満足度★★★
う~む
二つのトリオグループの諸関係をボードゲームの傑作、人生ゲームを誕生日プレゼントに貰ったことを仲立ちとして展開する作品。
ネタバレBOX
然し、シナリオコンセプトが粗くて古い。ゲームを絡めて各々の人生が展開するのだが、二つのグループ自体に関係はない。この尺で演ずるには、グループを1つにし焦点を絞って丁寧に描く必要がある。家族関係、友人関係と恋愛を扱っているのに深みがないのは、基本的にシナリオが促成栽培のような代物だからだ。また、ボードゲームと各グループの関係性も薄く、ゲームセオリーが齎すハズの深いアイロニーもなければ、思い掛けない展開も無い。
役者で気に入ったのは医者役、筋ジス患者の妻。
満足度★★★★
ぺダンチックなインテリが面白がりそう
『S/N』は、DVDで市販されていない。使用されている音楽の著作権の問題があり、ある企画に沿ってコンセプチュアルに制作された訳でもなく、あちこちで行ったライブを撮影した物の中から良く撮れている物を繋ぎ合わせたという側面を持つからである。
ネタバレBOX
一方、1984年に京都市立芸術大学の学生によって結成されたダムタイプは、その後ヨーロッパツアー等も敢行するようになったが、NYから戻ったダムタイプ創設メンバーの一人であった古橋は、1992年に発症、余命3年を余儀なくされていた。無論、エイズである。実際、発症すると3年で亡くなるというのが、1995年迄のエイズ患者の実情であった。
1996年に良薬が開発され、発見・処置が早ければ本来の余命を全うできるようになったので、現在はこの薬を服用する限り、死にはしない。だが、古橋は95年に亡くなっている。その彼が、自分の余命を知り、持ち得る総てを賭けて創ろうとした作品が、このS/Nである。個々のメンバーに独自性を迫りつつ、当然のこと乍ら集団性への依存を排した。何故なら、それは表現にとってマイナスでしかないからである。そして、未だ、年若い表現者が依拠すべきものは、その観察力と観察を通して得られたデータに基づく思考そのものであるからである。凡俗が考えるように、年長の権威者に媚び、寵愛を得て後継者を目指すことではない。そんなことは、マガイモノに任せておけば良いのだ。才能あるアーティストの目指すことではない。まあ、自分の戯言などどうでもよいのだが、S/Nは、作品としてはかなりアナーキーな傾向を持っている。だから、表現各々の要素が、通常個々を構成している要素(国籍、人種、使用言語、権利、権威等々)を否定するような場面も登場するのだが、これは我々を構成する第2の自然即ち慣用を成立させる根底であり、アイデンティティーの根拠である。アナーキズムを徹底させる限り、ヒトは、アイデンティティーの根拠も喪失する。その辺りの事情を上手く説明するのが、M・フーコーの構造主義なのであり、エロスとタナトスを論拠としながら、それを必然的な連環として繋いで見せたG・バタイユなのである。そして、古橋の目指したものは、バタイユの「マダム・エドワルダ」に描かれるエロスを通したタナトスという謂わば情報にノイズとして介入することであったハズだ。即ち、ロマン派の最後の残照に対して雲の如く湧き上がる一種の異議申し立てである。この意味に於いて、今作は意味を持つ物となる。
但し、20年も前の作品なので、この植民地での大方の人々のテンションは、20年前より遥かに歪んだものとなり、最早、なまじの評論如きでは、痒みすら感じないほど鈍化していなとしての話だ。
満足度★★★
演劇的には?
街のチンピラ3人が銀行強盗に走った。人質は10人。
ネタバレBOX
チンピラは薬物、暴行、傷害、強盗、恐喝等で入出所を繰り返してきたが、銀行が社会全体を相手にした強盗であることに漸く気付き、強盗から強盗をしてやろうというのが動機である。
だが、人質として取られた10人も、仕事のできない女子行員3人、ロリコンのサラリーマン、靴より遥かに安い値段で誰とでも寝るOL等々、碌な者じゃない。要は全員糞ったれ! ではあるのだ。にも拘らず、マスメディアは、“善良な市民”と報じるから臍が茶を沸かしそうだ。で、警察も銀行を包囲したのだが、其の対応の素早さには、評価が高いとか、何れにせよ、事件発生2時間後には、警察は、建物ごと爆発させると通告してきた。人質も犯人も未だ無論中に居るのだが、警察は彼ら全員を碌でもない輩と見做しており、抹殺は正当化されると内部では認識しているものの、メディア向けには人質救出は既に成功しているとの偽情報で対応している。
マッポが無茶苦茶な事を言い、好き勝手な行動を取るのは腐った国家では必然である。実際、現在のこのアメリカ植民地では、GSOMIAをベースにアメリカの言いなりに乗じ秘密保護法、共謀罪が既に成立している。無論、公安のし放題になるのは火を見るより明らかである。おまけに安保法制だ。TPP然り、肝心なことは総て為政者共だけが牛耳り、情報も出さず、名ばかりの主権者にあるのは、隷属と血税のみ。
今作の背景に実際にあることについての想像はつく。その理不尽に対する怒りも理解する。自分達の怒りが実際、更に奥底で何を貫きたいのかを見据える程の勉強時間もなかったとは思う。だが、表現を効果的なものたらしめるには、矢張り“知”が必要である。アナーキーなエネルギーと糞ったれ精神とでも名付けるべき怒りは、其の知を構築する為の膨大な努力と生産的な方法構築に用いて欲しい。
満足度★★★★
得心
良く夢幻能という言葉を聞くのだが、それが実際何を意味するのか? どうしても得心がいかなかったのだが、今作を拝見して漸く合点がいった。要は“無”なのだ。(中間追記2015.7.29)
ネタバレBOX
橋掛りが何を意味するかなどという幼稚園レベルの話は割愛する。夢幻能という形式が一般となって現在に残っている必然について、自分は“無”という概念を提示したのだから。異界のもの(者或いは物乃至はqc)シテが揚げ幕の向こう、即ち観客からは隠されている場から登場するのも、またこの場所が、鏡ノ間と呼ばれるのも意味深である。ワキもここから登場するのであるが、既に、劇中の現実も異界である、という約束事から始まっているのである。但し、ワキは、片足を現世に置いているのであり、もう一方を異界に向けているか踏み込んでいるのである。能は、この程度の抽象性に出会った瞬間入って行けることを前提にしている点で、非大衆演劇であったし現在もそうである。このことが、能の本質を理解できないインテリに世迷い言を言わせる原因にもなっている。
満足度★★★★★
ジレンマジレンマを拝見
2011.3.12による大人災は、無論現在も我々の日常生活、生命を破壊し続けている。(追記後送)
ネタバレBOX
エートスプロジェクトを始めとする原子力推進国際マフィアと追随する「日本政府」らの好い加減なプロパガンダと御用学者達の内部被ばくを予めネグレクトするデータ操作等の欺瞞を越えて、その欺瞞の在り様を国権の発動として調査する1年後の調査官と保安検査官との会話を中心に展開するAの部屋、噂によって大打撃を受けた地場産業を代表して農協職員と仲買い、農民と市場動向と商取引の間で行われる詐欺行為を通して産業界の苦境と実情、そして消費者心理を問い掛け、訴えかけるBの部屋、そして、地震・津波と原発災害という複合災害により避難させられ家具財産付き空き家同然となった人家へ忍び込み、盗みを働いた法学部上級生2人の窃盗と被災者支援の落差等々を描くCの部屋。
同一舞台上で演じる役者の座る位置で、其々の部屋を表すと共に、演ずる時刻をずらして効果的にF1事故によって齎された社会的状況を俯瞰する。元ジャーナリストの古城 十忍さんらしい合理的で社会的な視座の作品である。
原発事故の悲惨は、にっちもさっちもゆかないアンヴィヴァレンツを至る所で生み出すことにある。今作では間接的に描かれている、人災事故後の対応についても事故を収束さえようとすれば、必ず被曝しなければならないなどもその典型例である。
満足度★★★★
堪能
今回を含めてこの8年、毎年、長女さやかの夫、一成の経営する海辺のレストランの夏季営業に合わせて、オープニングスタンバイを兼ねた家族旅行をしている一家が、今年も例年の行事になったこのレストランへ行く準備をする姿が描かれる。
ネタバレBOX
ところで一つ、この家族には、特徴がある。兎に角、一昨年迄口より早く手が動いた暴力敵な父が、レストラン裏手の庭から、車椅子に乗ったまま海に落ちて亡くなっているにも拘わらず、アルツハイマーを発症した母が、その死を受け入れられないので、全員で父が生きていることを演じている。その点だけが、異様な家族なのだ。
レストラン裏手は、坂になっており坂を下ると申し訳程度の柵を施した崖があり、その下は、無論、海である。亡き父は、一昨年、車椅子に乗るようになってから、急に生気を失い、当時は既に食も殆ど無く、口もきかなくなっていたが、時々、氷を口に含ませてやると喜んで嚥下していた。その為、末娘のゆいが、魔法瓶に氷を詰めたものを持参し、氷のかけらを取り出しては父の口に含ませていたのだが、事件当日は、皆、レストランの片付けに追われ、父の所在は片付けの足手まといになる為、長男、正文が、麦わら帽子を被せて裏庭に父を出したのだった。無論、車椅子のストッパーは掛けておいた。にも拘わらず、父は皆の気付かぬ間に海へ落ちて亡くなった。地元消防団や警察が協力して遺体を引き揚げたが、警察は、誰かが何らかの理由でストッパーを外したのではないかと疑い、全員を被疑者と見做して質問をした。結局、事故として処理されたものの、親族間で未だに、実は殺人なのではないか? との疑義が渦巻いている。そんな状況下での今年の出発準備である。
この劇団の上手さは、このようなシチュエイションを提示しておいて、ずっと事故なのか、殺人なのかを分からぬようにしたまま、その緊張を維持して話を進めてゆく点である。途中、一成とゆいの不倫を匂わせるなど、ポツリ、ポツリと示唆的な事象を出して怪しさを増加させつつ、ひょいと以下のような挿話を入れて更に不気味な雰囲気を醸成するのだ。
水槽は、海へ遊びに出た家族連れの客や子供達が海で採ってきた獲物を、レストランにそのまま持ち込まれては困るので、店入り口手前に水槽が置いてある所からつけられている。この水槽内では、普段、都会の子供達が目にすることの無い弱肉強食の生存競争が展開され、時に、採って来た獲物が、他の生き物の餌食になって子供達が泣くなどということも起こる。そんな挿話がさりげなく挟み込まれているのは、義母を預かっているさやかの夫への申し訳なさから、自分を恨んで欲しい、などという夫婦の微妙な人間関係の会話にも踏み込みつつなのである。即ち、どこにでもある夫婦の濃密な日常生活の淡々とした流れに淀む深みを示唆しつつ、また、母の、物事の是非をハッキリさせるさやかに対する嫌悪と長男の嫁律子に対する当てつけのような高評価、更には、律子の普段一緒に居ないから良い子ぶっていられるという現実的自己評価とが相俟って、多層的で面妖な、我々のそれに似た現実生活が透かし見えるのだ。
上演中だから、結末は記さないが、サブマリンを意識させるノーチラスならではの作品である。
満足度★★★★★
君はどちらだ?
難しい劇である。科白解釈や演出内容がではない。逆にそれらはコンセプチュアルで、良く噛み砕かれ、他に意味が取りようもないほど明晰、非常に分かり易いものである。(追記2015.7.26)
ネタバレBOX
だからこそ、観ている我々観客に“お前自身は、どちらを選ぶのか?”を真っ直ぐ突きつけてくるのである。曇りの無い良心に従えば、どちらを選ぶべきかは明らかである。だが、大多数が、それとは反対の立場を、現実には選ぶであろう。今作で大多数がそうしたように。そのことが予め予測出来乍ら、尚且つ自らの信じる良心に恥じないことを、地元で最後迄貫き徹せるのか? この問いに現実生活の実践を通して応えることが難しいのだ。
舞台床上に敷き詰められた新聞紙。目の悪い自分には、内容迄読めなかった所、辺野古のことが書かれていたと知人から教えて貰った。舞台奥の壁にも新聞紙が貼られ、丁度、北斎の「男波」のような形に切り抜かれている。これは無論、バイキングの故郷の一つであるノルウェーの海を、そして沖縄の海を象徴している。その広さ、優しさ、外敵から守ってくれる砦と偏見の無いそして自然の厳しさに鍛えられた真の強さをも。深読みすれば、船長だけが博士一家の味方につくのも、このことと無関係ではあるまい。
もう1点、大事なことを指摘しておくならば、博士が地元で生きようとする点である。自らの生活と関わりの薄い、国政レベルではなく、家族の生死迄、左右されかねない具体性の中で、彼が生きることを選択している点にこそ、今作のラディカリズムが存するのである。ラディカルは、その本義、急進性及び本質である。
ところで辺野古では、地質調査も終えぬうちから、政府は、次の手続きである図面提出を強行している。このこと自体に法的瑕疵があるのではないか? 民意は示されている。通常、民意を活かす場合、新たなものが優先されるであろう。先の沖縄選では、辺野古移設反対を訴えた議員が当選している。自民党は4選挙区総てで敗れた。民意の意味する所は明らかであろう。ヤマトンチューよ、恥を知れ!! そして、同情だとかのレベルでなく、真に日米安保条約と地位協定を考えるのであれば、キチンと己が被るリスクも引き受けて見せよ。それが、民主主義であろう。その程度の覚悟もなくて、何の民主国家か?
満足度★★★
ハドボイドゥドと人情
尺が2時間程の作品で、この劇団のシリーズ物第6弾。
ネタバレBOX
アメリカか南米の腐った都市を思わせるシティー。ここにレトロな人情と俠気に生きる貧乏探偵。マッポと政治屋と金次第で何でもやる頭のいい下司野郎・片付け屋グループ、ヤクザ崩れの窃盗団、少年ギャングVSヤクザで少年ギャングボスに惚れ、組織を裏切った元ヤクザ等々、例によって因縁絡みのキャラクターが登場するが、以前、このシリーズを観ていない観客にも楽しめる内容にはなっている。然し、今回、本線と内容的にリンクしないギャグの多用が序盤・中盤中ごろ迄目立ち、ちょっと食傷した。この辺り、もう少し余分な物は狩り込んで尺を短く濃密なものにした方が芝居としての完成度は高くなるように思う。
満足度★★★
イチイマ
3分程遅れてしまったので、オープニングのシーンは観そびれた。
ネタバレBOX
結論から言うと、何かが足りない。薄気味悪さはあるものの、人間の造形に深みがなく、殺害の動機が弱過ぎる。こんなことで殺人を犯すようなら、世界中が殺人鬼だらけになってしまう。それに、殺害時、スコップで一度頭を殴って死ぬ音響になっているが、科白では何度も殴っていた、という表現になっていたり、殺害シーンは、完全に観客からは見えない場所で行われ、音だけが聞こえるというのも、かなり舞台装置を作り込んでいる割には、工夫が足りない。もっと、紗のようなクロスを用いてシルエットを浮かばせるとかシャドウで表現するとか、血を飛び散らせる等の工夫があって良かろう。ゲームも陰湿なタイプの観客が居る、という割に単調過ぎるし、何十年も続いている組織にしては、ゲーム内容が余りにお粗末。
紫陽花のイマージュも科白の中に出てくるだけで、役者達のヴィジョンにも、舞台上にも殆ど感じられなかった。唯一の例外が、赤紫の紫陽花についての久美の科白である。
細部と細部同士の連携、シナリオライターの人間観察力、物語の構造を太くしっかりしたものに組み上げる為の構築力などが欲しい。
満足度★★★★★
問い掛け
数年前、チェゲバラの娘さんにお会いしたことがある。感受性の鋭い、頗る聡明で、現実的で適確な判断を素早く下す方で、同時に溢れるような温かさを感じさせる方であった。会った者総てを虜にするような魅力を具えていて、忽ちファンになってしまった。彼女の魅力の最も大きな部分は、体中から溢れる温かさ、優しさであろう。太陽みたいな人ってホントに居るんだ!! と実感させるのである。彼女はキューバに住み、小児科医をしているのだが、子供達が注射を打たれる場合でも、彼女に打たれるなら、怖がりはしないのではあるまいか。
ネタバレBOX
彼女の話を出したのは、今作でゲリラ側リーダーとして描かれるホセのキャラクターを改めて考えたいからである。ホセの魅力も、その弱者に加担する優しさと聡明、倫理性の高さ、判断力の確かさにあるのは明らかだからである。それに反してフジモリをモデルにした大統領、フジヤマの品性の下劣は今更言う迄もあるまい。同時に当時のペルーに、どの国が具体的に関与していたのか、自分は中南米の専門家では無いので余り良くは知らないのだが、中南米を支配し、収奪と強奪を繰り返し、政権転覆の為にCIAや特殊部隊を用いて現地右翼に拷問、虐殺の方法を指導し、拉致、監禁、指導したことの実践をさせたのみならず時には国軍を使って住民を虐殺、国際金融機関などを用いて国家経済を破壊し、各国の中心産業である農業を破綻に導いた上で、モンサント等の遺伝子組み換え種苗を売りつけるなど、軍事、産業、経済総てを破壊してきたアメリカを疑うのは当然のことである。因みに肝心な事は総て秘密交渉で決められるTPPはこの流れの上に乗ったものであることは、認識しておく必要があろう。AIIBの設立にアメリカの手先機関であったIMFの幹部が関わっていたのはなぜか? そのことの意味するものを日本人は考えるべきなのである。現在の植民地支配の形態は、単に軍事的脅威による支配ではない。様々な力(軍事力・経済力・政治力・交渉能力・条約作成時の先見性等々)つまり、結果として双務契約に基づく形を採る。問題は、弱い側は、その国民の意見を無視したり反映せずに居る事なのである。
リベルタが立ち上がったのは、このような不正義、不公正に対してなのであり、その正当な主張は、残念乍ら、現在も是正されていないのは、国際情勢に目を向ければ明らかなことであろう。
今作は、かなり史実に忠実に作劇されているように思う。何故か? それは、観てくれた人に、即ち我々に再考を迫る為であろう。観た者には、観た者としての責任もあろう。
良く出来たシナリオをスピード感と緊張感のある舞台にした演出の音響・照明の使い方、役者陣のしっかりした演技、事実を事実として(或いは真実として)提起する方法、センチメンタルに流されない理性的な創り方に深い共感を覚えた。
役者では、ホセ役、西岡 野人、交渉役、カタオカの砂川 和正 司法省判事役、ヨシケン、リベルタメンバー・ミゲル役、藍原 直樹、日本大使役、和田 武の演技が気に入った。また主宰の林田 一高が、フジヤマの私設部隊メンバーを演じ、聖職者として、反革命サイドに生涯関わっていた彼の人生を好演した。難度の高い演技であり、皮肉な人生であるが、隋所でそれと悟らせながらであるのは、シナリオと筋展開の運び方、そして彼の演技の賜物であろう。以下、少し例を挙げておく。
カタオカの妻になった女性を彼も愛していたこと、住民虐殺のドサクサに紛れて彼女をレイプし、その結果、彼女が妊娠したことが自殺の原因であったこと、ラストの特殊部隊突入の際には、革命部隊メンバー、殺害を禁じていたリーダー、フジヤマの暗部を法的に裁こうとした判事を、即ち良心的な人々を殺害してゆく姿は、現代の悪を描いて象徴的。だが、仲間である特殊部隊に銃殺されるようなアイロニーは、現在の日本に未だ存在するだろうか? というのも、今作の現在の日本への問い掛けではないか?
満足度★★★★
himitu
実際に起こった出来事をコアに植民地である日本の蟻地獄で狂わずに生きてゆく為の、或いは抜け出す為の試論。(追記後送)
ネタバレBOX
多くの観客が、自分とは重ならない印象を持ったことだろう。それは、表面しか観ていないからである。無論、表面を観ただけでも、このアメリカの植民地で若者が置かれている哀れな状況を感受することは無論可能であり、自分はその感受性を否定しない。自分にもそれと同じ感受性があるからである。だが、自分は更に分析するのだ。それだけである。今作、序盤で主人公、小林は警察に「保護」されるが、担当のデカは、警察手帳を見せる事さえ当初していない。おまけに告発の内容を曖昧化することで罪刑法定主義すら守っていないような対応を見せる。これは、小林に抗議されて一応、警察手帳を見せた上で訳の分からない屁理屈を捏ねて“保護”という形を採るのであるが、この辺りの対応法が、秘密保護法に於いて想定されるような内容である点、また、秘密保護法施行以前でも採られていたマッポの姿勢の問題が問われる。マッポも公僕である以上、憲法とそれによって保障された国民の人権は守らねばならない。秘密保護法が最初に守るのは、権力とその犬だからだ。本来、法の趣旨としてはそのような権力の横暴をこそ、縛らねばならない。だが、アメリカの完全な畜人即ち米畜である政治屋、官僚、高等司法官、権力者という名を冠された下司共は、その下司性故にまともな人間の言うことなど一顧だにしない。今作が所謂演劇的に、距離の取り方で失敗している原因は、以上に挙げた事柄に対する抑え難い怒りにあるだろう。一方、このような作品的欠点にも拘わらず極私的作品として狂気に陥らない為に創っているような迫力があるのは否定できない。それが今作の魅力でもある。
満足度★★★★
Hikawamaru
全くタイプの異なる作品の2作上演だが、扇の要になっているのが、氷川丸である。デートに利用した方々も多いに違いない山下公園に係留されている船だ。横浜デートコースの定番でもある。
ネタバレBOX
さて、最初に上演されるのは、5.15事件を引き起こした皇道派青年将校参謀格であった古賀 清志と横浜の茶舞屋で働いていて清志に救われたマリが、日本の社会変革を夢見て、その方途として日米開戦を画策。具体的には訪日を終えてシアトルへ帰る世界的喜劇俳優チャップリン暗殺計画を氷川丸上で為そうとした物語である。
これは、実際に計画されたことである。偶々、チャップリンの秘書になっていた高野が、チャップリンから絶大な信用を得ていた為、チャップリンの偉大を充分理解していた高野の機転とチャップリン自身のアーティストとしての優れた特性、また、偶然としか言いようの無い運命のきまぐれからチャップリンは、命を長らえたのである。
皇道派将校の殆どは貧農出身である。彼らの姉、妹らは、飢饉の起きる度、女衒に連れられ苦界に身を沈めていった。食う物もなく、家の壁を剥いで喰い、土を食んで飢えを凌いだ。だから、堕落しきった上層部、支配層に抗議する時、激昂の余り鼻血を流す者等も居たという資料が残っている。5.15、2.26を経て日本は、太平洋戦争へ突き進んだ。その選択は、後代の我々から見てあからさまな間違いであるにせよ、決して豊かだとは言えなかった大日本帝国で、天皇、皇族、一部の華族、資本家、政治屋、官僚が富と社会的地位を独占し、家事手伝いに雇った女には手をつけ、子を孕めば暇を出すような好き勝手を許せるハズは無い。道理を言えば、特高に引っ張られ、拷問虐殺は日常茶飯であった。
但し、作中でも言及されているように、古賀はアメリカと開戦したら、勝つ気で居た。即ち、アメリカの実体を知らず、当時のアメリカ経済の規模と大日本帝国のそれとをデータを駆使して調べるということも行っていなかったことは確かである。即ち、皇道派は、その決意の中核に天皇親政を夢見ていたのであり、具体的に国家を運営・管理する為のノウハウを持っていた訳では無かった、ということである。結果的に、後に統制派に敗れることになったのは必然と言わねばなるまい。だからと言って、大日本帝国の統制派が齎した政治が、決して良いもので無かったことは歴史の示す通りである。その意味では統制派と雖も所詮井の中の蛙。村社会日本の本質を脱しては居なかったということである。
ところで戦中、現在の秘密保護法に該当したのが、治安維持法であり、当然、現在と同じ共謀罪も適用された。だが、当時の治安維持法は、現在の秘密保護法より、ゆるいと考えられる。批判してはいけない対象が限られていたから、それ以外は罰される恐れが殆ど無かったと考えられるからである。現在の秘密保護法は、GSOMIA+αであり、何が罰されるのか原理的に明らかにならない。嘘だと思ったら、自分で詳しく調べてみるが良い。とんでもない法の実体が分かるから。
因みに茶舞屋とは、主に外国人船員相手の遊び場、1860年代から1930年代間迄横浜など国際港に設けられていた。無論、セックスの相手にもなるが、ダンスを一緒に踊るなど社交的体裁も整えていた。
さて、今作の話に戻ろう。マリは、チャップリンの宿泊している1等船室の隣の、矢張り1等船室に部屋を取った。彼女は厨房の下働きをしている若者と仲良くなり、チャップリンの食事に古賀から預かった毒を盛る。然し、さしものチャップリンも毎日届けられる海老の天麩羅に飽き、手をつけなかったことで助かる。偶々、下働きの若者が傷ついたカモメの雛を育てていたのだが、この雛が天麩羅を食べて死んだことから毒殺計画が発覚、マリは、高野の尋問に答えなかった為、水責め、兵糧攻めに遭うが口を割らない。結局、高熱を出して倒れてしまった。高野もこれにはケアが必要と判断、ドクターに診察させ、食事も与えた。愈々、明日、シアトルに着くという前日、チャップリンが「マリに遭いたい」との伝言を高野に伝えられたマリが船室に残っていると、高野の配慮で船室に訪れこそしなかったものの、チャップリンが自分の考えを隣室から述べた。この文言に胸を打たれたマリは、チャップリン暗殺を諦め、1人分の毒薬を仕込んだペンダントを胸に最後の晩餐に出掛ける。
ところで、現在、猛威を揮う安倍内閣のスタッフの愚かさもまた、皇道派と同じ過ちを犯しているように見える。日本の右翼というのは、全体何かか・誰かを神聖視し、神格化して決して疑おうとしないことにあるように思う。疑義を呈したりすれば、不敬だの失礼だので排除され、決して批判的検証が内部の者によって行われることが無い為、過ちがあってもそれを改める機会を失してしまうのだ。その結果、とんでもない失敗が外部の力によって明らかにされない限り、自らの失敗を自らの力と知恵で止めることができない。これが、安倍のまた安倍政権のそして日本「エリート」の愚かさの正体である。
2作目は、まるでタイプの異なる作品である。2作の扇の要は氷川丸のみ。今作で氷川丸は、遊星アルカディアと横浜を結ぶスペースシップとして登場する。
かつて地球留学をし、妻子持ちの男と恋に落ちた女、ケイが星間恋愛の破綻の結果自殺を図るが、しっかり者のクルー、サチコに救われる。尤も、この自殺志願者を最初に発見したのは、幸子の後輩クルー、コーエンであった。然し、腰を抜かしてしまいものの役に立たなかったのである。今回ばかりではない。彼は、客にスープを掛ける。先月は客の大事にしていた時計を壊す等々、ドジのデパート、間抜けの笊といったキャラクターなのであるが、どういう訳か他人が放っておかない好かれキャラでもある。サチコは無論のこと、サチコほど仕事はできないが、シシドも先輩として常にコーエンを気に掛けてくれる。コーエンという役名も深読みすれば後援と公演を掛けているのかも知れない。
何れにせよ、彼の数々の失敗にも拘わらず、彼が一所懸命に客にサービスし、寿退社するサチコに心配掛けまいと頑張る姿も、シシドがアナンというコーエンがスープを掛けてしまった客が良い人なのを良いことに、一芝居打って、サチコの前で男を上げさせてやろうとするのも、アナンは偽名で、実は、サチコに会いたい一心でシップに乗り込んだ婚約者であることも、船長がロボットでグーしか出せないという基本情報を漏らしながら、オカマを示す仕草ではパーの形に掌を開くことなども、最後のしっぺ返しへの助走と取れ・・・にゃいよ!!
まあ、これらの仕組みはばれてしまうのだが、サチコがしみじみ、コーエンのひたぶる失敗にも拘わらず、彼の顧客から下船迄にクレームのついたことは一度もないことを告げ、横浜に到着してからの穴場情報を、客の好みに合わせて地図付きで提供したり、無論、移動の際の時刻表や手段等々細かい所までケアした手描きの資料集を作成して手渡したりと優しい面を強調して自分一人で独り立ちしてやってゆけると餞の言葉を贈ると同時に、今回、コーエンの男を立てる為に打った芝居が、宇宙シップジャックを想起させ、テロか? との大騒動を引き起こしたことで減給処分を受けたシシドの株を下げるというギャグの最後っ屁もつく。
1作目をシリアス作品に、2作目をコメディーにした上演形式は、観客をスムースに日常へ戻す為の配慮と見て良かろう。
満足度★★★★★
仮面と裸形 どっちが人間?
あどけなさと子供達のしっかりとした観察眼に裏打ちされた本音とのWシンクを通して下降弁証法に至り、終には餓鬼の誕生迄、実際に舞台を観ている子供達にもちゃんと分かるように視覚化して表現している点で、先ず評価できる。
ネタバレBOX
物語は、関東一帯を纏めた伝説の暴走族、関東血みどろ愚連隊の元初代総長、丈一郎が、保育園経営の父が倒れた為、40歳代になって初めて臨時園長代理として赴任したことから始まる。赴任早々、丈一郎には、普通の大人には聞こえない、子供達の本音の声が聞こえた。敏感な子供達は、彼が自分達の本音を聞き取れる事を直ぐに悟る。だからと言って、子供達の態度がそのことを梃子に変わるという程、彼らのエネルギーは柔なものではない。同時に丈一郎も子供達も本質的に敵対している訳ではない。優しさの根競べをしていると言った方が寧ろ近いのである。丈一郎に子供達の本音が聞こえるのは、無論、彼が、バイアスを掛けないものの見方が出来るからである。元々、質の良い不良というのは、ペーパーテストの成績だけが良く、人間味もなければ、感受性にも乏しい人間失格秀才等には及びもつかない鋭敏な感性と大人や自分より力のある者達を観察して遣り込めることのできる観察力と理論構築力を具えているものである。無論、教師と馬が合いさえすれば、成績だってトップクラスには直ぐなる。教育ママとやらいう怪物に飼いならされた愚物とは大本から違うのである。
丈一郎は、世間的には不良で、それも関東一円の問題児の総大将であるから中味の無い気取った阿保な大人からは顰蹙を買う。然し、幼稚園ではなく保育園に通う、家庭的に複雑で社会的問題を抱えていることの多い子供達は、表向き、所謂良い子であることが多いのだ。彼らが抱えている深刻な問題に気付かない、感受性の鈍いというより麻痺したボンクラばかりが蔓延る社会が常態化している現在の日本では、丈一郎や、保育園児のような正常な人間が却ってつまはじきに遭うのである。結果、複雑な社会の犠牲となって子供達を虐待するに至る親や社会に対して、丈一郎と子供達が、狎れ合い押し流されてゆくセンチな世界をこの劇団は描いていない。あくまで真摯に己をぶつけ合い、互いに傷つけ合い乍らも、理解を深め、庇うべきは庇える側がそれを担い、のたうつ者は、思い切りぶつかってゆく。その嘘のないぶつかり合いにこそ、人の温かさ優しさがあるのであり、この劇団は、そのことを表現している。丈一郎役の夢麻呂さんは、舞台を下りると意外と小さい。だが、演じている時の貫目といったら、伝説の暴走族リーダー、丈一郎そのものである。良い役者だ。園児役では、ひまわり組でいつも折り紙を折ってばかりいる根本スズ役の福田 らんさんが良い演技をしている。感受性の鋭い、どちらかというと内向的な女優さんである分、今後とも芸域の拡大が見込めそうだ。
満足度★★★★
若手もベテランも 良い感じ
次代のこの国を背負って立つ若者達に活力を与えようと文科省も絡んでプロジェクトが決行された。
ネタバレBOX
無論、最初はモデル校を選定にそこに、地域からランダムに選ばれた活性化因子を送り込んで様子を観るのである。選ばれたのは都立赤山高校2年B組。活性化因子は、何とオジサン3人。一人は八百屋、一人はタクシードライバー、そしてドン尻に控えるは、ゲイバーで働くオカマである。
当然のことながら、高校生はドン引き! 然しオッサン達はめげない。期待されたコミュニュケーション能力を活かし、徐々に生徒達を取り込んでゆく。きっかけになったのは、長期欠席を繰り返していた女子とオカマが話すようになったことと、八百屋が実は東大出であることが知れたことであった。
文科省の偉いサンは、このプロジェクトに否定的だ。で、官僚らしくイギタない手を使ってくるが、どっこいそうは問屋がおろさない、というオチが最後にはついてくる。
満足度★★★★★
母は有り難いもの
障害児を抱えた家系同士が、その子の面倒をみる施設を通して近付き、互いの関係を紡いでゆく物語。舞台は、両家共に、其々の家族をこの1~2年の内に亡くし、而も子を失った母は、その子の死を時々認識できないアルツハイマーを発症している。(追記後送)
満足度★★★★
モノクロ版を拝見
童話白雪姫をベースにした作品。
ネタバレBOX
童話の持つ本来の残虐性を継承して残酷童話劇として成立している点が良い。照明、音響とのコラボレーションもぴたりと嵌って見事だ。また、白雪を世話する7人の小人が実は多重人格(解離性同一性)障害者という解釈で造型されている点、彼が隠者として森の奥に隠れ住んでいる点も現代の闇を孕み込んで示唆的である。
また、オープニングで合わせ鏡に時計を入れる(挟み込む)という科白が出てくる点にも注意を喚起したい。当然のことながら、この科白の背景には、西洋で謂われる言い伝えがあると考えねばなるまい。曰く、合わせ鏡をしてはならない。何故なら、悪魔が現れるからである。この悪魔を“知”或いは、人知を越えた能力と捉えるならば、白雪を助けた解離性同一性障害者の少年は、四次元能力、即ち時を止める能力を持ったキャラクターとして登場していることに気付くだろう。
同時に、彼が重い精神障害に囚われていること自体に、現代社会の病弊が暗示されていることにも気付くハズである。では、彼は何故、このような障害を負ったのかについては述べられないものの、其処は、観客の想像力で補って欲しい。何れにせよ、彼もまた社会の暴力的性質の被害者であることは間違いあるまい。
一方、これは無論、物語である。だから、物語を語る主体は、今作に於いて誰なのか? という問題も当然提起されてくるだろう。先ず、この物語の全体を知り得る存在は誰か? である。物語は、総て森の奥で起こる。女王即ち白雪の継母の王宮での鏡への問いを除いて。而も、鏡によって総てを見られていることは、森に居る少年と白雪によって発見され、鏡を砕くという行為によって監視を逃れるのであるから、これらの経緯総てを知り、且つ生き残った者が、今作を語る主体として顕現する。繰り返しになるが、然しこれは物語である。少年が「時を止めた」と言って王子や白雪を殺した所で、それは、あくまで少年の幻想空間の中の出来事なのである。彼を殺人者として捉えた通常の人々の間では、最早、彼の幻想は通用しないのだ。この点にこの物語の最後の残虐性が在る。この仕掛け人こそ、作品の背後に居る作家な訳だが。作家は物語の幻想性から日常へ舵を切ることによって、観客を舞台空間から日常空間へ戻してもいるのである。
満足度★★★★
何故分からなくなったんだろう?
一度壊れた人間関係を再生する物語。
ネタバレBOX
舞台には、3か所のセットが組まれている。下手には、バーPerdre上手奥には、高校の職員室、そしてその手前、客席側にコンビニ店内。この3か所を照明を当てるか否かでチェンジする。シンプルだが、無駄な場転の暗転等を省いて頗る効果的である。舞台美術も見事である。因みにPerdreの意味には、劇中で説明されているように“道に迷わせる”という意味もあるが、通常第一義的な意味としては“失う”である。何れにせよ、現在、アメリカの完全な植民地として機能しているこのエリアで大衆受けする作品が描くように、夢を真っ直ぐ追いかけたり、予め壊れていない人間関係を前提に話し始めたら、それだけで白けてしまうのは当然だろう。
その点、今作のシナリオは、予め壊れた人間関係を起点にしている点で合点がゆく。実際、我々が生きるこの地で家族関係等疾うの昔に崩壊していると言える。その例を挙げるなら、単身赴任で父親不在の家庭に於ける母子の異常接近と男子の精神的発達が父親との争闘を欠く為に歪んでいる実態がある。父親が単身赴任していない場合でも仕事に追いまくられて妻子と共に過ごす時間が欧米社会に比べてすら極端に少ない社畜社会に、まともな人間関係が成立し得たらそれこそ気狂い沙汰である。
にも拘らず、この植民地で語られてきたのは、そのような現実の家族の在り様とは正反対の、少なくとも都会では在り得ないような嘘である。こう言って悪ければ幻想と言い換えても良いが。その結果が、現実を見据え、悪い点をキチンと抉り出して対処法を講じることではなく、埒も無い逃避のエクスキューズを散々繰り返すことで自らを欺き、終には修正の効かないレベルに迄状態を悪化させ、対処のしようも無く滅びを待つだけというこの植民地の愚策に繋がるのだ。電車の中で学生の会話を聞いて見るが良い。同世代の海外の学生に比べて如何に幼いか。比較にならない程である。
だが、こんなに情けない状態も、深読みすれば、アメリカの実質植民地であるという実態を畜人に知らせず、管理を容易にする為に、アメリカと畜人の間に立つ、官僚・政治屋が仕組んでいることかも知れない。気をつけるべし!
満足度★★★★
憲法を身近に
GHQが、現在の日本国憲法の草案を作った時の話という設定だ。日本語として、果たしてこの草案が適当な物か否かを判断する為に、政府のチームは、日本語に造詣が深いと思われる人々を緊急に招集した。広告の文案を練る者、文壇小説家、流行作家、推理作家、劇作家、詩・歌人、随筆家、新聞記者らである。(追記後送)
満足度★★★★
6団体
各団体が持ち時間内で短編1作品を上演するオムニバス形式の舞台。(追記後送)
ネタバレBOX
Mrs.fictions「ミセスフィクションズの祭りの準備」
苛める者、苛められる者のヒエラルキーをピラミッド構造で表し、登場人物2人がこの関係にあり、且つ、此処で苛め役をしている者は、一つ上の階層では、最下位の苛められる者であることを示しつつ、追い詰められた者の陥る“暴発”を描く。特徴的なのは、暴発を通り過ぎた一瞬に見せる追い詰められた者の態度に恰も他人事のような雰囲気が感じられる点で、このことで逆に、当事者の傷の深さが感じられる。
20歳の国
「消えないで、ミラーボール」
高校サッカー部マネージャーと部員達との解逅。思春期のセンチメンタルジャーニーといった趣の作品だ。ジャーマネは、引退試合に8-0でぼろ負けしたサッカー部紅一点の女子部員。男の子達の矢張り、憧れではある。名を“あさみ”という。引退試合後、皆と会えなくなると泣くあさみに対して、その後、付き合う者、別れ、傷ついたあさみを慰める者、告ろうとして、はにかみ果たせぬ者、「皆を集めて」と願うあさみに酷い言葉を投げつけた者などが婚礼披露宴に招かれ、友人として芸を披露する。
MU
「HNG」
H NG。つまり、Hは駄目よ!!とタイトルを解説すべきなのか? なわきゃあるまい! ってのが、テーマの作品。だって、Hしなきゃ大人という感じにならないだろうし、ガキも出来にゃ~。でも、世の中には、正義だか何だかを振り回して色々やりたがる手合が多い。で、このエリアでは、他人の前でHをする連中を取り締まる自警団を結成した。成績の最も良いのが悠、鼻が利くのは、幼い頃、両親が、ベランダや子供の目の届く所で頭の二つある怪獣になっている所を何度も見てトラウマになっているからのようだ。因みにシェイクスピアではないが、ガキの頃、そんな物一人で見たら、そして回りにそのような経験を持つガキが居なけりゃ、そりゃトラウマになるだろうよ。
いずれにせよ、スペルマを掛けまくる変態や、見られることで興奮するカップルの現場へ出掛け、その模様をネット上で実況・公開する矢張り変態観察者、無論、人目のある場所でHしたがる変態カップル等々、歪なキャラが多数登場する。落ちは想像に任せるが、楽しめる作品だ。
第27班
「夏の灯り」
The end of companyジエン社
「私たちの考えた墓に入る日の前日のこと」
シンクロ少女
「性的人間あるいは(靴がもたらす予期せぬ奇跡)」
満足度★★★★
素敵!
はちみつシアターの魅力は、政治、経済、軍事、哲学など「難しいことはわかんな~=~~い!」という前提を組んで、その前提の下に、蟻地獄に嵌り込んで足掻く人々の、それでも一所懸命に、しなやかに生きたいと願う心を描く点にあろう。
ネタバレBOX
今作も、女性+1で、その魅力を、ダンス、パフォーマンス、舞台衣装の変化などでふんだんに振り撒きながら、大筋の物語は物語でしっかり成立しているのは勿論のこと、これら、ダンス・パフォーマンス・衣装替えや歌謡ショー総てが、キチンと物語の必然性に収まる。(因みに最近、若い人達の舞台で良く見掛ける、物語の内容と関係ないダンスやパフォーマンスと違って、これらの芸事で自分達の運命が決まる、という劇的本質を表出している点で、はちみつシアターの芸事は必然なのである)
また、「笑っていたい」という科白が何度も登場するのだが、このキーワードこそ、普通にこの植民地で暮らす人々が願う幸せの形なのではないか? 唯、嘘ばかり並べ、空疎な言い訳しかできない無能で、こすからいだけの首相と名乗るウツケ。その「権力」を恐れたふりをして、媚びを売り、「国民」を蟻地獄に叩き落として知るべき恥の感覚すら持たない下司共、そんな為政者しかいないこの植民地で、人々が切に願う幸福の形を。