満足度★★★★★
丁度、三層の風邪薬のような構造を為している。コアにベケット、中央に鴻上,そして外側につか。Mヴァージョンを拝見(追記2018.11.11 12時半)
ネタバレBOX
無論、これには訳がある。下敷きになっている作品がベケットの「Waiting for Godot」それを下敷きにしながら書かれたのが鴻上の「朝日のような夕日をつれて」で、これをつかの所で長い間演出をしていた今回の演出家、逸見 輝羊が演出しているのだから。序盤に殊につか風の作劇法が見えるのは、この為であろう。
ところで、今作がこのような構成を採っているのは無論偶然などでは無い。優れた脚本というものは往々にして、ある種の可塑性を具えているものであるが、殊に今作の下敷きになっているWaiting for Godotには、大きな可塑性がある。というのも、エストラゴンとウラジミールがしていることと言えば待つことだけだから、待つ間にどんなことをしようが構わないのである。鴻上は、このことを良く理解し先達の業績をキチンと踏まえた上で、敬意を籠めて用いている。その証拠といっては何だが、みよこという名の女性は、Godotと同様頗る大切な役名だが1度も登場しないばかりか、特定のメッセンジャーが居る訳でもなく、立花トーイの幹部社員達相互の次期社長の椅子獲得競争、名誉、愛の的としてのマドンナゲット等、丁々発止の駆け引きの中に齎される情報に過ぎない。而も噂噺よろしく語られる彼女に纏わる話が、謂わば“神”としての情報を示しているのであり、知的領域に於けるフェテシズムを、金の持つフェティシズムと殆ど同等の要素として極めて重要な転換の鍵を為している。即ち真相は闇の中でも、実際に様々なことが起こり得る強力で魅惑的で謎めいた磁場のような作用を果たしている点でGodotの女性バージョン乃至はi二乗イコールマイナス1を出来させる虚数の相方と観ることもできる。逸見は、無論これら2人の狙いと深さを重々理解した上で、時代の息吹と切迫感を取り込む為につか風にアレンジしているのだ。舞台美術がゴドーには用いられていた1本の木すら無いことに注意したい。これは、現代日本の干からびた精神風土や、文明が齎した自然破壊を象徴しているのみならず、我らの未来を暗示しているのは当然である。同時に、今作に於いて真にフェティシズムの二重化が為されているとするなら盛られた物語が、ここに表現されたような形を取るのは必然である。ゲーム、それもコンピューターゲームという、ある意味人間の本質と見事に照応したジャンル(人間とは遊ぶ動物であるという定義さえ成り立ち得る)の話でありそれが単に身体や精神、知恵のレベルに留まるのではなく、知の周縁であるコンピューターというゼロといち2つの値を演算する装置との関連で捉えられ、人間という生命とある種の合体を遂げる世界観を提示している点でも、その根拠をDNAの4つの塩基に置いてその相似性を指摘している点でも極めて興味深いのである。
また、これらの論理を有限枠の中に収める為に、リーンカーネーションを物質的に捉えることで分子の数を有限個の範囲内で措定、無窮の時間を想定し、同じ組み合わせが成立し得る可能性をゼロではないとしている点も重要である。
満足度★★★★★
通常の板の上手側から客席へ延びる花道、板上は奥に外向きに開く扉を仕込んだ壁、上、下とも奥の壁面に対して若干のスペースを取り、斜めに設えた袖兼用の衝立がハの字に置かれている。無論以上の開口部3か所は出捌けに用いられるが、他に花道も利用されている。
ネタバレBOX
正面奥の開口部には、大きな蝶の絵が描かれている他、衝立にも翅の文様等が描かれ、ちょっとサイケデリックな印象を齎す文様は同時にアボリジニの絵をも喚起させて何とも宇宙的である。
この開放的な舞台デザインとアナーキーな脚本が、闇鍋やブイヤベースのように何を放り込んでも、不思議に融和して自然に映るような仕組みを提供している。
物語は、人の最も大切にすべきもの・ことが、通常不可逆的と看做される時の遷移が可逆的とされるタイムマシンの話と時と共に勘案しなければならない空間、今作では宇宙と其処に生じた生命の諸関係がUFOやUMAを通して滑稽に展開する。然しながら総て、生命を構成している物質は諸星の生産したものであるから、その大切なもの・ことが共通項であるかのような深い因縁と必然とで繋ぎ合わされ大団円になだれ込む。従って一見ハチャメチャに見える今作、一皮剝くと、生命の本質を描く部分に一切ブレが無いことに気付く。このしっかりした脚本を役者達の身体に落とし込んで観客に届ける時、紗幕を用いたり、テレパスウオッチなる器具を用いて心の声を届け膠着しそうな事態を打開してゆくなど、見世物小屋的な歌舞きの技を用いて味を出しつつ、エンコのキッチュな懐かしさを自家薬篭中のものとして提起してくる面白さに嵌る観客が居るのも頷ける。無論、照明や音響を通常とは変わった形で用いる場面や特殊な技術もあって効果的だ。
満足度★★★
星、少しおまけ。ところで制作は最も優秀なスタッフを充てなけれなならない、という興業の基本は理解できてる?
ネタバレBOX
基本的に、良い所を褒め、悪い所は注意を喚起するという形でレビューを書かせて貰っている。大抵、その居場所で一所懸命に奮闘していると信じるからだ。だが、それにしてもということはある。そういう場合には、世間は箸の上げ下ろしでその人物を観るという表現者の階より遥かに手前の段階で評価せざるを得ない。ミュージカルを観て来たのにこんなことから始めなければならないのは、制作をはじめ演劇的なものを支える構造がなっていないからである。ミュージカル、演劇というジャンルで女子大の公演は、これまでお茶大、学習院女子大を拝見してきているが、こんなことを言わなければならないのは初めてのことだ。チケットに関する不備は、連絡の異様な遅れのみならず、チケットが受付に用意されていない不手際、当日、公演会場の表玄関が開けられていない不手際、ガードマンに訊ねたが連絡が不行き届きだったのか或いはガードマン自身の無能によるのか、要領を得ない案内で別の窓口へ赴き別のガードマンに案内を請わざるを得なかったこと、ガードマンの年齢のせいもあり、てきぱき動けないものだから結局、開演に間に合わなかったこと、陽のあるうちに表から入って来た観客に、昏い会場内で小型ライトで足元を照らすような配慮さえできないこと等々、失礼ながらお頭の出来を疑わざるを得ない。
脚本は、オーソドックスだが良く練られていたのは、宝塚の脚本を用いている為だろう。だが、オープニング直後の群舞は、頂けない。手足の指先迄神経を行き届かせていないのが一目瞭然、脚部を上げる動作などもおざなりで高く揚げることもできず、切れもない。殺陣にも全然スピードがのらないのでシラケるだけだ。同じ女子大でミュージカルをやっているお茶大OGのミュージカルを拝見したことがあるが、こちらは、ホントに素晴らしい出来で自分の評価は最高点であった。学習院女子は演劇だが、外部からプロの演出家を招いていたり、映画と演劇の演出法の差を研究したりしていているのみならず、歴史に登場する親眷もあるからだろうか、自分達の頭で考えて自分達なりに歴史と向き合おうとする意識を感じる。
今作を今演じることの社会的意味は無論あると思うが(為政者として為すべきことを一切せず、倫理性の無いことを恥もしない唾棄すべき輩批判として、アーサーの至りついた心境は腐り切った日本批判になり得る)上に挙げた部分は大いに反省して貰いたい。
個々の演者の技術では、ランスロットを演じた部長の鷹飛りおさん、グィネヴィアを演じた美咲七蒼さんがバランス的にグー。アーサーを演じた王月 蕾さんは美声だが、男役としては低音部の弱さが残念。魔女モーガンを演じたSEINAさん、ケイを演じた凪さんもグー。他モーガンの手下を演じたレイヤ役、ヘラヴィーサ役の中々良い。演出、ダメ出しに関しては会場アンケに記した通り。
満足度★★★★★
舞台は客席中央に花道をとって板に通じる形。板上手前はフラット。奥中央の出捌け手前の板面から中央に向けてシンメトリックに右旋回、左旋回する階段が設けられている。この階段を上り切った所にも出捌けがある。同時に板フラット部分の上(カミ)、下(シモ)にも出捌け。花道も出捌けに使われる所に動きの多い作劇をするこの劇団の特徴が現れていよう。(華5つ☆)
ネタバレBOX
1945年8月9日、アメリカによる長崎への原爆投下から敗戦後の庶民の生を、戦中から人間としての当たり前の価値観(肌・髪・目の色、国や宗教の違いで差別してはいけない。命は同じだという判断)で生き抜き、非国民の誹りを受けながらも行為で自らの判断を実践してきた医者と教師とその家族。彼らに助けられ、恩を蒙った彼らが困難に追い込まれた時にはちゃんと恩を返し続けた在日朝鮮の人々の篤い紐帯と築地小劇場の役者達をモデルにしたであろう自由主義者の役者、自由の意味する所と実践すべきことを実践し得た勇気ある人々のブレの無い生き方を中心に、非国民呼ばわりをしたり、赤紙や時代の流れの中でポピュリズムの嘘を見抜くには若すぎた少年兵たちの言動を対置することで、また朝鮮の人々の中にも差別する日本人に反抗する人物も描いて一筋縄ではゆかぬ人間の在り様を重層化してみせると共に、士官兵卒の差と命令の下に行動する訓練を受けた軍人たちの縛られた生き方を加えることで、更に大人達の個人的悩みや社会人としての在り方、時代に対する対応の是非、またその方法、普遍的価値と時代のイデオロギーとの相克等を輻輳的に描いてみせた秀作。個々のエピソードの具体性やリアルな感覚を呼び覚ます科白と身体表現、演出も素晴らしい。被曝者を含む多くの戦争犠牲者が感じていることをキチンと描き出している点でも秀逸。日本で現在軍事化を推し進めているアホな政治屋共にも是非観せたい作品である。
満足度★★★★★
良く作り込まれた舞台美術。開演前には、水の滴る音がずっと流れている。如何にもタイトルに相応しい。
ネタバレBOX
下手手前壁際が母の部屋、中央の居間とは襖で仕切られている。居間の上手がキッチン、壁に沿って奥からかなり大型のフリーザー、上段が大きく下には3段程引出型の収納庫が付いたタイプ。手前にシステムキッチン、流し、水屋が置かれている。キッチンの奥が正面玄関、三和土と居間に挟まれた奥に2階への階段と物置部屋、若干の空間があり、2階には妹の住んでいる部屋がある。
物語は、長い間、夫子を置き去りにして失踪していたのに夫の死後ふらり舞い戻って、自分が相続した家だと居座り続ける母と口論しながら運転していた車で、子供を轢き殺してしまった長男が、母の助言もあり、轢き逃げをした罪の意識を抱え込みながら生きてきた7年間を描く。
満足度★★★
う~~~む。(追記後送)
ネタバレBOX
タイトルにあるようにアルツハイマーが扱われているのだが、脚本にイマイチ説得力が無いように思えた。病だから、その原因は目に見えない。結果が様々な形で現れるだけである。だから人間関係の描き方には細心の注意が必要である。父・和男の失禁話から認知症を患っているのは年齢から言っても彼のように思い勝ちだが、実際には長男の英男である。そして主人公は英男なのだが、彼が若年性認知症を発症する必然性は、物語の流れとして描かれている彼と最も精神的関わりの深い女性2人との関係として描かれていない。それで、この作品で英男がアルツハイマーを若くして発症してしまう「原因」としての必然性を欠き、葛藤が真に迫ってこないのだ。これを必然とすることには通常無理があろうが、そこが脚本家の腕の見せ所、別の方法を用いてドラマツルギーを成立させることも含めて考えて貰いたい。
満足度★★★★★
2作品同時上演企画第六弾“ヒミツの幸せシリーズ”と銘打った今回の天ポリ公演「Cmd+Z
ダイアリー」を拝見。(華5つ☆)少し追記2018/10.31
ネタバレBOX
凄いのは劇中、タイムパラドクスを明らかにした上で、これを歴史の不可逆性を一切変更しないという初期の目的とは真逆の方法で切り抜けると共に"苛め“という現在最も深刻な問題を通じたドラマの齎すカタストロフィーによって見事にアウフヘーベンして見せた点にある。こうして解を出されてみると、問題解決は、これ以外に無いように思えるのである。この落とし所をこのように設けた所に、この劇団の上手さがある。下北に定着しつつある現在、次に目指すはスズナリか本多劇場辺りだろうか。
小道具のチョイスと使い方もグー。先ずは、葉子の読んでいるHGウェルスの「タイムマシン」。彼女がHGを略さずに発語している点にも細かい配慮が感じられる。また読書好きの彼女の名“葉子”は言の葉に通じ、ネーミングにも無論意味がある。芥の姓は作中でも触れられている通り、芥川 龍之介に通じ、精進は彼が勝ち組になる為に費やした努力そのものだ。3人娘或いは3博士の筆頭、看板女優のやんえみさんの持っている扇風機や時を刻んだタイムマシンも、駄菓子屋風玩具を用いることでチャラケを演出しつつ、庶民感覚とキッチュな感覚を醸し出し、板上に居るだけで桁を外すことのできる彼女の特性を見事に活かしている。至る所に仕掛けられたこれらの歌舞く技術の高さは、殆どの観客が気付きもしない所に凄さがある。このような小道具とマッチしているのが舞台美術だ。中央奥から手前に迫り出す棺桶のように設置された大きな函その左右に斜めに設えられた階段、左右の壁を形成する衝立と中央の段差との切れ目が出捌けになっているだけのシンプルな作りで、色合いも地味なので、役者陣の衣装ややんえみさんが背負っている可愛らしいバッグが引き立つ。一見、ゾンザイやだらしなさと紙一重の所を計算し尽くして作られているのだ。
大事なことをもう一つ追記しておこう。葉子の科白に芥を通じて友達ができる迄、彼女は孤立していた時、どんなことを言われようが大丈夫だと考え、そのように生きて来たことが語られるが、恋をし、友を持って初めて、独りになることが怖くなったというような内容の科白があった。このリアリティーの深さは、真の孤独を知る者にしか書けないし理解できない。何故なら、真の孤独とは己が独りであることさえ認識できない一人ぼっちなのであり、即自存在と対自存在が分かれる領域だからだ。サルトルの実存がハイデガーの実存によって救われた部分であるということもできよう。
新たなシリーズで今後も大活躍しそうな劇団、期待している。
満足度★★★★★
テクノロジーの発達を意識せず、また滅びゆく幕府に肩入れした松平 容保は、暗君だと思ってきたのだが、個人的には、中々優れた人物であったようだ。認識を新たにするかも知れない。何れにせよ、未知の領域を多く抱える時、為政者が心を砕くべきは、領民の安寧である。そのことに真に気付き実践した所に西郷 頼母の偉さがあった。同時に人が人として十全に生きるに必要なのが、自尊心であるから、生き死にに直結することを賭けて矜りを保つか否かの選択は簡単でないことも、容保及び会津武士の生き様に良く描かれている。(追記後送)
ネタバレBOX
1853年6月のペリー来航以来、日本は開国を迫る列強の前に上を下への大騒ぎ。翌年3月には日米和親条約調印を機に開国の運びとなった。日本が西欧近代の荒波に晒されることになった訳だ。この当時、英仏を始めとする西欧、ロシア、そしてアメリカは、産業革命やフランス革命の大々的影響を蒙り、民族主義に裏打ちされた経済の膨張から余剰生産物の販路を求めると同時に原材料調達を目指して植民地開拓を盛んに行っていた。
一方、鎖国によって海外との窓を狭め、海外からの情報にも疎く内政にのみ焦点を絞ってきた幕藩体制そのものの屋台骨が既に劣化していたにも拘わらず、そのことの危険に気付く者が多かった訳では決してない。佐久間象山などの他、琉球を通じて海外情報を握っていた薩摩藩、英国との衝突を通して列強の実力を知った長州藩、龍馬を輩出した土佐藩、藩政改革が早く開明的と看做され薩摩藩とも同盟を結んでいた肥前藩からは大隈重信が出ているが。
明治になってからの藩閥政治を主導したこの四藩のうち、肥前だけは戊辰戦争以降余り討幕運動に熱心だったという訳ではないものの、統幕の中核を為した薩長、殊に薩摩藩の動きが今作に深く関わっている。無論、幕閣の中にも勝海舟、小栗上野介ら優れた人材が在ったが、小栗は若くして殺された。龍馬が世界に目を開いたのが勝の影響であったことは広く知られていよう。
何れにせよ、ペリー来航から僅か十数年程の間に、日本の歴史は大転換を遂げた。今作は会津藩主松平 容保が明治に至る鳥羽伏見の闘い・戊辰戦争辺り迄を話の中核として展開する。
満足度★★★★★
異種恋愛譚だが、それは妖怪と人との間の恋愛である。(追記後送)
ネタバレBOX
無論、年齢感覚はまるで違うし差別や偏見など異種であれば起こり得るあらゆる要素が入り込める設定である。無論作家はそれを意識して書いている。二十代最後の作品だから色々埋め込んでおきたいという事情もある。若者らしい繊細な感情と劇団えのぐの持ち味、様々な様態を同時に同空間に保持し続けるという多様性も健在である。現在世界中で起こっている利己主義と民族主義の嵐に対してのアンチテーゼと言えよう。こんな問題が吹き荒れるのは無論近代を成立させた国家主導のイデオロギーが現在も未だ充分に消化されず、問題を増々隘路に追い込んでいるからである。アメリカがトランプを選び、ロシアはプーチンがずっと強権を行使し続け、フランスではサルコジ以降右派が猛威を揮い、中国では習の独裁体制が続き、日本でも安倍の如き無能な狂犬政治が唯アメリカに媚びを売り、追随すれば利益を得られると考えるアホな大企業経営者、官僚、政治屋によって維持され続けている。そして彼らの支配を可能たらしめてているものこそ、メディアや御用学者の垂れ流すフェイクニュースと嘘である。
今作は、これらの社会悪を異種恋愛譚という強く普遍的なテーゼを通じてあげつらってみせる。その多様な表現と異質性を許容し得る社会的モデルを描くことによって。だからこそ、ここで攻撃されているもの・ことが嘘なのである。
満足度★★★★
旧サニーサイドシアターでの公演。
ネタバレBOX
尺は70分強。この短時間に一応7話を詰め込んであるものの、基本1人芝居+1という形なので衣装換え、場転などの関係から、人数を揃えればストレートプレイとして普通に演じられるシナリオをこのようにして観せているようだ。役者、殊に出ずっぱりの大西さんの頑張りは大したもの。半暗転状態で着替えや身づくろいをするので、舞台裏が見えるようで興味深い。内容的にはスター球団のスター選手が野球賭博に関わったと報道されたことで、大騒ぎになってからの顛末が描かれるのだが、サイドストーリーとして子供の誕生が関わってくるので話がギャンブラーのうわついたレベルから一挙に現実の深みを獲得する。かなりギャンブルに纏わる単語も出てくる作品だから、ギャンブル好きには、身に積まされることもあるかも知れない。
満足度★★★★★
ネットで調べたら当日券は完売になっていたので18時ちょっと過ぎに公園前に設置された当日券扱いテントへ赴く。スタッフの対応は的確で合理的、取り敢えずは既にかなりの人が並んでいる列の最後列に並ぶ。途中、既にチケットを持っている人は並ばなくても良い旨、トラメガを用いてスタッフが何度も案内してくれたり、当日券が買えなかった人々に無料観覧エリアで座る際に用いる貸出シートの配布をしてくれたりと気配りも素晴らしい。
内容、質を重視する総合ディレクター宮城さんの見識の高さもあって、舞台自体も素晴らしいものであった。野外公演の持つ野性味(都会なら都会の持つ)が感じられる舞台は、通常の小屋で観るのとは異なる演劇体験をさせてくれたし、役者陣の力、異化をこととする原作者ブレヒトの特性を活かし、役者陣の個性、能力を引き出した演出家の力量と観察力を含め、実に優れた舞台、演劇の楽しさを感じさせてくれた。(追記後送)華5つ☆
満足度★★★★★
A,B,C3チームによるコンペ。勝敗は観客の投票で決まる。ルールは冒頭2Pは同一脚本、稽古時間は60時間以内、上演時間は45分以内、役者の数は男4、女4、舞台セットは箱馬8個等。
板上は、奥にかなり大きな衝立が置かれている外、板客席側の前半分に箱馬が規定数置かれているだけだ。出捌け口は、衝立で目隠しをされた左右になる仕掛けだ。B,C対決を拝見。「勝手にしやがって下さい」追記後送
ネタバレBOX
「勝手にしやがって下さい」
タイトルが揮っている。ぶっきらぼうで命令口調の前半から丁寧語への移管が齎す何とも言えぬ桁外しの脱力感と可笑しさの醸し出す絶妙感が良いのだが、話は男の目から見られた女性という謎を巡る上質な喜劇。
ルリコは結婚する。披露宴に招待されたのは、親友の歌穂、彼女に関わりのあった男4人(うち2人は最初の彼、最後の彼、彼女へ片思いの童貞君、そしてセフレ)。追記は後程。
満足度★★★★
A,B,C3チームによるコンペ。勝敗は観客の投票で決まる。ルールは冒頭2Pは同一脚本、稽古時間は60時間以内、上演時間は45分以内、役者の数は男4、女4、舞台セットは箱馬8個等。
板上は、奥にかなり大きな衝立が置かれている外、板客席側の前半分に箱馬が規定数置かれているだけだ。出捌け口は、衝立で目隠しをされた左右になる仕掛けだ。B,C対決を拝見。「母に酷」追記後送華4つ☆
ネタバレBOX
「母に酷」
大方の観方とは大分異なるだろうが、単に家族の問題とは捉えなかった。要は幕末から明治にかけて急遽輸入した西洋近代の国家モデルを構築する為に用いられたイデオロギーの本質が、弱い立場の庶民の中でも最も弱い社会的弱者である養護施設出身者家庭の中の娘に現れた社会的歪みとして捉えたからである。その意味ではとても深い問題を提起する作品であるが、重すぎてこのようなコンペで得点を稼ぐのは容易ではあるまい。
何れにせよ、追記は後程。
満足度★★
カリガッ。お情けで☆2つ。
ネタバレBOX
プロデューサー、演出は何やってんだろう。制作の問題というより、プロデュースそのものがなっていない。開演は20分遅れ。MC等が下手。おねえ言葉を使い何やらネオゴシックかレトロ調の化粧を施し、イメージは時計仕掛けのオレンジに出てくるアレックスを混ぜて2で割ったようなキャラを演じているようなのだが、芸は3流半以下。TVのヤラセそのもののようなレベルのギャグばかり。おまけに言葉だけで大衆を制御しようとするものだから、浅過ぎてシラケ切ってしまう。何せ、「最高、最高!」なんて連発する訳だから、お頭の中身が空っぽだと誰もが見抜けるレベルなのに、喜んでる馬鹿が結構いるので驚く。これも演技だとでもいうのだろうか? 馬鹿にしか見えないが。
因みにダンスも3流、シンガーはセミプロ級の声を持った者も居たが、3人のシンガーの内、声に感心したのは1人だけ。だが、彼女はリズム感がイマイチ。自分の身体の内側から湧き出してくるようなリズム感を持ち合わせていない。彼女より多少リズム感のある子は声がイマイチ。張りが無いのは、シンガーとしては体が細すぎて声に伸びがないからだろう。最後の方に登場した子は1回目の公演にも出場していたという子だが、スケールの大きさに欠けると皆一長一短。最初に挙げたようにプロデューサー、演出も全然ダメ。MCや撮影スタッフ等との打ち合わせもキチンとはやっていないのだろう。照明や音響も設備が悪すぎてオペレーションの自由が利いていない。おまけに20分押しても一言も無いのは、プロとして恥ずかしいと思わないのだろうな。観客のレベルも低かった。明らかに40代半ばほどのおっさんが、この中では最もまともな芸を披露しているシンガーが歌っている真っ最中に大画面の携帯だか、やや小型のタブレットだかを取り出してぺカぺカ光らせている。無論、前説で禁止されていたにも拘わらずだ。こんな客で溢れるのもハッキリ言ってあらゆる意味でプロの仕事とは言えないからだろう。
まあ、主催の彼らを多少擁護するなら、渋谷という街の劣化を上げておくべきかもしれない。自分がガキの頃、渋谷は庭のようなものだったから随分この街で遊びもした。その頃は、未だ無名だった井上陽水が、知り合いがやっていたライブハウスで歌っていたし、百軒店にあった店でハッピーエンドや頭脳警察のライブなんかも良く聞いていた。この店今でも在るかも知れないが、内容は変わっているだろう。ハッピーエンドのメンバーとは、休憩時間中良く一緒に話もしたものだ。要は一流の連中が演っていたし、観客の我々も自分達が世の中を変えると自負していたものだ。ホントに久しぶりに行ってみたら、渋谷はそういう自負は愚か、オリジナリティーが全くない、4流以下の下司な街になっていた。
満足度★★★★
開演前に中程から奥は幕で仕切られている。出捌けは上手、下手共左右の手前に広い黒幕、奥に狭いそれが設えられ、中程から奥は、画家のアトリエ、高くなった中央奥にはイーゼルと椅子が据えられ、壁には様々な様式の絵が飾られている。手前はフラット。
ネタバレBOX
嘘の大嫌いな女王が支配する国。其処に流れて来た人形師、ライアと彼女が最初に作った人間人形ニコ、そして弟人形リグ。お隣さんで絵描きのネイバーフッド、女王ロード。登場人物は以上だ。
ニコは、従順で余り冒険をしたがらない。ちょっと引っ込み思案な所も見られるが則を越えないタイプ。それに引き替え弟のリグは活発で冒険心に富み、何にでもチャレンジするタイプで同じ人形師が作った作品であるにも拘わらず個性が全く異なる。オープニングは首輪をされたニコの独白シーンから。この国の掟である、嘘をついてはいけないこと、破れば恐ろしい刑罰が待っていることなどが語られる。作り手であるライアとニコの対話の後、新たに弟が完成したことが告げられ、誕生祝いのパーティーが開催されるが、真夜中に大音響で流される音響に隣人のネイバーフッドが怒鳴り込んでくる。口論を収める為にパーティーに彼を参加させてしまうライアだったが、パーティー直前にネイバーフッドに出会い人間らしさや自由意思の意味する所を聞かされていたリグは、彼に預けられ外の世界を見ることになる。ある日、大衆に芸術の持つ歌舞く機能を蔓延させない為に、彼の作品を毎年買い上げて来たロードから連絡が入る。頼んでいた作品の督促であった。苛立つ彼女は、電話だけで飽き足らずネイバーフッドのアトリエを訪ねてくる。慌ててリグを別室へ逃した彼に女王は執拗に迫る。というのも女王は芸術はマヤカシであり人々をその巧みな表現で誑かす嘘そのものだと判断しており、これまでも彼女自身で芸術家を排除・作品を駆除してきても居たからである。但し、これには例外があった。ネイバーフッドはある計画を持ち掛けていたのだ。その計画とは、ネイバーフッドが他の芸術家たちを次々に消してゆくことを条件に、彼とその作品だけは庇護するというものであった。女王はこの件を呑んで彼の作品を庇護してきたのであるが、作品提出の遅れを梃に腹立ち紛れに彼を処分してしまうつもりになっていた。
一方、女王は督促に訪れる序に、ライアの屋敷で留守番をしていたニコを襲い機能停止に追い込んでいた。アトリエにやって来た女王は、機能停止したニコを投げ出し、久しぶりにリグに会いに来ていたライアを含めアーティストや人形を破壊しようと向かってくる。これを受けたアーティスト、人形軍団は迎撃、ネイバーフッドは右目を潰されるものの、アーティスト集団が勝ち彼らは自由を得た。
一見ファンタジーの作りだが、現在日本が置かれている嘘蔓延社会やメディアやネットでのフェイク、情報の組織的隠蔽と組織に属する下司共の利害絡みの虚偽や、正当な者・判断への嫌がらせ、脅し、意図的フェイク、誹謗、中傷等々を踏まえているのは、ベクトルを変えアイロニカルに提示した今作の健全を見れば分かる。
今年は、フランスの5月革命に刺激され、メキシコで起こった1968年10月2日のトラテロルコデモでの大虐殺事件から50年の節目でもある。更に悪辣さを増し、猛威を揮う現代資本主義のあからさまな収奪や嘘によって事実を隠し、彼らの利害だけに誘導しようと日々暗躍する権力者、為政者、資本家などの下司に対し、新たにメキシコ大統領に就任するのは、AMLOの愛称を持つエンリケ・ペーニャ・ニエト。トランプの移民政策に真っ向から反対し、アナルコサンジカリズムの旗を掲げたあの頃の民衆の声を代弁すべく立ち上がったAMLOのように、異議申し立てをどんどん拡大すべきであろう。分断されぬよう、大同団結を図り、全世界で真に自由な人間とあらゆる生命を守る為に行動しよう。そう年寄にも思わせる健全な作品だ。
我が日本では、沖縄の民意を潰す為にヤマトンチュの利害を利用しようとするかに見える現政権だが、ヤマトンチューの顔に泥を塗るな! と言いたい。理のあるのは、沖縄である。でああれば、手を引くべきは政府、アメリカである。僅か国土の0.6%しかない沖縄に日本の米軍施設の70%以上が集中しているのはおかしい。ホントに日米安保が必要だというなら、沖縄に集中させるのではなく、そう主張する人々の居住区に米軍基地と米兵を配置すれば良いのである。こういう当たり前の議論をすべきであろう。
満足度★★★
女心を巡って賭けをした友人3名。果たして女性の本性は浮気なものか? それとも貞淑なものか?
ネタバレBOX
西園寺家令嬢 百合恵(姉)と架純(妹)は各々婚約者を持ち近々結婚する予定だ。各々の婚約者は、士官(衛と陸)である。ところで、この士官らの共通の友人が保安官を務める宮崎だ。宮崎は、女というものは、浮名を流す生き物、必ず浮気をすると主張するが士官ら2人は自分の婚約者に限ってそのようなことは無いと主張、真っ向から対立した。そこで実験をすることになった。士官2人は、貞節を信じることに賭け、保安官は浮気をする方に賭けた。メイドの瀧山を巻き込んで実験が始まるが。
結果は僅か1日で出た。勝ったのは保安官。その顛末は、男も女も本能に操られる獣に過ぎない、ということか!? との結論をそのまま言ってしまうのは、少々・・・、というテイストを示してくれる作。
満足度★★★★
観てのお楽しみ!(華4つ星)追記2018.10.21 03;55
ネタバレBOX
オープニング、昏い舞台、紗幕の奥に小さな光が点灯して移動する。音響は何やら恐ろしいことが起こるような気配を醸し出している。掴みとしては非常に上手い。ここから紗幕が挙げられると、下手一杯に着陸船の姿が見え、タラップが下ろされると左手に小さなトランクを下げた宇宙人が下りてくる。スモークが焚かれ照明、音響の効果的な用い方で幕が開く。上手手前には花壇、降りてきた宇宙人の顔は蛸に良く似ている。宇宙人が計測機器のようなものを取り出し、地球生命の観測に掛かろうとするとタラップは閉じられた。彼は置き去りにされてしまったのである。…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………***………………………………………………………………………………………………………******…。この点線部分、置き去りにされた宇宙人の驚きと絶望を表す。喜劇だから、レビューもこのくらいの芸当をしなければ面白くあるまい。
By the way,これは映画のセットであった。下積みの長い恩大事 春雨が初主演するSF映画のロケ現場だったのだ。
夢ばかり追いかけて大言壮語する監督のせいで、シナリオはズタズタになる。然し、苦労人であることが災いして春雨は、協調路線に打って出る。他の皆もヒロインを除けば似たりよったりなので、我慢に我慢を重ねるが、夢を夢見ることの儚さは痛い程知る面々、それでも夢を諦め切れないさまは、”諦めましょうと どう諦めた 諦めきれぬと諦めた”と都々逸にあるように深い、深い夢なのである。このことが、今作のホントの主眼であろう。生きることは夢見ることであり、それは生そのものである。だが、それがメジャーにならない限り、他人からは滑稽にしか映らない、従って「客観的」にそれは喜劇であるが、真の全き人生は、チャンと夢見ることでしか成り立たないのではないか? との重大で切実な問いが、糖衣錠よろしく喜劇の衣を纏って表現されているのだ! 噛んだ役者さんが居たのは残念だったが、お体の調子が悪かったのではないか? 自分はその方が心配である。だって、通常こういうことは無かったのだから。もしお体の具合が悪かったのであれば、ご快復を祈念するばかりだ。ところで、その辺り座長の演技は渋かった。流石に良い演技をなさると感心しながら拝見していた。良い劇団である。是非とも、劇団の夢もかなえて頂きたい。
満足度★★★★
太陽と月を操る人々と狼族との攻防を描いたダークファンタジー。(追記2018.10.17 02時 華4つ☆)
ネタバレBOX
衣装が中々豪華で、カッコイイ役者が多い作品だが、ギリシャ悲劇の傑作を想起させるシーンも出てきて内容的にも深いものがある。
物語は、盲目のトゥルーバドール(トゥルーベールでも良い、どだい学問的な違いを言うよりイメージとしてここでは用いる)が子供達の下にやってくる所から始まる。彼はオルフェウスの竪琴のような楽器を弾きながら古い叙事詩を伝える。その頭の部分は人口に膾炙した部分で子供達も良く知っているのだが、冒頭以外は、子供達には知り得なかった、そしておそらく今では大人達の殆どが知らない、或いは隠された真実であった。その核心は、光が失われた原因に纏わるものである。丁度、彼の目から光が失われたように。
こう書けば、ギリシャ悲劇に通じた人々はハハンと思うかも知れない。正解である。分からない人は、もう少し本を読みたまえ。或る程度世界文学に通じていなければ、様々な戯曲に何がどのように籠められているのかについての認識も持てない。解釈も自ずから違ってくるのである。
かつて、この国は太陽を操る者、月を操る者、二人のリーダーによって統率されていた。然し狼族が、彼らの生存を賭けて挑んでくる。その力は侮りがたく一族は存亡の危機に直面する。その攻防の央、月を支配する長の甥・ソラは、狼族の女王の息子・スエークリンとの奇縁から親友の契りを結び狼族の襲来情報や何故彼らが襲うのか。また彼らの弱点などを自然に知るようになった。一方、太陽を司る長は、狼族の殲滅を画策し、その為にスエークリンを拘束、ソラを通じてその撃滅法を探ろうとしていた。ソラはアンヴィヴァレンツに引き裂かれる。親友は裏切れない、然し、妹が言うように父は狼族に襲われ、ソラを護る為に食い殺された。父が殺害されたことで、母は子供達の為に最も嫌っていた太陽を支配するリーダーとの再婚に同意し、現在彼はソラの「父」そこで、彼はリーダー達に提案した。後は観てのお楽しみだ。
満足度★★★
う~~~~む。少し追記(2018.10.14)
ネタバレBOX
原作は北村 想、自分は原作を読んでいないので間違いかも知れないが“本当のこと”というフレーズが多すぎる。今作のシチュエイションで言えば、3度までは許される。それ以上はくどくなって逆に本質から遠ざかって仕舞うと見る。脚本に関しては以上だ。
カンパネルラもジョバンニも女優が演じているのだが、少年を演じているのだから晒しを巻くなどして乳房を隠すべきだろう。賢治作品に関してはそのような配慮が必要だと考える。演出家の感性とは異なるだろうが。上記とも関連して宮澤 賢治作品に対する認識が甘いように思う。
北村 想の原作を読んでいないので、以下に述べることが当を得ているか否か定かでないのだが、北村が想定したであろうファンタスティックな世界は、定番とはいえ、それなりの水準を感じさせるのに、歌唱シーンが入ることによって百年の恋が一瞬に醒めるような幻滅感に襲われるのが如何にも残念だ。このシーンを活かすならいくらでも方法はある。演出家の決断でこのシーンを削ることがあっても良いし、活かすのであれば、観客に幻滅を齎さないで欲しい。
もう一つ、言っておきたいのは、噛む役者が多かったことである。この程度の科白量で、これだけ肝心な所で噛みまくるようならキャストを変えるべきだろう。何故なら、本質的な所で本当のこと、と、宗教とは相まみえねばならないテーゼだからである。本当の事を宮澤 賢治が求めた以上、北村を越えて演出家は思いを致さねばならないのは当然のことだし、そのような姿勢で役者陣に接していれば上に挙げたような批判は受けずに済んだであろうから。
作品をミュージカルというコンセプトに仕上げたいならそうすべきだろうし、そうでないならそのような演出を心掛けるべきであろう。総てが中途半端である。今迄の演劇ジャンルや既成概念を破壊するのが目的であれば、キチンとそのことを形にしなければなるまいが、そういう要素も感じなかったし、強烈な現世否定や幻滅を経験しているという徴も見られない。演出家に自分自身の哲学が欠如していると考えざるを得ない。そのような視座が無いなら演出をすべきではあるまい。
満足度★★★★★
この劇団の、この視座でしか描けなかった世界。(華5つ☆)
ネタバレBOX
メーテルリンクの「青い鳥」が冒頭をはじめ随所に挿入されて散文詩のような構成になっているのが興味深い。韻文詩と異なり、散文詩はその形式が比較的自由であるばかりでなく、散文の特徴である客観的事実や事象を描くのに適していることは、母音の矢鱈に多い日本語以外の詩について多少深い勉強をしてきた人間には当然の認識であろう。今作でもこの辺りの文学的事情が上手に用いられている。
というのもシアターノーチラスの作品自体が群像劇を標榜しているということがあり、現代日本を生きる普通の人々の微妙な生活感覚や他人との距離感、個々人のメンタリティー、時に個々人の中にある価値観やメンタリティーの強弱なども描き出して見せてくれるのだが、今作では特にこの辺りのホントに微妙で日本的な躊躇が齎す非行動の意味する所を、他の方法では描くことさえ適わなかった形で形象化してみせた。
日本人には主体性が無いとか、自分の意見を表明しないとか、何を考えているのか分からないという言葉は良く聞く。喋らなければ或いは自己主張しなければ、存在自体を認められないような社会ではないからだと言えばそうなのだろう。然し、これは日本人の傾向として特にファクトに向き合おうとしない生活態度から来ているような気もするのである。何だかんだ屁理屈をつけては目の前の問題から逃げることばかり考えたがるのが日本人の特質なのかも知れない。早いうちに手を打たないから問題が肥大化して手が付けられなくなるのだが、そのような知恵はファクトと向き合い対決してきてこそ生まれる。最初からそこを無視して逃げてばかりいる人々には手遅れになってからアタフタする他に道が無いということも事実であるから。こんな日本人を彼らはと言えば、憎まれ口も防げようが、敢えて言っておく。日本人の大多数は、見ようともしなければ聞こうともしない。何を? ファクトをだ!
その結果がF1人災であり、加計学園問題であり、カジノ誘致問題であり、憲法9条を護る伊ことを主張しながら、沖縄に犠牲を押し付けることについては同時に問わない姿勢であり、ちょっと古い所では裕仁の戦争責任問題看過問題等である。
何れにせよ、今作板上には正面奥に背凭れ付きの椅子が7脚置かれているだけであとはフラット。登場人物が必要に応じて椅子を板上に持ち出し、対話相手と適当な位置、距離を取って己の座る場所に椅子を持っていって座る。歩行や座った状態での演技が殆どなので、細かい表情や、決して大げさは無い科白の意味する所、科白と科白の間にある何かを如何に解釈するかが観客の作業である。
様々な襞に覆われ、認識の果てに不可知論に陥りそうな場所で、各々の登場人物が何をどのように考え、或いは感じ、どのように生きているのか? 各々は各々の生を本当に選んでいるのか? 選ばされているのか? そのどちらでも無く単に流されているのか? 流されているのだとすれば、その時彼らを流しているのは、何か? 等々多くの疑問が湧いてはシャボン玉のようにはじける現実のように物語は進んでゆく。或る意味とても恐ろしい物語である。そしてその恐ろしさは、頭の中身が無いムカデが己の進みゆく先を一切顧慮せず、絶滅という淵に只管進みゆくのみであるにも関わらず、己の行為の結果も、己の行動の簡単に予測できるハズの未来も、唯現実に向き合おうとしないことが原因で、必然的に起こる事実から目を背け続けることによって出来したという、自ら責任を負うべき事実を、己に突きつけないということに起因する怖さ、即ち想像力の残酷なまでの欠落を表す現実の怖さが示されている怖さなのである。