満足度★★★★
良い戯曲だと思った。舞台という魔物、死と亡霊のイメージが『楽屋』に重なる。三十人のジュリエットの登場という所に、蜷川幸雄とのタッグならではの企画性も漂う。事実総勢30名が空襲に追われた難民のように左右から蠢き現われ、照明一転「シャクナゲ歌劇団」メンバー30年振りの再会の喧噪となる場面は迫力で、数の力を実感。その後も続く30名の登場場面は処理も大変そうだが、長いタイトルのこの芝居はそのための芝居だと言っても間違いでなさそうである。
ストーリー的には三十名は補助的なアンサンブルで、意味的には主役のジュリエット役(松本紀保)と重なるし、後半に導入される演出で大勢のロミオが戦場送りとなる場面に類似するが、役柄としては彼女らは女性のみで構成される石楠花(しゃくなげ)少女歌劇団の団員であり、観客の視線はストーリーを追うべく主要登場人物の方に寄る。
舞台には、宝塚にありそうな豪華な幅広の高い階段、舞台両脇に大柱、総じて大理石に見えるセットが組まれ、実はここは百貨店の1階という設定だ。現実の時空ではあるがこの場所は架空の世界を立ち上げるに相応しい舞台空間にも見えており、つねに完璧な衣裳で登場するヒロイン・景子の想念の強さによって「ロミジュリ」の劇世界と、その場を劇場と解釈する二つの次元の行き来を見ている気になる。そこへ介入して来る「現実」の時空は、この劇世界&劇場という次元を否定的に干渉する事はなく、むしろ組み込まれて行き、劇世界が貫徹されるまでが描かれる。この劇で流れた時間は言わば一つの鎮魂のそれで、戦争とそこから離れた歳月を偲ぶ構造を持つ。
30年前結成された歌劇団のヒロイン・景子が記憶を失い、今もジュリエット役の稽古をし続けている背景については最後まで一切語られない。が、「戦争」を思い出させる象徴として十分である。当時の応援団バラ戦士の会の元メンバーで今や町の有力者(龍昇、甲津拓平、井村タカオ、池下重大の取り合わせがまた良し)が、かつてロミオ役で人気を博した俊(しゅん=伊藤弘子)不在のため、男性禁制であるからか唇に紅、アイシャドーを塗ってタキシード姿であたふたと代役を務める。
中心に居る景子は時に激しい発作(自分を百歳のおばあさんのように見るのはやめて!と周囲に罵り狂乱する)をしばしば起こすが、暫くたつと全くしこりを残した風もなく登場し、「さっきはごめんなさいネ、さ稽古やりましょう」となる。リセットの力と主役で舞台をけん引した風格が周囲のモチベーションを引き出している所は強調されていないので記憶に残りづらいが、女優という限りにおいて絶えず前向きな存在を演じる松本女史の貢献は地味に大きい。
舞台の世界をそこに見る力、信じる力は、前途ある若者に前向きな一歩を踏ましめる明るい情景をみせたにもかかわらず、俊の登場で「ロミオとジュリエット」が曲りなりにも終幕に導かれた直後、彼らに内在した「負」に報いるかのように、あれこれ言及する間を与えない「死」という方法で閉じ繰りが付けられる。
舞台世界が「そこにある」と信じる事で現出させる使命を終えて死に赴いた二人を、称揚する事が許されるように思えるのは何故だろう。自己言及式になるが(まあそういう舞台は多いが)演劇が成し得る仕事の貴重さ、大きさ、良さを信じるから、と言うと大仰だが、自分としては殆ど盛っていない。
満足度★★★★
鑑賞日2019/02/10 (日) 14:00
千秋楽に観劇。本戯曲は2009年にコクーンで蜷川演出を観たが、それとはまた違った味のある芝居になっていた。客演の松本紀保の存在感が軸になっているが、圧巻は30人のジュリエットを多様に揃えたことだと思う。ある意味でアングラテイストを濃くしたものと言えようか。優れた戯曲を優れた役者(とスタッフ)が演じれば、優れた舞台になるという典型だとも思った。
満足度★★★★★
清水邦夫が82年に書いた戯曲。
戦争の傷を抱えていきる人々と、戦後の左翼運動で挫折した若者たち へ捧げるオマージュだった。
青春の愚行と情熱のシンボルともいうべき、「ロミオとジュリエット」を、戦争とたたかいに身を投じて夢破れ、寂しく老い た女たちが演じる。見事な換骨奪胎による戦争と戦後の男たちへのエレジーだった。
舞台には本当に30人もの女優があらわれ、圧巻。その最初の勢揃いの場面は、女子校の同窓会さながらの心地よい騒がしさであった。ロミオの登場が二転三転する展開が見事で、とくにかつての男役スター役の伊藤弘子と、その妹(実は…)役の、坂井香奈美が良かった。歌と音楽も劇とピタリあって、一層感動を深めた。
久々に見た骨太にして猥雑、リアルにしてイデアルな芝居だった。