ハンダラの観てきた!クチコミ一覧

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SEA HORSE ADVENTURE(シーホースアドベンチャー)

SEA HORSE ADVENTURE(シーホースアドベンチャー)

マグズサムズ

南大塚ホール(東京都)

2013/09/20 (金) ~ 2013/09/22 (日)公演終了

満足度★★★★

海馬を巡る冒険
 舞台は、我々の脳で記憶を司る海馬と同じ機能を持つスーパーコンピューターが開発され、人の記憶を自由に外部にアウトプット、インプットできるようになった未来の在る時代。主人公は、どこにでも転がっている無特性のサラリーマン、梶原 辰夫。彼は、要領の良い妹とは対照的に何をやっても冴えない。かといって完全な落ちこぼれでもない波風の立たない人生を送っている。妹の結婚も決まり、定年を迎えて暇を持て余すようになった父からは、「お前も早く結婚しろ」とヤイノ、ヤイノの催促。唯一の自慢は、朝7時半にセットしている目覚まし時計の音で目覚めたことが一度も無いことである。つまり、その前に目覚めて目覚まし機能をストップさせているのだ。目覚ましを買って10年ずっとである。(追記2013.9.28)

ネタバレBOX

 そんな辰夫が、IT関係の社長連中の道楽に己の凡庸さを、凡庸の記憶データを提供する為に,ラボに出入りし、1週間の記憶を取り出しては渡していたが、このラボの研究員の一人が、開発しているスパコンでゲームに興じていた。だが様々な悪条件が重なって、さしものスパコンがクラッシュ、記憶のやり取りをしていた辰夫は、ゲームの世界に閉じ込められてしまう。ゲームの世界には、四天皇がいるが、辰夫は、四天皇と戦い、記憶回復に必要なメモリーストーンを入手する必要がある。3個目を入手しようとした矢先、魔王が介入、ソフトを初期化する作業を開始した。初期化されれば、辰夫は無論のこと、責任を感じてゲームに入って来た研究者、登場するキャラクター総ては灰燼に帰す。
 辰夫とは、自らの特性の無さにうんざりしていたサラリーマンであったが、例え地味でありきたりの人生であっても逃げださずに、それを背負ってゆくことに意味があることを見出し魔王と対決する道を選ぶ。結果、消滅することになろうとも。まあ、最後の部分は蛇足。感覚の鈍い人々向けの駄目押しだ。肝心なことは、ありきたりの人生であっても彼が、それを担ってゆこうとしたこと。そのことに意味・意義を見出したことに在るのであって、それが、絶対的力を持った魔王と戦う根拠になることである。民衆の英雄はここにしかないのだ。意図的・自覚的凡庸、これこそが、民衆的英雄である。
 この点を出したうえで、物語は、これらのストーリーが、ラボ所長と経営サイドの計略だったことを明かす。
 だが、既に民意は示されて在る。例え必敗の歴史になろうとも民衆は支配する者と戦い続けるという民意を。
透明

透明

TEAM☆イットクルゼ!

シアターグリーン BASE THEATER(東京都)

2013/09/19 (木) ~ 2013/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★★

大人も子供も楽しめる
 骨太でしっかりしたシナリオと論理的だが、錯綜した内容でホントに楽しめる。無論、ファンタジーの楽しさ、幻想性は、きちんと活かされているので、子供連れでも楽しめよう。

ネタバレBOX

 かつて強大な王国、ヤロウで威勢を揮った王があった。然し、彼は強大な王国の王であることに飽き足らず、人であることを止め魔王となるが、ハーブ王国の王は七人の勇士に魔王討伐を命じ、この目的を果たした。時は流れ、魔王が居たことは既に伝説となり、人々の口の端に上ることもなくなっていた。
 そんな折り、ハーブ国のお転婆姫、ミントが森の魔女に攫われる。王女の運命や如何に? というほど単純な物語ではない。実は、今作は、徹頭徹尾、作品がメタ化されている。ファーストシーンで売れないファンタジー作家の原案が上演されるが、これを観た担当編集者が、ダメダシをし、書き直すように要請する。それも明日までにだ。作家、結城は、原稿のことを考えながら寝転ぶが、どういうわけか物語のシチュウエイションの中に入り込んでしまった。夢だ、と納得するものの、編集者の大和田が訪ねてくると、書いた記憶も無いのに、原稿は、「夢」で見た通りの内容に改まっている。こうして、現実であるはずの作家としての生活と書かれているハズの内容とが、照応し合い、変質し合って、できる編集者、大和田の示唆よりずっと良い作品が出来上がってゆく。詳しい内容は観てのお楽しみだが、誰もが、何も信じることのできない暗い現代生活の中で、駄目な作品を登場人物達と共に作り直して行く、という嫌みのない展開が頗る上手い。また、不信感しか無い現代日本で創作の裏側を見せる、という構成になっている点も評価できる。作品の根底を形作る論理性に関してもブレが無い点は見事である。
 また、魔術を使う場面で電飾を上手く使って効果を挙げている点も評価できる。シナリオ、演出の良さに加えて、役者陣のキャスティング、演技、照明や音響効果などのマッチングも中々のものだ。楽しめるだけでなく感動もできる。
『泡』(再演)

『泡』(再演)

劇団 東京フェスティバル

恵比寿・エコー劇場(東京都)

2013/09/18 (水) ~ 2013/09/23 (月)公演終了

満足度★★★★

もう少しエッジを立てても?
 小名浜は、嘗て遊郭のあった地域である。風営法改正で、他の遊郭地域同様、ソープが多く建った。所謂浜通りにあるが、漁港でもある。今作では、3.11、3.12以降にここで働くソープ嬢、経営者、従業員と客の日常を描くことでドラマとしているが、やや、地元の人々のメンタリティーに配慮し過ぎた感もある。(追記2013.9.19)

ネタバレBOX

 3.11、3.12によって福島県をはじめとする被災地は大きく変わった。殊に、事故のあった原発を抱えた福島県には、事故後の原発労働者、仮設住宅建設で雇われた工事関係者などが集まり事故バブルとでも言うべきミニバブルが起こっていたのも事実である。無論、地震・津波とそれに続くF1事故の影響で沿岸漁業及びそれに携わる漁民の受けた影響は大変なものである。垂れ流された汚染水の悪影響と、国、東電、推進派御用学者らの嘘、情報隠蔽とマスメディアの情報操作。アメリカの思惑などが絡まって、事態は悪化の一途を辿った。事故直後は情報インフラそのものが大きな被害を受けた結果、一番、正確な情報を必要としている人々が、最も情報を持っていない、などという事態も起こっている。このことが、事態を益々悪いものしたことは否めまい。
 情報が回復するにつれて、大学関係者などは、いち早く独自のネットワークを用いて情報収集に努め、或る程度の成功を見ているが、一般の人々は、TV、ラジオ、地域の新聞などが、主な情報源であった。ラジオ、新聞を除けば、まともな情報は余り入って居なかったと考えた方が良かろう。メディアリテラシーそのものが、この「国」で浸透していない。従って、肝心な情報は遮断される一方、政府、東電に都合の良い情報だけが、イエロージャーナリズムと同様の手法で撒き散らされた。正確な情報を得ていた、知識人の多くは、早い段階で土地を離れている。無論、知識人のこのような態度に倫理的な問題は残るものの、一般の人々の為に自身のできる最大の事をした人々も居た。
 然し乍ら、メルトダウン、メルトスルーをしたことが素人の目にも察せられる時期になって尚、政府、東電、御用学者、NHKなどは、事故の真相を隠し続け、嘘を垂れ流していたのであり、現在に迄、それは続いている。
 3.12の爆発以降、数百種類の放射性核種が放出され、約1週間後には、福島由来のプルトニウムがアメリカで発見されているにも拘わらず、政府、東電、NHK、御用学者は、シラを切り、嘘をつき続けていたのだ。ヨウソ剤も有効な使い方をされなかったケースが多いと聞く。それもこれも、嘘ばかりが罷り通り、反対に必要で重要な情報が隠蔽されたからである。この「国」は、国民の事等一切考えていない。それに気付き乍ら、革命を起こせない民衆にも未来は無いが。
 まあ、この作品は、ここ迄、突っ込んで考えても居なければ、これらの事実関係の重大性について問題化しようという姿勢も無い。逆に、それだけ、残った人々に近いと言えるのかも知れない。それだけに、ここで言われる何気ない表現や表象は重いものがあるいう点に注意を喚起しておくことは無駄では無かろう。
 一方、これら深刻な事実を充分知りながら、敢えて残った人々もいる。多くの場合、彼らが、それを必要だと考えたからだが、地元に残って、人々の心のケアに努めたり、問題の核心を地道に訴え続ける人々、果ての見えない収束へ向けて被曝・被爆の危険に身を晒しつつ働く下請け労働者、良心的医師等々の人々についても、次は描いて欲しい。
 欲を言えば、我々、都会に居て、電力の益を受ける側に、必要な情報が集まり、危険に身を晒し、電力を送り続けている人々には、有益な情報が集まり難いという現状をも描いて欲しいものだ。現代に於いては、情報こそ、命である。この故にこそ、安倍は、通常30日は、意見を公募するパブリックコメントを、特定秘密保護法案に関しては僅か15日間で打ち切った。また、以前にも書いた通り、IOC総会で安倍がF1事故汚染水に対する記者質問に応えて「状況はコントロールされている」と述べたとされることについても、「情報はコントロールされている」というのが、正しかろう。
SUMMER PARADE

SUMMER PARADE

AnK

サブテレニアン(東京都)

2013/09/18 (水) ~ 2013/09/22 (日)公演終了

満足度★★★★

淡いもの・こと
 作・演出の山内 晶は、少女漫画好きとか。で“カベドン”などという初めて聞く単語も登場する。話としては、男性型バイオノイド(劇中、アンドロイド或いはR2D2と呼称)とアラビア語で星という意味の那樹夢(ヒト科女性)との恋への道行きである。

ネタバレBOX

 作・演出家の言うテーマは、「情報のすり替え」と「設定は選べない」ということだが、前者は、会話の曖昧さによる錯誤が齎す諸結果についての感覚的反応を、後者は、無自覚に為してきた結果が習慣、否、寧ろトラウマになり、それが意識化された途端、悪夢のように纏わりつく状態を表象する。
 上記の内容を、柔らかな感性を損なわぬ科白と所作、小道具、照明、効果音で作っている点に好感を持った。
 Boy meets girl.の内容は、互いの顳顬に当てた送受信機に念を送ることでホログラムを作成(単体でも複数でも可能)、自己の内面にあるイメージを視覚化するという方法を採っている。こうすることで、其々が、落ちこぼれとして抱えてきた有象無象を誤解なく伝達することが可能となると同時に、観客に人間及び、人間の鏡としてのバイオノイドの心象風景を実体化して見せている。従って、ここには、苛めと差別、負わされた傷、コンプレックス等々の現代的問題が隠れたテーマとして浮かび上がる。トラウマを抱え、キモイと言われて傷つき、死ねと言われ続けて自己のアイデンティティーの崩壊を目前にしながら、夢を夢見る姿が描かれていると言って過言ではない。
 R2D2が、史上初めて、人間の学校へ入校することになった原因、記憶の消去が不完全で、思い悩むというバイオノイドとしては失格の特性が逆に人間の持つ曖昧さにアダプトし易いと判断された時に、己の心象を訊かれ、楽しかったことを思い出して応える科白の何と美しく詩的であることか。「空を見ていました、宙を。それは、花に名をつけるようには(短い間)その雰囲気を言葉にできません」
 作者は照れ屋さんなのだろう。科白として詩的なのは、このフレーズだけだが、作品全体に、感受性の柔らかさを感じる。
hedge

hedge

風琴工房

ザ・スズナリ(東京都)

2013/09/11 (水) ~ 2013/09/18 (水)公演終了

満足度★★★★★

経済もので感動させられるとは!!
経済を描いた作品で感動させられるとは思ってもみなかった。こんな貴重な体験をさせて貰ったことに感謝しよう。シナリオ、演出、演技の素晴らしいことは無論だが、舞台美術、エッジの効いた音響、市場の緊迫感すら感じさせる照明も見事である。
 専門的な用語も多く、門外漢には分かりにくいジャンルをユーモアを交えた巧みな演出と、シナリオでフォローしている点でも好感を持った。
 扱われているのは、数あるファンドの一つ、バイアウトファンド(投資先の株式を取得後、経営にも関与する形で業績を上げ、企業再生を遂げた後転売して利潤を得、投資者にその利益を分配するタイプのファンド)投資先が上場企業であればTOB(株式公開買い付け)が必要になる。その際、利潤拡大の手法としてレバレッジ(梃子のことだが、麻雀などでいうウマと同じで、これを掛けるとその倍率に応じて利潤もリスクも拡大する)を掛けることもある。但し、リスクも大きくなるので、リスクヘッジを同時に掛けておかなければ危険である。(追記2013.9.30)

ネタバレBOX

 金融商品を扱うことで、市場規模を拡大してきたアメリカの投資会社で初のパートナーとなった人物、矢張りコンサルティング会社で活躍して来た人物3人が集まって日本でも金融商品を取り扱う新会社を創設した。時恰も、バブル崩壊の兆し始めた頃である。大手証券会社が倒産、銀行の護送船団方式が崩れ、新たな金融システムが模索された時代と言っても良い。
 然し、日本の慣習に馴染まない方式やシステムの違いも大きい。その狭間で生じてくる様々な問題を嘗て、メガバンクで活躍して来た銀行マン、リサーチ、分析の天才等々が、再生させるべき企業を物色し、実際、企業をケアし、再生して行く過程を描く。
 無論、この間、外資のハゲタカファンドによって日本企業はズタズタにされ、良いように税金はむしり取られ、この「国」は、長い不況に突入したわけである。そんな、庶民の持っている金融不信をも射程に入れつつ、分かり易く、リアリティーのある、而も楽しめる舞台に仕上がっている。
最高傑作 Magnum Opus “post-human dreams”

最高傑作 Magnum Opus “post-human dreams”

劇団銀石

ギャラリーLE DECO(東京都)

2013/09/17 (火) ~ 2013/09/22 (日)公演終了

満足度★★

勉強不足
 カレル・チャペックの「ロボット」をベースに組み立てられた今作は、4パートに分かれたオムニバス形式で上演されたが、無論、各パートは連携している。主題は、ヒトとバイオノイドの連携・共存可能性と心的交流の可非、労働に於ける人間とバイオノイドの関係、バイオノイドに労働を負担させることによるヒトの労役からの解放とヒト型バイオノイドへの罪障感や愛・愛着に絡む創造主及び被創造主の関係、更には寿命と生命体特性の一つ繁殖問題を扱っているハズであるが、シナリオライターも演出も現代日本でこの作品を演ずることの意味も難しさも深く考えていないことが明らかである。舞台の状況設定も下手だ。漫然と状況を設えている。また、科学的な知識、実験的な科学の知に関しても完全に勉強不足である。劇場のサイズを考えない声の出し方も課題だろう。

ネタバレBOX

 チャペックの原作を現代に蘇らせたいなら、原作の本質をキチンと捉えた上で、現代最先端のロボット工学、バイオテクノロジー、流体力学、医学、材料・材質に関わる諸科学、動力源等々についても必要な勉強をしておかなければ、シナリオ自体穴だらけである。
 事件の推移する場所が、閉鎖系であることの意味ももう少し考えた方がいい。第1パートで原作同様、島にあるラボということを観客に分からせる必要があるのに、そんな表現は入っていなかったように思う。唯、ラボで其処に集められただけのシチュエイションでは、可能な展開が無限になってしまうことを思うべきである。この辺り、演劇に関わる際に最低限必要な想像力の問題なので、ここに気付かないようでは、この先、プロでやってゆくのは、シンドイと思う。
久保栄を読む!『火山灰地』第一部・第二部

久保栄を読む!『火山灰地』第一部・第二部

日本の近代戯曲研修セミナーin東京

芸能花伝舎(東京都)

2013/09/07 (土) ~ 2013/09/16 (月)公演終了

満足度★★★★

リーディング&シンポジウム
 拝見したのは、日本演出者協会主催の近代戯曲研修セミナーin東京「火山灰地」第二部のリーディング公演である。本来、この戯曲は、一部、二部で7時間以上に及ぶ大作だが、今回は、各々、2時間15分程に削っての公演である。演出上、残したのは、農民の生活、研究者の論理である。
 因みに、第二部の完成は、1938年、2.26事件の2年後だ。盧溝橋事件の翌年でもある。時代は、急速に右傾化し新劇運動にも体制の圧力が強く掛けられる時代になっていた。左翼は、四分五裂、解体を余儀なくされてゆく。当然のことながら、作品表記に関しても細心の注意が払われなければならなかった。久保 栄は、その為、大切な科白・表現を隋所に散らしたり、治朗“入隊”の表現を避けて、軍部隊の居る地域名、上川を出すだけに留めている。
(追記2013.9.30)

ネタバレBOX

 不勉強が祟って久保 栄の文章には、初めて触れたのだが、深く読み込まねばならない作家だろう。現時点で、自分が、言えることは、以下のことだ。

 だが、ラディカリズムの立場から言えば、現在を生きる我々のこれらの批評も総てアリバイ作りである。彼は、同時代に韜晦という手法を採って表現したのだ。この点をはっきりさせておかねばならない。そして、己が、時代の中で久保ほどのことを言えるか言えないかを問わねばなるまい。
 日本の思想が何故、かく迄低くなったかと言えば、根本的には、インテリが命を懸けなかったからである。論理は無限にたてられる。然るにそれを根拠付ける唯一のもの・ことは己の生き様にある。その事をすら理解できない似非インテリがこの国の支配層には圧倒的に多い。最悪の為政者、即ち、権力を持った下司である。彼ら程には厚顔無恥になれない、或いはそれを演じ切れない神経を持つ者の多くが、大学教授などになってアリバイを創る。そして、それだけのことだ。民衆に必要なのは、火のような言葉である。それを発すれば発した者の喉を焼き、舌を焼き、唇を爛れさせる。そのような言葉なのである。今、インテリの誰に、こんな火が、吐けるか? 
かける

かける

戯曲セミナー2012年度卒業生

RAFT(東京都)

2013/09/15 (日) ~ 2013/09/16 (月)公演終了

満足度★★★★

何れもドラマの成立する構成
 三作品、いずれも、それぞれの味を持った作品群である。自分は、3話目が、最も気に入ったが。(追記2013.9.17)

ネタバレBOX

 風俗店に出掛けた斉藤はできちゃった婚で式間近である。結婚前に遊び納めと出掛けたが、入店し待合室で見た者は、母と別れて以来、ずっと顔を合わせていない父だった。互いにそれと気付くがバツが悪い。息子は当初帰ろうとするが。父は新聞を大きく広げて顔を隠している。そこで一番離れた位置に座りプレイヤーで音楽を聞き始めると、店員が「斉藤さま」と呼びに来る。思わず腰を浮かす2人。バツが悪いので、息子が「何故、本名使っているんだよ」と問い掛けたことから父子の対話が始まる。互いの性癖を変態だと言い合う2人だが、DNAの共通部分も考えて変に認め合う。そうこうするうち、父が判を押して母に渡した離婚届を母は役所に提出していない、という話が出、息子は、父に戻ってくることを勧めるが。父は、矢張り面目が無い、ということで行きそうにはない。一方、其々の指名した女の子が空いたので店員が呼びに来るのだが、二人とももうその気は無くなって互いに帰ろうとするが、事情を立ち聞きしていた店員が「相撲を取って負けた方が、帰る」という提案をする。二人は受け入れるが、父が勝った。結果、父は残って遊んで行き、息子は帰る手はずになっていたが、相撲には勝ったものの、父は腰が痛い、と言って帰ることになった。息子に遊んで行く権利が委譲された訳だが、息子も醒めてしまい帰ることになる。

 競馬場の観覧席。結婚を祝って友人がこの席の入場券を買ってくれたのだが、新夫が、信じているように彼はギャンブルの才能があるわけでは無かった。彼にも、彼の父にも、ツキを読む才能があったのである。新夫も友人もスポーツ紙の競馬欄を持参しているが、友人は、新夫と同じ目ばかりマークしている。流石に怪訝に思った新夫だが、真相には気付かない。そこへ間近に座る男がある。新夫は友人に知り合いか、と訊ねるが友人は知らないと応える。新夫が勝ち馬券を換金しに行くと件の男と友人が話し始める。二人は親子で共通の才能を持ち掛かるが故に、ギャンブルで金儲けをしてきたのである。さて、新夫が戻って来て、次のレースの予想をし出した。友人は同じ目を狙い、新夫と同じ目で買うことでコンセンサスを得て馬券を買いに走るが、息子と言い争って席を起っていた父が戻ると、残して置いた競馬新聞からICレコーダを取り出し、録音内容を投票用紙に書くと、ニヤり、馬券を買いに走る。

 ゲームクリエイターらが作成中のゲーム場面を役者が演じるシーンで始まる。ゲームは、悪漢に攫われた姫が、奥まった部屋に囚われているのだが、プレイヤーが、雑魚キャラを倒して力をつけ、ボスキャラを倒して、姫を救う、という単純な物。途中にマグマがあったりするので、道悪などの障害はあるが、それらの困難を克服して最終的に姫を救い出す達成感が大切だと考えられている。然し、姫の役割は、最初に攫われた後は、奥まった部屋で只待つだけ、助けを只管待つだけで、30年間やってきた。流石に、姫は、うんざりし尽くし、最近では、ゲームコンセプトその物に反感を持っている音を隠そうともしない。最近、若い人材が入ってきたので、姫は、この若者を利用して、自分独自のコンセプトのゲームを作ろうと画策。終には、若者と共同で新たなコンセプトのゲームをプレゼンテーションする所迄行きつく。今迄の作品では、外部からのアクセスが減っている所から、もぷ外部で達成感を味わうという流れでは、プレイヤー増加を望めないと判断、今迄、ターゲットと考えて来られなかった女性をターゲットにする。コンセプトは、優しさ、闘いも障害も無く、目的地への進路は真っ平ら、敵は存在せず皆仲良しである。但し、女性が喜ぶよいうなアイテムは様々に用意されている。重い荷物を持ち運ばなくても良いアイテムの準備や妊産婦に優しいコウノトリ搬送機、1mおきの女性用トイレ等々。またプレイは論理的にではなく、イメジャリーに組み立てられていて、基本的に論理は無視。イメージが逸れらしければ良い、という作品である。以上のような作品概要を説明し終えた、若いプレゼンテイターは、女性無価値論を展開、更に子供を産むことで未来を孕んで行くことの意味も否定する。何故なら、恐らく、外は、核戦争終了後の世界で、最早、生命体はDNAを傷つけられ、正常な繁殖はできなくなっている。外部アクセスの減少は、ゲームが飽きられて云々の話ではなく、個体の絶対数の減少を意味している。そして、健常な状態で残っているのは、自分達が居るこの部屋を含めたごく僅かなエリアであり、個体数の圧倒的な少なさから、これも遺伝子異常を起こして滅びる他無いのである。どんな方法も総て無意味。そんな風に取れる痛烈なブラックユーモアを秘めた作品。3作の中で、この作品は評価5である。他の2つが4なので平均を取って全体評価は4とした。
花と盲目。

花と盲目。

中野坂上デーモンズ

新宿ゴールデン街劇場(東京都)

2013/09/13 (金) ~ 2013/09/15 (日)公演終了

満足度★★★★

二重の恥
 若い人たちの本音に近い部分だろう。自嘲やアイロニーを含めて、案外自分達の置かれた状況を見ているように思う。恐らくは、未だ未分割の彼らの知の傍らを状況だけが猛スピードで変容しつつ通り過ぎて行き、その全容も、何を目指しているかも、その向かう先も、誰が動かしているかも、また何の為にということも不明なまま、更には行き場所も留まるべき安息所も彼らには無いまま、ただ真綿で締めつけられるような苦しみを味わわされているのであろう。

ネタバレBOX

 オームと思しき新興宗教の尊師を称える歌が歌われ、果てしなく踊りは続く。場面変わって3.11犠牲者に黙祷を捧げるシーンでは、携帯で話しているカップルの電話に唸り声のような音声が飛び込む。 犬? 犬の声? という質問が何度も出されるが、障害者の発する音声である。このシーンの差別を問題化することは容易い。然し、それでは何も解決すまい。こんなグロテスクは、身障者の身体に在るのではなく、我々、この「国」で暮らす民衆の心の中、魂にとぐろを巻く恥に根付いているからである。
 それも当然だろう。そもそも日本は独立国か? では何故、オスプレイの飛行訓練で飛行高度は平均(・・)150mと発表されているのか? 安全性の問題を考えるならば、最低飛行高度が定められねばならない。論理で考えることのできる人なら、最低飛行高度が平均で出される訳は無いのは、直ぐに気付くことだろう。訳は簡単だ。日本国憲法の下位に属する航空法の定める最低飛行高度が150mだからである。無論、オスプレイはそれより低い高度で飛ぶことも前提になっている。実際、2010年3月の海兵隊訓練マニュアルではオスプレイの訓練は最低飛行高度60mが求められている。つまり、日本では、日本国憲法に由って定められた下位法である航空法より、日米地位協定が実質上、上位の法として機能しているのだ。こればかりではない。(詳しくは以下の書籍を参照して貰いたい。「日米地位協定入門」前泊 博盛編著 創元社刊、オスプレイ関連もこの本の記述を参考に書かせて頂いている)
 実際、原発再稼働問題でも国民がこれだけ反対しているにも拘わらず、再稼働は恰も規定事実であるかのように推進されつつあるのをいぶかしく思わないだろうか? 我々、国民は二重の意味で辱められている。一つは日本の為政者によって、そしてもう一つは、日本の為政者をいいように操って自らの目的を達するアメリカによって。
 要は、実質、完全にアメリカの植民地なのである。その自覚さえないから、鬱屈するのだ。その鬱屈が、若者にこのような屈折を強いるのである。
 演劇的テクニックだの、ノウハウに関しては、無論、つけるべき注文はいくらでもあろう。然し、自分は、このグループが、先ず、自分達を極力裸にして見ようとしている点にこそ注目したいし、この点を評価したい。
カルナバリート伯爵の約束 【池袋演劇祭‘優秀賞’受賞】

カルナバリート伯爵の約束 【池袋演劇祭‘優秀賞’受賞】

メガバックスコレクション

Route Theater/ルートシアター(東京都)

2013/09/13 (金) ~ 2013/09/16 (月)公演終了

満足度★★★★

完成度の高さ
 シナリオ、演出、舞台美術、照明、音響、演技。何れをとっても水準の高いバランスの取れた劇団だ。強烈なインパクトこそないが、上手い。殊に役者陣の演技が気に入った。

竜胆兄弟、ハネる

竜胆兄弟、ハネる

劇団milquetoast+

シアターシャイン(東京都)

2013/09/12 (木) ~ 2013/09/15 (日)公演終了

満足度★★★★

エルワラ?
 今の世の中、腹の底から笑える人間がどれだけ存在するだろうか?

ネタバレBOX

 笑いたいのに、腹の底から笑えない。現代人の鬱屈や相互不信、自己不信を抱え込んだまま、「常識」に合わせないといけないという強迫観念に引きずられて、トグロを巻いている現代人の心象風景の侘しさ、寂しさを、何とか笑い飛ばそうと奮闘する、樋口 志郎の手紙、日記、ビデオレターの遺言に纏わるあれこれを、志郎が余命1年と宣告された辺りから、彼に関わりのある人間を通して描く。
 志郎役を演じた菊地 正仁の一見柔和だが、案外醒めた目を持つ人物の演じ方、東 ちえみを演じた高橋 ゆうきの熱演が特に気に入った。
鶴屋南北御伽艸

鶴屋南北御伽艸

劇団ラフエイプ

中板橋 新生館スタジオ(東京都)

2013/09/12 (木) ~ 2013/09/15 (日)公演終了

満足度★★★

敷居の高い所に挑んだが
 旗揚げ公演ということで、多少、割り引かないといけまいが、生き残るのが大変難しい世界でもあるので、厳しい注文もつけておきたい。
 

ネタバレBOX

 南北の夢のシーンから始まるのだが、その時、舞台奥に後ろ姿の朱菊丸が現れる。その立ち姿に、何も表現されていないのが、気に掛かった。結論から言えば、非常に複雑な状況を背負った女性なのだから、その怨念たるや凄まじいものがあるはず。そのエネルギーが後ろ姿に出ていないのは、それをイメージできていないからである。シナリオを一読すれば、この程度のことは直ぐ気付くはずのもの。それが身体化されていないのは、演出家にも難がある。ファーストシーンは、観客を舞台という亜空間に引きずり込む為の大事な場面である。先ず、このことに気付くべし。
 また、話の内容から言うと、この作品は、南北のというより、作家としての兄弟弟子、清玄の物語だ。タイトルを改めるか、工夫すべきだろう。
 演劇シナリオは、徹底的に論理で貫かれていなければならない。何故なら、それがダイアローグを基本として作られているからである。扱われている内容が、政治であろうと恋愛であろうと怪異譚であろうとSFであろうと経済であろうと、基本、総てダイアローグで組み立てられる。そこに論理がきちんと通っていなければ総てがワヤになってしまう。基本中の基本である。
 他の細かい点については、会場のアンケートで答えておいた。
 折角、清玄、喜兵衛らの謀については、懐の深さを示唆できているのだから、南北の道化をも更に深め、進化させるべきである。シェイクスピア作品に、道化はたくさん出てくるが、キングリアに於ける道化は、他の小物道化と一線を画す。世界を逆転させる力を持つのである。笑いには、そのような凄まじい破壊力もあるのだ。それをデモーニッシュな笑いと呼んでも良いかも知れぬ。
Hedda

Hedda

演劇集団 砂地

【閉館】SPACE 雑遊(東京都)

2013/09/11 (水) ~ 2013/09/18 (水)公演終了

満足度★★★★

問題提起なのだ
 安易に批評されることを拒む作品である。先ず始めに、それが近代的或いは近代の病弊を描いたなどと評されることを拒むであろう。そも、近代とは何か? 機械化、科学技術が進み、労働による増産が拡大すると共に工場労働者として要求される読み書きなどの教育が普及した結果一挙に、大衆の知的レベルが底上げされ、識字率の高まりと共に権利意識が当然のものとなりつつあった時代、団結することを覚え、革命主体となろうとしていた時代、それ迄、一部の権力者のみが享受し得た精神の果実に大衆の黒い手が延びた時代。それが近代というものであっただろう。

ネタバレBOX

 では、其処で生活する者達は、その激動を如何に捉え、また如何に生きたのか? それは、各々の階層によって頗る異なったものになったハズである。この作品の原作者は、「人形の家」の作者、H.イプセンである。イプセンはこの作品に於いてノラとは異なる女性像を描いている。その階層は中流階級の上というレヴェル。夫は、研究者で博士、大学教授の内定を貰っている。友人は、矢張り、天才研究者であったり、法曹関係者であったり、と典型的なインテリ階層である。彼らの回りの女性も高学歴で博士クラスの研究の助手を務めるという手合。何れも社会的には名誉ある地位を占めているとみて良い。即ち、今迄の体制にあっても時代精神の理論的中核を為してきた保守の中枢であり、時代の激動期にあっては革命理論を編み出す中心階層でもあるのである。つまり変革の理論をも紡ぎ出す人材を輩出するインテリ階層である。それだけに時代精神の鬩ぎ合いも辛辣且つ時代の奥底を穿ったものたらざるを得ない。全体としてこの作品のトーンが暗いのは、このような事情からであろう。
 さて、現代にイプセンのヘッダを蘇らそうとした創作者達の試みは成功したといえるだろうか? そもそも、成功し得る見込みがあったのだろうか? 答えは否である。近代の問い掛けた問題群そのものが、現在も未解決だからであり、それは、我らの生活の中に更に深く、隠微に浸透中だからである。現代、イプセンが蘇ったとしたら、どういうことを言ったであろうか?
 ところで、表現することの意味は、問題提起することを含む。その意味では大切な問題提起である。
花と魚(第17回劇作家協会新人戯曲賞受賞作品)

花と魚(第17回劇作家協会新人戯曲賞受賞作品)

十七戦地

王子小劇場(東京都)

2013/09/12 (木) ~ 2013/09/17 (火)公演終了

満足度★★★★★

これだけ多くの要素をよくぞ纏めた
 2011年初演の今作は、十七戦地の旗揚げ公演、同年12月には第17回劇作家協会新人戯曲賞を受賞した作品の再演である。(ネタバレ一部掲載、追記2013.9.20)

ネタバレBOX

 2011年初演の今作は、十七戦地の旗揚げ公演、同年12月には第17回劇作家協会新人戯曲賞を受賞した作品の再演である。自分は今回が今作の初見であったが、蛭子伝説を踏まえた神話と都会から見捨てられた地域の繋がりが、神楽とそれを演ずる坐子、女たち。祀られた神と蛭子との神話的因果関係と土地との関係に神話起源と思しき伝承が絡む、謂わば神々をない混ぜた民話の世界に、現在の生活、愛憎、共同体と外部、利害関係、政治、科学的知見が絡む時、人は、どのように行動し、どのように己自身を起てるのかを問うた問題作。
  2011年初演の今作は、十七戦地の旗揚げ公演、同年12月には第17回劇作家協会新人戯曲賞を受賞した作品の再演である。自分は今回が今作の初見であったが、蛭子伝説を踏まえた神話と都会から見捨てられた地域の繋がりが、神楽とそれを演ずる坐子、女たち。祀られた神と蛭子との神話的因果関係と土地との関係に神話起源と思しき伝承が絡む、謂わば神々をない混ぜた民話の世界に、現在の生活、愛憎、共同体と外部、利害関係、政治、科学的知見が絡む時、人は、どのように行動し、どのように己自身を起てるのかを問うた問題作。
 この作品が書かれた経緯を説明しておく。2010年暮れに柳内 祥緖君が着想を得、翌年3.11、3.12を挟んだ2011年7月に脱稿、同年初演、12月には新人戯曲賞に輝いた。震災、F1事故後に日本中が襲われた脱力感は、多くの演劇人をも苛み、苛立ちや諦念、自虐を産みだしていたことを思い出す。
 このような状況下、柳内君は指摘する。その中である演劇人だけは、非難を恐れず敢然と言い放った。「今、演劇にできることは観察すること、記憶すること」と。この発言の前後には、海外に居た蜷川 幸雄が、“この事態を外から見る訳には行かない”と発言、急遽帰国している、とも。折しも東京では、次々とし知識人が脱出していた。それを冷静に観ていた柳内君は、こう結論する。思想とは、事態に対し、どのように反応するのか、そのリアクションのことだ、と。自ら演劇人として、己と同じ世界に暮らす人々の論説、行動に注目しつつ、知識人一般の行動をも射程に収め、同時に自らの立ち位置を定める根拠となる思想的土台にもそのたおやかな感性と知力を傾けている、彼の姿勢にこそ、これだけの作品を書き上げた才能の秘密が隠されているだろう。
 必ず負けると分かっていても、人は抗わなければならない。酒田の発するこの一行が、これら総てを集約する表現となって、かくも多くの、一見、無関係に思われる要素を集約する点でも見事である。
 この酒田の発言「必ず負けると分かっていても抗い続ける」は、柳内君のスタンスにも重なろう。この科白一行に込められたものの意味する所は、限りなく深く美しい。
読書劇 テロならできるぜ

読書劇 テロならできるぜ

オフィス再生

秋葉原アトリエ「ACT&B」(東京都)

2013/09/06 (金) ~ 2013/09/08 (日)公演終了

満足度★★★★★

人間性と権力
「読書劇」と銘打たれた上演形態に、大方の読者は朗読形式をイメージするだろうが、さに非ず。寧ろ、少し特殊な演出の演劇と考えた方が良かろう。見沢 知廉の作品から抜粋されたフレーズが、BGMの大きな音にかき消され乍ら言い募られる。舞台観客側には一面に張られた紙に知廉の文章が綴られている。時折、人のシルエットが浮かびあがる。和服の女性、知廉と思しき人物等である。ほぼ暗転した空間内に約10分、音響と言い募りに支えられた濃密な時間が流れ、懐中電灯によって照らし出された文字が浮き上がる。10分も終わりに近い頃、血の色で知廉の文章の上に重ねて文字が書かれる。そして紙が破られると下手には、底の部分まで鉄条網で編まれた鳥籠状の独房が現れ、周りには書籍が堆く積まれているのが見える。書籍は上手床の上にも観客席側にも或いは散らばり、或いは積まれてある。上手観客側には小さな机とスタンド。(追記2013.9.10)

ネタバレBOX

 舞台は千葉刑務所の独房である。1982年スパイ粛清事件を起こした知廉は、12年の実刑判決を受けて千葉刑務所に収監された。通常、仮釈放などで実質拘置期間はかなり短縮されるが、知廉は権力に屈しなかった為、見せしめに12年間収監されていた。そのうちの8年近くを懲罰房で過ごしている。後ろ手に厚手の革手錠をされ、猿轡を噛まされ、糞尿は垂れ流しで。何故、そんなことをされたかと言えば、彼の人間性を奪う為である。
 自分は、このシーンを観ながら2人の人物を思い出していた。1人は、岡本公三もう1人はパレスチナ人女性活動家である。岡本公三はロッド空港乱射事件で持っていた自殺用の手榴弾が不発だった為、イスラエルに捕まり、自白強制剤を注射され、人間性を奪う為の拷問に耐えながら最後まで一番大切だと彼が信じたことは吐かずに通したアラブの英雄。もう一人は、親兄弟をイスラエルによって殺され、活動家となったパレスチナ人女性であるが、彼女は捕まってからレイプ、拷問、矢張り人間性を奪う為のありとあらゆる辱めに耐え、狂気に陥らぬ為に、編み物をして正気を保った。矢張り民衆の英雄である。言っておくが、自分は、ボードレールに倣って、通常言われる英雄とは、大衆的次元に迄、己の精神を下げた人物、としか思っていない。自分が認めるのは、己が人間であることを守るために反抗し続ける人間のみである。知廉も、その意味では英雄と言って良かろう。知廉が人間性を保つに必要なことは、文章を書くことであった。彼は、その為に筆記具とノートを要求し続け、収容期間の3分の2を懲罰房で送ったのである。一方、母の存在も大きい。庇護者としての母の存在は、作家知廉にとっては、アンヴィヴァレンツなものではなかったか? 知廉は、問うている。自分は贄なのか? と。何に対して? 無論、直接的には、権力、体制の贄である。だが、それは、本当か? その有り様を、この作品は賽ノ河原で石を積んでは鬼に崩される幼子を執拗に描くことで表現している。権力が鬼で代置されるなら、その向こうにあるのは、親。つまり、この場合、母その人である。無論、母との関係について彼は気付いていたはずである。故にこそ、アンヴィヴァレンツたらざるを得ないのだ。実際、母の関与は、大変なもので、彼に2日に1通の割で手紙を書き送っている。収監中にその量は段ボール箱3箱にもなった。この積極的な関与は、作家の文章が3人称を獲得する為の条件をワヤにする。つまり、絶対自由、絶対孤独を阻止するのだ。獄中で書かれた小説には、SM趣味が観られるが、それは、謂わばイメジャリーなレベルのもので、ふわふわと漂っているだけだ。サドの文章のような硬質な文章でもなければ徹底した論理に貫かれた文章でもない。そこにあるのは、人間性を守ろうとチャレンジし続ける弱々しい魂のあがきである。1人の青年が漢になる為には、犀の如く独り歩まねばならぬ。知廉には、それが、欠けているのだ。
 小説レベル・ジャンルから言えば、知廉が書いたのは「青春」小説である。最も知られた作品は「天皇ごっこ」であろうか。何より彼は、革命家として生きようとし、行動した。機が熟すことを待つこともできなければ、革命が成就する必然性が、ここにはないことも見透かすことが無かった。気の毒ではあるが、やはり悲痛なロマンチストであったと言うべきだろう。その彼の言葉で印象に残ったのが最初の10分の間に何とか聞き取った「言葉を切らねばならぬ、言葉を切る為には狂わねばならぬ」というフレーズであった。
 ところで、IOC総会で安倍がF1事故汚染水に対する記者質問に応えて「状況はコントロールされている」と述べたとされるが、「情報はコントロールされている」というのが、正しい。その証拠に、管 義偉が、汚染水問題で初関係閣僚会議を開いたのは安倍の答弁後である。こんな嘘がまかり通るほど、この「国」の主権者は判断力を失っており、おめでたい。為政者が腐り切っているのみならず、未だに臣民意識の抜けきらない奴隷の暮らす国。それは、国家というより、当に家畜人の暮らすヤプー“国”そのものだ!
 知廉の名誉の為に一言付け加えておくならば、彼は、この程度のことは、深く理解していたということである。

パソドブレ

パソドブレ

発条ロールシアター

タイニイアリス(東京都)

2013/09/05 (木) ~ 2013/09/08 (日)公演終了

満足度★★★★★

やんわりと、だが深く
 パソドブレとは、闘牛場の行進曲として発達した音楽のことである。ライター役の信楽が、作中、闘牛の話をするのは、無論、このタイトルと無縁ではない。それどころか、1936年7月フランコ独裁に対し共和国を支持するスペイン内戦が起こった。対フランコ戦線には、アンドレ・マルローなど著名な作家を始め義勇軍が世界のあちこちから集まった。ジョージ・オーウェルの「カタロニア讃歌」は余りにも有名である。(因みに2.26は1936年2月26日に起こった)
 今作の舞台が、夏(2013年)になっているのは、タイトルと以上のような理由から、スペイン内戦との対比に於いて書かれているからであろう。

ネタバレBOX

 当然のことながら、その民主化のレベルに於いて、現在のスペインと日本との比較も行われていることは自明の理である。実際にスペインを歩いてみた経験から言えば、スペインの方が、この腐り切った日本などよりよほど民主的だというのが、自分の感想ではある。
 本題に移ろう。主人公、田中の住むアパートは、築ん十年。風呂なし、トイレ共同、大家も同じ棟に住む典型的な木造おんぼろアパート、設定では4畳半である。この部屋には、アルツハイマーになり掛けた大家が、合い鍵で勝手に上がり込んでくる。何をするというのではないが、偶にTVを見る以外は、座って背を丸め、うつらうつらしている。田中の愉しみは、その大家の生き死にを確かめることである。他の彼の趣味と言えば、制服物のAV・DVDを見ること。デリヘルの女の子を部屋に呼んでにゃんにゃんすることである。だが、大家といい他の人間、近くの部屋の住人でライターの信楽やら、治験のアルバイトをした時に知り合った九谷やら、九谷を追っ掛けている押し掛け彼女や様々な人間が集まってくる不思議スポットでもある。田中は当然迷惑なのだが、来る連中は全然気に掛けていない。何しろ、田中の非常食、冷蔵庫に入れてあるビールなどの飲み物も勝手に持ち出して飲み食いし、おまけに世帯主である田中の分はいつも無いのだ。
 まあ、ハチャメチャなのだが、兎に角、人が集まる不思議スポットであることだけは確かなようで何と1936年2月26日から首相暗殺直前の織部中尉、暗殺を阻止しようとした益子巡査2人が、20年後の1956年からは織部の元妻が、この部屋へタイムスリップしてきたのである。
 タイムスリップしてきたのは、最初は2.26の二人組。首相を銃殺しようとする織部に対して守ろうとする益子のくんずほぐれつの取っ組み合いの果て、中尉は、余りに職務に忠実な警官を撃ち殺すことになってしまうが、タイムスリップした時点では、まだ、くんずほぐれつ状態である。いきなり現れた、2.26組を、現代組は誰も本物だと思わない。ドッキリかコスプレだと思っている。丁度、田中の呼んだデリヘル譲とおぼしき女性が来たこともあって、大がかりな演出迄含めたニュータイプデリヘルと解釈する者まで現れる始末だ。
 これに対し、2.26組は、将校も警官も元を辿れば、貧農の出であることが、示唆されている。警官の故郷は弘前、従軍した戦争で父は他界し、姉は飢饉の年に女郎に売られた。母も父の後を追うように亡くなる。彼は弟妹を支える為に警官になった。一方、将校とて例外ではない。イデオロギー的には北一輝の「日本改造法案大綱」などに影響を受けた訳だが、背景にあるのは、民衆の貧しさである。決起した将校は全員、民衆の貧しさに心を痛め、為政者の腐敗に憤っていた。その憤懣は、噴出するマグマのように強いものであったことが、決起将校らが、上級軍人に対して2.26以前、盛んに様々な形で民衆の窮状を訴え、改善策を具申していたことでも知れる。彼らの議論は、白熱すると、激論の果に鼻血を出す程のものであった。これに対して、上層部の対応は一部の例外を除いて木で鼻を括ったようなものであったことは、今の事態と変わらない、為政者共の無責任と集団的退廃、無能、無策を表すものである。2.26に決起した将校のうち実際に自分の姉妹を売られた者もいたはずである。そんな貧乏人の倅が何故、将校になれたかと言えば、優秀だった所為で、奨学金を得て陸士を出ているからである。従って、貧しさは彼ら自身の大問題であったのだ。
 だが、2.26組もタイムスリップした先で、その後の歴史がどのように動いたのかを少しずつ知ることになる。織部の妻は、娼婦になっていた。それは、彼女が織部を愛しながらも自立する為であったが、惚れた女が娼婦になったというのは、無論、男にとってはショックである。 これに対し、田中他現代組にも、彼らがヤラセで出て来たのではなく、タイムスリップして来た本物であるという認識が生まれ、彼らの意思を確認した後、居た時代に帰す方法が、模索される。その結果、彼らが田中の部屋へ現れた原因として、田中の持っていた2.26決起組に共感するような心的エネルギーや、織部の妻がタイムスリップする刹那に出会ったガス爆発時のエネルギーポテンシャルの高さが原因で、このようなことが起こったのだという結論に達した。織部の妻がここへ来たのは、結婚記念日で織部の事を考えていた丁度その時、ガス爆発に逢い、エネルギーポテンシャルの高まった時点でのベクトルが、織部へ向いていたということであると解釈される。何となく来た時の状況にムー的説明がついたので物語は進展するが、本当に命懸けで決起した者とそれを命懸けで阻止しようとした者と現在の間にあるギャップは大きい。その事の差異も劇中でキチンと描かれる。それは、言葉だけで遊んでいる謂わば自慰行為としてのクーデターごっこと人生を背負った者との差である。
 一方、2.26が、結局は、賊軍として処理されたように、将校達の知的限界を露呈したのも事実であろう。その後の裕仁の戦中・戦後の態度を見ても、己と親族を守るため、また天皇家を守る為なら他はどうなろうと構わない、という天皇の本質を暴くことができなかった点が決起将校達の限界でもあった。
 2.26組は当時のその場所へ、戻ることになる。誤って益子を殺してしまったのは、劇中の展開で益子に憧れていた女学生であったことになっているが、殺害の罪は、織部が負い、益子の遺体と共に1936年2.26日の雪景色に消えて行く。ところで、女学生に憑依されていたのは、田中が呼んだデリヘル譲であった。憑依が解けて我に返ったデリヘル譲は部屋に居た男3人に輪姦されたと勘違いし、オトシマエをつけろと凄む。事務所へ電話を入れてマネージャーを呼び出し、田中達を脅しに掛かるが、寝ていたように見えた大家がむっくり起き出し、財布の中から1万円札を掴んで彼女に渡す。彼女が黙っていると更に、次を。もう良いと言っても更に余計に。と彼女は、そのまま、帰って行った。大家が二ーっと笑う。
 無論、大家の役回りは、一種の重しである。時空間が入り乱れる中の安定項なのである。たえず存在することで、重しの役目とトリックスターとしての役目、更には最終的に頼るべき者・所として機能している。
 ところで、現在の我々が暮らす日本と、内戦以降数々の苦難を経て現在に至るスペインとで民度の差は如何様であろうか? 国際オリンピック委員会総会でアメリカの実質的植民地・日本の恥、安倍が「状況はコントロールされている」と語ったと報道されているが、「情報はコントロールされている」の間違いではないか? 無論、後者がホントのことであり、それをアイロニカルなジョークとして書いているのである。我々の文化は、落語という話芸を持つ文化だからな!



女王の魂

女王の魂

劇団EOE

ウッディシアター中目黒(東京都)

2013/09/06 (金) ~ 2013/09/08 (日)公演終了

満足度★★

決意だけじゃね
 女子プロレスもの。根性リズムで統一しているのは良いが、いまどき流行らない。また演出レベルの問題としては、BGMが大き過ぎて科白が聞き取り難いのに加え、早口でまくしたてるばかりで間を計算しないものだから、折角光る科白があっても効果が半減している。演出的に時代を取り違えている点が気になる。

赤鬼

赤鬼

MacGuffins

pit北/区域(東京都)

2013/09/04 (水) ~ 2013/09/08 (日)公演終了

満足度★★★

単純明快に過ぎて陳腐
 テーマはハッキリしている。而も狙いも明らかだ。寧ろ明らか過ぎて凡庸の域に達し(・・)ているのである。謎が無い。唯一の謎というべきものがあるとすれば、最初、フランス語で話していたのになぜ英語になるのか、ということである。たかだかドーバー海峡を超えた程度の話なのだとしたら、余りに陳腐である。夢のように遠い故郷、一種のネバーランドが近過ぎるからである。そうではなくて、近くても涯もなく遠いように思われるのであるとしたら、それを強調したかったならば、演出は、もっと実存の虚無や夜寄る辺無さを表現していなければならない。距離は、物理的には空間的・時間的なものだが、メンタルにとっては、心象距離の問題だからだ。
 また、ここではカニバリズムの倫理的問題が他所者に転化される差別が問われているが、それが、あくまで知的レベルを抜け出ていないことが問題である。妹はそれ故に自殺するのであるが。問題はそれほど抽象的でもなければ象徴的でもなく、知的処理で片付く問題でもない。この点こそ演出の力の見せ場だったのに、そのチャンスが活かされていない。

かっぽれ!〜夏〜

かっぽれ!〜夏〜

green flowers

あうるすぽっと(東京都)

2013/09/06 (金) ~ 2013/09/08 (日)公演終了

満足度★★★★★

bravo
既にこのシリーズのファンも居るとは思うが、松野やと今今亭一門の合宿のあれやこれやが主題である。作り方としては先ず、役者が噺家を演ずるが、次は劇中で話された落語を演劇化するという二重構造。
 世話物喜劇に分類されるであろう、この作品はこういうジャンルの作品には珍しく二ツ目の話が演劇化された場面などでは品さえ漂った。

なぜ ヘカベ

なぜ ヘカベ

東京演劇集団風

レパートリーシアターKAZE(東京都)

2013/09/04 (水) ~ 2013/09/11 (水)公演終了

満足度★★★★

植民地の知
 “なぜ”という問いが、今作の眼目だろう。無論、直接的には、ヘカベが蒙った数々の不幸への疑問である。トロイアの王妃という地位にありながら何故かくも理不尽で惨めな目に合わなければならないのか? 何故、自分なのか? という本人にとっての理不尽を神と名付けたものに仮託する問いである。

ネタバレBOX

 この作品のベースになっているのは、エウリピデスの書いたギリシャ悲劇「ヘカベ」で、今作は、ヴィスニユックが風に書きおろした3作目である。エウリピデスにはないテーマがいくつか加えられているのは当然のことだが、例えば盲目の老人(ホメロス)、羊飼いの父と娘(預言者・坐子的存在)が加えられ、コロスも通常のギリシャ劇とは異なる用い方をされている。
 さて、この何故? の果てにヘカベが辿りつくのは、神々からの答えを期待することではない。寧ろ、己の頭で考えることである。生命は、何処からきたのか? 我らは、何故生きているのか? 生きることに意味があるのか? と。
 無論、生物が何処からきたか? については、宇宙の生成にも関わることである。総ての物質はそこから生まれたと考えられるのだから。而も、現在の宇宙は、超高温でもなければ、絶対零度でもない。等方背景輻射があるからである。宇宙全体がどうなっているのかは無論殆ど分かっていないが、それでもブラックホールやホワイトホール、超新星爆発というマクロから素粒子、素粒微子などのミクロまで様々な物質の在り様が少しずつ解明されつつある。その中で、矢張り生命を形作る物質であるアミノ酸が生まれ、電気的刺激や化学反応によってウィルスのような存在が細菌のような存在に進化する仮定も生じたのであろう。(様々な異論はあるだろうが)まあ、我々のような生き物も個体発生は系統発生を繰り返して誕生するので、発生の初期に発達する神経系(脳の古層、視覚など)や下意識には、宇宙にたった1人で存在する恐怖といった原初生命体の怯えのようなものがあるのかも知れない。何れにせよ、そのような絶対的孤独に耐えられないことを知るが故に、我ら、ヒトは神なるものを発明したのだ。従って、苦悩の果てに常識などという通常の人間の考える識域を超えてしまった人間は、裸形を見ずにはすまないのである。
 ただ、風の方法は、知に重きを置き過ぎるように思う。良く勉強しているのだが、もっと自分の居る地域に根差しても良いのではあるまいか? ヨーロッパ流の知は、我らの知そのものではない。シリア問題が切迫する中、アメリカの植民地でしか無いこのエリアで、アメリカが攻撃を掛ければ、その攻撃下で無残・理不尽な死を遂げるのは、子供、女性、障害者、老人など弱者である。アメリカの用いる武器には、DUの含まれる砲弾なども多い。そしてそれらが着弾して生じる放射性核種による被害は、半永久的である。無論、出る放射線は、ベータ線など波長の短いものが多いので内部被曝による被害が多く、IAEA,英米、ICRPなどはこの因果関係を否定し、ダーティーな下部組織は、因果関係を主張する医師、研究者には、殺すなどの恫喝を掛けている。このような事実が存在するとき、米兵が出陣するのは、我々のエリアからでもあるのである。この直接的な危機感を反映して欲しかった。

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