星の息子 公演情報 星の息子」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.0
1-5件 / 5件中
  • 大切なのはわかるが
    訴えかけてくるもの、正しい主義主張なのはわかるが、胸を打つには到らない。芝居としてはどうなんだろう。途中居眠りをしている観客が多く、終演後そのような人々が高評価を述べるのかもしれないが、それは何か違うのでは?

  • 満足度★★★★

    燐光群「星の息子」観ました
     12/16、あの衆議院選挙の日に燐光群を見るという、この巡り合わせ…

     全体と個人の関係(国家ー国民、地域ー住民、家族ー一員、運動ー参加者)が、ところどころはみ出しながら重なって見える構図。
     なりふりかまわぬ闘いをせざるを得ない人々が、それでも明るく振る舞い、世代を越えて思いを託す様が活きいきと描かれる。
     セットや照明、音響も強力。意志の結集や圧力の暴力を具現化。
     濃厚なメッセージ性と、観せる舞台表現が、せめぎ合いつつ手を取り合いパワー溢れる舞台に。
     
     個人的には、客入れ時の仕掛けがいちばん好みだったりします。あれを体験した 観客が、自分の内に湧き出す何かを感じてほしい…

  • 満足度★★★★

    私(たち)は沖縄のことを何も知らない
    過剰で不自然なほどの説明台詞に気づかされる。
    「沖縄のことを何も知らないのだ」ということを。
    燐光群でなければ、坂手さんでなければできない舞台。
    「今」の「問題」を「今問う」坂手洋二さんの動きの早さと意志の強さを感じる。

    同じ母から生まれた2人の「星の息子」。
    (ネタバレの文書は、まだうまくまとまってないが、とにかく書いてみた)

    ネタバレBOX

    演劇には、その場で楽しみ、劇場を一歩出れば、その余韻とともに現実の世界に戻るものと、劇場を出てからも、今観た舞台の内容をいろいろ考えて楽しむもの、そして、さらに、余韻というにはあまりにも大きなモノを現実世界にまで引きずっていくモノがある。

    この舞台は、まさに後者の、余韻というにはあまりにも大きなモノを現実世界にまで引きずっていくタイプであった。

    観客は、開演前から、柵を縫って歩き、まるで沖縄の米軍基地の前あたりに連れていかれるようだ。SEで座り込みに対する注意の声が聞こえている。ここは沖縄だ。

    星の息子(星児)がつなぐ過去から現在への「闘い」。
    それは「垂直の中にある」と星児が言うように、階級闘争なのかもしれない。
    (私にとっては)古臭いと思えるロジックの中で生き続ける、闘争の象徴・星児。

    彼が実は内ゲバによってすでに死んでいたというのはさらに象徴的であり、力による闘争は何をもたらしたのか、を告げている。

    そして、現在。

    国会前でのデモや、米軍基地前でのオスプレイ用の離着陸場工事を阻止しようとする人々には、「力(実力行使)」で「阻止」しようとするつもりはない。火炎瓶や投石ではなく。
    あくまでも、普通の人々ができる範囲で、「NO!」を表明しようとしている。

    つまり、星児に象徴される旧態は死に、新しい「NOの言い方」をする人たちが主流になってきているのではないか。
    国会前や沖縄に幻のように現れる星児は、旧態の星児と「同じ母」から生まれ、内ゲバで死ななかったほうの、純粋な星児ではないかと思うのだ。

    2人の星児は、もとはひとつのところから発生した。
    政府に対して、自らと、それにつながる未来の命を守るためというところ(母)から生まれた。
    ここが「母」であり、そこから「市民運動」と言われるような「星児(たち)」が生まれてきたのだ。
    しかし、「NO!」が一向に伝わらず、ラジカルになっていく中で活動の方向性を見失っていき、市民からも見放され、内ゲバで自滅していくことになる「星児」がいた。

    今、沖縄や国会前で「NO!」と叫ぶ人たちは、そうなるのだろうか。いや、ならないような気がする。

    しかし、舞台では少し違う印象を受けた。
    ラストに星児たちが彼の母を挟んで「垂直」の言葉を発するのだ。
    これは新たな階級闘争の必要性と、その発動への第一歩なのか、と思ってしまった。
    つまり、暴力が暴力を産み、さらに最後は内ゲバという理解不能な殺し合いで一般人の支持を得られなくなってしまった活動のことではないかということだ。
    こういうとらえ方は、作者の意図とは異なるのだろうが、「階級闘争」=「内ゲバ」と短絡的な私の脳には、あのシーンにはとても嫌な感じがしたのだ。

    「これは階級闘争である」と星児(たち)が宣言しているように見えてしまったからだ(「星児」が象徴するモノ自体が作者の意図とは違っているとは思うのだが…)。

    また、ラストの、米軍基地前の塔から住民を機動隊が排除しようとするときの、鋭い台詞の数々には違和感を感じてしまった。

    その「違和感」というのは、実は「自分の家の前に米軍基地がないからだ」ということに起因しているのではないだろうか。それは、私の想像力の乏しさ、実感のなさ、どこか他人事と思っているところではないだろうかということだ。それがもし、本当に自分の家の前にあったのならば、排除しようとする機動隊にはやはり、あのように必至に訴えかけるだろうということなのだ。

    つまり、これが「私にとっての、沖縄問題そのものではないか」と気づかされたと言ってもいい。恐れずに言えば、沖縄以外の多くの人も同じではないだろうか。福島もまたしかり、だ。

    舞台の上で台詞として、しかも過剰な説明台詞として(例えば、ただの会話なのにいちいち細かい数字を挙げて説明する)、語られることの多くは「知らなかった」ことばかりだった。

    「知ること」がまず必要である。
    こうやって芝居や映像や語りや、いろいろな方法で知らせてもらいキャッチしていくことがどんなに重要なことなのかということだ。

    そして、「垂直軸がどう」とかはどうでもよく、沖縄に限らず、かつて失敗してしまった「闘争」の二の舞にだけはならないようにしなくてはならないということなのだ。

    それは、いろいろな意味において、恐いことであろと思うので。

    少し気になったのは、障害者や妊婦が出てきていたこと。
    確かにそれぞれの意味合いはよくわかるし、啓蒙的な意味合いはわかるのだが、どうもストレートすぎて、少々都合も良すぎるような感じもしてしまった。

    とは言え、燐光群でなければ、坂手さんでなければできない舞台であったと思う。
    同時に「今」の「問題」を「今問う」坂手洋二さんの動きの早さと意志の強さを感じる。

    本当は、自分(たち)の意思を表明できるのは、「選挙」であるということを放棄してしまった人が多かった、今回の選挙。

    はたと思い当たるのは「星児」の名前。本当は「政治」だったのではないだろうか。
    私たちが本来託すべきは「星児」ではなく、「政治」。
    これが幻になってしまい、星児として各地を彷徨う。
    そんなストーリーだったのではないか、と思ったりもする。
  • 満足度★★★★★

    彼我の差
     今まで沖縄についていくつもの作品を書き、発表してきたからこそ、大和と沖縄の距離に気付き、更なる深化を遂げた作品だ。フロンティアに自身の身を晒して来た坂手氏の緊張感に満ちたシナリオ、いつもながら、役者陣のしっかりした演技、会場に入るや否や、飛びかかってくる権力の犬達の恫喝、座席へ着くまでに幾重にも重ねられた衝立を模した障害物が、現地の臨場感を想像させる。着席すると、手書き原稿を印刷した実感のこもったリーフレットで更に詳しい現地の様子が分かる仕組みだ。やんばるの森に囲まれた東村高江は、ジャングル訓練センターの隣にある集落だ。この作品の舞台でもある。人口僅か150名のこの集落の周辺に、現在北部訓練場にある22か所のヘリパッド以外に新たに6か所のヘリパッドが作られようとしている。そのうち民家に最も近い物は僅か300~400mしか離れていない。如何に過重な負担が負わされてきたか、現在も続いているかを作品は提示した。我々は何をすべきか。今それこそが、我々に問われている。世界は垂直軸の中にある、という表現に、この作品の詩魂が込められていよう。

  • 満足度★★★

    狂気と現実の境目
    終盤、もう少しスピード感があったら良いのになぁ、、と思いました。
    全体的には That's 燐光群 というところでしょうか。

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