わたし、▽、festival
mimimal
新宿眼科画廊(東京都)
2013/08/10 (土) ~ 2013/08/20 (火)公演終了
満足度★★★★★
まじっくすぺるピャー!!
純白の銃口塗装にピンクの散弾丸で、狭い空間を掌握していく。身体中に銃弾を受けてもむしろ心地よく、まばたきという反射行動すらこの時ばかりは憎らしい。一般的に浸透している滅びの呪文は「バルス」だったか。それなら私は今日から「ピャー!!」と云おう。いや、滅びじゃなくてもいい、産まれてもいい。どっちだって良くて、どちらも内包している、この呪文。なんだ、万能ではないか。生み出すことも消すことも自分のこころ一つで決められるとは........。あなおそろしや。
さて、本題に入ろう。この劇団の特徴といったらグチャグチャと粘性帯びた奇怪な美術と衣装と...ちょっと発声の悪い役者の怪演といったものが視覚的・聴覚的に”くる”ものだった。しかし、どうしたことか今回はそこらへんはさっぱりと、白い世界に白い人々、その上全台詞が聴き取れるという大幅改変版!主宰の男性の髪の毛が削ぎ落とされたと同時にこんなに舞台まで削ぎ落とされたのか。
と思いきや初っ端から全身粟立つ演技で飛ばす女性(美人)が現れこころ奪われた。最初って肝心肝心。そっからは始終ドドンパ運行状態の三十分!この止まれぬ殺気の維持はどうやっているんだ!?みんな絶叫マシーンマニアか?と疑うほどだ。
演劇って中だるむものじゃん、中年男性のお腹じゃん、という半ば諦めに近い優しい見方......なんてものはこの舞台で覆された。ピャーっとずーーっとかっ飛ばす。近所の陰気な中学生が遂に犯した殺人現場を草の茂みから見てるくらいの緊張感で目が離せない。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。
意味と無意味で世界が説明できちゃうじゃん。現れた「音楽」「時間」「無」という世界に不可欠な構成要素でもってそれを否定しながら肯定してくれちゃってこれはもう真理でしかない。真理が現れたよー!我々法律とかの秩序立てられた世界で何とか(たまに悪さもしながら)暮らせてる。でも、それって?個人が個人の法律をもって行動したら世界は崩壊でしょう?全部正解だし、全部嘘になるんだよ。「無」というキャラクターが執拗に繰り返す言葉は繰り返される度重みをもって響いてくる。
「死んじゃだめ」なんていうけど、実際は「死んでもいい」し、「盗んでもいい」。いや、悪いことだけじゃない。宗教を開いた「凡人」というキャラが最後みんなにすっごく人間くさい意味付けを始めるんだ。無秩序に秩序を与えようとする。「抱きしめるため」の腕だったりね。無駄なことと解ってるみたいに必死に意味を付加していく無意味さといったら......このシーンも秀逸だ。
現実をびしびし突きつけると同時に現実にしがみつこうとするこの劇団はいま宇宙真理に最も近いのではないだろか。
さ、自分の中のあたりまえをひとつ、「ピャー!!」と唱えながら壊してごらんなさい。(美輪明宏風に)
飲み会死ね(ご来場下さいまして、誠にありがとうございました!!!!!!!!!)
宗教劇団ピャー! !
BankART Studio NYK(神奈川県)
2013/01/21 (月) ~ 2013/01/27 (日)公演終了
満足度★★★★★
産声と、絶望と、心強さと
実際世界は自分のこころを中点として半径5cmくらいまでしか掌握しきれておらず、あまりにも俗世に足もとを固められた舞台だ。
大学生の卒業制作と認知して鑑賞しなくとも、決して大人がつくったものではないことが容易に感ぜられる、幼く高慢でアシメトリックな思春期の内的情動を多分に含んだ作品内容であった。自分のこころの次にくる関心事は俗世であって自分のからだではないと云わんばかりの青年の盲目さが、この作品を作品せしめているのだろう。青年は青年であって、産まれたての生命ではない。ただ、青年の作品が産まれる瞬間のみずみずしさは生命を包む液体の明度と似ているのではないだろうか。そんな印象を全体から受けた。
主人公の水子は匿名性の高いキャラクターで、空気と良く馴染む声質で未発達な身体を震わす小柄な女性が演じる。周りのキャラクターが色濃く、観劇後彼女の印象は消え入りそうである。それでも彼女の名前に太い下線を引かしめているのは「水子という主人公」の設定だけのような気がした。これは非常に効果的な役者の使い方だろう。
この劇団のキャラクターは皆突飛でありながらしっかり俗世に足を取られている。だから鑑賞者誰もが持ち得る極限値をみせてくれる。これが生の人間だ、常識や規範に翻弄されない欲望まみれで忠実な生だ、と。本当なんてありはしない嘘だらけだ絶望するよ、でも生きるよ、あ、救われたほわんんほわん...誰でもいいから愛するよ、愛してる!何でこうなっちゃったんだろう。渦巻く決断と目に見えない力が運命とかいうはかばかしいものに乗って運ばれていく。
底抜けに明るいしょうもない終わりに集約されているものは、淡々としたしょうもない我々の生だと感じ、絶望して会場を後にした。無くても困らないであろういち文化興行が、人ひとりを絶望に追い込めるのだから凄いと云っているのだ。
ポツドール『夢の城 -Castle of Dreams』
ポツドール
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2012/11/15 (木) ~ 2012/11/25 (日)公演終了
満足度★★★★
性病になりませんように
性病撲滅運動のCMのような舞台。おっとっと検査に行かないとな。
まあ目が行きがちなのは、舞台であまり観ることができない過剰な性描写なのだが、性器がチラ見えたところで喜んでしまっては僕ら下等人間欲望まみれ生物だ。
これが舞台である以上役者は地獄のようだろう。心を凍結させ風俗嬢さながらの淡々とした精神を備えなければすぐに破綻する。観客は好奇の目で、期待感に満ち溢れたどんぐりまなこで舞台上をすみずみ観察する。僕らは観察する。他人の、しかも文化の産物であるギャルという興味津々な人間たちの生活を視ずにはいられない。三浦の術中に嵌る。
これをこなす役者たちは実験動物か.......。
役者は演出家を(脚本を)信仰してしまった時点で麻酔薬を規定量以上打たれたモルモットだ。舞台としてそれはそれでとても美しいし、莫大な力でもある。
とはいえ........私はどうしても舞台上に提示される、我々にも当てはまる現実よりも、そこに立つ役者たちの現実に興味がいってしまう。彼らは普段なにをみている?生きることさえつまらなくなっているのではないか?何をしても自分の演じる虚構に勝る現実など既に皆無に近いだろう。さみしさが押し寄せる。それは生きるさみしさだ。
三浦のつくる絶妙なキャラクターには感服する。小太りのギャルは何かとスナック菓子をほおばっているが、歯磨きは欠かさない。「食べたら歯を磨く」と躾けられてきたのだろうな、と連想せられ愛着が湧く。そのシーンだけ小学校に入りたての小さな少女が一生懸命歯を磨いているようにみえる。そういった面白い幻惑が端々に見受けられる。
人生わからないな、何考えて生きてるんだろうな、虚無感は誰にでもおとずれる。ただ、自分が無垢な自分であった頃、セックスも知らないで風や石や校庭の雲なんか追っかけていたっけな........ときゅんと思い出させてくれる(また、その時点で自分は大人なんだなとさみしさが襲うが)ピュレグミの比にもならない「きゅんとすっぱい」舞台だ。
それは援交で初めて知った年上のオヤジのキスのすっぱさであり、フェラチオ(クンニ)しようと頬寄せた恋人の性器が思いのほかツンとにおったときのすっぱさであり、これから我々が出会い抱き合い生きて生きて生きて生きてすべてと決別するときの涙のすっぱさである。