瘋癲老人日記
劇団印象-indian elephant-
小劇場B1(東京都)
2019/10/02 (水) ~ 2019/10/06 (日)公演終了
満足度★★★★★
「瘋癲老人日記」は<老人の生と性>を主題にした谷崎潤一郎の小説である。チラシ説明によれば、主人公・卯木督介 77歳が息子の嫁の足に異常な執着を見せながら魅かれていくというもの。今まで観てきた劇団印象(いんぞう)の公演イメージとかけ離れていたため、どのように観(魅)せるのか興味津々であった。この劇団は「遊びは国境を越える」という信念の元、”遊び”から生まれたイマジネーションからの創作であるが、原作内容を考えれば、下手をすれば息子の嫁との”火遊び”と勘繰りたくなるような…。
この公演は、原作の対象というか観点を変え、演劇的手法を十分に発揮し原作とは異なる魅力を秘めた作品になっていた。その意味で劇団印象の、そして構成・演出を担当した鈴木アツト氏の新しい一面を観ることが出来た。
(上演時間1時間30分)
ネタバレBOX
中央に平台があるだけ。後ろは暗幕その前に中央と左右に3枚の白幕。それだけを見ると鯨幕のように思える。しかし主人公の卯木督介はまだ元気で息子の嫁・颯子の足に異常な執着をみせ魅せられていく。タイトルの「瘋癲」は、精神状態が正常でない人という意味だから、督介は颯子に翻弄されることで生きる実感を得、生きる希望を見出しているようだ。一方、颯子は美しく小悪魔的で、男を翻弄することに長けており督介にまとわりついては欲しいものをねだる。まさに瘋癲老人と蠱惑女性の織りなす喜劇。
公演の面白さは、原作の小説や映画化された映像と一線を画す演劇的と思われる演出手法だと思う。颯子という1人の女性の多角的な面を5人の女性に演じさせることで、1人の女性の内面の違いを鮮明に際立たせ、一方、外見の違いは誰しもが持っている性癖なのではないかと想像させる。もちろん戯曲として原作の面白さを十分引き出し描いている。同時に演劇ならではの健康的なエロチシズムで魅せるダンスなどサービス精神も好い。蒼然となりそうな原作の偏執的部分をクローズアップさせ、人間が持つ性癖的な部分を現代的に描いたように思える。
人間、死の淵にあっても性欲は疼くのか、死んでもなお自分の骨を踏みしめさせることで女を支配しようとする。もちろん観せる場面は、颯子の足を舐める変態的なところ。この件は、視覚ではなく自分の妄想に浸れる原作、その偏執的描き方が面白いかも...。
公演でもその見せ場はしっかり観せるが、何故か厭らしさと言うよりは滑稽さを感じてしまう。もはや直接的な欲望ではなく精神的な安息を求めているようだ。それゆえ母や乳母などが登場する。人は死ぬ間際に”人間人生のすべての場面が走馬灯のように目に映る”という話を聞くが、まさしく颯子を通して関わった女性...脚の美しい踊り子、男を支配する悪女、慈愛に満ちた菩薩、記憶の中の母親が次々と現れる。
公演は老人・督介を演じた近童弐吉サンの怪演が素晴らしい。ほぼ素舞台であるにも関わらず、俳優陣の演技力によって狂態の世界観を表出している。そして衣装、傘などの小物使いも巧みだ。督介の衣装は和服、颯子は喪服の黒、妖艶な赤い服、看護服の白といった原色で場面印象を際立たせる。同一服による同一人物を演出しながら、颯子という女性、1役5人の女優による連携演技で人間の多面性を浮き上がらせる見事な公演であった。
次回公演も楽しみにしております。
木立によせて
芸術集団れんこんきすた
新中野ワニズホール ( Waniz Hall )(東京都)
2019/10/04 (金) ~ 2019/10/06 (日)公演終了
満足度★★★★
本公演は第1部、第2部あわせて上演時間2時間30分(途中休憩15分)、その時間もさることながら、内容的に”学び”を通して人間讃歌を高らかに謳った力作。久しぶりに拝見した 芸術集団れんこんきすた公演は、第1部の1910年代の先生と生徒の相互の視点、第2部の1920年代の先生の変化した観点と生徒の思いを全編通じて抒情豊かに描いている。それを役者陣が熱演をもって観(魅)せてくれる。
この公演は、観劇後に観客が金額を決める言い値公演となっており、「本当に観て良かった」と思ってもらうための作品作り、妥協なく創り上げるための挑戦でもあると。
素晴らしい公演であることを前提に、卑小とは思いつつも少し気になったところが...。
ネタバレBOX
第1部「ポプラの淡き翼」、第2部「白樺のいたむ瞳」で、舞台セットは基本的に同じ。上手側に木のベンチ。1部と2部のセットの違いは、新緑と冬の枯れ木、2部には下手側に椅子が1つ置かれる。気になるのは舞台となるのが、キルギスの田舎村であるが、後景はチラシの絵柄と違い鉄扉で鉄鋲もある。広大な放牧地帯のような台詞に似つかわしくない。後景の工夫が難しいようであれば暗幕にしてはどうか。
第1部「ポプラの淡き翼」
キルギスの田舎村。そこに住んでいるロシアから来た女性オリガと村の少年ジェイシェンとの交流から物語は始まる。待ち合わせの場所に遅れてくる少年を叱る先生。約束の時間を守らない事+嘘の言い訳をすることを叱っている。何気ない会話の中に村の事情と少年の心情が次々と語られる。第1部は大括りに3話で構成されている。先生の観点から①少年の無知・無恥振り、土産と称し牛馬の糞を持ってきて、その効用と効率的な労作業への疑問と提案に驚き(12歳前後)、②知識(読み書き計算など)を付けるが、驕り真に活かされていないことへの諭し(15歳)、③村を出て国(ロシア)のため戦場へ行く(18歳)。自分で認めた信念であるが、教師は戦場へ行くことの無意味さを説くが…。
最後は、戦場での恐怖に耐えながら書いた先生への手紙-学んだ結果、戦場という死地にいることへの後悔。学ばなければよかったと…。手紙を読んだ先生の哀しみ、慟哭が痛ましい。
第2部
1部から10年あまり後の話。村の少女アルティナイは結婚の条件として読み書きと計算の習得を言われていた。そこでオリガに教わることになるが。冒頭オリガが約束の時間に遅れてくる。1部と逆の展開であるが、ここにオリガの今の心境が描かれる。ジェイシェンの死は、教えることの空しさ、もしくは恐れを抱いたかもしれない。しかし少女の学ぶ熱意、姿勢に絆され教え始めるが…。第2婦人として40歳以上も年上の男と結婚、その見返りが羊1頭というもの。そこに当時のキルギスの貧富格差、さらにはロシアへの従属という事情が浮き彫りになる。少女は誓う...学びの証として自分が出来ることは、幸せに生きること。ラスト、共に学んだ生徒としてジェイシェンの手紙の真意が分かるという。”学ぶ”ことの意義、人生を豊かに暮らすための人間讃歌が語られる。当時のキルギスの女性たちに課せられた運命、選択肢のない生き方。しかしアルティナイにとって先生の教えにより、彼女は学問を通して生きる価値を見出すという感動作。
1部・2部に共通しているのは、学びは人生を切り開くすべを示唆し、切ない結末でも「希望」を持てば可能性は残されている。人生は未来があれば耐えられる、かもしれない。「希望」という言葉に象徴されるような結末、実に観応えがあった。主題は「学び」であるが、その対としての「教え」の無意識な傲慢さも垣間見せる。例えば、ジェイシェンに教えた言葉はロシア語であるが、本来であればキルギス語ではないか。当時キルギスはロシアの属国であり、「教え」にも その地の文化や風習・習慣を無意識に無視することもある、そんな皮肉が込められているようだ。
さて、物語は1部2部を通して面白さが倍加する。しかし第1部だけでも完結できそうな展開なのに対し、2部は1部の救いの物語で、インパクトが弱いように思う。確かに虐げられ何もかも奪われていく中で、学んだこと-読み書き、計算は自分の頭に吸収、蓄積し奪われることはない、という台詞には胸が締め付けられる。しかし、1部の12歳頃から18歳迄の時間軸のある”学び”、外見的な変化(例えば風貌、衣装)などは劇的な観せ方をする。2部は結婚までの期間であり外見的な変化は見られない。物語は少年、少女の置かれた立場や境遇という心象劇であるが、それでも2つの話の流れの印象・インパクトに差があったように思えたのが少し残念。
次回公演も楽しみにしております。
糸瓜咲け
URAZARU
上野ストアハウス(東京都)
2019/10/02 (水) ~ 2019/10/08 (火)公演終了
満足度★★★★★
正岡子規の24歳から亡くなる35歳までを、彼を支えた家族や交友関係を通して描いた力作。子規(ノボさん)の生への執着や言葉との格闘という内面の掘り下げ、友達への羨望という人間臭さを観せることによって、”人間 正岡子規”が立ち上がってくる。劇中ではノボさんと呼ぶことで、少し距離ある人物を身近、親しみに感じさせるあたりが上手い。
(上演時間2時間5分)
ネタバレBOX
舞台セットは子規庵のイメージであろうか。和室・畳に縁側、奥の襖戸を開けると格子を通して玄関が見える。その部屋に文机。下手側には庭があり糸瓜、紅葉した葉、新緑の葉や花々が咲いている。そこには四季が見える。この狭い空間が正岡子規の行動範囲であるが、彼が思い描いている世界観は遥かに広い。目に見える実際の空間に対して、彼の心的空間の広がりの対比を演出しているようだ。
物語は子規24歳から35歳までの人生を順々と描いており、奇を衒わず実生活を通して彼の生き様を魅せる重厚な作品だ。冒頭は、子規の妹・律がストーリーテラーのように、伊予弁で場所や年代、登場人物を紹介するように始まる。これによって一瞬のうちに時代設定や家族・交友関係が分かる。そして客観的な観点として、闇鍋を通して人柄なり親交振りを表す。一方、子規自身は学者にも軍人にもなれず、小説家として生きて行こうと決意。その小説「月の都」の批評を夏目漱石、さらには子規本人が幸田露伴から聞いたことを述べる。批評は、子規の書きたい思い、その芯というか真がなく、単に文章を飾っているだけという辛辣なもの。以降、詩人として生きて行こうとする心情過程が実に丁寧に描かれる。その間に好きな野球のエピソードや従軍記者になれた喜びなどが語られ、その人柄なりを活写するような演出は上手い。
一方、彼の人生は、結核や脊椎カリエスという病魔との闘いでもあった。それを家族の関係、支えとして描いている。妹・律の買い物、カリエスへの処置等を通して、いかに家族の献身的な支えがなければ、彼の偉業は達せられなかったことか。献身的介護をしても、病人の側からすれば不服もあった。身勝手なようだが、彼も耐え難い痛みと、一切の自由が効かぬ体に苛立っている。病になる前は、野球を愛するなど快活だった子規だからこそ悔しい思い。それは「病牀六尺」という台詞に表れている。しかし彼も介護は律しか出来ないことを知っている。他に代わることのできない事を偉業というのであれば、律の介護はまさにそれである。律と同じように誰かの支えとなっている、それは現代にも通じる、いや介護が声高に叫ばれている現代だからこそ大切な事と思える。しっかり現代性に合わせるところは巧みだ。
交友関係では、夏目漱石がイギリスへ、秋山真之がアメリカへと旅立つが、自分は外国どころかこの庵から出ることが出来ない。その もどかしさが切々と伝わる。しかし子規は言う、この庭には草花...自然があり森羅万象。ここに舞台セットの四季の意味があるようだ。その胸の内にある世界観を俳句や短歌として残したい。もっと生きたい、その切実な思いが鬼気迫るように描かれる。知らなかった”人間 正岡子規”を感じられた素晴らしい公演であった。
もちろん、役者陣の演技力があっての芝居であることは言うまでもない。
次回公演を楽しみにしております。
『GUNMAN JILL 』&『GUNMAN JILL 2』
チームまん○(まんまる)
萬劇場(東京都)
2019/10/03 (木) ~ 2019/10/20 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
下ネタで笑いを誘いつつ、根底は愛情に溢れ、ちょっぴり社会批判するような内容。当日パンフのあいさつ文の中で、チームまん〇代表の小山太郎氏が「提唱する不快感のない下ネタがきちんと構築され」と記しているが、その通りだと思う。
劇中のS&M対決を通して、人の本性を哲学的に語るが、視覚的に描かれているのは西部劇。劇中のS&Mとは意味が違うが、(S)素晴らしい(M)物語であった。
(上演時間1時間45分)「GUNMAN JILL」編
ネタバレBOX
舞台セットが物語を支えていると言っても過言ではない。上手側に車輪と樽による酒場席、中央にこの町の名「COWPER TOWN」ゲートと酒場入口、下手側は2階部を設え、1階は出入口、2階は遠距離場所イメージ。そして店入口傍にBarカウンター(ボトル棚)がある。
梗概…凄腕ガンマンのジルリキッドはこの町を守るためにやってきた。街の護衛に雇われたゴールドマン一家の早撃ちガンマン、Sのクリトスと対峙する。ジルのドMっぷりには、依頼者・市長の娘アナベラもうんざりしている。しかし逆にジルはいたぶられるほどに強くなる。そしてこの2人の勝負が始まるが…。ジルのM(マゾ)持論は、いたぶられる=ガマンすることは人間を強くする。それは拳銃の早撃ち効果だけではなく、人間としての思いやり、愛情の表れでもある。アナベラだけではなく、この店の女達にも蹴られ殴られるほど、早撃ちが出来る。ジルがドM性癖を指摘し、クリトスが自問自答する姿も滑稽だ。この遣り取りの中で、自分は3.11東日本大震災のことを思い返した。ゴールドマン一家の強欲、そのボスに拾われ育てられたクリトスに、ジルは物質的に乏しくなったことや、痛みや悲しみを忘れ豊かさだけを求めている。あの時の”我慢”をすっかり忘れてしまっている、に深く感じ入った。
公演の面白さは、スピード感、テンポの良さにある。ドMの力を発揮させるための平手打ち等に連動した拳銃さばき。400ḿ先は2階部でイメージさせ、早撃ちスタイル⇒銃声⇒命中⇒倒れるの演出・演技のタイミングも絶妙だ。また痛みを感じない薬、それによって最強一家を作ることを目論む。その危険性を鋭く批判するような啓蒙的な描き方。身近には薬物中毒、その延長線上にある軍事転用(連射銃等の武器開発を含む)の恐ろしさが伝わる。さらにBarで働く娘シリルに厳しく当たるマスターの心遣い(娼婦にさせない)など、いろいろな愛・情を盛り込んだ表層的な西部劇、根底は人間ドラマである。
この物語は、凄腕ガンマン・ジルの活躍を新聞記者とカメラマンが後に取材しているという記録と記憶の劇中劇という構成になっている。それゆえ時間というか時代の違いから、西部劇の登場人物と新聞記者は同地しないような描き方になっている。だから物語が順々に展開し分かり易く観せているところが上手い。
さて、チームまん〇は「下ネタは世界を救う」を基本理念に掲げ制作している。本作は役名や台詞で下ネタを連想させており、台詞としては喋り難いことを サラッと言い笑いを誘う。脚本はもちろんだが、この笑い台詞とアクションが公演の最大の魅力だと思う。
次回公演を楽しみにしております。
三十と十五の私
神保町花月
神保町花月(東京都)
2019/09/26 (木) ~ 2019/09/30 (月)公演終了
満足度★★★★
タイトル通りの30歳と15歳の私が、時を往還しその年齢における女性の心情という視点で描いた秀作。夢見る15歳の少女、焦燥・苛立つ感情があらわになる30歳女性。その間の15年間の経過を語ることなく、思春期と自立期の対比として観せる。そして15歳のある事をきっかけに物語は進展するが…。実は物語に人生の節目、選択における「たら れば(サブリミナル効果?のような)」も刷り込んでくる巧みな演出だ。
(上演時間2時間)
ネタバレBOX
舞台美術は収納Boxを組み合わせ、上手・中央・下手側の壁際に配置し、中央にテーブルがあるだけのシンプルなもの。Box内には固定電話や小物が飾られている。セットによって時代間隔や学校・家庭という固定観念を抱かせないよう、あえて機能的な造作にしていると思われる。
主人公・エナ(西田さおりサン)は15歳で妊娠、その処置をめぐる女友達の言動。また、その事実を知った彼氏・時夫の態度・行動が表層的に描かれる。女友達は親身のようで、他人事のようである。彼氏は中絶前提の行動。現実的なものの考え方なのだろうか。時の流れは、もちろん衣装などで一目瞭然であるが、些細であるが携帯電話・スマホの違いなど台詞にも表れている。
時を経て、30歳のエナ。会社をクビになり実家に帰ってきているところに同窓会の案内が...。過去の出来事と現在の心境が混じり苛立つ。髪の毛を掻き毟る、物(ダンボール)を投げる、椅子を蹴るなど、その激しい行為(表現)に胸が痛む。友達関係も上辺だけなのか、あまり会いたくないと思う気持ちも垣間見える。観たら感じられる表現も文章にするのが難しい。そんな女性の心の内を描くのは上手い。女友達の結婚話、中学時代の影の薄い友人、夜逃げした中学時代の親友、継母、母の連れ子(弟)の関係など盛り沢山のエピソードを散りばめ面白可笑しく観せる。
人生に「もし、あの時に戻れたら」という思いも描く。中絶した現在の在り様、子供を生んだ人生がどうだったのか...こちらも幸せそうに描いている。何気なく挿入される別人生。少し違和感も感じるが、中学生のエナと中学生のカナが同じ時代(同時に登場しないが)に生きているような、そこに母娘の親和性を抱かせるような不思議感覚がある。さてエナの15年の時を隔てた自分との邂逅、別の選択をした場合の夢想...その両方の描きはハッピーエンド。そこは作・演出の梨澤慧以子女史の優しさの現れであろう。
テンポが良いことから心地良く観ることができる。一方、その流れるように観えることが、インパクトある出来事の割りには印象が薄い。やはり登場人物が皆善人なんだろうか。30歳という若さに少し翳りの見えた年齢...15歳の時からすれば30歳女性は大人だと...しかし、そこには未経験という錯覚がある。これはこの先40歳、50歳も同様かも。
次回公演も楽しみにしております。
絵師 松蔭堂
Project JUVENILE
中板橋 新生館スタジオ(東京都)
2019/09/25 (水) ~ 2019/09/29 (日)公演終了
満足度★★★
公演の魅力は、大正時代と絵師というあまり観られない設定の中にミステリー風の物語を紡ごうとしているところ。それは舞台美術や衣装などで表し、ミステリーは活動(映画)屋や風鈴屋の存在や妖しげな風貌で魅せる。
しかし、物語にひねりがなく直截的な描きになっているため、時代設定や絵師という職業を活かしきれていないところが残念だ。せっかく舞台美術などで雰囲気を出しているのに、その演出効果を十分に活用できていないのが勿体ない。
(上演時間1時間40分) 【桜花チーム】
ネタバレBOX
舞台セットはそれほど広くない劇場にもかかわらず、上手側に2畳+縁側の部屋を設え、和箪笥、障子戸を配置し、さらに外には桜の樹があり和空間を演出している。下手側には縁台らしきものが1つ置かれている。登場人物は大正という時代や職業を意識した衣装であり、男女とも洋装や和装姿、そして絵師らしい格好、夜鷹の色香ある着物姿など見る楽しさ。さらに風鈴屋の顔のタトゥーペイントなど観(魅)せ方に工夫や凝らしがある。
梗概は説明にあるが、絵師を生業とする室谷松蔭は「平穏」を題目にした絵を描けずにいた。そんな時、松蔭は疎遠になっていた旧友、江崎兼光の妻 詩子の訃報を耳にする。兼光の見舞いに訪れた松蔭が、その姿に違和感を覚え、共通の悪友である面屋と探りを入れると…。日本の信仰で知られる「百度参り」。その信仰を物語の中に取り入れ、風鈴を100個集め亡くなった妻を蘇らせるという祈願をミステリー風に描く。ラスト、それを桜の樹との関わりで印象的に魅せる。
また 八重との かくれんぼ 遊びを通して無垢・無邪気さ、一方神隠し・誘拐などにあうとの言い伝えを場面場面に落とし込む。それによって物語に妖しさを漂わせようと試みている。
物語の雰囲気作りが優先し、話にひねりがなく奥行きが感じられないのが残念。もう少し展開にメリハリと意外性があると物語に引き込まれ観応えがあったと思う。
一方、人の優しさ、愛情、愛するがゆえに歪んだ行為など、人に背負わせた心情の設定は上手い。そして知恵遅れと思われる八重を通して、人はそれでも生きて行こうとする光明を見せるようで...。演出・舞台美術と脚本に良い悪いの差があり過ぎて、もう少し公演全体の上方バランスに工夫が必要だろう。
次回公演を楽しみにしております。
ラッキーガール、ノッキングループ
ソラカメ
中野スタジオあくとれ(東京都)
2019/09/21 (土) ~ 2019/09/29 (日)公演終了
満足度★★★★
「ソラカメ初のプチロングラン公演に挑戦いたします。」という謳い文句の公演、実に面白かった。
誰かの書評に純文学作家と大衆作家の違いは、純文学作家は「自らの業」を掘り下げて共感を集め、大衆作家は「他人のエピソード」を面白く書き読者を喜ばせるとあった。
この公演は、7人の女性の小学生時代から30歳になるくらい迄を描いた少し時間軸が長い作品である。その中で「個々人の業」と「他人の噂話」で少しづつ軋んでいく関係を実に上手く表現した「中間小説」ならぬ「中間演劇」のように思える。
(上演時間1時間45分)
ネタバレBOX
公演の魅力は、表現し難い微妙な心の変化、それを7人の女性の多感な時期を経た関係性の中で具象化しているところ。心の荒みは冒頭の舞台セットに表れており、同じ荒みが中学の同窓会後、部屋に集まって飲酒している時の光景に見られる。舞台美術や照明(夜明け等の時間経過を照明の諧調)といった舞台技術で心象を描くところは巧い。
冒頭は、この部屋の引っ越しシーンから始まる。舞台は6畳一間に押入れ、上手側に窓と白いカーテン。テーブルの上にビールの空き缶、畳の上に本や服が散乱している。窓の傍には蒲団が積まれている。物語が進むにつれて、この乱雑さが心の在りようを表していることが解ってくる。
物語は、地方都市のしがらみや閉鎖性を背景に、親の離婚による家庭環境の変化や母の同棲相手による暴力を思わせる行為で、彼女達の心を浮き上がらせていく。本人の成長とともに友人関係にも変化が生じていく。自我の形成、意識の変化といった本人のことと同時に、(母)親たちのちょっとした意地悪な言動、噂話が子供の心に動揺や不信を与え、友人関係にも影響を及ぼすという負の感情連鎖を描く。彼女達の成長を通して見えてくる不寛容な社会に息苦しさを覚える。
物語は小学、中学、高校、大学生・社会人といった期間別に、部活、進路、恋愛などその時期に話題になりそうな事柄を織り込みながら、関係性が歪んでいく様を実に上手く表現する。例えば小学生の頃は友達の家でお泊り、そして扇風機に全員が重なるように向く。しかし中学、高校になるにしたがい風見鶏のように都度立場を変え、または無視したり悪評を流すなど歪になると7人が揃って登場することがない。仲の良いグループだけの集まり、または嘘や誤魔化しで表面を取り繕う姿をしっかり見せてくる。誰もがピリピリし他人を許さない、そんなこわばった雰囲気を漂わす。何か特異な事件・出来事を描くのではなく、身近でありそうな暮らしや関係性だけに身につまされる。だけどいつの時代でもありそうな事、そこで何を汲み取るかは観客それぞれだろう。
役者はそれぞれのキャラクターを立ち上げ、表情も豊か。お泊りシーンなどは女子会(普段の「ソラカメ」活動?)を覗き見ているような楽しさがあった。それが徐々に表情が険しくなり、責任を押しつけ罵り合うシーンなどは圧巻だ。その意味で劇的にはバランス良く演じている。また女優陣の中で唯一の男優で、不穏さを漂わせている山下(松本哲也サン)の存在はインパクトがあった。当日パンフで作・演出の岡本苑夏女史が「女が集まると大概面倒くさいのだ---女ばかりの話。原点回帰。」とあったが、まさにその姿を観せていた。
次回公演も楽しみにしております。
国粋主義者のための戦争寓話
ハツビロコウ
小劇場 楽園(東京都)
2019/09/24 (火) ~ 2019/09/29 (日)公演終了
満足度★★★★★
戦争という事実に伝承という土俗的な内容を挿入させて、人の疑心暗鬼を誘い狂気を浮き彫りにするような公演。タイトルにある「国粋」の対象は…。物語は、戦争という極限状態、山奥・山里という限定空間、目的遂行までの時間制限など、選択余裕のない状況下を設定し、人間の精神・心理を激しく揺さぶる。まさしく戦争という不条理劇。その緊張感や緊迫感がリアルに迫ってくる、実に観応えのある公演だ。
(上演時間2時間)
ネタバレBOX
舞台セットはベット大の箱、そこも含め床一面に藁。別に置台に破れた日の丸国旗がある。全体的に薄暗く、山奥という雰囲気を漂わすと同時に得体のしれない不気味さを表す。そして時に照明を暗転し懐中電灯を照らし、何かが鳴り軋むような音響が緊張感をもたらす。また箱への上り下りが躍動感を生んでいた。
物語は終戦間際の8月上旬の約10日間を描いているようだ。冒頭シーンの日こそ分からないが、それ以外は広島原爆投下、長崎原爆投下そして終戦を知らせる無線傍受という台詞から日の経過を知ることが出来る。
米軍機の攻撃に対してロケット式軍機で迎撃する作戦(キ203号)を立案し、その秘密基地へ向かうが先遣隊が忽然と消えて…。先遣隊が消えた原因を探るというミステリー仕立て、そして山奥にある自称、平家落人村の魔物(蛇女)伝説というサスペンス風な観せ方は、戦時中と相俟って一層緊迫感を生む。この地から縄文時代の鏃などが発見され、遥か昔から人が住んでいたらしい。
さて「国粋」主義者の論議。
1つは主人公の龍巳少尉(草彅智文サン)と先遣隊指揮官であり少尉の兄である龍巳大尉(松本光生サン)の言い争いに集約される。少尉の青年将校らしい 皇室皇統の「万世一系」は至上の価値であり、日本国は優れた特別な存在と言い、大尉はそれより以前に居た人間、その先住民こそが真の日本人だと言う。国家存亡の危機という現在(戦時中)、そして縄文時代という過去を掘り返し「国粋」を土着順といったことで議論する滑稽さ。
2つ目の「国粋」は情報、世論、風潮といった見えざる手といったことだろうか。蛇女伝説は、橋を渡った先で美女に化けた蛇が甘言を弄し不用心になった人を食ってしまい、骨で山が出来ているというもの。終戦間際らしく、軍司令部の統制は不能に陥り、情報は虚実綯い交ぜになり正常な思考が出来ない。その見えざるものに飲み込まれている様はまさに蛇女伝説そのもの。そこに戦死者の山を連想してしまう。無謀な戦意に煽られ雰囲気に流されそれに慣らされてしまう怖ろしさ。
また兄弟には白痴妹(登場しない)がいたが、今は亡ない。何かと手に負えないことから集団強姦を仕組んだ結果…。この負い目がフラッシュバックし、さらに少尉の精神状態を追い詰めるという色々な要素を盛り込んでいる。
役者陣は、まず坊主頭、軍服姿という外見で観せる。そして緊迫した状況下における精神状態、軍隊という階級社会の中での立場・言動を実に上手く表現している。そこには戦場未体験者の将校(少尉)と戦地を転々とした兵士の理屈を超えた説得力。現場を知らない上官という悲哀と虚勢、そこに見るアイロニーが悲喜劇のように思える。そして時季的に蝉の鳴き声が騒がしいほどの音響であるが、蝉に掛けて「(少尉の)今だ空を飛ばず、地面を這いずり回る」という言葉が端的に精神状態を表す、実に見事な公演であった。
次回公演も楽しみにしております。
リタ・ジョーのよろこび
劇団俳小
d-倉庫(東京都)
2019/09/21 (土) ~ 2019/09/29 (日)公演終了
満足度★★★★
自分は、文明その利便性の中で暮らしており、社会システムに組み込まれ規範に従い行動をする、それが当たり前という感覚にある。その感覚は、物語における一方の視座であり常識である。しかし物語に登場する先住民(ネイティブ)にとっての常識ではなく、文化等の違いによって常識が非常識になるかのようだ。”文明(文化も含む?)”という語彙からするとすぐに利便性を連想するが、そもそも文明は農耕での食糧生産とそこから生まれる余剰農作物が前提だったことを思えば、この物語は常識・非常識も含めた大きな対立ではなく、どこかで行き違った人間の感情、意識、その延長線上の社会組織等々を描き出しているような気がするのだが…。
同時に今、世界的な問題になっている環境についても考えさせる秀作。
(上演時間2時間10分 途中休憩15分)
ネタバレBOX
舞台美術は、判事席の椅子を除けばすべて木(廃)材による造作。この劇場の特長を生かした高さ、2階部を設えることによって場所・時間の遠隔感(故郷と町・過去と現在)と物語を俯瞰的に観るといった構図を演出する。上手側には滑り台状の可動台座のようなもの、中央下手寄りに判事席、下手側には別スペースを思わせる立方型木材。木(廃)材は人の温もりと同時に、先住民が暮らす自然豊かな土地、年代を表しているようだ。
梗概…冒頭の法廷シーン、この場所空間における被告であり主人公のリタ・ジョーの回想が次々と展開していく。それは故郷での懐かしい日々や町に来てからの酷くみじめな暮らしが描き出される。そして判事に(白人)社会の規範を諭されてもリタには罪の意識が目覚めない。文明社会の価値観がそれまで生きてきた先住民たちの価値観と違うから。
物語は、まず先住民と判事を代表格とした白人社会の文明の違いなどによる対立や批判を直截的に描き牽引していく。その印象的な台詞が、白人による宗教と絡めた教え諭しの後に残ったのは、土地と引き換えた聖書。口巧みに土地を収奪する、そこに白人の狡猾さを描く。さらに土地だけではなくもっと大事なものも奪われたと…。しかし何でもかんでも白人=資本主義の悪として描いている訳ではなく、そこに潜む功罪と人の知徳を伝えるところに見所の1つがある。主人公リタの父(酋長)は、自分の後継者には大学を卒業し教養ある人物をと願っている。従来通り、自然とともに暮らしていくことへの危惧も懐いている。それ故か、父として娘を絶対連れて帰るのではなく、町で暮らす自由意思を認めている。
また先住民と白人の対立だけではなく、先住民の世代間(酋長とリタやジェイミーなど)の考え方の相違なども絡める。故郷ではなく町で働き暮らしたい、故郷は自然は豊かだが暮らしが成り立たない停滞感、閉塞感を激白させる。ここに人間としての本音も見えてくる。
さらに先住民=自然と考えれば、そこには世界的な課題となっている環境問題が垣間見えてくる。既に手に入れた利便性は手放せない、一方文明の始まりと言える自然と共に歩んできた収穫、その根幹が揺らぎ始めていることへの警鐘。公演は人種的な対立を思わせる社会批判ドラマであり、先住民を通しての世代間ギャップ、若者の衝動的とも思えるようなエネルギーに人間ドラマ、さらには環境問題を示唆するといった重層的な描き方。それを歌や(太鼓)楽器を用いリリカルに表現している。
さて、町に暮らす象徴場面としてベットを運び入れる。確かに部屋の狭隘感は出ているが、シーン時間としては短いわりには手間がかかる配置。卑小と思いつつも必要な運び入れだったのだろうかと疑問。とは言え、全体的に脚本はもちろん演出、演技とも観応え十分。
次回公演も楽しみにしております。
スリーアウト〜サヨナラ篇〜
ドルミ
新宿シアターモリエール(東京都)
2019/09/14 (土) ~ 2019/09/29 (日)公演終了
満足度★★
物語の根底にある”優しさ”は良かったが、それを表現するには力不足に思えた。
(上演時間1時間30分)
ネタバレBOX
段差を設けただけの素舞台。それだけに演技力で風景や状況・情況を表現する必要があるが、それが十分に出来ていない。
梗概は、女子高・新聞部のネタ探しから、自分たちの高校の女子野球部が地区予選を突破して全国大会出場することが分かり、取材することにした。その野球部の内実は、他の部活部員の兼部で何とか9人揃え不戦勝で...。新聞部の取材時に野球部監督が嘘をついたことから起こるドタバタコメディといった内容。監督の母親の美談的な話が公演の伝えたいテーマのようだが、役者陣の経験不足のため優しさ温かさが十分表現しきれていない。台詞の噛みや会話の間の悪さなど、残念なシーンが散見された。
物語のエアホームランなどは、優しさを思わせる。一方真剣に女子野球に取り組んでいるスポーツウーマンに失礼ではないのだろうか、などは余計な心配か?
この公演は、演劇部員が野球部へ入(兼)部するという結末だが、自分は「野球部員、演劇の舞台に立つ!」を少し連想した。こちらは、女子だけの演劇部に事情があって男子野球部員が応援入部するというもの。そこには、“本気”で向かい合った演劇部と野球部、そしてそれぞれの部の顧問と監督の思いがあった。
本作では監督の母親が、生徒たちに自信や勇気を持たせるという感動を、台詞だけで伝えようとしている。出来れば冗長と思われるシーンをカットし、その代わりに”本気”の感動的なシーンを挿入し物語に厚みある情感を持たせる工夫や表現があればと思った。
次回公演を楽しみにしております。
さるみ、一人舞台 はじめます。
猿美企画
Route Theater/ルートシアター(東京都)
2019/09/21 (土) ~ 2019/09/22 (日)公演終了
満足度★★
【第31回池袋演劇祭参加公演】
一人芝居としていくつかの演劇スタイルを試演(入場無料も含め)するような印象。当日パンフに「私は足掻き続ける。」とあるが、まさしく表情を誇張するために変顔を作り、色々な動作を観せるため肢体を駆使した姿態が足掻いているようだ。一生懸命に演じているが、何となく空回りしているような…。
(上演時間1時間)
ネタバレBOX
舞台上には姿見、化粧品等の小物だけのほぼ素舞台。プロローグは下手側に寝ているが、蚊(羽音)が気になって眠れない様子。エピローグは逆に上手側で同じような仕草で、演劇パターンではよく見かけるもの。
①ワタシダ サイコ 35才
●モノローグ~自分が恋愛や結婚などで、世間的に言われる学歴・年収などの条件ではなく、愛を重視した結果、婚期を逸しているような理由を独白する。
●ダイアローグ~結婚を意識し、出会いを求めて結婚相談所へ出向き、それらしい相手を紹介してもらう。その相手との見合いでのニ役ひとり会話。
自身と同年代の女性の露な仕草であろうか。それゆえ無理のない自然体の姿が見える。まさしく自分の等身大範囲であるから心情表現も納得できる。
②翼をください(もちろんソロ)
次の演目への繋ぎ。そして洋服の背中ファスナーを開けたまま外出していたことへの羞恥、背中と翼を掛け合わせ、さらに自分自身を飛躍させる意味での歌であろうか。
③「一人舞台」(アウグスト ストリンドベリ作 森鴎外訳)
登場人物は2人だが、タイトルは「一人舞台」。どこかの外国の婦人が召使と夫との関係を疑っているような展開だが、実は2人とも劇中でのライバル女優のようでもある。1人が一方的に喋り、心情を吐露するような展開。実はこの「一人舞台」の内容が解らず、この短編戯曲を十分表現できていたのか。しっかり自分なりに取り込んだ芝居であろうか。何となく喋っているだけで、内容はもちろん人物像も見えてこない。この演目を選んだ意図に疑問が…。
既に記したが、モノローグ、ダイアローグ、歌、翻訳劇(一人芝居)といった演劇スタイルを試みている。先に記した「私は足掻き続ける」の前には「愚かな自分を隠し、年齢や環境を言い訳にして、悟った気でいて何もせずに終わるのはもっといやだ」と。とにかくやってみる、という心意気の公演であった。
「あなたの」「明日見た笑顔」
しみくれ
阿佐ヶ谷アルシェ(東京都)
2019/09/18 (水) ~ 2019/09/22 (日)公演終了
満足度★★★★
「あなたの」観劇。
ストーリーというよりはシーンに重きを置いたような公演。とは言っても物語としては、日常に見られる思いやりが、時として誤解、勘違いもしくは行き違いなどで相手を傷つけることがある、そんなちょっとした人間関係の機微を面白悲しく描いた好公演。
公演は、以前の作品「明日見た笑顔」をリニューアルしての再演と「ココロノカタチ」とは違ったリンクのさせ方の新作「あなたの」の2本。時間があれば「明日見た笑顔」も観たかった。
(上演時間1時間40分)
ネタバレBOX
客席は対面、自分は入口側に座った。その位置から上手側に公園であろうか、白いベンチと男・女トイレの衝立。中央に(ラブホテル)ベット、下手側に同棲している部屋を思わせる四角いスペース。その前に簡易なゲージが立っている。それぞれはシンプルな作りであるが、物語の構成と展開には優れた造作だと思う。3場面の同時進行(もちろん、照明で主シーンは分かる)は、それぞれが奇妙な繋がりがあること。それまで分割したシーンとして観ていた観客は、少しずつ登場人物の関係性が分かってくる。登場人物全員に直接的な繋がりを持たせることなく、間接的な繋がりを見せることによって、無理のない現実感を表現している。
物語への誘引が実に巧い。冒頭の同棲しているアベックの刃傷沙汰かと思わせておきながら...。一瞬にして狂気の世界観を演出し、その後、日常に見られるような場面を3分割した舞台で断続的に観せる。どの場面の登場人物がこの場面で繋がり関係性を持つという自分の思考を巡らせる。ちなみに繋がりのキーワードは「愛」と「金」だろうか?
ストーリーを追うというよりは、シーンを楽しみながらストーリが おぼろげに解ってくる。そこに公演の面白さの真骨頂を観るようだ。冒頭の狂気なシーンは、それ以降に展開するシーンを少し歪んだ世界観、そんな感覚を観客に持たせ、公演全体の雰囲気を支配する演出は巧みだ。
役者の演技とバランスは良い。同時に分割している舞台で照明を照射した主シーンと薄暗く暗転しているシーンでも細かい演技をするなど同時進行を思わせる。そこに日常生活における時間の分断はなく、絶えずどこかで会話が行われ、人が生きていることを思わせる。その会話に潜むもしくは漏れる歪んだ感情が、相手に不安や不信などの思いを与える。紙面に表すことが難しい感情、機微といったことを舞台上で上手く表現しており、観応え十分であった。
次回公演を楽しみにしております。
わたしは…
ソラミミ
北池袋 新生館シアター(東京都)
2019/09/13 (金) ~ 2019/09/16 (月)公演終了
満足度★★★
チラシには、「3人の出会いと回復のお話」とあるが、自分は説明文の「少女は人生の荒野を目指す。」から、五木寛之の小説「青年は荒野をめざす」を連想した。もっともそのスケールと世界観は異なる。しかし何となく”自立”という人間の成長過程を描いているようで興味深かった。そして自立は各人のことを示す。また小説ではジャズ音楽であったが、本公演は劇中音楽として生演奏という手法で見聞きさせる。
物語は父親と思春期の娘を通して、立場や経験その思いが空回りし上手く相手に伝えらない。そんな苛立ちもどかしさ、逆に押し付けに感じる意識の違いが、素直に描かれる。
この作品はソラミミの旗揚げ公演、そして第31回池袋演劇祭参加作品である。その意味で人生の荒野ならぬ劇団の挑戦のようでもあるが…。
(上演時間50分)
ネタバレBOX
セットは演技スペースにキューブが3つ。中央奥に1つと客席寄りの上手・下手側に各1つ置き動かすことはしない。ほぼ素舞台、役者の演技力で情景と情況を紡ぎ出す。演技スペースの奥に一段高くしたところに楽器が置かれている。
登場人物は3人。そのバックボーン的なことは説明文にある。補足すれば、少女は中学1年生で体操クラブに通わされている。父親はPTA会長等、娘に関わる組織の要職にある。この2人は父子家庭で母親はいない。ホームレスにはかつて家族がおり娘も...。
この3者が絡んだ物語であるが、個々人の悩みや強要(教養ではない)行為は表層的で演技を眺めている感覚だ。といって演技力が劣っている訳ではなく、何となくニュース等で見聞きした事を人物に語らせて繋いでいるようで新鮮味がない。味わいがあるとすれば、ホームレスとの絡みであるが、中学1年生の少女がホームレスに喋りかけるか?その意識下に蔑み見下し、興味本位はなかったのだろうか?という疑問もある。
演技はキューブを立ち位置とし、それぞれが行き来したり歩き回っている。その空間がご近所であり公園を思わせる。少女という設定が、行動範囲を限定させ空間的広がりが感じさせられないところが残念だ。また家庭内という2人空間が出現しきれていないとも思う。1人ひとりに背負わせた悩み・問題は、親という名の怪物プレッシャー、世間という名の無情・非情プレッシャーのようだ。その問題の提示は身近で興味深く、それを表層的ではなく十分に際立たせた展開に出来れば良かった。
演出は、もちろん生演奏の効果であろう。音響機材を用いてもよいが、いくつかの理由で好感をもった。第1に直に音楽が聴ける魅力、第2に素舞台というそっけなさをカバーする空間作り、第3に人の温もりが伝わることなどが挙げられる。公演は物語やこれらの要素をもって成り立つであろうが、自分は物語中心に感想を書かせていただく。
ちなみに「青年は荒野をめざす」では、父宛ての手紙で大学へ進まなかったことを後悔せず、人間の生活の中で学問をしたことを綴っている。劇団としても、今後色々な挑戦をし続けて飛躍してほしい、と思う。
次回公演も楽しみにしております。
盆がえり
演劇集団よろずや
高田馬場ラビネスト(東京都)
2019/09/14 (土) ~ 2019/09/16 (月)公演終了
満足度★★★★★
2005年と2016年の劇団転換期に上演しており、今回は3都市での公演を実施しているという。再演を繰り返していることから劇団の自信作と思われたが、まさにその通り観応えがあった。舞台は広島県世羅郡であることから、台詞は広島の方言で本当にその場所に居るような感覚になる。第2の故郷が広島県である自分には、懐かしく郷愁を覚えるほど上手な喋りであった。
「盆がえり」…広島公演を皮切りに今の時期(8~9月)に相応しいタイトルと内容は、心に染み入るような物語。3姉妹が抱える問題や確執を、地方(地元)暮らし都会暮らしの悩みに絡め、親戚や幼馴染という身近な人々との関りを交え淡々と描く。同時に祖先の霊を祀るというお盆という風習に絡めたちょっぴり不思議でジ~ンとするような出来事が…。
東京公演が4公演しかないのが残念だ。
(上演時間1時間30分)
ネタバレBOX
舞台は、広島県世羅郡にある築100年の古民家。セットはその離れの和室(今は物置として使用)。要らないものを整理しているらしくダンボールが積まれている。そして盂蘭盆会らしく盆灯篭が天井四方に吊るされている。
梗概は、実家を継いだ三姉妹の次女・美佐(鈴木ありさサン)が、新婚の夫と共に初めて迎える「お盆」。東京でキャリアウーマンとしてバリバリ働いている長女・枝実(竹田朋子サン)、市内の大学で助手として研究者の途を歩み出した三女・希梨(山口晴菜サン)、そして次女の夫・亮治(赤穂神惟サン)は、慣れない土地で何とか溶け込もうと努力している。それぞれがいる場所や立場で一生懸命生きている。この地も決して便利ではなく(「スーパーが8㌔先に出来た」という台詞)、それでも何となくこの地を離れることが出来ない。そして幼馴染の言葉によれば、両親の姿を見ていれば将来の自分の姿が見える、という。先祖の墓守をするというが、逆に諦念とは違う意味で祖霊信仰の影響を思わせる。
再演を繰り返していることから、3姉妹の悩み、確執はこの劇の見所であるため伏しておく。ただ、描かれている悩みや確執は地方のそれも山間部にある古民家という土地柄だけではなく、都鄙関係なく持っている感情ではなかろうか。むしろ土地柄は夫がこの地の方言をはじめ農作業など慣れない暮らしに見えてくる。そして好きなことを諦め家業を継ぐ継がないの話題を幼馴染がさりげなく語る。この人の機微と暮らしの描き方が実に上手い。お盆の風習を通して美佐、亮治の夫婦としての愛情の確認も出来た貴重な経験、ここに肉親ではない人との関わりを観せる。
演出は、衣装の使い分けが好かった。冒頭、美佐がデニム短パンで夏らしい時季感を表し、希梨が農作業のため もんぺ姿、枝実はキャリアウーマンらしいスーツ姿で帰省。それが祭りへ繰り出すために浴衣姿へ。この姿によって抒情感を醸し出し、ラストのこの時期ならではの不思議な出来事...余韻付けが巧い。もちろん蝉、祭囃子のような音響効果、淡い照明色を諧調させ「お盆」という雰囲気を安定的に演出する。そして演技は本当の3姉妹のようで、夫はその姉妹に振り回されつつも、感謝される貴重な存在を上手く演じていた。
劇団の転換期に上演しているとあるが、劇団にとって今がどのような時期か分からないが、ぜひまた観てみたい公演だ。
望むツキに想ひをヒメて
メグルキカク
テアトルBONBON(東京都)
2019/09/11 (水) ~ 2019/09/15 (日)公演終了
満足度★★★★
現実とバーチャルゲームの世界を往還しながら、人の生き方に一石を投じるような公演。さてバーチャルゲームで展開する内容は、タイトルから推測できると思うが「竹取物語」である。人はいつかは死ぬ。しかし特別な状況下ではない平時では、いつも死を意識して生きている訳ではないと思う。だからやりたい事もいつかやろう、という優柔不断というか先延ばしにしている。そんな”後悔”を現実と仮想の世界を行き来しながら面白可笑しく描いている。緩い感じもするが、自分は好きである。
ところで、少し意地悪な観方をすれば、生き甲斐というか夢を現実路線に方向転換したことによって物語が動き出したように思うが…。
(上演時間1時間50分)
ネタバレBOX
セットは中央に変形階段、階段上部には上手側は暗幕で満月を投影し、下手側は更に階段が続く。階段下(板上)は、上手側に竹簾の衝立、そして畳敷きの別スペースと天体望遠鏡。下手側はかぐや姫の住まい格子戸。階段続きにし高さを強調しているのは富士山を表わすと同時に、天上界をもイメージさせる。階段にある橋欄干は朱塗りで時代を感じさせる。セットそのものが竹取物語が書かれた平安時代と現代、そしてバーチャルな世界を象徴するような作りである。暗幕を利用した豆電球の点滅は夜空の星々である。
さて現実は決められた、いわば運命のような世界であり、バーチャルゲームは、プログラム・AIによって制御された世界、どちらも抗いきれない事を突きつける。その定められた世界にあっても、自分の思いは生きている。結果・結論は決まっていても、その過程での自分のやりたい事の意思は働く。やりたい事=後悔しないことは、生き甲斐であり、夢であろう。物語は主人公・中丸陽介(竹内尚文サン)が恋人のため又は自身の才能のなさから小説家になることを諦める。そのことが富士山での滑落事故を起こすいう皮肉を込めているように思えるのだが…。
物語の全体構成は面白いが、バーチャルゲームの「竹取物語」が今に伝わる伝承の内容通りで新鮮味がない。登場人物の名前も同じで、死に際の人が、思いの丈を言い残すために単に「竹取物語(一部 ヒーローショーのような)を借用したように思える。
自分は、現代的なバーチャルゲームを創作し、現実世界と往還させることで既視感がなくなり空想の世界観が広がると思うのだが。とは言え、生死の狭間を往還するという見慣れたパターンではなく、現実と仮想の世界を交錯させるところに現代的な感覚を覚える。
次回公演も楽しみにしております。
半ライスのタテマエ
Sky Theater PROJECT
「劇」小劇場(東京都)
2019/09/11 (水) ~ 2019/09/17 (火)公演終了
満足度★★★★★
三世代、20年以上に亘る長い時間軸の日常を坦々と描いた物語。幸せは身近な足元にあるが、それをなかなか実感として捉えられない。当たり前のような日常がいつまでも続くと信じているが...。ラストの謎明かしは、家族との関わりをしみじみ思い、考えさせる感動シーンだ。
本公演、半ライスどころか大盛ライス、それもとても美味しく満足できるものであった。
また舞台美術が格子戸、障子桟のみといった枠ものが周囲の壁に掛けられている。しっかり作り込まないことによって、長い時間軸の情景を固定させず、一方、人が持っている変わらぬ優しさのようなものが枠の間から観えるようで実に巧い演出だ。
(上演時間1時間50分)2019.9.13追記
ネタバレBOX
セットは先に記した枠囲いを回りに配置し、中央は木製の大きさが違うテーブルと椅子が2組。その木目が人の温もりを伝えるようだ。もちろん小物も時代間隔を表すため携帯電話からスマホに変わる。セットは時と状況によって宮坂家や梅澤家、そして高校の保健室に変わる。登場人物は1役1人で20年に亘り、年代に応じて心情の変化を演じる。そして基本的には善人ばかりである。
この物語は、2001年に上演した作品に大きく加筆し、元々は4編の短編の登場人物の何人かがまたがって登場する構成のTVドラマに影響を受けたという。そういえば、宮坂家(教員)、井上家(寺院)、梅澤家(蕎麦屋)が中心になり、宮坂家の嫁やその元彼と今の同棲相手が何となく絡んでくる。冒頭は蕎麦屋の常連で近くの公園で運動会を計画し、というエピソードから始まる。地域密着で、そこに暮らす人々の日常をそっと観ているような人情劇。
「死ぬのが嫌」が口癖だった教頭先生・宮坂幸太郎(宮坂家の父親)が余命半年を告げられた時、井上里(寺住職)が残された時間を家族と有意義に過ごすよう話す。それに対し、今更の思い出作りよりは...。その半年の間に行ったことがラストの感動シーン(ハガキの謎解き)に繋がる。今を生きる自分よりは、残された人生を家族、まだ見ぬ家族(孫)への思いを託すようなエンディングノートならぬエンディングレターのようだ。
この公演、自分の近くにも居そうな普通の、いや少しヘンな人たちの坦々とした暮らし。その小さな喜び幸せ、人との繋がりが、日常を忙しく生きる自分にとって演劇という非日常で癒された。
次回公演も楽しみにしております。
人生のおまけ~Collateral Beauty~
演劇企画イロトリドリノハナ
シアターKASSAI【閉館】(東京都)
2019/09/05 (木) ~ 2019/09/09 (月)公演終了
全体的に優しく心温まるような、森下知香女史らしい作品である。
ただ定年退職後のおまけとしては、結構羨ましい第2の人生だと思う。それゆえ、何となく現実味に乏しく”願望”といった印象を受ける。物語は退職後の空虚感、所在無さといった無為徒食の状態を省略し、生き甲斐を見つけ活動し出したところから始まる。それによって家族にざわめきが起きるが…。
(上演時間2時間) 後日、★数と追記
ネタバレBOX
「現代国語」が専攻だったという校長先生の退職年齢は、60歳(公立学校)だろうか。物語では66歳という設定であり、ドロールマスターの「昨年に定年」という台詞からすると定年退職後、再任用・嘱託等で教員を続けたのであろうか。退職直後の心情がほとんど描かれないため、その悲哀らしきものが感じられないのが残念。唯一描いているとすれば、元妻との会話で出てくる年賀状の話(枚数)くらいである。物語は、人生の”おまけ(生き甲斐)”を直ぐ見つけ、それにどう取り組んで行くかという途中省略の完成形のように思える。自分としては、退職を機に本人の第2の人生-生き甲斐を見つける迄の心情変化、家族(娘たち)との関わり方、更に熟年離婚、特に退職を機に離婚した理由など過程形を描いてほしかったが…。
とは言え、
以降は後日追記
昭和歌謡コメディVol.11〜ツキジーヒルズ青春ハクション〜
昭和歌謡コメディ事務局
ブディストホール(東京都)
2019/09/05 (木) ~ 2019/09/08 (日)公演終了
満足度★★★★
新シリーズのタイトルは、アメリカのTVドラマ「ビバリーヒルズ青春白書」のパロディだろう。このドラマが放映されていた1990年から2000年頃という時代、日本でも青春歌謡が流行っていた。
第1部は学園シリーズ第1弾ということで、このクラスのメンバー紹介を兼ねた展開。学園ドラマということもあり、新しく4人のキャストが加わり賑やかさを増す。そして新任教師の江藤博利さんが提案するダンス甲子園出場が、第2部へ引き継がれる。新たに1部と2部を連携させる工夫が面白い。
自分が観た回は大盛況で、劇場座席だけでは足りなく後部壁に沿って椅子を置いて増席していた。この第1部ドラマネタと第2部の歌謡曲を知っているか否かで楽しみ度が違うかもしれないが、自分はまさにこの世代であるから十分堪能した。
(上演時間:1部45分、2部1時間、途中休憩15分含め2時間)
ネタバレBOX
第1部「ツキジーヒルズ青春ハクション」
新シリーズは築地の私立高校「築地が丘学園 」を舞台にした学園コメディ。第1弾であることから、各キャラクターの紹介場面が中心。教師になるため苦節30年の熱血教師_江藤博利サン、マドンナ教師_白石まるみサンなど11名を順々に面白可笑しく紹介する。ソバ屋シリーズのお決まり展開が今後学園ドラマではどのように描かれるのか楽しみ。
第2部「歌謡バラエティショー」
今回は学園ソングが多く、軽快な歌謡が楽しめた。また新キャストに元NHK少年ドラマシリーズに出演していた女優、子役デビューし芸歴がながく舞台経験も豊富な女優、長渕剛のモノマネをする芸人、〇〇星から来たアイドルなどが参加しており、今まで以上にパワーアップした歌謡ショーであった。
いつも通りのペンライトを振り、紙テープを投げてその昔の青春時代を謳歌した。今回は学園ソングも多く、会場の観客の多くが口ずさんでいるのが見え聞こえた。
当日パンフの江藤座長の「もっと、もっと、もっと『笑い』『歌』で、元気を届けたい!」の思いは十分伝わる内容であった。
次回公演も楽しみにしております。
中年の歩み『紅白』
第0楽章
SPACE EDGE(東京都)
2019/09/07 (土) ~ 2019/09/08 (日)公演終了
満足度★★★★
物語は、家族の「老い」「介護」への向き合い、そこに地域事情を足枷のように加重させて観客に問う。あなたならどうしますか?その難問度合いは、その人が置かれた状況によって異なるであろうが、事件・事故死等を除けば現実にある問題。公演では直接的な答えはなく、観客に委ねられたままであるが…。
物語は年末から年始にかけての数時間、兄弟姉妹による濃密な会話劇。そこに地域住人が絡むことで第三者の目をもって家族の身勝手、自己都合といった不誠実な姿が浮き彫りになる。
タイトルの『紅白』は年末歌謡番組を示しているようだが、公演の印象は「黒白」といった弔事的なもの。本公演は、観る年代(中年の歩み)によって受け止め方の深刻・切実度が異なるだろう。
(上演時間1時間35分) 2019.9.13追記
ネタバレBOX
セットは少し高くした台座のような所の中央に炬燵、そしてTVが置かれているだけ。もっともこの会場全体の構造を最大限活用し、階段の昇り降りや上手・下手にある扉からの出入り等、会話だけに終始せず動作でも緊迫感を生む。
公演コンセプトは、「中年による中年に向き合う3年間。中年の悲喜を見つめる」というもの。地方都市で営んでいる森餅店を舞台とし、父親の介護と中年になった自分たちの将来を心配し始める。親の介護をする世代、介護される世代にとっては胸が締め付けられる、少なくとも ざわざわする気持になる。公演の面白さは、人物の置かれている状況を鮮明にし、それぞれの関係に十分な軋みを与えている。それによってこの状況下、いわば八方塞がりから逃れることが出来ない。まさに現実問題から目を逸らせられないという緊張感を生む。
長女は40歳過ぎで生保レディに転職せざるを得なくなり、次男は東京でバイトの靴職人、次女は森餅店に居候か、そして三男は引き籠り。さらにこの店は事故物件のようで売りに出すことが出来ない。店は架空の無士山の近く、無士宮市にある無士宮商店街にあるが、今はシャッター通りと化している。全てにおいて閉塞状態、今は意識はあるが寝たきり状態の父親、かつては暴君のような父の面倒を誰も看たがらない。ここに公演の凝縮された現実が提示されている。芝居であるから演劇的な結末の観せ方はするが、公演そのものに答えは用意されている訳ではなく、観客自ら考える。
父親は登場しないが、時々に呼び鈴ならぬブザー音楽が響く。その音楽が微笑ましく、息詰まる場面をホッと和ませる。また年末の紅白歌合戦の中継を見る見ないでTVリモコンを奪い合う姿が滑稽だ。現実問題から何とか逃避したいという心理と行動が実に上手く描かれる。
倉庫のような会場で、照明や音楽効果を十分に発揮することは難しいが、それに頼らず演じている役者の迫真・緊張感ある演技が素晴らしかった。
なおラスト、年末の炬燵はありだが、蝉鳴く時季の炬燵はないと思うが舞台転換が難しいのだろうな~。
次回公演を楽しみにしております。
おへその不在
マチルダアパルトマン
OFF OFFシアター(東京都)
2019/09/04 (水) ~ 2019/09/16 (月)公演終了
満足度★★★★
虚構的な物語だが、どこか現実味を思わせる独特な世界観が魅力な公演。産まれてしまえば、へその存在など大したことではないが、無いと何となく変な感覚に囚われる。物語はこの へその有無を心の在りようの比喩(チャップリン言の悲劇であり喜劇)とし、ミステリアスな展開と軽妙洒脱な描き、その絶妙なバランスが観客を惹きつける。
舞台美術はどこかファンタジーさを思わせ、反面、機能的な面を兼ね備えた見事な作り。それが物語の雰囲気を支えている。
(上演時間1時間30分) 2019.9.13追記
ネタバレBOX
セットは飾り棚を思わせる仕切り壁、中央に応接セットが置かれ、物語の中心となる3姉妹の家であり、この姉妹が住んでいる町にある和菓子屋や煎餅屋を思わせる。飾り棚には何台かの電話が置かれたり、カメラが吊るされている。これって探偵業に必要なもの。そして大型のゴミ箱が下手側に置かれている。
公演はリアル・ファンタジーといった独特の世界観…この不思議な雰囲気をどう表現するか。またマンガキャラが劇中内に入り込み、ある種のパロディを意図しているようだ。物語は、3姉妹それぞれが関わっている人物との相関関係を縦軸にし、探偵の行動から明らかになる出来事を横軸にし、人と出来事が錯綜するような構成である。そこに奇妙、奇抜な仕掛けを用意している。
3姉妹、長女・たまこ は結婚したが夫は生死不明の未亡人状態、次女・のりこ は近所の和菓子屋の店員、三女・まるこは高校生という設定。この3人に対し煎餅屋の猫田家(夫人、息子)が絡んで騒動が…。また和菓子店(実際は牡丹餅メイン)の奇妙な存在、たまこの夫の消息と猫田家の関わり、まるこ と猫田家の息子の絡みなど次々と物語の引き出しが開けられ、物語は断続的に繋がっていく面白さ。
マンガキャラというのは、少なくとも 三女まるこ と親友で和菓子屋の娘・あずみのこと。おっとりとした性格のまるこ、防備的に短剣を取り出す あずみは、それぞれ有名な漫画の主人公を連想させ楽しませる。そして牡丹餅に掛けて、半殺し(粒が残る程度に粗くつぶす)にするという乱暴な台詞。また鎖での拘束シーン、パペットの利用、ゴミ箱への潜入など奇抜な観せ方で観客の興味を惹くという巧みさ。
この公演は、現実にある浮気や不正問題を仮想的世界に落とし込む、もしくは仮想世界に現実のいくつかの出来事を散りばめたような歪で不整合な世界観、理屈で説明しきれないところが魅力的だ。だからこそ、自分の現実として観れば悲劇であり、少し引いた立場の第三者が観れば喜劇(他人事)なのだろうか。
こじつけであるが ”おへその不在”は、自分では気になるが、他人にしてみれば気にもしない卑小なことかもしれない。
次回公演も楽しみにしております。