楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~ 公演情報 楽屋~流れ去るものはやがてなつかしき~」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.8
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  • 満足度★★★★

    燐光群「楽屋」の楽。
    二度目の投稿。燐光群キャスト別バージョン、最終日を観た。中山マリが女優Cの年齢を20歳も上回る設定でやはり見事に演じた(「あれでもう40よ」を「あれでもう還暦よ」と変えて笑わせていた)。
     一方で、役のキャラ・年齢等から相当離れていたとみえた女優A(樋尾麻衣子)。声の塩梅(がなりと抜きの組合せ)、怒りの演技が若い(「泣き」の入った怒り・・幽霊歴からして達観に至っていてもおかしくないのに)など、正直気になっていた。
    だが。千秋楽でそれらも含めて全体がひとつの環に収まり、一つのあるべき「楽屋」が立ち上がっていた、と感じた。渡世人「斬られの仙太」の見栄切りつつの物言いも、低音にならない持ち声を駆使して必死に演じてひるまず、思わず涙が・・(もろいと言われればその通り)。
    「人のいい」キャラへの憾みを終盤ようやく真情吐露して一個の人格を現わす女優B(松岡洋子)。 狂気にひとしい「役」への異常な執着と、人間的な感情を行き来し、古参幽霊にとっての小さな希望の種らしい佇まいもみえた女優D(宗像祥子)。 絶妙なバランスで一つの環ができ、そこに、私としてはいまいちそぐわなかった「三人姉妹」の語りでの行進曲の選曲が、芝居と融合して聴こえてきたものである。
    かくして、「楽屋」の日々は終えり。謝謝。

  • 満足度★★

    女優という生き物は・・・
    悲しくも羨ましくもある生き物なんだな、と感じる。
    ここで描かれる物語が女優の全てではないことは重々承知の上なのだが、それでも一つのもの悲しさを感じた。

    ネタバレBOX

    清水邦夫の戯曲の中でも名作と名高く、女優であれば誰もがその物語を欲する「楽屋」。
    しかしながら数多ある上演団体の中でも、中々これといった上演に巡り合えないのは、それだけ俳優に繊細な作業が求められるからではないだろうか。
    女優であることを諦めきれず、死してなお、この役は自分がいつか、と夢見る悲しい女達。既に役柄の年齢を大きく過ぎてしまってなお、この役柄は自分のものであると自らを奮い立たせる女、役を降ろされてしまってなお、この役は自分のものであると引けない女。
    きっとこういった感覚は女優に限らないのだろう。諦めきれない、第一線で動くことのできない自分と向き合えない、認められない。それでも、それをどこかでわかった上で日々を繰り返す。

    今回の楽屋はそのもの悲しさへフォーカスが当たっていたように思う。だが一点口惜しさを感じたのは、梅が丘BOXという空間の中での誇張された演技である。
    芝居の中で、女優としての衝動を抑えきれずに役柄のセリフを朗々と口に出していくそのエネルギーは必要だったように思うが、それでもそことの落差、一人ひとりの持つ葛藤などはどうしても誇張された演技がフィルターをかけてしまっているように思う。もちろん好みの問題でもあり、観客それぞれの感想は違うだろう。それでも、その空間に適した大きさでの演技を欲するし、俳優個々の持つ繊細さを観たくなってしまう。小さな空間であればあるほど、「楽屋」という作品は捉えどころが異なってくるのだろう。
  • 満足度★★★★★

    贅沢な企画
    「楽屋」三昧を決め込んで通し券を購入したが、既に終りが近づいてきた。淋しい。全団体は観られず、7、8団体は半数以下か(でも元は取ったか)。全部観たかったし、きっと飽きなかったろう。同じ「楽屋」のテキストをルールとしての競演が、今回初の試みだというから、コロンブスの卵だ。
     「楽屋」は何度観ても面白い、よくできた戯曲だが、戯曲が要求する「理想形」が一定程度、想定されそうに思う。その意味で団体の「個性」よりは優劣が見えて来る面がある。
     もちろん細部では、役の位置づけの違い、台詞のトーンの選択の違いなど、差異が見える瞬間が面白く興味深いが、全体としては「ある正解」に近づけたかどうかを競っているように見える(大胆な解釈・演出をした団体に当っていないせいかも知れないが・・)。
    その点、ちょうど今d倉庫で開催している現代劇作家シリーズ・ベケット「芝居」フェスティバルなどは、自由度の高い戯曲をいかに自分ら流に調理するか、個性を競う点に特徴がありそうだ。
     どちらが良いという話ではないが、「楽屋」は俳優力を試す戯曲で、「的確な」形を見たいと願ってしまう。一度「おいしい形」を目にしてしまうと、そこに至っていない団体が劣って見えてしまう、という事が起きる。しかし、それでも「楽屋」を味わわせてくれ、それとして、満足させてくれる。興味深い企画だ。

    ネタバレBOX

    燐光群の演出は、俳優の組合せで4組あるが、女優Cの中山マリがハマり過ぎる位で圧倒された。この戯曲には評価するポイントが幾つかあり、そのポイントごとに点数を付けて評価してみたくなる。ポイントとは即ち、「おいしい」場面な訳であるが、重要なのは終幕「三人姉妹」の処理。ここで感興が湧かないと淋しい「楽屋」になる。それまでの布石が組み合わさって三姉妹として融合する事の感動は、最終的な評価ポイントと言える。
     ここがしっかり出来ていたのは、トゥルースシェル、そして(作者清水邦夫の主宰団体であった木冬社由来の)火のように水のように。後者「火・水」の完成度は圧倒的で、動線処理といい会話の微細なニュアンスの変化といい、一々理に適っていた。女優も魅力的でキャラ分担がよい。前者は女優4人それぞれが女優としての本領を発揮する=「役を演じる」場面での弾け方が素晴らしかった。ニーナ役に憧れて死んでしまう女優Dがやるニーナの場面が女優Cの俗っぽいそれに比して鬼気迫り、唸らせる・・その処理は「病気ゆえに(うまいのに)報われなかった」悲劇という解釈によるようだが戯曲の狙いとは異なるかも知れない・・しかし「演じる事に魂を注ぐ」女優の物語たる証として、それぞれの「演じる場面」を凄まじいテンションで魅せるこの団体の選択も大正解ではないか。
    燐光群に戻れば、幽霊と人間の処理、霊の「日常」なるものを唄にした秀逸さ、中山マリの鋭利なリアリズムと喜劇調の二人(女優AB)の演技との対照、瓶で頭を叩く迫力など・・良い点が多々あるが、終幕になる「三人姉妹」がうまく行っていないように思え、何が原因だろうかと考えた。
    女優の悲哀が基調である。延々と続く(幽霊にとっての)毎日、決して来ない眠り・・これは「幽霊」という特殊な世界の話であるよりは、「永遠のプロンプター」に象徴される、夢みて報われない多くの人間を代弁するものだ。無為に感じられる毎日に悩むのは幽霊だからでなく、人間的なあり方だ。従ってそこには、舞台上で確かに「事件」は大小起きるのだが、幽霊生活の長い二人はどこか、耐え難い日々を耐えてきた、何かそういうものが感じられなければならないのではないか。初めての出来事にはそれなりに、似たような出来事であればそれなりに、リアルに反応する「身体」でなければならない。叫びを上げる事さえ出来ない想像を絶する日々の線上に、最後、「幾ばくかの変化」にすがってみても良い・・そんな考えにいざなわれて「三人姉妹」に興じてもみた彼女らのありようがあるのであって、そんな彼女らだからこそ、生きている私たちにも幾ばくかの希望はあるんじゃないか・・そう思わせる何かが浸み出て来るのに違いないのだ。 ・・と、こんな風に書いてみて、こんな言葉を通してでも、私の想う濃密で猥雑な「楽屋」の世界がどうかして彼女たちの中に浸潤して行ってくれたら・・などと願いつつ。
  • 満足度★★★★

    楽屋フェスティバル
    こんな企画を待っていました!ひとつの脚本が演出・出演者によってどんな風に変って行くのかを観てみたかったのです。しかし、情報を知るのが遅かったためいろんな予定を入れてしまい、今日はひとつ新宿でマチネを観たあと梅が丘へ。当日券でこちらと朱夏の楽屋をやっと観ることができました。もっと早く知っていたら絶対通しチケットを買って全劇団を観たかったです。

    ネタバレBOX

    女優AとBはハーフミラーの向こうで化粧するシーンがあり、客席によって違うのかと思いますが、私の席からは見えにくかったです。しかしそのおかげで女優Cのひとり芝居が際立っていたと思います。中山マリさん演じる還暦女優の迫力と執念がすごかったです。いろんな蓄積でしょうか。

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