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廃校/366.0【後日譚】

廃校/366.0【後日譚】

NEVER LOSE

千種文化小劇場(愛知県)

2007/03/09 (金) ~ 2007/03/14 (水)公演終了

満足度★★★★★

感想(敬称略ですいません)
桜の花びらが一面に散りばめられた円形の舞台の上方には、花びらの全て散った大きな木の枝が吊るされている。
とても美しい舞台美術だと思った。
もしも花びらが桜の命を象徴しているのなら、舞台の床には生が敷き詰められていて、舞台の上には枯れ木という死の象徴がぶら下がっていることになる。
そんなことを考えていると、その中間で演じる役者たちがとても恣意的な存在に思えてきた。

ネタバレBOX



NEVERLOSEの創り上げた舞台には、異なる位相同士が同時に幾重にも連なって存在している。
その代表的な例は言うまでもなく、生きている人間と死んでいる人間の位相だ。
このことをまずはっきりと認識させたのはトシ子(川渕優子)の声だった。
精確には声ではなく、その佇まいから発せられた音の響きであり、それがどうも「少しずれた」世界から聞こえてくるように思えたからだ。
その「少しずれた」世界が、死んでしまった人間のいる世界だということは、「舞台上の人間には幽霊が見えていない」という設定を使って幾らか滑稽に説明される。
人間が幽霊のいる椅子の上に腰掛けたり、幽霊が人間同士の喧嘩を止めたりと、色々観客をクスりとさせるようなやり取りが行われていた。

しかし、ここで気に掛かっていることがある。
劇中の人間は、幽霊を見たりその声を聞いたりすることはできないが、物理的には触れ合うことができる。
そして舞台上には一人特殊な人間がいて、それはトシ子の兄ケンジ(谷本進)なのだが、彼は幽霊であるトシ子を見ることも彼女と話しをすることもできる。当然触れることもできるはずだ。
その彼が、トシ子、マユミ(舘智子)、コウイチ(代田正彦)の4人になるシーンで、マユミとコウイチを強く抱きしめていたにも関わらず、トシ子には触れてもいなかった。
話しの流れで抱きしめる必要が無かった、と言えばそれまでなのだろうが、どうしてもトシ子だけを抱き締めないという行為を意図的に目立たせていたのではないのだろうかという印象が拭えない。
(ここはケンジが現在の人間との関係を結びなおそうとするシーンだと思うのだが、不思議と幽霊の存在を捨てたという印象は受けなかった。人間との関係、幽霊との関係を並行して認めた、と言うほうが相応しい。)



ここからは憶測だが、この抱き締めることが出来なかった行為こそが、劇の中で演じられたあらゆる希望という位相に相対して重なる、演出家の仕掛けた現実というブレーキに相当する位相の侵食なのだろう。
観客にまで見えなくなってしまった幽霊の存在も、現実に眼を向けさせる要因だと感じられた。

この作品は、とても多くの希望や願いの詰まったものだったと私は思う。
本来ならばただ追憶されるだけの存在である幽霊、もう会えない大切な人、とまた会話をしたい、一緒にいたいという願いは、文字通り夢のような願いだ。

登場人物たちが煙草を各々吸い始めるラストシーン、そんな願いはピークに達し、圧倒的な強さで場を支配したまま実現され、その後完全な暗転を迎える。
追憶に埋もれてしまいそうになる。
自分には自分の、整理のついていない大きな死別がある。
そのことが少し赦されたような感情が沸き起こるが、ブレーキとして仕掛けられた現実がそれを和らげる。
カタルシスに似た喜びが残るわけではない。
しかし、ただ悲しみだけが残るわけでもない。
様々な感情がそれぞれ異なった位相を形成して、バイアスを認めない。
その状態こそが別れと「向き合う」状態なのだろうかと思う間もなく暗転が終わり、観客にまで照明が当たる。
劇場にいた人間それぞれの葛藤までが照らし出されるようだ。
そしてそれは同時にこれから結ばれるであろう人間同士の関係にまで言及しているようでもある。
自分の他にも涙を流している観客を見た。
確かに客席と舞台の位相が重なり合っているように感じられた。

強く感動した。
それと同時に悪意のない暴力を受けたような圧迫感も残ったが、今振り返ってみればどうにも心地良かったように思われる。

東京公演でも、またその場でしか味わえない感情が起こるのだろうか。
今から楽しみでならない。



最後に、コウイチの衣装が演出の片山雄一の私服だったことが思い浮かんだ。
コウイチとユウイチ、名前も片仮名だと一層似ている。
ここでも演出家と役者、舞台の外から観る側と舞台の上で観られる側という洒落っ気のある位相の重なりが形成されているわけだ。

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