金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima
東京芸術劇場
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2023/10/20 (金) ~ 2023/10/26 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
ギリギリまで迷って結局観てきた。フランス発のかつて世界的に話題をさらったというこの劇団が、今存在していたとて、往時のものとは変わってるだろうし「過去」のネームとは切り離して観るのが正しいのでは?とか、でもそれだと観る価値も半減するなあとか、ぐじぐじと考えていたのだが、思い切って足を運んでみて良かった。
大局的には劇団とは時代や潮流から生まれ出るもの、だがその特徴を担う演出家なり作家、スタッフまたは俳優が作るものでもある。太陽劇団は演出家が健在で、老体を鞭打って作っているのだろうが口は闊達な女性がアフタートークで「今も作り続けている」現役の喋りを繰り出していた。
舞台は休憩込みで3時間超に及び、装置、舞台機構、仕掛けや俳優の技を惜しみなくぶち込んだ趣向の数々で、日本の佐渡島(金夢島)に居る、と思い込んでいる女性(演出家)がベッドの上で夢見る風景が芝居になっている。だからジャポネスクなデザインも中途半端だったりてんこ盛りだったりカリカチュアしても成立する。中々なアイデアである。
内容をだいぶ忘れてしまったが、金夢島に利権を漁りにやってきた「おぬしも悪よのう」な悪役を出し抜いたり、佐渡島らしく能舞台をそのイベント会場としたり(そこそこ広いその舞台は可動式のピースを瞬く間に組み替えたりはけたりする)。喜劇調が基底にあり、時に辛辣な批評性高い場面を織り込んだりする。その部分は新鮮であった。例えば、あるデモか集会の様子を実際の音声で聞かせたり(その場面はそのまま暗転し観客に投げ切りとなる)、様々な言語で詩が読まれたりする。訳語を字幕で追うのみだが、魂の叫びが聞こえる。終盤、眠っている老女(金夢島に居ると思い込んでいる演出家)と夢の中の相手?と、詩的な言葉の断片を投げかけ合うゲームをやる。その断片が勿論訳語であるが鮮烈な印象の連鎖となって浮遊していく。
演劇が総合芸術であることを実感させる気合いの入った舞台で、多彩なものを織り込んだこれに該当するタイプを思いつかないが、舞踊作品の抽象性に匹敵し、かつ物語性もある。規模の大小を問わねば総花的・寄せ鍋的な舞台は日本産のを観ていそうだ。初めての感覚というのでなくある種のセオリーに則っているが、個々のアイデアは目が覚める。機構的な演出は宮城聰を思い出した。日本の伝統芸能のエッセンスが、日本人以上に(外部からアプローチするからこそのざっくりな捉え方で)デフォルメして表現されたりするのは楽しい。カタコト日本語を飛び交わさせる場面もあり、笑いを起こすような「いかにも」な場面がチョイスされてるのもセンスである。4、5回コールがあって、演出家が呼ばれて漸く収まった。
へたくそな字たち 【神奈川公演】
TOKYOハンバーグ
ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)
2023/10/12 (木) ~ 2023/10/16 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
追記をしようと思ったら、未投稿だった。何度か推敲して送らず下書きが残っていた。
・・以前この作品を観た印象から随分変わったのが、(戯曲の若干の改変も恐らくあったのだろうが)芝居の質感と言おうか、演劇的作為にも関わらず生々しさが微妙に勝っている肌触りである。劇場も異なり、今回は俳優を間近で凝視した。勿論俳優の布陣も異なり、良い座組であった。
同じ作演出で今春、一人芝居を打った松熊つる松を、間近で見ていたにも関わらず気づかず(この人いい感じで演じてるな~、と)、観劇後にパンフを見てあっと気づいた。役を見せる優れた器であり、この人の風貌は中々視覚的に覚えられない(普通は顔より名前が覚えられないのだが逆に名前は十年以上前の初見から覚えている。まあ特徴的な名前であるからして)。
ベテラン女性教員に槌屋絵図芽。毅然とした姿が感情豊かなキャラ、これがさほど多くない台詞の合間の風情から立ち上っている。これ以上ないキャスティングだ。この役については後述。
新任教員の片平喜録との対象も、おいしい。
廃品回収のトラックを転がす兄貴(つうかオヤジ=甲津拓平)、そこに上から声が掛かるので見るとノッポの孤児出身の青年(山本啓介)が建築現場で鳶をやってる。脇からもう一人中国訛りのシュッとしたの(脇田康弘)が覗く。内装業者として入ってるのだという。学校以外のプライベート(というか仕事)の時間に、三人が揃う絵に描いたよなシーンが、演劇表現の「省略」とも、偶然の出来事のようにも見える両義性が、何気に高度である。
今時の若者(と言っても舞台は1980年代だが)を吉本穗果が演じ、ヤンキーが入ったキャラが周囲に存在を許されてるのが救いにも見える生硬さが、あるとき、動物園に親戚が居るという新任教師の手引きで彼らだけに「それ」の見学を許された日に、忘れ難い変化を刻む。吸い込まれるように「それ」を凝視する彼女は、犀(だったかな)の出産に説明不能な感覚を覚える。人ではないその存在が、嘘で覆いようのない実在を、自分もそのように生まれたという否定しがたい事実と重ね合わさるようにして、だろうか、彼女を打った事が伝わってくる。
授業中にお喋りな中国人男性が歴史についての自説を語り、韓国からのニューカマー(橘麦)もまじえて論争になるのもいい。言い合う事の醜さ、ではなく清々しさがある。
現役を引退して中学に入学した天ぷら職人のおじいさん(山本亘)が、ある意味で中心的な役柄となる。小さな工務店社長である彼の息子(飯田浩志)に連れられ学校を訪れるのが冒頭のシーン。応対する副校長(藤原啓児)の真面目でお間抜けなキャラで冒頭の笑いを掴み、彼がハケた後で現われるおじさん(宇鉄菊三)が先生に間違えられ、気を良くして暫くそこに居続けるという古典的な笑いも。中盤その背景となる回想場面では、夜間中学の先輩である鳶の兄貴の嫁さん(これも孤児出身の肝の据わった姉貴=橋本樹里)との二人の部屋を訪ねて来たのがその息子。兄貴の建築現場の現場監督で、夜間中学の相談を切り出すまでにその兄貴が字が読めなかった経緯を蒸し返して語り出すので、聞いてる内に戦闘モードに入った姉貴が彼に詰め寄るというエピソード紹介である。(これで全員出たかな?)もう一人。町屋圭祐氏演じるのが軽度の障害を持つ青年。片足が不自由で引きずって歩き、顔をゆがませて喋るが自分でやれる事を淡々とやり意思が明確で自分の意見を持つ、集団の成立が実はこういう存在に助けられている事が多い、ムードメーカー。
最も紹介したかった場面は、野外授業である。
段々とグループに分かれて、分からない漢字を書き取る。「あれは何?ええと、○○とあるから、ああで、こうで・・」と言い合うのだが、観客にすればこれは連想ゲーム。正解まで親切に言わせないのがいい。結局分からないものもあったが、ギリギリ、辛うじて「あああれか」と分かったものもあった。クイズを解くというよりは、彼らの未知の物を探る「目」に同一化して行くこれはプロセスになる重要なシーンだ。
そうした彼らの「学校」生活も終わりを迎える。その場におじいさん生徒はいない。代わりに卒業証書を受け取りに来た息子が挨拶をする。そして読み上げられるのが、彼ら一人一人に出されていたが、提出に至らず置かれていたので持って来たという「自分の手で書いた手紙」の宿題。おじいさんの言葉を卒業式で聞く。吉本が「何のための学校だったのか」と荒れる。そして劇中、ある授業で先生が出した質問におじいちゃんが答えたその答えが反芻される。
実は終盤、おじいさんが教室に居て、授業が中々始まらない、副校長が槌屋先生を慌てて呼びに来るが居ない、どうしたんだろうという場面がある。最初はのんびり構え、やがて何かを察した生徒らが全員いなくなった後、おじいさんが黒板の空白に書かれるべき字を書いて去るのであるが、照明変化に気づかなかったためか、おじいさんは「実在している」と見てしまった。だから槌屋先生が何に、誰に(どの緊急事態に)向かったのかを終劇後まで探っていた(何か見落としたエピソードあったっけ・・と)。
だから終わりへと進んで行く劇に本当は付いて行けてなかったのだが、おじいさんは既に亡くなった後か、または息を引き取る前、魂がこの教室を訪ねた、という事だったのだと解釈した(実はそれで合っているのかも自信がないが、まあ多分合ってるでしょう)。
山本氏はあの山本学、圭兄弟のその下の弟だと言う。兄二人程には映画・ドラマに出なかったが俳優を続けて年輪を刻んだ人だったのだな。
吉良屋敷
遊戯空間
シアターX(東京都)
2023/11/01 (水) ~ 2023/11/05 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
手当たり次第にあれこれ芝居を見始めた頃、あの気分は震災後のまだ余震を錯覚してしまうような時期だったが、はじめて遊戯空間を見たのもそんな時期で、とある寄席で行われた「仮名手本忠臣蔵」全通しがそれだった。
その後和合氏の詩の劇や、その他ユニークなパフォーマンスを観た。私が何に惹かれているのか、と自問してもうまく言えないのだが、伝統的演目でも現代詩でも、原典に対する折り目正しきリスペクトと、飽くまでもそこに立つ所から必然的に生まれる演出趣向に留めている事(という感触)、要はストイックさと言えるか。
「吉良屋敷」も飽くまで遊戯空間のその在り方をベースに、であるが、贅沢な舞台であった。吉良邸内という閉じた場での悲喜劇として描いた井上ひさしの作とは、同じ「吉良邸内」でも趣きが異なり、最終的に吉良側にシンパシーを覚える描き方をしている。そのあたりは意見は様々かも知れないが、閉塞感よりもむしろ広がり、多彩な場面から吉良邸の日常(と言ってもこの日はハレの日に当たるがそれも含めて)が浮かび上がり、趣向の数々が贅沢かつストイックに舞台を彩っている。
雪が降っている、と読み手が伝える。「その日」であると分かる。その瞬間までの十数時間が、それとは言及される事なく(なぜなら吉良邸の者はその日が何の日になるかを知る由もない)、淡々と時が過ぎる。
検察側の証人
俳優座劇場
俳優座劇場(東京都)
2023/10/22 (日) ~ 2023/10/28 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
観た後にこれが映画「情婦」の原作に当たる作品であり(アガサ・クリスティが最初に書いた短編を戯曲に書き改めたもので、映画はそれを元にしたものという)、あのマレーネ・ディートリヒが法廷で悪役ぶりを演じた後、愛に敗れた(って感じのストーリーの)やつ、と気づいた。
芝居を観ながら、既視感は全く覚えなかった。雰囲気が違った。法廷物の常道といった感じで、主役の青年(采澤)が殺人を「やったのか、やってないのか」で言えば最後に「やった」となるんだろうな、とは予想していたが、ミステリーの仕掛けにまんまと乗せられ舞台を凝視していた。
タネが分かってしまうとミステリーはつらいな、という大方の意見に対し、アフタートークで翻訳の小田島氏が、「結末が分かった上でディテイルがどう作られているかを見るのは一つの楽しみだ。マクベスもハムレットも結末が分かってるのに皆観に行く」と成る程な発言。
リアルで緻密で見せ場のあるドラマなら、「謎」だけに引っ張られて最後まで観る(これミステリーというジャンルに限らず演劇にそ「引っ張り」の手法は普通に使われている)タイプの演劇は後に残るものがあまり無い、という事は確かにある。
さて今作、終盤のどんでん返し一つ目は見事に騙され、それが痛快であった。だが最終的などんでん返しは非道な男という造形が、単に彼のそういう「素質」から来ている、という風にしか解釈の行き場がなく、きつい所がある。(どんでん返しの面白さは十分にもう味わっているのでその時点では文句はないが。)というのは、やはり芝居は時代を映すものでありたい願望がある。
男の造形の中に何か社会背景を思わせるものが書き込まれていれば、女性の悲劇が際立つだろうし、この出来事をより立体的に、彫刻のように眺めさせる事もできるのでは・・と。
スパイ云々の話は作り話で一旦チャラになった後、男の非道さだけが残る。外国人である妻(永宝)はこの国で男との一対一の濃い関係を育み、それゆえ物理的な意味では依存関係(男の側に圧倒的な強み)があったと言える。ドラマとしては、ナチスとの関係を疑われた彼女の逃亡を助け、利用して捨てた男がいた、という話である。
女の態度から、一計を案じて彼を殺人容疑から救ったのは彼女だと見える、という意味では男の「心変わり」は偶発的であった可能性もある(その線の方がドラマティックである)。
客観的には弁護士の心証として彼は無罪であったので、一計を案じなくとも推定無罪を勝ち取った可能性が大きい。そこにちょっとした隙間風がある。そこで際立たせなければならないのは女性の「愛」となる。
だが男の本質はサイコパス並に「人をだませる」特異な才能を持つ、という特別な設定に頼っている面もある。その本質は、妻でさえも見抜けなかった。問題が残るのはつまり男の存在だ、という事に(私の感覚では)なる。
従ってやはり最後に「本当の制裁」として妻が男を殺す、という結末は事を収めるためにも必要だった。法廷内とは言え閉廷した後は「普段の時間」、そこで女は男を殺した。とは言っても男が殊更に元妻を怒りに駆り立てる行為を取らなければ、また廷吏に取り押さえられていれば・・と、殺しが成就しなかった可能性が「現実」として広がる。もしそうであった場合でも、物語は成立するのか・・。物語は完結せず不当さへの恨みは燻り、その収めどころを探すしかない。復讐か。あるいは女のこれ以上の墜落をもってカタストロフを作るか・・。と考えると、やはりミステリーはリアリズムでないミステリーのルールに則っているので、「それを踏まえて楽しむ」のがミステリーを味わう弁え、という事になるだろうか。
日本演劇総理大臣賞・余話
ロデオ★座★ヘヴン
新宿眼科画廊(東京都)
2023/10/17 (火) ~ 2023/10/24 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
先日同じく新宿眼科画廊で観たリーディング「ファミリアー」では出演していた澤口渉氏は裏方進行に回り、ロデオ★座★ヘヴン・音野氏ともう一名との男二人組、女性二人組による二編の「余話」を観せてもらった。
戦前を舞台にした作品で、最初の女性編は、女優引退宣言をした、中小劇団の“五番手”女優に呼ばれた学生時代の級友である女性記者とのやり取り。必ずしも仲良しでなかった間柄だがズケズケと言い合う仲ではあった事が徐々に知れる。今も一つも変わらない女優“やちよ”の「女優を辞める本当の理由」に迫る。
二つ目は先輩作家(主に劇作?)の元を訪れた元弟子?の編集者との、戦時下という状況でのやり取り。かつてアグレッシブな作家活動をしていて芸術のためにはお上を恐れないと豪語していた作家が、著名作家となり、このところ日和見な作品ばかり出している事に失望を覚え、後輩はその事を伝えに来たと分かる。最後にこの先輩作家が考えを変え、危険な道を選択をするのがミソで、逆にその事で「今がどういう時代なのか」が目の前に立ち現れたのか、後輩の方がおののく。短い戯曲の中によくこの要素を織り込むものであるな・・と素朴に感心。
本編である「日本演劇総理大臣賞」とは一体何であるか、皆目不知であるが、どことなく楽しみ。
逃げろ!芥川
文学座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2023/10/27 (金) ~ 2023/11/04 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
文学座のサザン公演(アトリエでない大劇場公演)はいまいち、という前例が既に二度あるので今回も多くを期待せず、だが畑澤戯曲だけに「作品」への期待は高めて劇場へ赴いた。
大劇場では大仰、喜劇調に作られるのが文学座の伝統なのかも(「寒花」という震撼とさせる鐘下戯曲で新派のような見栄芝居が突然入ってきた時は唖然とした)。
本作はスペイン風邪の流行った100年前を舞台に、菊池寛と芥川龍之介の長崎行きの車中で終始展開する舞台である。両名による時に冗談を交えた、時に辛辣なやり取りは車中だけに基本「深刻にならない」軽快さで進む。途中予期しない登場人物とのやり取りや大立ち回りが始まったり、芥川作品世界の検証のような時間になるのも面白い。
ドラマタークに工藤千夏とある。夏の渡辺源四郎商店二本立て公演の内、工藤作品がやはり戦前を舞台にした着想に優れた芝居だったが、今作も間違いなく工藤女史の知恵がまぶされていると推察。芥川作品への「批評」を一つ一つ菊池が紹介したり、芥川氏の女性遍歴(人物像が作品にも投影されている)がその作中人物によって明かされたり。
その時点では芥川が知らない事実や作品にも遠慮なしに言及され、喜劇性は否応なく高まる。
汽車の旅をベースに、時空を超えた目線で芥川龍之介の人生を眺める趣向、と言ってしまえばそれで収まりそうだが、芥川という人間が歴史上の芥川龍之介を離れて、一人間と見えてくることがある。この文学者への洞察は人間性のレベルに踏み込み、彼が様々な影響の中にあって生まれた歴史上の一存在であり、その人生の意味とは何であったのか、という問いを程よい距離感で投げている。史実上のビッグネームに依存した作品からは離脱している。
フートボールの時間
(公財)可児市文化芸術振興財団
吉祥寺シアター(東京都)
2023/10/26 (木) ~ 2023/11/01 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
殆ど完璧と言えるほどに女子たちの心情、立場、目の前に立ちはだかった時代の通念への思い、素直な発見への喜び、相手への依頼心を含めた友情、胸に秘めた切望が、丸ごと伝わって来る。
彼女達の一挙手一投足が胸を打って来るが、これは弱者に対する優越性のなせる「感動」の類だろうか。。(と自問する程に琴線に触れまくりだったのだが、、彼女らの無念さへの共感と、理不尽さへの怒りとやるせなさ、そして人は変われるものでもある微かな希望という言葉にすればお芝居の定番メニューのような感想が口から出てくる。素直に吐露して良いものか逡巡してしまう。)
ala collectionは10年程前に発見してより頑張って2、3回に一度ほど観てきたが、やはり良質な作品を作る。
幻想振動
イデビアン・クルー
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2023/10/27 (金) ~ 2023/10/29 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
抽象性の高いパフォーマンスが「ハマる」というのはどういう現象なのか自分でもよく分からないが感覚している自分がいるのは事実で実に不思議。
井手氏本人の踊りは初めて。イデビアン・クルーは三度目。身体の動きは心情、感情を伴っており、そこが井手氏の特徴だろうか。ビニルシートを取っ払うと六畳一間の畳部屋の台。周囲は砂利を敷く代わりに白い無機物が敷かれた畔のような筋が、その左右に奥へ向かって伸び、奥では上奥袖から下奥袖まで一本伸びる(上から見ると鳥居のような)。最初、舞台の舞踊エリアの対角線に男女が立ち、目線が合うと、男女の関係だと分かる。カップル同士の営みが時に面白おかしく、時に虚しく、切なく、冷淡だったりノリノリだったりが演じられて行く。
動きのバリエーションは(井手氏っぽい動きというのはあるようだが)多彩と言え、先述した如くそれらは心情・感情のバリエーションを意味する。そして心地よい。
舞踊には楽曲も不可欠だがスタイリッシュ。一曲目のヴィヴァルディの曲が微妙な強弱が少し入ったと思うとエコーが微妙にかかったり、鳴り方が変わったり(ステレオ全開が局所でAMラジオの音、になったり)、空振りパンチ攻撃に合わせて効果音の「空を切る音」を入れ込んだりと忙しく、嬉しい。一曲目は唐突に終わり、突如ベース音がリズムを刻みスローなドラムに、二人の揺らぐ身体が揃う。理屈抜きに相性抜群な瞬間だ。
音楽は5,6曲程だったか。ボレロも流れる。人生のあらゆる場面だったり、想像の世界を遊ぶ時間だったり、どちらかの見る夢だったり・・。
延々と続く二人の風情への既視感は、最後に種明かしがある(その作品を知らなきゃ分からないが)。
1時間と少しと舞踊作品としては平均的だったが、もっと長く、めくるめく時間を過ごした感覚である。
同盟通信
劇団青年座
新宿シアタートップス(東京都)
2023/10/13 (金) ~ 2023/10/22 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
久々の古川健戯曲の舞台鑑賞。やはり歴史物(とりわけ戦争責任にまつわる)をやらせると右に出る者無しではないか。戦時中実在した通信社のの「戦争」と共に歩んだ軌跡を、ジャーナリズム精神の視点から批評的に描いた力作。
登場人物中、海外からの情報を参照する語学力と現状分析力に長けた加藤という人物が、彼の提供した情報にも関わらずこれを無視したとしか思えない戦争続行の決断または停戦交渉を怠った不作為への批判を可能にする。「知りえた情報」を前に、それをどう受け止め、これ以上の犠牲を出さないための判断ができるか・・厳しくこれを問わなかった陸海軍を悪しき先例とするなら、科学的精神の発露を尊重し、知に対する畏敬を育むことがこれに応える一つと言えそうだが、学術会議や大学改革などを見る限り現状はそれに逆行する。
損得利害を離れた領域が、今や聖域と化しつつあるようで・・知に謙虚に問うてみる科学的態度の大きな後退が
見られた例が、東電による「処理水」海洋放水を巡る反応であった。
大手メディアさえ政府・東電の説明に疑問も挟まず看過した。日本は十分に戦前化しており、その事にあまりに無自覚である。
写真
劇団普通
カフェムリウイ「屋上劇場」(東京都)
2023/10/19 (木) ~ 2023/10/22 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
カフェムリウイは二度目。表からは建物の判別にまた手間取ってしまったが大方の距離感を頼りに辿り着いた。大風の吹く中、三人の会話劇が始まる。畑のある田舎、のどかな風景が窓外に広がってるだろう部屋のテーブルに弟を挟むように姉夫婦の姉が弟の向かい、夫が隣に居る。
劇団の常連かつ茨城弁芝居に不可欠?の用松亮は毎度の親父キャラと思いきや今回は少し違い、登場時点からいつにない目付きを見せ、小柄だが強い姉(後藤飛鳥)に逆らえない弟役。その姉の「でっぱり」分を「ひっこめ」る塩梅が夫婦の秘訣、といったような姉の夫(近藤強)。
短めの芝居という事で以前映像で観た感じの「切り取った」写真のような劇だろうかと想像していたが、その通りの作品だった(思わず「写真」と書いたがたまたま。「写真」は芝居でちょっとだけ出てくるアイテム)。
キャラといい会話の間のリアルさといい、噛んで味がするこの幸せな時間は何だろう。この路線、掘って行ってほしいとは個人的願望。
失われた歴史を探して
新宿梁山泊
ザ・スズナリ(東京都)
2023/10/12 (木) ~ 2023/10/15 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
同作者による「旅立つ家族」(文化座)を今年はじめに観たばかり。植民地時代と戦後、韓国と日本と二つの時と国をまたぐ話を、今回と同じ金守珍が冴えわたる演出で壮大なドラマに仕上げていた。苦悶の内に他界した朝鮮人画家イ・スンヨプの魂の彷徨であったが、今回のは同じく日韓現代史の断面を切り取った劇でも題材はあの関東大震災時の朝鮮人虐殺だ。これを劇化した日本人作家は不勉強ゆえ知らないが、題材が題材だけに、実際存在しないかもしれない。
作者は、渡日朝鮮人の従業員たちと、彼らに理解ある社長、及びその家族というコミュニティを真ん中に据え、大震災というエポックが彼らに何をもたらしたか、という視点で歴史を叙述した。芝居は劇中劇の形を取り、冒頭とラストには現代シーンがある。件の社長の手記が百年後の現代、古本屋に並んでいたのを「高かったが背に腹は」と入手したライター志望?の女性(水嶋カンナ)が、友人(杉本茜)と聖地巡礼=社長の実家を探しに田舎町を訪れているのだが、このシーンで映画「福田村事件」のパンフを持って熱っぽく語ったりする。重いテーマの芝居への軽やかな導入を趙氏又は金氏が追加したのか、原作にもあったのかは不明。
本編の劇では、社長(ジャン・裕一)の息子(二條正士)と、朝鮮人職長(趙博)の娘(望月麻里)との男女関係、それを見守る娘の弟がいる。社長の家族は二人の関係を正統なものとして受け入れようとしている。他には朝鮮で叶えたい夢のため切り詰めてお金を貯めている従業員(ムンス)、博打に目がない従業員(青山郁彦)、彼を追ってやって来るヤクザ者(藤田佳昭ら)、通報があったと刑事(大久保鷹)も登場する。彼は震災での混乱の中で良い働きをする。だが夢追い人は無惨に殺され、朝鮮人を留置所に匿ったと非難された刑事は彼らを追い払うも、火をつけられる。息子の許婚は実は子を宿していたが、一度逃げ出すも絶望に襲われなぜか炎の中へ飛び込んで行く。
工場に匿われていたのでは迷惑がかかると飛び出て行った朝鮮人従業員の内、職長と博打好きは最後には生きて戻り、娘の死を知らされる。危機が迫る中、相手の息子との結婚を社長夫妻に申し出られても一旦持ち帰ると答えてしまった己の不覚を悔いて泣く。
この歴史事実で看過してならないのは「流言」が意図的に、公権力から発された事だが、金守珍演じる何とか大臣と管轄下の警察のトップの太々しいやり取りが書きこまれている。
全体には梁山泊らしい演出であったが、唐十郎のような詩であり幻想である「フィクションでしかない」作品世界には悲壮な色を帯びた(大貫誉の音楽に象徴される)演出は適しているが、史実を扱い、史実である事が重要である作品においては果たしてどうか・・というのは残った。
無関係のジョバンニ
妖精大図鑑
吉祥寺シアター(東京都)
2023/10/13 (金) ~ 2023/10/15 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
同じ吉祥寺シアターで複数のダンスユニットによる短編企画で観たのが初(このユニットが目当てで観に行った)。次が桜木町で今回やっと三度目とまだ少ないが注目しているグループだ。多摩美時代から活動し、脚本の飯塚うなぎと振付の永野百合子が台詞シーンとダンスとその中間と、勇剛しづらい両者が渾然一体となった一つの世界観を作り上げ、どくじである。両名とも舞台に立つ。
10周年記念という本作、初見の時と同じく吉祥寺シアターの劇場機構を活用して水を得た魚のようであった。
実は昼間にも関わらず電車でまさかの寝過ごし(さっき「恵比寿〜」とアナウンスが耳に入ったから今着いてる駅は恵比寿かせいぜい渋谷だと発車を待っていたら、ドアが閉まって「次は池袋〜」新宿であった)。
15分遅れで入場する際、案内の方に「恐らく抽象的な舞台だろうから途中から見ると解らないのでは?」と冒頭からのシーンについて聞くと、(逆に)「一つ一つのネタがバラバラですからどこから観てもきっと楽しんで頂けます」と笑顔。
「そんなものかな?」と思いつつ観始めると成程、クスッと笑かす場面が数珠つなぎに続き、時折舞踊が入る。踊りもセンスを感じさせつつコミカルな、世を超越した目で描かれる芝居もどきに呼応した動きが繰り出される。直裁なメッセージがダンスに込められ、芝居に属する表現はひたすら婉曲に何かを言わないために作られてるかのよう。笑える場面や言葉で間を埋めながら、どこかに向かってる感は描写されている。
何しろ20分近く見逃したので何とも言えないが、ここでない別の世界(ステージ奥のシャッターを境界に広がるパラレルワールド)を探検気分で探してる雰囲気だが、別の世界を「切望する」文脈に読めるワードが一瞬チラッと織り込まれていたような、いなかったような。
狐につままれた気分で劇場を後にしたが、注目の度合いは変わらず。ユニットもこの路線を益々確信をもって邁進する模様である。
同郷同年2023
MyrtleArts
ザムザ阿佐谷(東京都)
2023/10/04 (水) ~ 2023/10/09 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
以前何処かで戯曲を読んだ気がしていて「三人の同郷人が時を少しずつズラして会話して行くお芝居」程度の記憶で、しかも原発が題材という認識も無かった。
ので、観劇の日は「まあ勘違いだったか」と先入観無しに観たが、見終えた後になって記憶と付合して来るものがあった。
当日は20分程遅れて入場、一場目の終わり暗転中に時間経過を知らせる字幕が映され、二人が鬱々とした話をしている所へスーツ姿が颯爽と登場したなりクスリ笑いが出ていたので、ああ一場とは随分風情が変わったのだな、とこの芝居の趣向が判ったのは助かった。(実際にどう変化したのかは後で台本で知った。)
二場目から観ても十分見応えある原発(正確には核廃棄物の最終処分場)誘致を巡っての悲喜交々。関西人らしく?やんわり笑いに落としながら痛烈な皮肉が撃ち込まれる。その快感は、三人の半生が辿った笑えない軌跡と悲哀とない混ぜに、酒のように沁みて来る。
リーディング劇『ファミリアー』
wag.
新宿眼科画廊(東京都)
2023/10/13 (金) ~ 2023/10/15 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
以前惜しくも見逃した、という記憶があり(確か世田谷パブリック)、久々のリーディング、久々の新宿眼科画廊空間を堪能した。
瀬戸山女史はテーマから戯曲を書ける人である(と思っている)。世田パブでもそのテーマありきの企画という風だったが内容は知らずこの日も白紙で劇場に入った。ナレーションから始まる。リーディング作品の入りやすさ、そして「ワン!」と犬の声。話が進につれ、犬猫の殺処分がテーマだと判る。判った時には物語に入り込んでいるというよく出来た短編戯曲で、三人の男優(この日のゲスト枠は古山憲太郎)の演技も申し分なしである。
公演情報の澤口渉氏の名に思わず目が行ったのだったが、実はこのユニット自体澤口氏によるもので、以前のユニットの片割れである音野氏の名もゲスト出演者に見つけたと思ったら、折込にもロデオ☆ザ☆ヘヴン次回公演のチラシが入っていた。(何何。完全復帰じゃあないの俳優止めるって言ってたがやっぱそう簡単に足抜けできないのが芝居、との前例が又一つ増えた?)
さて芝居だが、俳優の配置がいい。柔らかい低音を響かせる高野絹也氏が基本ナレーションと補助的な役に、日々殺処分の業務に勤しむセンター職員及び「先にセンターに入った先輩犬」役を古山氏が、新人職員と新人犬モナカを澤口がやる。
無垢そのものの犬が、飼い主の登場を信じ切っている初日から、殺処分のある5日目までに憔悴して行く変化(モナカと先輩の会話がいい)、動物を救いたくて獣医師資格を取った最初の赴任先であるこのセンターで、新人職員が現実を知るに愕然とする様子、初めて応対した犬の持ち込み者に思わず一言、いや二言が五言十言まで投げつける場面等は秀逸である。理想を持つ若い新人澤口は、ベテラン古山が見ている前で見事に(恐らく古山が何度も見て来た新人のようにか、あるいは自分がそうであったようにか)折れて行く。
ただこの新人は普通ならダメ元で言わない要望を口にする。「あの4日目の犬、洗ってあげませんか」モナカより一日早く入った先輩(年齢も上なので分かりやすい)はパパとママと海に来て迷子になったので、体毛が海水でゴワゴワだった。センターでは犬は一日目、二日目と、処分装置のある側へと檻を移されて行く。だからモナカと先輩は最後まで隣同士で会話をする。はじめ迎えに来る事を待っていた先輩が次第に元気を無くして行く(のをモナカが見てとる)事をナレーションが告げる。その伏線があった翌日、朝早く出勤した新人は四日目の犬を洗ってあげていた。「洗ったのか」と先輩に訊かれ「はい」と答えたが先輩はそれ以上何も聞かなかった。
モナカは昨日と打って変わりはしゃぐ先輩の姿を見る。「やっぱ迎えに来るんだ」モナカの祝福に見送られ、檻から廊下に出、奥のガス死用の箱に入れられた先輩犬の吠え声、壁に爪を立てる音、やがて訪れる静けさ。
新人職員はその犬を譲渡会(飼い犬を探す人と犬とのお見合い会的な会)に出す事を口にするもセンター内のルーティンを変えるに至らず手をこまねいている内にその時を迎えてしまった。そもそも譲渡会に出せる犬は生後三ヶ月までとされ、別室に入れられるが、三歳のモナカも三つ上の先輩も処分コースに乗せられた。「やってみないと分からない」と彼は主張するが、先輩職員は答える。犬を飼うにも費用が掛かる、連れてこられた犬を全て断らず死ぬまで面倒を見るなんて事は出来ない、だから線引きをするしかない、と。焼肉屋で肉をつつきながら話は食用肉のための屠殺にも及ぶ。新人は目的がある死は違う、肉を感謝して頂けば良い、と反論するも、先輩は同じ事だと言う。人間の生きやすさのために彼らは殺されるのだ、と。
酷薄な現実の中で、小さく灯る光のような瞬間も書き込まれる。
澤口が犬の側に立った思いの丈を犬持ち込みの女性にぶつけた時、自分の身勝手は分かってる、三十人に相談したがダメだったと切々と語った女性が最後に、あと三十人に当たってみます、と帰って行く。半ば己の不甲斐なさを八ツ当たりのように叩きつけた言葉が、離婚による転居から万策尽きて訪れたその女性の胸に少なからず届いた。
その様子をベテラン職員は、一度彼の名を呼んで諫めた他は黙って見ていた。台詞を滔々と喋るのを途中で切れない脚本の事情とは言え、黙る先輩の風情に、含蓄がある。我らが古山憲太郎は、新人の言葉に少なからず揺さぶられた、その微妙な心の変化を見せる。封じていた自分の思いを目の前の新人が代弁している、、。彼は最後の日を迎えるモナカの檻掃除の時、ホースの水撒きの水が跳ねて吠えるモナカを抱え、別室に運び、それから掃除を終えた。
ラストは思いもしなかった結末が訪れる。センターのリアルな現実にどっぷり浸かり、この現実と、自分の方が折り合いを付けるほかない、と観客も思わされていたから、外からの予期しない申し出に本当に驚かされるのである。
モナカはたまたまもらわれて行ったに過ぎない、それが現実だが、三歳を超えた犬を求めている人もいる、たったそれだけの認識の変化が、如何に大きな変化であるか。
私たちが生きる現実も出口のない檻のようだが、良き変化が全く無いとは言えない。予期しなかった風景を求めるからこそ芝居を観るのであるが。。
ヒトラーを画家にする話
タカハ劇団
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2023/09/28 (木) ~ 2023/10/01 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
タカハ劇団初観劇。
題材は重そうだが、願望の滲んだ捻ったタイトルから結語が既に見えている。これに作家がどんな中身を与えたのかを楽しみに芸劇に赴いた。(もっともタカハ劇団を観るぞ、とは前作あたりから決めていた。)
記憶では異儀田女史が年長組に属してる座組は初めて。期待に違わずぶっ飛んだ役柄で、芸術大学の研究者として、アートの新境地を開くべく探求の結果、タイムマシンを創作してしまう。その実験で三人の学生が過去に飛び、画学生だった若き日のヒトラーに早速出会う。
タイムリープ物の要はその「設定」にあるが、今作では時間旅行者が過去において歴史を大きく変えるまでの影響を与えてしまった場合、「空間」がズレてしまい、元の世界には戻れなくなる、としており、その影響が出ない内は同じ「空間」に居るためスマホも通じる。もっとも充電器が無いから大事に使う必要がある。現代とのやり取りで、タイムマシンが修復される25日後が「帰還日」と設定され、三人には猶予が生じる。先の「歴史への影響」については後半で明らかにされ、彼らが試みようとしていた「ヒトラーを画家にする」計画に障害が持ち上がる。そこまで歴史を変えてしまった場合、空間がズレ、現代に戻れない。その空間のズレはスマホの電波の本数がバロメータになる寸法だ。
過去に送られた学生3人とは、まず主役に当たる一人は父が画廊を運営する著名な美術評論家で、画家に対する厳しい目を持ち、息子に対しても「画家になる」甘い夢を諦め、後継者にしたいと希望している。そこに葛藤がある。もう一人は美術の教員として就職先が決まっており、もう一人は一般企業のデザイン部門といった具合。美大に進んでもその中でアーティストになれるのはほんの僅か、という現実の中、彼らは主人公にその夢を託している所もある。
皆に等しく課せられているのが卒製。そのテーマが未だに決まっていなかったのが主役の彼だったが、タイムトラベル先で「ヒトラーを画家にする事による何たらカンたら」といったテーマを思いつき、これに拘泥する。またスマホで知ったおぞましい史実から、使命感にも駆られる。
後半、「空間のズレ」の事を知らされた彼らは、ヒトラー画家計画を一旦諦めるが、スマホの電波の棒を見ながら彼らは「戻れなくなるほどの変化は起こさないが、何らかの変化(幾らかマシな歴史にする)を及ぼす微妙なライン、即ち電波の棒1本状態で現代に戻るためにやれる事をやろうとする。ここが後半ドラマの走る部分。
20世紀初頭のヒトラーの下宿先の母と娘、その叔父、同居人、美大の教授といった登場人物とのあれこれは実にトラベルで楽しいが、その時間の殆どが、風景画には強いが人物画が苦手な彼を何とか芸術院への試験に合格させるための画策となる。同じ下宿で画才のあるユダヤ人を試験に受からせない(諦めさせる)事でそれを遂げようとしたり、姑息な手段に走って頓挫するが、絵の上達の唯一の方法は「描いて描いて描くのみ」。最後に試みた方法はヒトラーの故郷の片思いの女性から肖像画を依頼された事にして、彼に人物画の苦手意識を克服して「絵が上手くなってもらう」事。そして迎えた彼女の訪問の日、背景としての歴史の喧騒が彼らを取り巻き、反ユダヤ主義の風が既に吹き荒れる。学生三人が唯一、彼らの秘密と「ホロコーストの歴史」を漏らした下宿の娘が、ユダヤ人画学生への思慕からヒトラー殺害を計画(故郷の思い人からの返事の手紙は彼女が偽造し、本当の手紙には「既に描いて頂く人が決まっている、意に沿えない」と書かれていた)、故郷からその女性が出て来るとされた日にナイフをしのばせて出かけるくだりもあったりと、盛沢山である。
水晶の夜だろうと思われる日は、ヒトラーが既に結党して政界に進出して以降の事であるのに芝居ではまだ絵を描いていたり、やや無理筋な部分もあったが、基調が荒唐無稽であるのでさほど気にならない。
全体に面白く観られた芝居ではあったが、テーマは荷が勝ち過ぎの感があった。最終的には異儀田研究員に諫められるように、歴史を変える事の傲慢さ、に行き着くが、これまでの全てが徒労である、だけでない何かが残る、というのがトラベル物である所、彼らがさほど貴重な体験をしたとは思えない後味が残ってしまう。ナチスを生み、ホロコーストを現実に起こさせたものは何か、について私達は知る事ができていない。今なお問われ続けている出来事であり、という事は私たちはこのあり方と隣り合わせである可能性があるという事だ。ゲルマン民族の優位性というフィクション(捏造)は、遠い過去のあだ花ではなく、これに類似したフィクションは日本のネット空間でも「日本の自画像」として杜撰な輪郭であれ描かれている。この距離感が、この芝居では取れていないというのが恐らく、私の中の不足感だった。
ヒトラー役が登場し、まだ独裁者・抑圧者として君臨する前の素朴な人間像を見る楽しさはあったが、これは「あのヒトラーが」という元ネタあっての効果。その効果を用いるならそれに見合う「もっと鋭い斬り込み」は必要だったのではないか。
ローズのジレンマ
劇団民藝
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2023/09/22 (金) ~ 2023/10/01 (日)公演終了
実演鑑賞
結構な時間を中盤眠ってしまった。とっかかりを何とか見ようとしたが・・原作も梗概も(ニールサイモン作品だった事も)念頭になく劇場に駆け込んで「真っさら」で見たせいか、舞台上の事態が入って来ない。篠田三郎演じるのが死者であったとは寝落ちの後、後半で漸く悟った次第。照明が変るでもなく普通に登場し、大仰な臭い演技をやって去って行く(この大仰さが「この世のものでない」演技だったのだな、と後から回顧したような事で)。サザンシアターの、プロセミアムアーチの中でお姫様が王子様を慕って、的なお芝居を見た、という記憶の残滓なのだが、もう少し記憶をかき分けてみると、「イイ話」だったんだろう、と想像はされた。
ニール・サイモン作品は恐らく初観劇。著名な戯曲は読んで「面白い!」と今度の「ビロクシー・ブルース」を楽しみにしている(でも高いな~諦めるかも)。
公演に戻れば、後半の観劇で幾分回収したのは、四人の出演者の内古手の二人が、次の世代のために尽くす、という所で琴線を震わすコメディの構図。既に名のある女性作家ローズ(樫山文枝)が長年信頼してきたパートナー、ウォルシュ(篠田・・作家業の上でのそれなのか男女の関係なのか、また彼がローズの見る幻影なのか幽霊かは不明)の死後、物が書けなくなったという問題が、今家計をも逼迫させていて、秘書の(ローズの娘でもあるが親子の関係は封印している模様)アイリーン(桜井明美)が冒頭から頭を悩ませている。
恐らく中盤、幽霊からある若手作家の力を借りてはどうかと提案され、新たな人物の登場と相成る。アイリーンと若手作家ギャビン(神敏将)との関係に焦点がシフトする。色々あって二人は結ばれ、何はともあれ目出度いラストとなる。邸を空けて二人が門出するラスト、古手の二人が見送るが、若い二人は見向きもしない。ローズも既にあちらの人となっていた。想像力を駆使して穴を埋め、どうにか拍手が出来た。
周囲を見ると、勿論高齢層が主だが、満足気であった。
演出の名も後で確認したが、どうも足りなさを覚えてしまうのが毎度正直な感想。
柔らかく搖れる
ぱぷりか
こまばアゴラ劇場(東京都)
2023/09/20 (水) ~ 2023/10/04 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
なるほど。青年団から生まれた現代口語演劇、という補助線を引いて観ると(実際そのアンテナをビンビンに立てて観てしまってたが)、家族(及び親族)の群像が平田オリザ舞台ほど淡白でなくリアリズムに寄って描かれ、しかし全体的には抑制が効いていて(「現在」の場面で特にそれが効いている)、人物への感情移入は強くは起きない。
もっとも俯瞰を促す過剰な配慮(平田舞台のような?)はなく、従って淡白さの中では必須な(砂漠で水を求むる如く)笑いを欲する事なく、十分に感情の通う湿度の中で呼吸ができた。
回想場面への唐突な移行、にも関わらずガッツリ長いエピソード叙述により、現在の空白(淡白に表出せる荒んだ生活風景の背景)が埋められるあたりに作家の個性を見た気がしており、他の作品も観たく思った次第。
母が体現する地方の家族の息苦しさも、否応無く浸潤する現代の重苦しさの前ではほろ苦さとなり、群像が人生のほろ苦さへと集約される。
おかえり
さんらん
市田邸(東京都)
2023/10/06 (金) ~ 2023/10/09 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
かわいらしい小品。
休憩を挟んで観る大作を物するかと思えば、こういう小さな作品も一つならず書く(中編も書く)。作者の創作の泉のありかを覗いてみたい、そんな風に思う事は他の劇作家にはあまりない(大概の劇作家は傾向、作風が固まっているものだし)。
勿論尾崎氏の作風というのもなくはない(今作にてそれを認識)が、振り幅は中々である。
日本対俺
株式会社コムレイド
ザ・スズナリ(東京都)
2023/09/25 (月) ~ 2023/10/01 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
楽しかった。面白かった。赤堀ワールドだった。
The Shampoohatを初めて観たのが「砂町の王」だったせいか、汗に光る上半身を晒してけだるそうに工場の喫煙所で口数少なに煙草を吸う児玉貴志、日々大介、野本光隆らのその場所を指すのだろう砂町(といっても実在の地名と知ったのも後の事)が、いつしか記憶の中で劇場のロケーションになり、下町界隈で観た、という記憶に変質していた。
劇団の常小屋がスズナリ。符合しないまま帰宅し、今更に「そうだったな」と気づいている案配。
終盤、私が観た回のゲスト黒田大輔が登場するが、その「砂町の王」で慎ましく座卓を挟んだ夫婦役で登場した記憶を最後に、その後劇団公演を3本観たが出演せず、「同じ劇団員同士」だったと気づいたのは、ゲスト演目の最後の方だった。
赤堀氏の演劇観、作品世界は一貫しており、今回の一人芝居も例に漏れずで、渋みを醸す。笑いで閉じる生芝居5本とその合間、及び冒頭に映像(続き物=水澤紳吾氏ともう一人の三名出演)が挟まる。二つの取り合わせが絶妙。パンフを見れば赤堀氏本人は「罰ゲーム以外の何物でもない」と書いてあり、確かにその通りであったが、観る方は楽しみ、最近なかった笑いが劇場に噴いていた。
黒田氏と並んだ終演の短い挨拶では、劇団The Shampoohatに触れ、「長い間応援有難うございました」「これをもって解散という事で。」と言ってまた笑いを取っていたが(正式に解散宣言はしていなかった)、何故かほろ苦さが。
(帰宅して久々に劇団HPを探すも、とうに消えており、最後の公演は2014年であった。)
夜への長い旅路
CEDAR
すみだパークシアター倉(東京都)
2023/09/16 (土) ~ 2023/09/24 (日)公演終了
実演鑑賞
古典作品を鋭く豪奢に舞台化、という勝手なイメージが、初見の「悪霊」では狭い劇場(同じ風姿花伝だったか)に詰め込んだような泥臭い作りながら作品が秘めたメッセージを誠実に伝えていた印象(自分には思い入れのある作品でもあり)。些か気になったのがキャスティングにスターシステムの影が。
その懸念が当たったかに思える今回の「夜への・・」。少々残念な結果であった。以前観た熊林宏高演出の優れた舞台が念頭にあったためだろうか。
幾らか差引しつつ、こういう作りもあり?等と角度を変えて観ようとはしたが眠気もあり「脳」がうまく稼働せず。
最後まで違和感を拭えずに終えた理由は、自分の中では一つ、やはり配役の問題だった。果して、作品優位で決めた配役なのだろうか・・?という疑念はこのユニットの製作態度に対する根本的な部分に向いている。