満足度★★★★★
イッツフォーリーズの実力
落語の「死神」をベースに、映画監督だった今村 昌平の書いたオペラ要台本を水谷 龍二が、ミュージカルとして脚本化。それを鵜山 仁が演出した。
多少のお色気も入るので、一応中学生以上としておくが、どんな世代も楽しめるミュージカルコメディーになっている。歌で、左とん平はイッツフォーリーズのメンバーに適わないものの、味のあるキャラクターを出している辺りは、流石である。(追記後送)
ネタバレBOX
瀕死の人間の枕元に死神が居たら、その人は死ぬ。然し死神が足元にいたら、その人は助かる、という話なら聞いたことが在る人は多かろう。落語にあるからである。今作もかなりの部分上手に、落語の下げを援用している。異なるのは、死神が、○KBのメンバーのような美少女であること。彼女との間に買わされる契約が、一件問題処理をする度に、彼女とにゃんにゃんすることである。
今迄、早川という葬儀社に養子として入った“おじさん”は先代と異なり、心優しくとても葬儀屋の営業等出来ない。偶に仕事が入っても、喪主に余裕が無ければ「支払いは何時でも良い」と言ってしまうほど優しく、小心な男である為、女房からは、散々に言われ、虚仮にされている。借金はかさむ一方だから一切、反論出来ないで居るのだ。彼は終に思い余って自殺を図る。然し、その現場で悲鳴を上げた者がある。ロロだった。とても可愛らしい女の子なのだが、彼女は死神だと言う。仕事は、死神事務所の営業担当だ。そんな彼女の提案は、自殺せずに人助けをして、それが金になる。というウィン・ウィンの関係であった。但し、条件が一つあった。それは、一件、事を終える毎に彼女とにゃんにゃんすることであった。婿養子ということもあって女房には散々虚仮にされ、稼ぎが無いので一言も返すことができずに居たオジサンは、ロロの話に乗り、葬儀屋を廃業、祈祷師になる。顧客は、死にそうな金持ちである。最初の客は、病院長。これで5千万になった。無論、一件落着後は、ロロとにゃんにゃんである。本来ビジネスライクの関係であるはずが、二人の相性は良く、ロロは本気でおじさんを愛し始めてしまった。その後、家電・重電を扱う一流企業トップ等々の命を救い、オジサンは。富と名声、女房からの信頼も獲得する。
満足度★★★★★
ボディブロー
見終わった瞬間、この作品は、ボディブローのように後になって効いてくるだろうな、と感じた。ただ、これでもかというほど、「なにも無い」日常をくどく描く必要は、ないのではなかろうか? その点だけ気に掛かった。
ネタバレBOX
蝉の鳴き声が苦痛になるほど体力が奪われる一瞬、ラストシーンをどう解釈するかで評価はガラリと変わる。自分は、2回目の長崎への原爆投下乃至は核の重大事故と解釈した。そう判断したのは、通常なら、戯曲作家が当然、それを題材として、戯曲を仕上げるようなテーマがたくさん挿入されているにも拘わらず、とば口だけ見せて、一切、発展しない作りになっていること。登場人物の喉の渇きが、何度となく描かれていること。水が来ないことが、諦めと共に描かれていること。立山と優子が鏡の破片で光を反射して悪戯をする時、異様な嫌がり方をすること。更に、雨水を「おいしい」と言って複数の人間が夢中になって飲むこと。これは決定的である。また、思春期の優子の気まぐれであるかのような訳の分からない、この街に対する嫌悪も、BaudelaireのAny where out of the worldに匹敵する強さで迫ってくることも。
我々は広島・長崎で原爆が爆発した後、黒い雨が、凄まじい勢いで降った、という事実を知っている。まだ、息のあった被災者達は、それを命の水のように飲んだに違いない。無論、このように酷く汚染された水を命の水のように飲まねばならなかった被爆者たちの体は、焼け爛れ、皮膚のずるむけになった赤黒い体表からは、血とリンパ液が滴り落ちていた。それ故に、体中の細胞が呻いていたのだ。水ヲ下サイ、と。
この事実に気付いた時、今作を観た観客は、背筋に慄然たるものが流れるのを感じるであろう。原 民喜の有名な詩を以下に引用しておこう。http://yoshiko2.web.fc2.com/hara.html
水ヲ下サイ
水ヲ下サイ
アア 水ヲ下サイ
ノマシテ下サイ
死ンダハウガ マシデ
死ンダハウガ
アア
タスケテ タスケテ
水ヲ
水ヲ
ドウカ
ドナタカ
オーオーオーオー
オーオーオーオー 天ガ裂ケ
街ガ無クナリ
川ガ
ナガレテヰル
オーオーオーオー
オーオーオーオー
夜ガクル
夜ガクル
ヒカラビタ眼ニ
タダレタ唇ニ
ヒリヒリ灼ケテ
フラフラノ
コノ メチヤクチヤノ
顔ノ
ニンゲンノウメキ
ニンゲンノ
満足度★★★★★
演劇の楽しさ
魔術としての演劇が楽しめる。
ネタバレBOX
謂わずと知れた別役 実氏の傑作だが、一切難しい単語も論理も使わず、ほんわりしたムードさえ漂わせた時空からズバッと本質に切り込む手口の鋭さ、鮮やかさは、流石である。無論、様々な擽り、ユーモアも鏤められている。
乾電池のアトリエの佇まいが実に巧みに作られており、柄本 明氏の緩急を見事に操る演出が見事だ。また6対4位の割合で攻めの魔女に対し、論理と冷静さで、やや引きつつ拮抗する義足の男。前のめりに攻める魔女は、何かを狙っているような雰囲気を漂わせ、唯の旅人だという義足の男は、何かを仕掛けられるのではないか、とずっと警戒している様を滲ませる。魔女役の角替 和枝さん、義足の男役の木之内 頼仁さん二人の演技が素晴らしい。眠れる場所なのに、部屋は一部屋しか無く、ベッドも一つだけだが、その秘密も追々明かされる。
兎に角、魔術のような演劇の楽しさを教えてくれる舞台である。
満足度★★★★★
原作を読みたい!
1990年に57歳で亡くなったマヌエル・プイグの小説・戯曲で描かれた傑作を“パンダの爪”は、メジャーでは描かれない部分にスポットライトを当てる形で、朗読劇に近い舞台にして見せた。4時間近い上演であったが、原作の持つ凄まじいメッセージ性を良く取捨選択して、背景にあるイギリス植民地としての癒しがたい傷、アメリカの中南米支配とその軍門に屈し、アメリカの収奪した蜜に群がる、当時のアルゼンチン政府内部の右派勢力の動きが寓意され、その民主勢力、マイノリティー弾圧が背景にあることは、疑いようがあるまい。
ネタバレBOX
自分は中南米の歴史は詳しくないので、アメリカが、世界第8位の国土面積を誇るアルゼンチンに露骨に関与したというつもりは無いし、フォークランド紛争を見ても分かるようにアルゼンチンの旧宗主国はイギリスであるから、問題は錯綜していよう。
少し、調べて分かったことを付け足しておくと、アメリカ陸軍米州学校、イスラエル、スペインなどで訓練を受けた死の部隊が、中南米各国の民主勢力へのテロ実行部隊として動いたようである。言う迄もないが、以上で挙げた3国では、テロ民兵を作るべく軍事訓練が行われていたのである。実際、今作に関係のある所では、死の部隊は、民主化勢力を拉致しては酷い拷問に掛け、挙句の果て、航空機に載せて高い高度から突き落したりしている。この事実は、実際、それらの事実を目撃した方から、自分自身伺った話である。
因みにレバノンで、サブラ・シャティーラ虐殺事件を実行したマロン派民兵も、虐殺事件を起こす前にイスラエルに連れて行かれ、テロを一般市民に行う為の訓練を受けている。今作の原作が発表されたのは1979年であるから、背景にあった歴史的事件は、ぺロ二スタ左派・右派の抗争である可能性が高いのかも知れない。
だが、プイグは、そんなに単純化してこの物語を描いてはいないのであろう。所長から変態と言われるモリーナと革命闘士バレンティンの間でのホモセクシャルな行為は、スパイ、拷問、あらゆる罠と盗聴、監視、及び自由の剥奪された状況下で尚、人が人として何を縁に生き得るかを問う、重い行為である。其処には、知性・理性と人間性の耐え得る最終的な次元が横たわっているのだ。彼らは、たった2人だけで、強大な権力に、精神の次元で勝利するのである。
満足度★★★★
内容とパフォーマンスの奇妙でグーな融合
壱劇屋という劇団、普段は関西(大阪と京都の中間辺りの枚方)で活動している若手劇団ということであるが、今回、23回目の本公演ということは、かなりの間、演劇の世界に足を突っ込んでいるということだろう。
ネタバレBOX
奇妙な病院の奇妙な手術や治療と俺らが為されている訳を紐解いてゆく推理的な側面が在る一方、ロボトミー手術と絡んだパフォーマンスが、ロボトミー手術が齎す結果を描いているようで不気味である。実際、ある時期まで、精神科治療の一環としてロボトミー手術は行われてきたが、その結果の悲惨故に、現在は禁じられているのである。この手術の問題性を描いたのが、映画「カッコーの巣の上で」だ。自分は若い頃、この映画を観ていたし好きな映画でもあったので、今作でロボトミー(作品中では、ロボットとミー、の駄洒落にもなっており、これが、作品の種明かしの一部にもなっているのだが。)手術が繰り返されることに矢張り、異様な恐怖を感じたのも事実である。
さて、更に詳しいネタバレに進もうか。或る病院に黄色いバスが向かっており、このバスには、精神病患者と世界的な外科医であり、最近では催眠療法なども手掛けている竹村院長、女医の西分医師らが乗っていたが、病院に突っ込んでバスは大破、乗員の殆どが重傷を負った。然し、そこは、流石に外科の世界的権威、自らの傷ついた体のパーツを、精神病患者の体から調達し、自らオペをして傷を癒した後、病院内に閉じ籠り、未だ、命のある者にはロボトミー手術をして、本人の主体的意志を奪い、自らのロボット兼、催眠療法による治験の参加者として利用することを思いついた。患者達には、罠を掛けて、時には、医師に、ある時には患者に仕立て上げながら、互いにオペをさせては、自らのロボットとして操れるように仕組んだのだった。だが、時々、バグが起こる。そして、バグった時には、ロボトミー手術の成果が現れずに患者は、正常な人間のように振る舞うので、血だらけの人物を登場させて、それが、見えたり対話ができるのは、患者だけだという嘘を、周りの者皆で言って、再度、オペを受けさせる。こんなことを繰り返すうちに、さしもの患者達も、自分達は医師なのか患者なのかと自問を始めるのだが。オペを受けさせられた人間の中に、予め脳内に再生プログラムを仕込んだ西分だけは、正常な状態に復帰することができ、まじないにあった人間からロボットへ、ロボットから人間へを他の患者達にも広めてゆくことができ、院長の企みも暴くに至ったのだ。
満足度★★★★
願い
生き物は、結局、何を願えば、最もよく共存できるのであろうか? を真摯に問う作品。シナリオは、基本的にストレートだが、この問いをキチンと押さえているので、勘所にブレはない。
ネタバレBOX
現在のこの世は鬼と人とが繋がってできた世界だとの規定なのだが、このコンセプトでは、鬼の末裔と元々の人間(アプリオリに存在したのであれば)との差、鬼と人間と、狐の関係がはっきり見えてこない。人間の出発点に鬼と狐の交合があって人間が出来たのならば、鬼の血を引く祈一家に対する村八分は、矢張り不自然だ。単に、他所者という理由と弟の真が、恐らく村人には訳の分からない病であるという理由だけからでは、演劇的に抽象度が高すぎると思えるのだ。そこに、宗教的な因果応報の概念等が無ければ矢張り弱いと感じるのである。
アマツキツネ伝説の変容する主体に関しても、伝説だから、敢えて、その主体を曖昧に描いているなら兎も角、リーフレットの説明を読む限りに於いて、論理的なコンセプトの構築力は、もう少し鍛える必要が在るように思う。
一方、年1作というテンポで丁寧に作り込んだ表現には、好感を持った。各キャラクターの心の動きや気持ちの熱さ、各々の真摯な願いには、感動を覚えた。今後も、他人の心や魂に敏感に、更にそれらの心・魂が置かれている場や状況との関係を鋭く見つめ、表現できるようになって欲しい。
満足度★★★★
大衆
二幕物。「新撰組顛末記」を著した元松前藩士、長倉 新八が、狂言回しとして、自著を読み上げる形式を採る。
ネタバレBOX
一幕では、主として新撰組の拝名から、油小路の変で伊藤らが新撰組を脱退するあたり迄が主眼である。思えば、新撰組が、良くも悪しくも輝いたのは、壬生浪士隊として京に入ってから、近藤 勇の切腹迄、僅か数年の出来事である。1853年に黒船が来航してから、僅か15年で幕府は滅び、明治を迎える訳だが、そのうち、新撰組がその名で活躍したのは1863年に新撰組を拝名してから、伊藤らが離脱する迄と見て良い。ということは、最大限、1867年迄である。実際には、伊藤が離脱したことで分かるように、この時点では完全にイデオロギーは破綻している。入隊して直ぐに参謀として遇された伊藤が、隊規をネグレクトしてどうなるかが見切れなかったハズは無い。従って、伊藤一派が抜けたということは、新撰組が組織として最早立ち行かなくなったということである。副長の土方こそ、五稜郭迄、生きて戦い抜くが、無論、近藤や土方程度の持つ情報で、世界の中の日本が分かった訳でも無ければ、時代の趨勢が読めていた訳でも無い。その点は押さえておくべきである。従って、新撰組が歴史に名を残したのは、その時代錯誤の認識によってなのであり、凡庸以下の情報収集能力で、決意性を一般化して酔い、時代錯誤を埋めようとした、日本の大衆の鏡であるからである。
二幕は2014年、つまり現在、我々が生きる時代である。然し乍ら、現代に迷い込んで来た近藤や高杉 晋作、長倉 新八らは、かつての朋輩、沖田、藤堂、土方、そして小松らの魂の転生した人々と再会するのであるが、ここで“ええじゃないか”がブラック企業への自主連帯デモのように働くことを以て、日本の大衆の相変わらずの体たらくを描いていると解釈した。おまけに、そのようなムーブメントが何故起こり、そのようなことが起こらない世の中にするにはどうすればよいか? という基本的過ぎる問題が立ち上がらないで、またも、メンタリティーを肥大化し、一所懸命にやったから、結果は伴わなくて良い、と判断する馬鹿げた「カタルシス」が呈示されるのである。自分は、これをアイロニーと取りたい。作家は、恐らく、日本の在り様を在り様として呈示しただけであろうが。
幕末と現在を繋ぐ視点に“ええじゃないか”のような捉えどころのない歴史事象を持ってきた視点がユニークだ。舞台作りにも、独自の工夫が凝らされ、スタッフの対応も頗るつきで良い。導入部、やや、硬い感じがあったが、物語が進むにつれて、硬さも取れた。自分とは、世間の見方が異なるものの、その心の描き方、時代に翻弄される人々の悔しさ、無念は、痛い程に伝わってきた。演劇的には成功である。
満足度★★★★★
視座がドライ
この感覚が気に入った。ドライにアイロニカルに突き放した視線が良い。
(追記後送)
ネタバレBOX
高校の文化祭でクラスのダシモノとして演劇を選んだクラスがあった。「ロミオとジュリエット」を下敷きにした恋愛物であるが、設定は、教師と女子高生になっていた。これにいちゃもんをつけた教師があり、そのいちゃもんをおちょくる作者(高校演劇で賞の受賞歴あり)がいる。周囲の教師を巻き込んで侃々諤々の議論が展開されるが、話が煮詰まると妥協点を見出そうとする意見が優勢になりがちだ。然し、原則はどうするのだ?
満足度★★★★
境界
今作は、早稲田大学と美濃加茂市文化交流事業の学生演劇公演として、早稲田で教鞭をとった坪内 逍遥の出身地、美濃加茂市の“みのかも文化の森/美濃加茂市民ミュージアム芝生広場(雨天エントランスホール)で9月6・7日の18時半から上演される作品の東京プレ公演と銘打って上演された。今回は大隈講堂で上演されたが、本番は、雨天以外は屋外での上演になる。美濃加茂市は名古屋からJR美濃太田駅迄特急で約40分。北口から、徒歩約17分で現地に着く。無料公演、予約不要の自由席だ。興味のある方は小旅行を兼ねて行ってみたら如何だろうか?
ネタバレBOX
さて、本題に入ろう。登場人物は男女各々1人の2人芝居である。
若い夫婦だが、子供は居ない。妻が、恐れているもの・或いは状況があり、彼女は、部屋に閉じ籠ったきりである。夫が、必要のあることはしている。無論、家内で出来ることをするつもりは妻にもあるが、どういうわけか、最後の夕日を眺めている。この夕日を限りに、夜の世界へ移行してしまうのだ。而も、妻は完全な闇には耐えられない。従ってランタンなり何なりの灯りは、常に夫の準備すべきものであり、燃料補給も彼の責任である。屋外が闇に包まれて以来暫くは、妻の精神状態も安定していた、かに見えた。だが、虫が増えている。夜ばかりになった世界で人工の火は、蛾を吸い寄せる。この部屋、ガラス窓にも、蛾が当たって潰れる様が見え、音が聞こえる。だんだん、それは繁くなる。女は、自らの体に、虫が入り込み、皮膚の下で成長し、内臓を喰われたり、脳を喰われたりする気配を感じる。現に、夫は、一度、脳に虫の幼虫が入り込み、彼の脳を喰らって大変なことになりかけたハズ。そのような虫が、地震後、至る所にできた罅割れを通して、キーバードの隙間から、人間には気付かれないあらゆる微小な隙間を通って人間の体に達し、その体の中を喰い散らげながら、成長して行く。女がこのように認識すると、女の外部たる夫は、ゴキブリのような虫に変容してゆく。元妻と元夫は、互いの真実を求めてか、追い掛け会うが、とどのつまり、この行為は2人の魂に何も齎さないどころか、反復行為しか意味しない。女は未来を失くした。そして、彼女おメンタリティーは透き通ってゆく。邸の外では、消防車のけたたましいサイレンの音、女の周りは業火の咆哮。それを女は、超絶した意識のように扱っている。最早、其処に生き残る為のなにがしかの行為、或いは知恵を働かせようとの意識も無い。唯、外界を対象化し、事態を正確に把握仕様との意識のみが屹立している。
By the way,くどいようであるが念の為、今公演は屋内で上演されているから、女は密封状態の建物に、自意識の壁を守られている形をとるが、本公演では、森が実在しており、意識の世界は、イメージの跋扈する世界である。この違いだけではなく、屋外での、役者の発声法や何より閉鎖系ではなく、開放系の空間内で女の持つ心理の閉鎖系を如何に描くかという点も大問題たらざるを得ないので、できれば、両公演を観たいものだとつくづく思う。作家のスタンスが、常に、今迄に無かった物の見方、局面を、極めて正確に言語によって規定しようとするように思われるので、尚更、基本的コンセプトは同一であるはず、或いは、傾向は変わらないハズの今作が如何様に演じられるのか、興味は尽きないのである。
間違いなく才能のある作家であるが、自意識のドラマのみならず、外界に出会うことを目指してみては如何だろうか? 無論、大きなリスクを伴う。然し、最高傑作になる可能性も大きいと思う。自分対世界の構図を世界の内なる自分にアダプトしてゆく作業だが、ある程度、アダプトした上で、自由を再確認したり、泥が泥をこねつつ明日を夢見る大衆の感覚に近いものは把握できるであろう。
満足度★★★★★
最も良い演技をしていたのは、余 華南役
第二次世界大戦・及び太平洋戦争の終結は、日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を認めた1945年9月2日である。無論、この日を敢えて名付ければ敗戦記念日である。8月15日は終戦記念日と呼ばれているが、これは、敗戦という事実から目を逸らせる為の詭弁に過ぎない。この「国」のまやかしを挙げれば枚挙にいとまが無いが、こんなことを書いたのは、今作の冒頭で、現代日本の高校生が登場してくるからである。如何にも、どこか緩んだ雰囲気が描かれるのだが、同時にヘイトスピーチ等が、国連でも問題にされるような状態で多発しているこの「国」の現状を、敢えて舌足らずな表現で表しているように思われる。(追記とりあぇず)
ネタバレBOX
歌の中心を担ったのは、樺島 芳子役だが、いかんせん、リズム、音程どちらも狂う。できれば、歌わせたくない。シャンソンの語りのような歌唱法も、抜群の歌い手がやって初めてホントにできる唱法であってみれば、彼女には、申し訳ないが無理であろう。
で、今作、自分は、シナリオ、個々の役者の演技、演出に焦点を絞って観た。結果、歌のマイナスを考慮しても、★5つをつけた。その理由は、もう少しお待ち頂きたい。
時間がないので、肝要な点だけ。
物語は、表主役と、裏主役の2層構造。裏主役は余 華南だ。オープニングのダレダレは、全体の起承転結の中の起。ダレダレで始まるのは演出である。以上2点を指摘しておく。
満足度★★★★
拘置所19番の科白
作家も自嘲気味に述べている通り、凶悪犯の話でも、死刑囚の話でもなく、軽犯罪の初犯の話であるから、ここ迄演劇的に要求すること自体ナンセンスと言われかねないが、矢張り、これだけ多くの新作が作られ、上演されて、そのうちのある程度の作品は拝見している身として言わせて頂いている。
ネタバレBOX
要は、「女は愛されてナンボ」という拘置所19番の科白に象徴されてしまうのか? ということである。ケツを捲るというのは、この程度のことか? というのを問いたいのである。無論、現実にどうのこうのというより、見沢 知廉が獄中で受けた辱め(独房での糞尿垂れ流し放置や鉄条網上での正座等々)のようなことを敢えてミックスしてしまっても良いのではないかと考える。というのも、正確に日本の留置、拘置制度を書きたいのであればドキュメンタリーなどの方が鮮明に批判ができようし、アメリカとの比較もより客観的に出来るであろうからである。要は作家が何を描きたいかなのであるが。
日本の人権を無視した司法制度を効果的に描きたいのであれば、自分の挙げたような例をミックスするのもありかとは思う。まあ、司法からのクレームのことも考えなければならないから難しさはあるだろうが。演劇的には、よりエッジの効いた作品になるとは思う。
自分はこのようなポジションなので、小じんまり纏まり過ぎているという印象を持った。
どだい、アメ公にちゃちゃ入れられりゃ何が何でも従うチンケなオカマ野郎が、最高裁判所裁判官である。こんな茶番がまかり通る「国」の法なんぞにどれほどの意味・権威があるものか? 茶番に過ぎまい。官僚機構が冷たいのは、この茶番を隠さなければならないからであろう。一方、マッポが、ある意味、人間的なのは、彼らの職務がもともと、甲賀の下人に担われる類のものであったからではないのか? 忍びのうちで下人とは、無論、穢多、非人と同列の被差別民である。苦労の多い分、杓子定規で非人間的な日本の官僚共より、より人間的であるのかも知れぬ。
満足度★★★★★
流石
中津留 章仁作品。重厚且つ意味深。二幕物という体裁で、3時間超か。然し時間の経つのを忘れさせるだけの緊張感に富み、ぐいぐい引き寄せられて観ているうちに、ラストまで来ていた。狭いタイニイアリス満席状態であっても良い舞台というのは引き摺りこんでくれるものである。(追記後送)
満足度★★★
極限状況って分かってる?
一部、Wキャスト。Aチームを拝見。椎名 麟三の作品だが、時代設定は敗戦から2年後の1947年ということになる。山間で土砂崩れ等も起こる程の雨の後、鉄橋の手前でたった1両だけ稼働していた終電車車両が脱線事故を起こしてしまった。
ネタバレBOX
鉄橋もいつ落ちるか分からない程、老朽化しているのみならず、つい2年前迄続いた戦争で補修もままならず、ガタが来ている。運転手は救助を呼ぼうと鉄橋を渡り掛けたが、鉄橋の泣く音を聴いて直ぐ引き返して来た。ちょっと前、夜間では無かったのに、次の駅迄、鉄橋を歩いて行こうとした鉄道関係の職員が濁流に呑まれていた。
だが、乗車していた客は、矢張り様々である。どういう訳か、金も無いハズの浮浪児、何故だか分からぬが、矢鱈身勝手な癖に直ぐパニックに陥る40歳の女。カフェで知り合い意気投合して、そのまま温泉旅行へ出掛けた浮気者同士のカップル、鍛冶職人、魚の行商で生計を立てる中年女。そして老人。
だが、この作品を良い舞台い仕立て上げるのは、並大抵のことではない。上演時間は、50~60分位の短い作品であるから、個々の役に、一々、性格設定を伏線等を用いてつけることも難しいし、ただ単に類型化したのでは、芝居としての面白さに欠けることになる。従って、個々の人物達の社会的位置を上手く対置して、其々の差異や特性を際立たせ、且つ対置された諸個人の相互関係をダイナミックに干渉させて、そこに起こるハレーションや様々な関係性の綾を紡いで行く他無かろうが、今回、今作の演出をした人は、自分自身で人間の限界状況を実体験した経験が無いのだろう。若手の役者陣は無論のことだろう。従って、演技に必要な間の取り方にリアリティーが無い。演出家が、そこを分かっていればもう少し工夫ができたハズであるが。この面子で、今作を良い舞台にするには、チト荷が重かったか。
満足度★★★★★
父子鷹
晴を拝見。江戸城無血開城直前の薩長VS幕府。幕閣内部の政争。勝 小吉と海舟の家族、及びその人間関係を通して見る動乱の時代。舞台美術、構成、演出、演技、何より勝親子の人間的温かさを表して秀逸。(1回目追記2014.8.28:03:30)
ネタバレBOX
小吉は、島田 虎之助、男谷 精一郎とつるんで、天狗狩りをやっている。天狗とは実力も無い癖に偉そうにふんぞり返っている馬鹿のことである。まあ、道場破りをさんざっぱらやらかしているのだ! 現在は、関ヶ原から徳川の家来になった勝家に婿入りしている。妻はのぶ、舅は、ばばと呼ばれている、長刀の使い手だ。無論、家の仕来たりには五月蠅い。この暴れん坊の父、小吉と海舟の話がほぼ交互に出て来て物語が展開して行くのだが、向かう所敵なしの小吉をKOした者があった。貧乏長屋に住む“そら”である。彼女は、幸吉の作った空飛ぶ道具で天に舞いあがり、小吉の真上に着地したのである。流石の小吉も天からの天狗攻撃には、虚をつかれのびて仕舞った。お侍をのしてしまったというので、貧乏長屋は大騒ぎ。小吉を介抱しつつ、手作りの酒と肴でもてなし侘びを入れた。初めて口にする酒が口に合わず驚いて怒る小吉であったが、長屋住人の貧乏を知り、肴の味にこの酒が合うことを発見して、長屋衆と仲良くなるが、そこへ、家賃の取り立てに来た男を脅しつけ、飛ぶ為の道具ではなく普通の傘を持たせて高い所から蹴落とし怪我をさせていたのだが、金が取れなかったので、若頭が、手下を引き連れて出張ってきた。
満足度★★★★
青春再来
総合タイトルに使われている「青春再来我愛你」と他の登場人物にスポットを当てたスピンオフ作品「いけいけのやまちゃん」「すみれ高校生徒会事件簿」「ハカセin USA」が、殆ど建て続けで演じられるスラップスティックな青春物だ。が、各挿話のリンケージは無論うっすらと見える。上手いな、と感じたのは、村田 勉役の河口 仁。ハカセ役の大沢 秋生。“かのうとおっさん”は、関西で普段活躍しているユニットで、ルナティック演劇祭始まって以来初めての三冠受賞を今年果たした。今回で2度目の東京公演だ。喜劇ユニットらしく立派な人間が出て来ない芝居作りをしている。独特で緩急のあるはずし方が、このユニットの上手さだろう。今後も関東に来て、関西の風を吹き込んで欲しいユニットである。
満足度★★★
一所懸命に喰いついてくる役者は芽がある
一応、90分で6本のオムニバスを演じるという前説の話であったが、シナリオで、まともだったのは、うち1本のみ。他は、シナリオ自体の目指しているレベルが低すぎる。レベルの低い大衆に演劇が媚びてどうするんだ! コマーシャリズムだけで動いているTV番組じゃあるまいし、演劇は演劇でしか出来ないこと、観客の視線を釘づけにするような素晴らしい芸や、TV等には流せない毒を含んだとんがった芸があって良い。まして、満席で、25位の小さな小屋なら尚更である。まともな1本は、役者の演技も上手く、シナリオも練れたものであったし、演出も気が利いていた。だが、このレベルを基準として底上げして欲しい。元々、歌舞くことでは生き馬の目を抜いた魔界、浅草が泣く。合格の1本のみ★4つ。あとは★2つ。一応、総合評価は3にしておく。次は、総合評価でおまけの無い4は目指して欲しい。
満足度★★★★
役者の日常
インプロビゼイションを成立させる為の枠組みをオープニングとラストに作り、その中身をお客から貰ったお題で埋めて行くことによって、サンドイッチされた内容は、誰にも予測できない即興になるというメタ構造の作品作りだ。(従って、今回は、ネタバレで中味を先に明かして、構造を隠しておいた方が、素人さんには、面白く読めるかも知れないが、演劇ファンを前提とするサイトであるから、演劇に於けるメタ構造が何を意味するか位、自分で勉強すべし。幼稚園児じゃないんだから。)
という訳で、構造を明かした。内容はその都度違うハズだから、各人、観に行って、お題を出し、其々楽しんで頂きたい。
満足度★★★★
シナリオの随所に若者らしい鋭角的な表現
が見られるが、各々の状況下で人間という生き物が、どのような精神状態に置かれ、それは、身体にどのように現れるかという点についての表現に工夫と緩急の差が欲しい。(さらなる追記後送)
ネタバレBOX
家出してポンギで売りをやっている女の子。彼女の祖父は心理学者だったので、家出少女としては、かなり分析的で、当然のことながら、自己分析もしている。そんな彼女が、狙った獲物は、同じ家出少年。唯、この少年、親とぶつかった訳ではなく、姉との確執から家出して来たのであった。
満足度★★★★★
何度も観たい舞台
現在のこの国の演劇状況と、安部 公房が生き、演劇にのめり込んだ時期から亡くなるまでの10年余の時を、描いた作品だ。当時世界で活躍するピンター、ベケット、イヨネスコらと共に、米ソでも人気の高かった安部が、新劇と言えば、千田 是也と言われた当時、新たな可能性として出現した寺山 修司、唐 十郎ら若者に支持された日本のアングラ演劇状況に於ける単独者として新地平を切り開いて行こうとする姿勢を描くことで、作品そのものを用いた現代演劇批評として観ることができる。
ネタバレBOX
同時に、妻・愛人との繊細且つ濃密で緊張した愛の関係を通して、男と女、肉体と精神という永遠のテーマと同時に、三角関係自体の持つ心理的な綾と肉体の関係を精神対肉体という二元論に於いてではなく、生きた身体として捉え返し、身体同士のダイナミックな蠢きやその関わりから生じる新たな心身両局面の表現として、更には映画やTV他新たな記憶装置や記録装置の出現を人間化しようとしたようにも思われる、その進取の精神は、噂にきくピーター・ブルックの仕事にも近いのかも知れない。
脚本は、いつも通り松枝 佳紀なのだが、いつもなら、演出も彼が務める所、今回は、荒戸 源次郎が担った。結果、説明過剰や情報量の過重が削がれ、その分、間の時空が増えた。つまり、作り手と見る側の間の想像的時空間が増えた訳である。このことが、作品に、よりヴィヴィッドでありながら、共感しやすい状況を作り出した。
更に、アロッタファジャイナとしての連続性や転換点も観ておくべきだろう。今回は、佐野 史郎が、安部公房役なのだが、これは前作「かもめ」で彼がトレープレフを演じたことと二重写しになるだろう。恋人役の縄田 智子は、二―ナを演じていたし、妻役の辻 しのぶは、アルカージナを内田 明は、前回Wキャストだった関係で矢張り、トレープレフを演じている。男性俳優が2人ともトレープレフ役だったことにも注意したい。
満足度★★★
アフターイベントが異なるので注意
自分の拝見した回は、アフターイベントで短編の劇作品が1本入り、都合2作品を拝見した。日によってアフターイベントの内容が異なること、時間的に長いのは、全体タイトルに付けられているのとは別作品であることに、注意しておくこと。
ネタバレBOX
「Bz@may beせかい」
ゲーテの「ファウスト」を下敷きにした、ということであるが、原作の精神性は総てスポイルされ、ただ、メフィストフェレスやホムンキュロスが登場するばかりで内容は全くの別物である。他人の為に生きる、という擬制を演じ続ける凡庸な男が、妻に離婚を迫られる。無論、妻には、既に男が居て、それも会社の同僚であるのだが、主人公である寿樹は気付いていなかった。凡庸な男らしく娘と遊ぶことを唯一の楽しみとしている。だが、離婚届を妻から突きつけられ、終に人生を降りるか否かの選択を迫られるのだ。そこへ、メフィストフェレスが現れて、契約を迫るのだが、寿樹は生きることを望んでおらず、大した夢も無い。
然し、娘、真代にとって父は、特別の存在であった。姿の見えなくなった父を求めて、娘の魂は幽体離脱を起こし、父や、ホムンキュロス、悪魔や錬金術師、神とその僕たちのいる、亜空間へ迷い込むが。(上演中なので、ネタバレはここ迄)
★2つ
「ヴァルプスギスの羊」
10歳で母を失くした少女は、男を吸い寄せる力があったとみえ、人生の早い段階で男に教え込まれた。その後は、自らの魅力を武器に一人立ちし、女を武器の商売を選んだ。描かれているのは母が亡くなって10年後の彼女の暮らしである。街の名士は彼女の馴染み客。名士の息子は、矢張り彼女の客だが、父とも関係している彼女にぞっこん、結婚を迫っている。彼女は、自らが穢れていると認識しているから、また、彼女の母もまた娼婦だった呪われた血、或いはであるが故の矜持から、甘ったれた坊ちゃんの求愛を蹴る。然し、彼は、市長である父を市庁舎で監禁。事件を起こした。この場に居合わせた彼女は、彼の持っていた凶器を自ら奪い、彼を罪から救った。その後、自由の身になった2人。結婚を再び申し込む息子であったが、今回もまた、拒否される。然し、今回の拒否は、今は駄目、であった。
直前に演じられた作品が一応、ゲーテの「ファウスト」を下敷きにしている関係でワルプスギスが出てくるのである。尤も、魔女の祭典というよりは、娼婦の、穢れを重々承知している娼婦の、それ故の寂しさを描いた作品と言えよう。正月、お盆は、娼婦の自殺率が跳ね上がる。そんな統計の内実とは、何処にも居場所の無い寂しさを抱えた娼婦という賎民の哀しい在り様である。そして、このような哀しみを感じることさえ拒否している現代の売春婦たちの救いようのない地獄である。★4つ