さて、本題に入ろう。登場人物は男女各々1人の2人芝居である。 若い夫婦だが、子供は居ない。妻が、恐れているもの・或いは状況があり、彼女は、部屋に閉じ籠ったきりである。夫が、必要のあることはしている。無論、家内で出来ることをするつもりは妻にもあるが、どういうわけか、最後の夕日を眺めている。この夕日を限りに、夜の世界へ移行してしまうのだ。而も、妻は完全な闇には耐えられない。従ってランタンなり何なりの灯りは、常に夫の準備すべきものであり、燃料補給も彼の責任である。屋外が闇に包まれて以来暫くは、妻の精神状態も安定していた、かに見えた。だが、虫が増えている。夜ばかりになった世界で人工の火は、蛾を吸い寄せる。この部屋、ガラス窓にも、蛾が当たって潰れる様が見え、音が聞こえる。だんだん、それは繁くなる。女は、自らの体に、虫が入り込み、皮膚の下で成長し、内臓を喰われたり、脳を喰われたりする気配を感じる。現に、夫は、一度、脳に虫の幼虫が入り込み、彼の脳を喰らって大変なことになりかけたハズ。そのような虫が、地震後、至る所にできた罅割れを通して、キーバードの隙間から、人間には気付かれないあらゆる微小な隙間を通って人間の体に達し、その体の中を喰い散らげながら、成長して行く。女がこのように認識すると、女の外部たる夫は、ゴキブリのような虫に変容してゆく。元妻と元夫は、互いの真実を求めてか、追い掛け会うが、とどのつまり、この行為は2人の魂に何も齎さないどころか、反復行為しか意味しない。女は未来を失くした。そして、彼女おメンタリティーは透き通ってゆく。邸の外では、消防車のけたたましいサイレンの音、女の周りは業火の咆哮。それを女は、超絶した意識のように扱っている。最早、其処に生き残る為のなにがしかの行為、或いは知恵を働かせようとの意識も無い。唯、外界を対象化し、事態を正確に把握仕様との意識のみが屹立している。 By the way,くどいようであるが念の為、今公演は屋内で上演されているから、女は密封状態の建物に、自意識の壁を守られている形をとるが、本公演では、森が実在しており、意識の世界は、イメージの跋扈する世界である。この違いだけではなく、屋外での、役者の発声法や何より閉鎖系ではなく、開放系の空間内で女の持つ心理の閉鎖系を如何に描くかという点も大問題たらざるを得ないので、できれば、両公演を観たいものだとつくづく思う。作家のスタンスが、常に、今迄に無かった物の見方、局面を、極めて正確に言語によって規定しようとするように思われるので、尚更、基本的コンセプトは同一であるはず、或いは、傾向は変わらないハズの今作が如何様に演じられるのか、興味は尽きないのである。 間違いなく才能のある作家であるが、自意識のドラマのみならず、外界に出会うことを目指してみては如何だろうか? 無論、大きなリスクを伴う。然し、最高傑作になる可能性も大きいと思う。自分対世界の構図を世界の内なる自分にアダプトしてゆく作業だが、ある程度、アダプトした上で、自由を再確認したり、泥が泥をこねつつ明日を夢見る大衆の感覚に近いものは把握できるであろう。