもう一度うるさい笑いが出、後は静かになった。それにしても気分良さげである。口にタオルを当て、笑った後は申し訳なさげに周囲をチラと見るが、ちっとも悪いと思っていないし、笑う瞬間はタオルなんか当てていない。「俺を笑わせてくれるのは芝居なんだから、俺に罪はないでしょ?でも俺きっと嫌われてる。何しろ可笑しさを理解できん人が多いんだろうからな。くわばらくわばら」という態度に見える。
彼は上演団体の楽屋でも「今日は変な所で笑う客がいたな」「そうそう」と話題になるようである。笑ってほしい所で笑ってない事は確かだが、笑う=見下す行為である事は彼の書く批評でも明らかに思える。彼の知り合いの役者と終演後に歓談している所を見た事があるが、そういえばその時の会場では笑いは響いてなかったな。配慮も持ち合わせているのか、たまたまなのか、前者なら他の公演に対しても心配りして頂きたいものである。合法的な観劇妨害が目的だとは思わないが、自己顕示の疑いは濃厚。口タオルの体勢から周囲に注意された事があるか、反感を予測しての防衛手段か、どちらにせよ(周囲に対しては)「よくない」と知っての行為である。そこが許し難い。
声は場を支配する。耳は不要な音を遮断する事はできない。脳の障害で突発的に声が出てしまう人が居るが、舞台の脈絡と関係なく発される声は「ああそういう人がいるのだな」と理解すれば、遮断する事が可能だ。が、舞台上の現象に呼応した笑い声は、舞台と混然一体となる。色が付く。犬の小便ではないが色を付けたがるのは人間の支配欲の表われ。「俺はおかしくて笑ったんだ」と言いながら舞台に色を付ける。すると如何にも直前の台詞が笑える台詞であったかのように上書きされる。ここが「妨害」になる。上書きされた他の客は、「そうその通り」と思うなら問題ないが、多様な解釈があり得る台詞、まだこの芝居がどの方向へ向かうのか探る余地のある段階では、笑いは解釈を断定し、それを他に押し付ける行為になる。教え諭すつもりなら余計なお世話だ。
結局彼の「早合点」である事が多い訳なのだが彼はそこから何も学んでいない。芝居のせいにして逃げている。人より先に反応できる感性を持ち合わせている事を自他にアピールする「欲求」を最優先している。

という事で、今後は劇団側と少し交渉してみよう。いきなり「出禁」を依頼するのは難しいが、一度彼が客席に居るステージの様子を見てもらう。主催側に、あれで困っている人がいる、むべなるかな、という認識を広げてもらおう。
(以上、本人が読む事を想定して書いた。頼みますよ本当に。)
歌わせたい男たち【11月26日夜~12月3日公演中止】

歌わせたい男たち【11月26日夜~12月3日公演中止】

ニ兎社

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2022/11/18 (金) ~ 2022/12/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

以前戯曲を読み、ある団体の上演も観たが、(久々だったせいもあるだろうが)新しく発見した事が多く、解像度が高く奥行きがあり、かつ判りやすい舞台であった。

ネタバレBOX

国旗国歌のモンダイを扱っているが、これを押し付けるお上(教育委)と、撲滅が進んでいるがまだ残党の居る「不起立教師」(国家斉唱の時に立たずに座り拒否の意思表示をする)の正論との間で苦悶する中間管理職=校長先生を軸に、新任の音楽教師(今日これから行われる卒業式で国歌を伴奏する予定だが本人は校歌やもう一曲の方がちゃんと弾けるかを心配している)、コンタクトを落として楽譜が読めないという彼女に合った眼鏡を持っているが「君が代伴奏に協力できない」と貸すのを渋っている社会科教師、教育委の指導に従順で反抗分子撲滅の先頭に立つ英語教師、舞台となっている保健室付きの保健教員。
中間管理職の悲哀がこの作品のドラマの骨子であり、理不尽な要求でも上部の意向は自分の地位にとっては至上命令。そこで手を変え品を変え、詭弁を弄し、教育の理念をごまかし、現状を正当化し、また実は自分の過去をも否定し、業務に勤しんでいる。第三者的な保健教員を除き、皆が皆感情の起伏の激しい役どころで、要となる社会科教員を山中崇が演じ、好演であった。
彼は歌が好きで、元シャンソン歌手だったという音楽教師(キムラ緑子)と馬が合い、だからこんな事で対立したくないと嘆く。ノンポリで生活のために教員生活に希望を見ている音楽教師は戸惑うが、校長(相島一之)や英語教師(大窪人衛)とのやり取りを保健室で聴かされることになる。
校長先生が軸に見えて来る舞台であったが戯曲的には音楽教師と社会科教師が感情移入の対象で、二人の間を観る方も揺れ動く。
純朴というのが相応しいキャラ(寝ぐせを直してないし)の社会科教師は、校門前で彼が尊敬していた元教員のビラ蒔き騒動に勢いづき、また逆に校長と英語教師は火を消そうと躍起になる(校長はあくまで穏便に、英語教師は荒っぽく)。
ところが終盤、ビラの内容は校長の「過去」を暴いたものだと判る。即ち、若き日の校長は国旗国歌強制に反対する意見書を書いていた。校長はその後、全校放送のマイクを持って屋上へ上がり、自分の過去の文章の趣旨を全面否定し、真逆の主張をあれこれと述べるのだが、巷間なかなか聞かれないこれを正当化する論理を言葉にしたら結局こうなるしかない奇妙な理屈が並ぶ(見える化するとはこの事なり)。
印象的であったのは、この校長のビラが生徒の手に渡って話題になり、ノリで生徒らが不起立を決めたという、その事実を聴いた、それまで鼻息荒く立ち回っていた担任の英語教師は、絶望に歪んだ顔のままがっくりと座込む。これを見てよれよれの社会科教師が、笑い始めるのである。何に笑っているのか、と台詞を聴くと、こんなに生徒のためにと頑張っていたのに、こんな事になるなんて、泣けて仕方ない。本当は泣きたいのに、笑ってしまう。(笑いが激しくなる)頼むから、泣かせてくれ。泣きたいのに笑えてしまう。頼む!!・・この教師の泣き笑いに完全に同期してしまったのだが、ちょうど前日に観た「日本人のへそ」で歌われた奇態な日本讃歌「日本のボス」に、笑えて泣けて仕方なかったのが完全にダブった。泣ける程理不尽な日本の慣習なのに、深刻なはずなのに、笑えて仕方ない・・。
男たちの悲哀が際立ち、全く立場は違うのにどこか愛せてしまう三人。そこに自分の姿も見てしまう。
ハムレットマシーン

ハムレットマシーン

LOGOTyPEプロデュース

吉祥寺シアター(東京都)

2022/12/02 (金) ~ 2022/12/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

久々に観たIDIOT SAVAN、長尺ものは初めて。こういう事になるのか・・。中心的な役割を演じる俳優の「怪演」が舞台の緊張を継続して担うのだが、ハムレットという役人物が体現する感情の極点(モノローグにおいてそれは露出する)を、担い続けるという事でもある。「ハムレットマシーン」は短い戯曲で、パラパラ捲ると隠喩だらけの抽象度の高い文が並び、これはこれを料理した舞台を観るしかないな、と思った記憶がある。二時間を使い、劇的効果をもたらす瞬間が各所に配され、緩急の振れ幅が半端ないハムレット役(の役?)の喋りと、演出により飽きさせない。私はハムレットではなく○○である・・延々と繰り返されるハムレットという不死の存在の嘆き、幾度か定義し直される自分自身(最後にはロボットとなる)は、己の「あり方」を求めての彷徨にも見え、それは時代そのものになったり、矮小な個人(ハムレット)に戻ったりしているようで、いないようで。。舞踊に近い抽象的なイメージを像として焼き付ける瞬間、瞬間を辿り、中々面白い「旅」であった。

日本人のへそ

日本人のへそ

虚構の劇団

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2022/12/01 (木) ~ 2022/12/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

解散公演にこの演目と来て「観ない」選択肢はなく、馴染みの座高円寺で観たく残席を問い合せたら既に完売(座高円寺が満席!その光景未だ見ず)、急ぎ芸劇公演を予約した。期待は裏切られず、才気の塊である所の井上ひさし戯曲処女作「日本人のへそ」の世界で俳優たちが輝いていた。

2020年5月コロナ緊急事態宣言で中止となった公演との事だが、果してこの時点で「解散」が念頭にあったのかどうか・・クレジットとしての劇団名を消し、一度切りの記念的公演にて団員参集の機会を作り、世に解き放つ「儀式」に鴻上氏が自作でなくこの演目を選んだことに感慨を覚える(同様のお方も少なくないだろう)。作者の大真面目な遊び心に応えて俳優らが縦横に動き演じる。吃音の説明から始まる導入部、劇中劇、その主人公ヘレンの半生(悲惨な生い立ちと成り上がり)、サスペンスとどんでん返し。そして何より音楽劇でもあるこの舞台は、些か置いてかれる序盤(伏線の仕込み)の停滞を破るように不意を突く「愛」の歌で真に開幕する(愛してる、の一言で男は、命を投げ出せる、たとえ裏切られても、命を差し出す事わ厭わない、と言った内容)。歌、歌が続く一幕の圧巻は休憩前に歌われる「日本のボス」、ミュージカル並みに長尺の楽曲では、ヘレンが女=商品として転売(交換)されていく過程を描き、文化人類学的な考察(贈与論、組織論)へと誘う。日本の奇態な慣習を「讃美」した(突っ込みの無いノリ突っ込み的に描いた)倒錯に、泣ける程笑った。てんぷくトリオのコントに流れるナンセンスに通じるものがあり、それが今では相対的に(現存する構造への)より的確な批判になり、相対的に凄味が増量していると推察。(これに当てた楽曲が「君の瞳に恋してる」のノリを借用しレビュー風の脚上げで周囲も盛り上げる。)
音楽担当を見ると初めての名であったが、鴻上氏の舞台に劇伴を提供してきた元バンドミュージシャン、作曲家。ストレートプレイの鴻上作品の劇伴よりは多分今回は存在が大きく、詞の世界に当てた曲風のセンスは出色であった。
その点では昨年春に観たこまつ座(まだ昨年だったか..)の同作品は、戯曲世界には圧倒されたが舞台そのものの「現在とのズレ」の感覚が今記憶の断片に残る。こまつ座ではその前にコクーンで同作を上演したがこの時の音楽担当は小曽根真、昨年のはその前のこまつ座での初演(宇野誠一郎)の音楽に戻った。若干「寒く」感じたのがストリップ小屋のストライキ場面で弁舌を振う「左翼」、そこに現れたチンピラを引き連れたヤクザ(右翼)が元同級生で一しきり再会を懐かしむ歌や回想を挟んで徐に「対決」場面に至るまでを繋ぐその演説場面が、リアル描写だと唇寒かった(そうなってやしないかと心配になった)が、今舞台では学帽に半纏の左翼には三上陽永、ヤクザには小沢道成が扮し、ちょうどいいキャラを作り申し分ない。団結して闘うことは現実的にも物語的にも何が問題なのか、という話でもあるが、、今は既にコードが敷かれているのだろう、芝居を観ていても扱いが難しい(井上氏は何もかもを戯画化しているが、それでも)。

座・高円寺の横広のステージで、またもう少し近い席で観たかった思いは一瞬過ぎったが、十分堪能した。あれこれ書いたがうまく表現できてない。スゲエ、の一言以上には。

遥かな町へ

遥かな町へ

文化庁・日本劇団協議会

シアターX(東京都)

2022/11/23 (水) ~ 2022/11/27 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

映像にて鑑賞。シアターXで上演というとつい1ランク上に注目し、劇場観劇は叶わなかったから配信を観た。大昔の新宿梁山泊以来久しく見なかった近童弐吉を劇団印象「瘋癲老人日記」で目にして今回二度目になるが、自分が目にしていなかっただけで役者稼業は続けていたようで(結構ニアミスで見逃していた舞台も..)。本作では近童氏のみ中原博史(現代及び中学時代)一人を演じ、他大勢は役及びコロス、またはコロスのみ(パンフにはカラスと書いてある)。主要な役として中学時代の父、母、祖母、妹、ポチ、同級生の島田、クラスのマドンナ永瀬智子、彼をライバル視する男子や漫画家志望の浜田。他のエピソードとして父が見舞いに行っていた幼馴染みの女性、父の戦友で母の許婚であった青年など。現代には妻と子ども二人がいるが、冒頭の紹介以降ラストまで登場しない。コロスたちはクラスメートを演じたり、博史の代わりを演じたりする。その時弐吉は自分を客観視する立ち位置にいる。
谷口ジローと言えば作関川夏央/絵谷口の「「坊ちゃん」の時代」が思い出されるが、今作は谷口氏が自らの故郷を舞台に時間を遡る物語。ドキュメントなタッチにほんのりフィクショナルな風合い。導入は山田太一の「異人たちとの夏」のようなリアルな感覚を引き摺りながら事態を受け入れて行く過程が良い。14歳の自分に48歳の自分が遠慮なく混じり込んで14歳を満喫しているのも新鮮で、48歳の頭脳が若い身体を動かすのだから当然だが本人の自覚なくして成績良く英語ペラペラ、スポーツも優秀、達観した言葉を吐いたりするので、本当の14歳時代には言葉すら交わさなかった永瀬さんと親しくなり、恋心を打ち明けられてあたふたしたり。過去の時間のそうした「変化」を認識する中で、彼はこの旅の無意識レベルでのきっかけであった「母」の人生、その苦労を決定付けた「父」の失踪に思い至り、父が失踪した日が近づくにつれ、父の失踪を防ぐ事が自分の旅の目的だと思い定める。そしてついにその日を迎える。全てにおいて塩梅よく仕上がったストーリーで、成熟社会となった日本の「現代」の生の課題を掬いとる着地になっている。
ただ、原作コミックが発表されたのが1998年、失われた二十数年の起点となり派遣労働の規制緩和、自殺率の上昇、日本型新自由主義によって今思えば組織防衛のために成長の契機を摘みにかかった時期で、政治を含めた社会の先行きが当てを失って彷徨い始めた頃である。今、見えてきた日本の構造的な課題は、「諦め」の深化との相殺で変化の契機になっていないが、「見える」段階に入って来たとすれば、この作品のトーンは「見えない」自分の現在地を過去に遡り、父の人生を見つめる事を通して発見しようとするファンタジーである。社会云々と書いたが最も生々しく己れの生のありかを定める父という存在(女性にとっては母、あるいはそれぞれ逆の場合、他の存在もあるかもしれない)に、気づかせる。
2010年ベルギー、仏独の製作で映画化。谷口ジロー作品は仏で評価されているらしく、それが今回の共同制作に繋がったようである。舞台処理は欧州のクリエイターらしく機能的で生演奏の音楽、効果、奏者も芝居に加わり、コロスの細やかな動き、ちょっとした憎い演出が全編に効いている。例えば博史が公園のベンチで寝ている所へクラスの永瀬智子がやって来て二人して話し込む、という場面は空からの視点で観客は見る事になるが、見事に錯覚させる。
弐吉の物語を総員で作り上げる「形」の中に演劇に対する演出家の思想を読み取るのは気が早いか。座高円寺の企画に参加しているイタリア人演出(これまで「ピノキオ」他三四作を演出)にも近い印象を持った。

ライカムで待っとく【11月27日~29日公演中止】

ライカムで待っとく【11月27日~29日公演中止】

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・中スタジオ(神奈川県)

2022/11/27 (日) ~ 2022/12/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

沖縄返還五十周年の年も終わろうとしているが、もっと大々的に全国的なアレがあっても良いところ、ちむどんでお茶を濁すのがせいぜいなのが日本の実情。
そんな中、芝居の方はと言うと・・KAATが企画した今作と、昨年の「HANA-1970、コザが燃えた日-」の他は目立った舞台は見当らないとは言え、この二作は出色であった(チョコレートケーキの「ガマ」は未見)。
初めて見る作者名であるが、若い彼に脚本を依頼した決め手は舞台の実績ではなく、ラジオドラマだという。
現実を変える術を知らない日本人は、沖縄の「犠牲」の正当化に恥しげもなく躍起になる(失礼だが)レベルの低いネット投稿者を除けば、「見ない」事でやり過ごすか、心を痛めてながらも日常に飲まれるか、重い腰を上げて何かやろうとするか、どちらにしても無力感と無縁でいられない。だから沖縄イシューは今は不人気な案件だ。
だがそういう問題にこそ演劇は力を持ちたい、誤解を恐れずに言えば理不尽な現実こそ恰好の題材ではないか・・と思う。もっともドラマに「共感」を獲得するには、観る者の根底にある共通了解、想像力に頼んだ納得を引き出さねばならない。沖縄の課題は掬い出せる泡状の状態をとうに過ぎた灰汁のように汁に溶け込んで容易に分解できない。沖縄人の中にも、反基地と騒ぐ人たちへの疎ましさを吐露し、現状を認めた上で自分の進路を決めようとする(若者ならば普通な事であるが)層もあり、社会に馴染んだ「灰汁」(悪)は基地の弊害も日常の(我慢の)範疇となる・・。
沖縄在住の若い作家はそうした現状との距離感も織り交ぜ、本土人のご機嫌を窺いながら(「共感」の部分から物語へと誘いながら)、沖縄と本土との見えない断絶のありかへと、果敢に挑む。
この戯曲とこれを書いた一人の沖縄青年、彼にこの戯曲を書かせた本企画に喝采を送る。

ネタバレBOX

田中麻衣子は新国立劇場で経験を積んで来た若手演出家だが、不器用に思える手付きが持ち味(褒め言葉になっていないが..いや褒めてはいない)。渋い出来の舞台が多いが大胆さがある。今舞台でもキャスティング(または人物造形)、処理の仕方がどうもな..とか色々あったが(作品をべた褒めしておいて演出に難癖つけるのはこき下ろしに等しいか..いやこき下ろしてるんだが)、効を奏したアイデアもあり、戯曲の世界を届けるという点において最終的には成功したと言える。
国広和毅の音楽も相変わらず「目立たず」、芝居に寄り添っていた。

厳然と存在する差別構造を可視化する事・・この事を抜きにして沖縄を描く(本土人が観るものとして)意味は殆どない、と私は思う。ただし芝居、ドラマにはそれを人間感情を伴い、共感と感動をもって伝える事の可能性がある。今作は日本の日常をぶち壊す要素が満載だが、終盤に畳みかけるそうした現実と、沖縄史の片鱗たちが「出て来ない」芝居などに意味がない・・作者もそう感じ、疎ましい現実をもう一度掘り返しながら「本土人に届けるべき物語」を紡いでくれたのではないかと想像した。
差別する側が差別を「認める」には壁がある。残念ながら日本は総体としてその度量がない。外圧でもなければ己を変えられないのが日本だ。殊に日本はアジア侵略の事実を過小評価、曖昧化(歴史評価は後世に委ねるべきだとか何とか)して来た負の実績がある。「植民地化してインフラ整備してやった恩を仇にしやがって」との韓国に対する言辞は、そのまま沖縄に対しても発されておかしくない。つまり本土と沖縄には明確な境界があり(戦前同じ日本人だと言っても植民地出身者との間に明確な差があったように)、本土側は常に正しく「恩を与える側」として自らは痛みを覚えない安全圏にいる。これこそが差別の内実。そしてその根底にはそれが「有利」だと信じている現状認識がある。なぜか日本は米軍が駐留している方が日本にとって「有利」だと考えている。その大元を探ると、官僚自体がそうだし日本会議やその背後にあって動きを生み出す主体の存在が想定される。そして「上」に行けば国政において実権を持つ者がタマを握られている可能性もある。表面上は日本が「自ら決定している」売国的な法案や決定の数々が、そのように誘導したい米国に「自ら寄り添って」通されているのでなく、実際に脅し上げられている可能性も僅かながら過ぎる。自死した赤木氏に安倍昭恵関連が疑われる文書の改竄を指示したと言う佐川氏も、「自分が指示した」との証言を置き土産に一切表に姿を見せないが、本当は誰に指示された、と証言をしたら「誰かの命はない」と脅し上げられているのかも。彼の「犠牲」に日本人の美徳を見る向きも恐らくあるんだろうが、実態は「脅されている」から「そうしている」・・そんな泥塗れな政界にいれば鋭く切り込む野党の質問にも平然としていられる。心でこう言っている・・「現実はそう甘いもんじゃない」「こっちの席に座ってみれば、自分がロボットにしかなれない事が身に沁みるだろうよ」。いやいや、ただただ怠惰なだけかも知れん。(余談が過ぎた)
蛍

第27班

三鷹市芸術文化センター 星のホール(東京都)

2022/12/02 (金) ~ 2022/12/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

アゴラ劇場での夏公演では生ギター弾き語りとタップダンスという劇中ライブシーンが辛うじてあったが今回は無職男が路上で弾き語る場面(音楽家志望という訳でもない)が一くさりあったのみ。第27班と言うと劇に噛んだ音楽ライブ(劇伴ではなく芝居上の必然がある)を期待してしまうのだが、マストでないのだなと認識を改めた。今作は三年前の作品の再演という事で、自負がある演目と踏んだのだが・・。
この劇団が得意とする描写が、失われた二十年で常態化した若者の生きる場のヒリヒリと血管に触れるような痛さであり、ざらつく感触の中にふと過ぎる小さく暖かな灯、といったものだが、幾つかの人間模様(時間を超えて繋がっていたり別々だったり)の点描が美しい。ただ一つの物語を構成するピースをはめて行く過程を経て、最後に出来上がる図としては不完全さが残る。人物たちを十分に描いてくれた、と感じる向きもあろうが、私としてはもう少し物語としての作り込みを(初演は見てないのだが)深めて欲しい。どのあたりが・・というのはいずれまた。

建築家とアッシリア皇帝

建築家とアッシリア皇帝

世田谷パブリックシアター

シアタートラム(東京都)

2022/11/21 (月) ~ 2022/12/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

圧巻の一言。
「トラム、二人芝居」の第二弾。アラバールをやる、というだけでも注目だ。第一弾の「毛皮のヴィーナス」はマゾッホの世界を軸にした男女の二人芝居で「異性」の必然性があったが、今作は性別から何からを超越した荒波を行く「噂には聞いていた」ぶっ飛んだ世界。それが理解できる台詞(当たり前だが)によって、また二人の男優の超人技により、そして名のみ知る生田女史の冒険心(遊び心)溢るる演出を通して現前した。時間は予想しなかったまさかの三時間超え。(長旅、という文字を書いてふと思い出したのはホドロフスキーの「エルトポ」。)
この芝居にも前作に劣らぬ内面世界への洞察、暴露(まるで内腑を掴み出すような感触)がある。病的な孤独感、マザコンそしてこれは戯曲の指定か背後にヒューン、ドカン、ボカンと近代兵器の音が(戦場のピクニックよろしく)鳴る。相は目まぐるしく変る。長い綱渡りを渡りおおせただけで喝采モノだが深い余韻がある。

夜明けの寄り鯨

夜明けの寄り鯨

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2022/12/01 (木) ~ 2022/12/18 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

横山氏らしい秀作。
劇作家ワークショップの成果第二弾という事であったが横山氏ともなるとその名だけで十分でありパンフにも特にワークショップの言及はない。

ネタバレBOX

舞台は浜辺。そこに同所を学友と訪れた二十五年前の回想シーンが交差するように織り込まれる。主人公の女性の四半世紀を経て呼び覚まされた疼きが、やがて一枚ずつベールをはぐように姿を現すが、旅先での何気ないやり取りの中の「罪」が相手の不在に行き場を失い、初めてそうするように主人公は人間に対する態度へと促される。
出来事に関わった一人一人がそれぞれの二十五年と現在を見つめるラスト、そこに居ない人との間に何があり得るのか、正解など何もないが、ある仕方で関わり続ける事への希望?を展望するように四人が立つ。そして不在の者が消えた後も立ち続ける残像を残して暗転する。
ハミダシタ 青空 ヲサガシテボクラハ

ハミダシタ 青空 ヲサガシテボクラハ

TOKYOハンバーグ

座・高円寺1(東京都)

2022/11/16 (水) ~ 2022/11/23 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

座高円寺の広いステージをガシッと掴むような荘厳な装置に目を奪われる。
物語の冒頭、社会に有害なもの、として「演劇」という台詞で思わず「笑い処か」と一瞬ドヨっとするが、大真面目な台詞である事がすぐわかり、以後架空の設定の近未来(遠未来?)物語が展開する。「演劇」は表現一般にも置き換えられるが、とりわけ人間の感情表出の肯定という意味合いから、「現在」が逆照射される感がある。
社会に混乱をもたらしたとして「○○」が制度的に禁じられている、というのがこの舞台の描く状況なのだが、必ずしも表現が「法律で禁じられていない」現在あるいは少し先の日本の風景を見るような「近さ」を覚えて仕方なかった。様々な行ないやある領域への言及がすでに自粛という形で禁忌に囲われている・・「今」に対するこの感覚がなければ、この作品は飲み込みづらいかも知れない。
「演劇が禁じられた社会」という設定を聴くと、もっとコメディカルな芝居が連想されそうだが(永井愛のような?)シリアスで「成立」し得ているのがこの作品の優れた点であり、また同時に笑えない現実の裏返しでもある。

しびれ雲【11月6日~11月12日昼公演中止】

しびれ雲【11月6日~11月12日昼公演中止】

キューブ

本多劇場(東京都)

2022/11/06 (日) ~ 2022/12/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

ケラ舞台を久々に、という所で、折しも夏に上演した「世界は笑う」の配信があり、本作の追加公演発売があり、ほぼ同時に購入。後でよく見るとこっちは中々お高い入場料(衝動買いしてしまった)。
さて「世界は笑う」の出来がえらく良く、直前に観たせいもあり、開幕早々緒川たまきの特徴ある声が「同じキャラ」の使い回しに聞こえる(うまい料理でも続けてはちょっと..)。Nylon100℃を初めて観た舞台に感じた「緩さ」も感じる。多くの評とのズレを感じる所だが、今まで観た(大して観ちゃいないが)ケラ作品で当たりは少なく、今回はハズレの回かとの予感を過らせつつ観始めた。
2時間弱で漸く休憩に入る長編(上演時間はチェックしてなかった)、前半を耐えて後半ガラッと様相を変えるパターンを期待。二幕ではフジオの初恋、夫婦喧嘩の仲裁、父親のボケ(認知症)と見入らせる優れた場面が訪れる。ただ、記憶喪失のフジオという存在を除けば全体に昭和的な日常の要素だけを貼り付けたような劇で、敢えてそうした「意図」の片鱗を探りながら観ていた所がある。そうした「何事もなさ」や捻りのない笑いは、「ついに枯れたか?」との念がふと過ぎったほど。基本、半径何メートルの日常の風景と言って良いのであるが、それに相応しいタッチだったかどうかの点で、多分自分の好みとは異なった。

ネタバレBOX

オープニングチューンは小津映画を思い出させる雰囲気、楽器編成で、この劇は日常性のドラマにこだわった小津や成瀬の映画の世界へのオマージュか、と予感させた。が、結論的にはオマージュには(私の目には)なっておらず、従ってこの芝居の本当の狙いは?・・とずっと探りながら観ざるを得なかった。
後半ぐっと聞かせる台詞劇の場面を三つ挙げたが(この芝居を構成する三つの物語)、実は父親のボケの部分は泣かせに来てるなあざといなと鼻に付いてしまった(ひねくれ者なので)。
で・・感じた「緩さ」の原因はこの創作方言にあると思い至る。「・・だり。」「・・がや・・」「・・しくさりなさって・・」、などの創作方言はベースが西日本(「・・っとらん(否定形)」等)。これは「キネマと恋人」で島の住人が使っていたもので、主人公の女(緒川たまき)が銀幕の中の男と不思議な付き合い(女にとっては恋)を始めるドラマにおいて、東京と島の暮らしとの対比は重要な要素で、これを印象づけるのに効を奏していたのだが、今回の舞台では全編、住人同士の日常語として終始話される。つまり、別の言語であっても良い所、ケラ氏はこれを選んだ訳である。
方言が趣きをもたらす作品は多々あるが、それがこの芝居の場合、架空の方言だと分かるため「もどき」になる。「茶化し」として機能していると感じてしまうのだ。
島に流れ着いた記憶喪失の男が元東京に居たらしい、という話で終盤テンションが高まって行くが、予想通り彼の身元を劇中明らかにすることはなく、彼が島で生きて行く決意を語り、唱に繋がって芝居は終わる。
この劇は、このストーリーをベースに取れる箇所で笑いを取りに行ってる劇、とも私には見えた。が、もどき方言の「おかしみ」に頼った笑い自体が「もどき」に感じられ(即席ラーメンみたく)、実はあまり笑えなかったというのが正直なところである。真実味がベースにあるか否かはやはり笑いにとっても重要、というのが私の結論。

追記:今更ながらチラシに書かれたケラのコメント(執筆前らしい)を読むと、小津、岸田國士、アキ・カウリスマキを意識した作品になるだろう、とあった。作者の理解によるこの三人の共通点は、突き放した描写と、笑いだろうか。意地悪く言うつもりはないが「違い」の方が意識されてしまう・・・酷薄な状況とその当事者の意識(ミクロな希望)のギャップが笑えるアキ・カウリスマキほどの酷薄な状況はないし、日常風景の中に人間の微細なさざ波を掬い上げ、遠目に映し出す小津映画の根底にある「リアル」とは逆を行ってるし、群像劇と岸田國士はイメージ的にうまく繋がらない。
やはりポイントは「リアル」で、私の耳には方言がそれを終始邪魔していた。
ベンガルの虎

ベンガルの虎

流山児★事務所

ザ・スズナリ(東京都)

2022/11/23 (水) ~ 2022/11/28 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

さほど頻繁には観ていない流山児事務所だが、atスズナリというと幾つかの舞台を思い出す。高取英追悼「帝国月光写真館」(2021)、鄭義信を演出に迎え黒テント俳優や結城座も加わった「チャンバラ~○○水滸伝~」(2015)、他界した瓜生正美の他保村大和、伊達暁らが客演した坂口瑞穂(黒テント)作「お岩幽霊~ぶゑのすあいれす」(2010)等..。
小林七緒演出による唐十郎作品の舞台はほぼ未知数な状態で観劇に臨んだが、中々の出来であった。弾けた台詞回し、動きは唐作品らしいが、梁山泊などのテント公演と異なるのは、ノリを優先して言葉(台詞)の読解の暇を与えない演出でなく台詞が聞こえ、唐作品の詩的な響きを味わう事ができたこと。唐十郎作品はリーディングで聴いても趣き深いものになるのでは・・?という感触を持った(いや勿論物足りなく思うだろうけれど)。1,2年前あたり風間杜夫出演で埴生の宿を竪琴の生伴奏でしっとりと聴かせた新宿梁山泊の長丁場の上演では、(梁山泊では毎度そうであるが)「穢れ」の要素(この演目での「らしゃめん」のような)をきらびやかに、記号化して見せるのだが、言葉を聴かせる今回の上演ではある生々しさを残していた。
現代では実はホステスであるヒロインが、彼女を見出した青年によって彼の元教師となり、青年と同道する縦軸があり、二人の純愛が底流にあって最後に顔を出す。その狭間に激動の歴史に翻弄された人間のドラマが象徴的人物を配して描かれる。で、このヒロイン役の女優がどうしても青年と最初は同世代に見えて仕方なかったが、劇が進むにつれ年上の女に見えてきた。井村タカオが狂言回しと言って良い立ち回りで芝居の各所に油を差し全体に貢献していた(笑えた)。

世界は笑う【8月7日~8月11日昼まで公演中止】

世界は笑う【8月7日~8月11日昼まで公演中止】

Bunkamura

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2022/08/07 (日) ~ 2022/08/28 (日)公演終了

映像鑑賞

8月公演をこのタイミングで配信、とは「しびれ雲」動員に繋げようという術策か。だとすればこっちは自信作って事で警戒は及ばぬ。が、知ったのが終了間際であったので、一度観た後もう一度堪能しようと思ったが二度目の途中で終了となった。がそれでも満足。こいつは秀作だった。日本人は湿った笑いを好むがケラ、大人計画は乾いた笑いを行くと明言する存在。その「笑い」を生業にする昭和の一座を舞台に繰り広げる人間ドラマ。笑いは小道具であり主題でもあり、ドラマは喜劇調を取り入れながらも至って大真面目、各々が波乱の人生と言えるが特殊な存在として描いていない。町の片隅の人間模様と解しても誤りはない。ただ真剣に己のテーマ、「笑い」に向き合う人間共を見詰める眼差しがある。胸を掴まれるものがあった。

温暖化の秋 -hot autumn-

温暖化の秋 -hot autumn-

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2022/11/13 (日) ~ 2022/11/27 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

前作の「ワクチンの夜」ではがっつり、ワクチンが噛んでいたが、今作の温暖化は会話中に一度出て来るのみ。屋外が舞台なので日が傾いて「寒くなったからもう行こう」的な台詞は何度か出て来たが、概して温暖になった秋なればこその話、といった程度のタイトル。
初めて観た城山羊の会舞台には嫌悪しかなかったのだが、無理矢理感がその理由だった記憶。話を下世話な方へ、乾いた笑いを誘う方へ誘導したい狙いを理解する事は城山羊観劇には肝要だが、要所でのリアルさも等しく肝要で、行為を必然化するキャラクター構築をやる役者の技量も大事な要素になる。といった印象は今も変わりない。
今回はシソンヌじろうと(終演後気づいた)趣里の出演のせいか、チケットは早い内に残少、辛うじて観劇可能日に取れた。
その趣里と若い優モテ男のカップルが冒頭登場し、彼女の変キャラがリアルに巧みに造形され、彼女と婚約している彼が若干引き摺られ気味ながら変カップルの微妙なバランスを醸す。ピンポイント的に狙った図を具体化する脚本の巧さも。岩谷、岡部の常連コンビに、岩谷の連れ、じろうとその連れが絡み、七名それぞれ笑いどころがあるが皆、ある人間心理の漏れ出す様を切り取り、読めるベタなあるあると意表を突いたあるあるの繰り出し方が絶妙である。
救いが無いようで有るような、無いようで有るような。

妖話会

妖話会

遊戯空間

プロト・シアター(東京都)

2022/11/19 (土) ~ 2022/11/20 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

随分久々に訪れたプロトシアターだが、遊戯空間も暫く振りになる。三名によるリーディングにチェロ演奏が加わるが、チェロ奏者が開始、休憩、終了の挨拶をしていた。話者の読みは鬼気迫る風で、会場は禁忌な快楽を味わう秘密の会合めいている。
遊戯空間では「サド侯爵夫人」(見逃した)から僅か一月後の上演だったが、この「妖話会」は加藤翠の企画で2019年から開催しているもので今回が三度目という。
「妖」の名の通り、選ばれた三島由紀夫の両作品(30~40分程)とも妖な世界観を持つが、やはり遊戯空間らしく演出が光る。近代能楽集の演目「班女」は、狂女の花子(加藤翠)を紗幕の後ろ、調度品に囲まれた中央に置き、花子を家に住まわせる画家・実子(中村ひろみ)が上手、花子が思い続けている男性・吉雄(篠本賢一)が下手に台本を手に立つ三角形。休憩を挟んで「サーカス」は紗幕は除かれ、奥に篠本(サーカスの団長役及び他の男役の台詞)、「読み」の加藤・中村が手前の上下という三角形。
住宅街の一角のひっそりと存在する空間での会合。「読み」にこだわる篠本氏ならではの構築力が今回も冴えていた。

ネタバレBOX

「班女」・・男を思って折々に駅に立つ花子の事をゴシップ記事に載せた新聞を手に、ほとんど呪いの形相で苛立つ実子の語りが冒頭。彼女は花子をモデルに描いた絵を世に出さない位に執心していて、花子の「想い人」が新聞を読んで訪ねて来はしまいかと恐れている。一計を案じ、実子は花子を旅行に誘うが断られ、ついに吉雄の訪問を受けてしまうのだが、、花子は訪ねて来た男の事を知らないと言い、男は肩を落として帰って行く。以前の日常が戻るが、狂気の女花子が胸にしまい続け、観念の領域に及んでしまった「恋」の虚しさと、ただその「美」に執着し花子を囲い込む実子の「勝利」の虚しさが谺する。

「サーカス」・・こちらは戯曲ではなく地の文に時折、台詞が入る。開始早々始まるのは倒錯した団長の「趣味」の説明である。即ち彼は最も劇的な瞬間としての団員の出演中の「死」に焦がれている。観客の注視の中、出し物のクライマックスで、綱渡りの者が足を滑らせて落下し無惨な死を遂げる、といった・・。ある時団長が寝起きする天幕に何者かが忍び込んでいるのを見つけ、部下のP公に掴まえさせる。少年と少女の二人を見て団長は罰を与えるが、その目に何かを感じ、サーカスに雇い入れる事にする。少年に馬上曲芸、少女に綱渡りを仕込む。やがて団長が「その時」が近づいたと感じた頃、二人は逃亡を図る。だがこの度もP公に連れ戻され、そして「その時」を迎える事になる。もっとも事故を誘引する「仕込み」は蓋を開けるまで効を奏するか判らないのだが。。
団長の心向きが二人の運命を決する残酷な現実と、その中に子ら(あるいは作者)が見出そうとする自由意思の余地との非対称性に目眩を起こすが、「死」に沸き立ち大いなる悲劇に涙する観衆たちを眺める団長の満足気な眼差しに、いつしか観客も同期させられているような、不思議な感覚に痺れた。
私の一ヶ月

私の一ヶ月

新国立劇場

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2022/11/02 (水) ~ 2022/11/20 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

英国ロイヤルコート劇場と共催した劇作家ワークショップの成果を上演する第一弾。
須貝英の作品は断続的に三作を目にしているが、数年前観たやや小じんまりした二作と比べ、最近吉祥寺シアターで上演した舞台は中々ボリューミーで成長の跡を見た。今作、二年間のワークショップを経たという意味で特別ではあるが、手応えのある舞台であった。
三つの時空を上手、中央、下手に設え、明確に仕切られた形でなく空間的に乗り入れ可能な緩やかさがある。
村岡希美の演じる泉を軸に、その夫拓馬との新婚時代(実家に身を寄せ幼い長女を育てている)、拓馬の実父母が経営するコンビニと自宅がそれぞれ中央、上手。時は拓馬が自死して暫くした頃、また泉の一人娘・明結(あゆ)が成長し就職で上京しようとしている頃、そしてその就職先の図書館が下手にある。時は前後して場面が進み、一つの家族とその周辺の図が徐々に見えて来る。淡々とした場面の中にその背後に流れる個々の心情、互いの関係性が薄っすらと浮かび上がり、やがて濃い色彩を伴った風景が現われている。

ぼくらが非情の大河をくだる時~新宿薔薇戦争~

ぼくらが非情の大河をくだる時~新宿薔薇戦争~

オフィス3〇〇

新宿シアタートップス(東京都)

2022/10/22 (土) ~ 2022/10/30 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「楽屋」以外の清水邦夫作品舞台を観たのは初めてかも・・。戯曲は短いのを二つばかり読んだが。
このたびは渡辺作品でないオフィス3○○舞台、客演に岡森諦、シアタートップス、今や「安い」とさえ思う4000円の入場料で「当日キャンセル」狙いで観に行った。清水邦夫戯曲発見の機会になった。全共闘時代、ヘルメット姿がそこここに蠢き、詩人、兄、父の「敗北が判っているかのような」物語を取り巻くコロスとなる。苦悩と恍惚が同居する詩情はふるる劇では、キリストの受難と同じく肉体の破滅の中に復活を予見させる基調があり、この時代そのものへの鎮魂の響きがある。
ゲイの発展場である新宿のとある公衆便所で、たむろする男たちを後景に(時に前景)、主人公の吐く台詞が個的な懊悩を超えて時代的広がりを持ち、渡辺えりの演出で現代にせり出して来る。
何より渡辺氏が十代の頃「書店で読んで」「書き写して」心酔した戯曲、「いつかやりたい」との念願を果たした舞台だからだろうか、想いに満ちて心地よかった。客席には渡辺氏の旧知の演劇人らがちらほらといった模様で、会場の雰囲気もよく、実はかなりの不眠状態で駆け付けたが寝落ちもせず終演を見る事ができた。

ネタバレBOX

開演前だったかトークの時だったか、渡辺えりが入場料について、5000円なら赤字回避できたが4000円にこだわった(小劇場だから)、と漏らしていた。話の文脈はお金ではなく、自分の「やりたい演目」を死ぬまでにやり残さないよう・・との由で、今回はその第一弾のよう。
開演前に渡辺氏がパンフを売り歩くと次々に手が上り、どんどん売れていた。毎回オフィス3○○のパンフは凝っており、これも「1500円取っていい内容だ」と周りから進言されるが1000円にこだわっているとの言だが、この渡辺氏の選択を「経済」の観点から私は深く共感する。
話は飛ぶが、企業経営において株主が最も「偉い」事の具体化として、企業の収益から応分の配当を「出すべきだ」との論理はヘソが茶を沸かす。「偉い」から金をもらえるのではなく、会社を支援する貢献者だから「偉い」のだ。彼らは「人や社会に投資する資金を持っている」主体として、人や社会の育成を支える栄誉に与れば良いのである。無論株の価値を下げる事は、経営側は仁義としてしてはならないと心して健全な経営に務める、そこには「意義」「目的」を共有する者の間の共闘関係がある、というのが一つのモデルである。お金は何か目的を遂げ、あるいは意味を生み出すための「手段」であり、企業とはその意味・目的に当たる。経済はお金という道具を通じながら実質的な何かを生み出して行く活動・運動だと捉えれば、「何かの時に」という言い訳で巨大な内部留保を従業員にも還元せずため込んでいる企業は、最早自分らかが何に貢献しようとしているかを見失った姿にしか映らない。まあその背景には見通しを切り開く事のない政府の歪んだ政策がありそうだが。
ラビットホール

ラビットホール

劇団昴

Pit昴/サイスタジオ大山第1(東京都)

2022/10/28 (金) ~ 2022/11/13 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

小竹向原のサイスタジオコモネは二度訪れたが大山駅傍のサイスタジオ大山(Pit昴)は初めて。遠い土地(しかも大山駅下車は鬼門)の初訪問は臆するが、行ってみれば駅近でアクセス良しであった。
同作は今年2月のKAAT公演(小山ゆうな演出)を既に観て「満足」だったので迷う所であるが、戯曲の良さに鑑み観る事にした。昴では以前見逃した「八月のオーセージ」(これもケラ演出版を観て気になっていた)が好評だった事も頭の隅にあった。パンフを見るといずれも田中壮太郎氏演出であった。
実はこの人の演出作品を一度観たい、というのも念願ではあった(2020年3月日本工学院演劇科卒業公演は氏の演出舞台、初の工学院、しかも見逃してい川村毅作「エフェメラル・エレメント」という事でワクワクの三乗だったがコロナで流れたのは今もって悔しい..!)。
舞台は期待に違わぬ逸品であった。緻密で鋭さがあるがどこか大らかな要素もある。舞台はこの劇場を横に広く使い、長い楕円の盆に乗せた格好、客席はその楕円に沿って囲む形で一列に並び、隅の方だけ二、三列という組み方。中々の臨場感である。
大きな劇場での小山ゆうな演出版との違いは、もちろん第一には起用俳優だが、例えば、難しい「感情の動線」を要求される妻役の感情表出の仕方は、演じた役者の数だけ正解があるのかも(昴はあんどうさくら、KAATは小島聖)。
KAAT公演が優れていたと感じた部分もある。この戯曲が優れているのはこれを書き込んだ事によるとも言える繊細な場面で、その人物の造形あるいは見せ方(相手役にどう響いているのか)の点でKAAT版は
飲み込みやすかった。ただ、儚く痛々しい人間模様をより赤裸々に彫り出したのは昴版であったと思われ、全体のバランス上の問題であったかも知れぬ。

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