演劇 公演情報 演劇」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.5
21-24件 / 24件中
  • 満足度★★★★★

    「空気」は周到に作られ、演出される。その極意。
    感動はしても行動にならない、ぐっと来て涙が流れても本当の勇気は湧かない・・・そんな「演劇」どもをなぎ倒し、ここに確かに「演劇」屹立せり、と見届けた。良い芝居を見た後は笑顔で談笑も可だが、ここは旧交を温める場面にそぐわない。その場所を鋼の刃先に喩えるなら、居心地よく佇む場所では勿論なく、何処かは知らねど何処かへと促されて立ち去る場所である。活動休止は消滅と同じでないが、「なくなること」の視野で「演劇」がその本来の使命を探り当てようとして探り当てた場所なのだとしたら・・。
     舞台上で起こったことが全てで、他は要らない、と潔く去らせてくれのは、この芝居が「良い芝居」であるための点数はきっちり稼ぎながら、その余韻にではなく「演劇」が既に明白に導き出しているある真実のほうに浸ることを促しているから、だと感じた。(うまく言えないがそんな感じだ。)
     多彩な趣向はあるが色目使いになる事なく、ただ一つの目的に全てを集約した「潔さ」「硬質さ」が直球のように腹に来た。
     ダルカラは実はまだ2作目(谷賢一作は4作目)、俳優の顔も初めて間近で見た。個人的思い入れのある燐光群『ブーツ・オン・ジ・アンダーグラウンド』で特徴ある役をやった東谷英人が今回も核になる役に。とにかく‘物凄かった’渡邊りょう(悪い芝居)、これも初めて間近に見た‘できる’小角マヤ(アマヤドリ)など、各俳優がこのお話の中心にある「出来事」の周辺で渦巻くそれぞれ感情を、精度と熱度をもって表出した。かく導いている脚本力もさりながら、人間の複雑な感情を的確に表現する俳優の姿にこそ「格好良さ」を感じる「演劇」、これぞ「演劇」の鑑。
     ところで「演劇」とは食ったタイトルだが、劇中で「これは演劇です」の意味では使われない。少なくとも、人を食ったタイトルでない、とまで。後は劇場で。

    ネタバレBOX

     子ども同士の「絵本」のような世界と、汚濁した大人たちのシリアス世界が並行して進む。いずれ二つは結合するが、子ども=希望、大人=失望・諦めという対比的な両世界の結合は、「絶望的展望」か~ら~の~「希望」、とはならない(なぜなら子ども世界のMが成長した結果が、大人世界のMだから)。だが、時系列を超越する演劇の呪文で、この後先は逆転する。(というか、そう見ることも可能。)
     子ども世界は寓話的で、台詞は大人の気の利いた言葉だったり、子供らしかったり、身体的にも観念的にも自由に飛び回る。この「子ども世界」に登場してくる車イスの少女、すなわち少年Mが恋する相手が、ゲスト出演者に当てられる役だ。今回は堀川炎、クレヨンしんちゃん系の雰囲気を醸していたが、「子ども世界」の要であり、演者によって雰囲気が変わる面もありそうだ。眩しいほどに輝く子ども時代の、その中のヒロイン役は、黒と白の対照の一方の極点として神々しい存在(大人世界8人に対し、子ども世界は3人だし、負担も大)。劇団女優降板の穴埋めに有力な助っ人を招んだのも納得だ。
     さて、「大人世界」はリアルでシリアスな息詰まる半密室劇である。とある学校、問題はいじめが絡むらしいが、複雑な様相だ。
     似たような、念押しのような対話の繰り返しごとに、「出来事」の輪郭が立ち上がる。そしてその「問題」はどういう力学が働いてか、悲劇的に歪められており、この力学に抗おうとする教師Mが葛藤する、そういう話。その意味ではシンプルな話だが、最後の主役教師がとる行動に、刮目すべし(「カムイ伝」のラストに匹敵する・・とは行かないが、「まんまとしてやられる」意味では同じ)。
     観客は、どうやらこの教師Mが辿り着いた感覚が正当である事を見分けるが、この感覚からの行動は貫徹されない。なぜか・・これを示しながら、問うている。果たして敵は何なのか・・・

     言えるのは、こうしてドラマ化されなければ(Mが葛藤しなければ)、「空気」というものは普段は見えない。我々の生活と同じく。
     空気を読み、空気に流され、無難に立ち居振るまい、必ずしも無難な選択でなかった事に、後で気づけば良いほうだろう。
     「空気」というものがその時、生まれ、流される光景を明瞭に示したこのドラマの最終局面は、ありがちなシーンではあるが、「空気は意志によって生まれる」、という事が重要だ。
     学校で自殺未遂をして救急搬送され、全身麻痺状態にある娘を、卒業式に出してほしいと、父親が土下座をして頼んでいるのに、否定されてしまう異常事態を、観客も受け入れてしまっている。
     この「演劇」には、この異常さを正しく認識し、行動する人物が登場しない。せいぜい、父親をまじえた会合をシナリオ通りに進めようと「打合せ」を厳しく取り仕切る上司に、「指示通りに動くのはごめんだ、自分の感じた事を言う」と、抗うのが精一杯。
     代わりに、その父親が行なった「いじめ」告発の過激な行動のお陰で、いかに児童が萎縮し、また「自殺」という行為によって児童たちが心理的悪影響を被っているか・・・学校や父兄側の見解が、まことしやかに語られるのだ。父兄代表のある男が「子どもたちの安全安心」のためと称して登場し、その「正論」の欺瞞が見え隠れする場面も描いてあるが、芝居の中では尻尾を掴まれない。
     その一方で、娘の父親がひとり、大声で謝罪し、何度も土下座をし、娘の思い(卒業式に出たい)を遂げたいと言い募っている。確かに血の気の多そうな父だが、周囲の冷めた、理解を示さない態度の中で、ただただ「お願い」を続けている。彼の存在によって、学校側の「不当さ」は際立たず、学校側の「対処」への真剣さが際立つ。
     ・・彼は娘の容態についても語り、辛うじて上下に動く腕で意思疎通ができるようになった、今彼女は質問に答える事ができる、食事のこと、そして卒業式のことも・・と、腕を動かしたその瞬間のことを話す。周囲は聞き入っている、が、「空気」そのものは動かない。彼の言う事は大勢に影響しないのだ、という「空気」がある。客席からこの「空気」の正体を読むに、その父親への「レッテル」だ。「この人はこういう人だからな。。」そんな空気。観客をも味方につけられない構造が「演劇」では作られている。

     さてこの「空気」なるもの。 ここでは、少女を学校に来させないように立ち働く上司の、使命感を語る口調や態度に影響されて作られているとも見える。彼の「意志」が、空気を作り出している。
     この娘の卒業式出席をめぐる問題は、対話によって解きほぐせば結論は変わるはずなのだが、そうならないようなうまい「立ち回り方」によって、空気が作られている(維持されている)訳である。
     ・・空気とは即ち、「対話や議論を省略して結論をたぐり寄せる」方法、であり、「空気」には、その結論へ導こうとする強い意志が含まれている。そして、その意志を感知した者によってさらに再生産される共有物である。
     安倍首相がテレビ番組に出たり報道にイチャモンを付けるのは「意志」をマーキングする行為で、逆に野党の露出を抑制するのは、「意志」を伝える回路を奪う事で、影響力を遮断しているのにひとしい。

     閑話休題、しかし観客は次第に「事実」を知っていく。どうやらあの親父の言ってるのは本心だ、何か復讐心や見返りを求めてこの申し出をしているのではない・・・そう十分に「認識」をする。その認識に応じるように、東谷演じる教師Mが自分の意思を表出しようとする。
     ところが、観客は「事実」として父親の証言を聞きながら、彼に全的には同調して行かない。十分に彼の証言が事実であり、彼の心境が自殺をはかった当初とは違った所にあり、「いじめ」犯人を告発すると騒いでいた頃とは異なる事が知れても、いやその頃とは異なる彼だからこそ・・つまり「いじめ告発」という武器を捨てた丸腰の相手だからこそ・・、その要求を拒んでも手前の利害には影響ない、従ってこれは拒否して正解だ、といった算盤を、私も頭のどこかで弾いていたりするのだ。 さもしいこの性は何だ。忌々しい日本人の血だろうか。
     だが、最後の最後に、父親の言葉はやっと届いて来る(まあ脚本上の工夫でもあるだろうけど)。そして、見事に覆されてしまう。
     会合において、上司の仕切りのきつい中でも、「自分の意見を言う」意思を貫いていた女性教師がいたのだが、その父親が娘をしばしば「叩いていた」という事実を本人から聞いて、態度を豹変させる。「自殺の原因を作った本人かも知れない父」の頼みは聞けない、という判断になってしまう。
     本来、その娘や児童にとって何が良いか、それが問題であって、父親がどういう人間か(尊敬に値する人間かそうでないか)など、関係のない事である。が、この豹変をきっかけに、校長と上司ら「体制側」は攻勢に転じ、「そんな重要な事実をなぜ今まで話さなかったのか」という問題設定が上位に来てしまう。
     皆「知らなかった」と答える中、Mだけは正直に「噂として聞いていたが本当だとは・・」と答えると、「そんな重要な事をなぜ今まで・・」と非難され、この指摘がその「空気」ではテキメンに効く。一方父親は既に認めていた事実を新事実のように訴追され戸惑いながらも、そのことを謝り、良かれと思ってやったが悔いていると語り、しかも自殺の原因がそこにあった可能性も否定しない、私の命に換えてもいい、娘の願いだけは聞いてほしいと、ボロボロになりながら叫び、泣き、土下座をするのだ。 が、「空気」は硬直する。
     さて、女性教師の「豹変」は、彼が「自分の思い」をぶちまけようとした直前の事であった。もし彼が本音を「ぶちまける」のと、女性の豹変に始まる「暴力」問題のくだりと、順序が逆だったら・・。
     異常さの密閉空間に、正常さの風が流れれば、問題はその重さに相応しい重さで語られたことになった事だろう。いや、そんな理想的な空気など訪れなかったかも知れないが、「マシ」であった事は確かだ。
     が、実際には逆になったのであり、おそらくこれも、女性教師の「空気」に対する反応であった、という意味では自然な結末であった。

     この結末の後では、いかな「演劇」とて、打つ手はない。「こうならないようにしよう」と、ただ思うだけである。時間を逆戻しにして、オルタナティブな結末へ導く、そんな演劇的手法も有りと言えば有りには違いないが、これほど的を射た「結末」は後からどう覆そうと、きっと虚しいだけである。
     虚しい呪文を唱えて、舞台上で実行する「演劇」と、ここで言う「演劇」は、違う。
     ・・過去の(覆せない)悲劇的な事実を、舞台上で覆してみせる、そんな演劇がある(戦争を題材したものはそれにあたる)。そういうドラマになぜ涙が流れるかと言えば、まず「悲劇」が前提となっており、これをハッピーエンドに置き換えることで悲劇性が際立ち、「それをわれわれは悲劇と感じている(望んでなど居なかった、という悔悟)」証左と確信する、そんな甘い共有空間が出来るからだ。要は「悲劇を思い起こす」時間である。戦争はそれに相応しい、皆が共有できる素材であり、それはそれとして、意味のある事ではあるだろう。
     だが、事を「未来」に移してみる。未来を作るのは、他ならぬ私たち自身だが、「これから作って行く場面であり風景」である意味での「未来」と、「演劇」は相似・同義・同質ではないのか。
     その問いかけがこの芝居の最後に叫ばれるスローガンにはある。ただし、願えば未来は変えられる、といった一般論・励ましだけ抽出するのでは殆ど意味がない。
     「空気」というものに克てたためしがなく、ほぼ負け続けの私たちが、この芝居でのリアルな(あの)結末を直視せずに、その未来を語ることは虚しい、という事なのである。
     残念ながら、「空気」に抗わず、「空気」と対峙する場面を回避しながら、より良い未来を手にすることは「自己暗示」以外には無理である。残念ながら。
     自立した「個人」の総和としての、相対的に正しい「全体」を作ることが出来るか・・それがこの華々しい終演の背後に、もたげている問いだ、と受け取った訳であった。
      ひどく主観的かも知れないが、私なりの解釈だ。
  • 満足度★★★★★

    生きるために演じる、演じることで成長する
    情熱と青臭さ!
    「映画」で“映画”のことを語るように、「演劇」で“演劇”のことを語るのは、少し野暮ったいのだが、それをも含めて「演劇」だった。


    (ネタバレボックスに延々と書いてしまった)

    ネタバレBOX

    DULL-COLORED POPは、たぶん初めての観劇。
    何かのフェス的なもので、短編(中編?)を観て、頭でっかちな感じで、あんまり面白くはなかったので、それ以来観ようとも思わなかった。

    しかし、twitterである人のお知らせを見て、興味がわき、DULL-COLORED POPのHPの次回公演を見た。
    「演劇を見慣れた皆さまへ。−これは特殊な「演劇」です」という惹句がとても気になったので、見に行くことを決めた。

    谷賢一さんの“前説”のようなところから、「演劇」は始まった。
    「あー、これ、例の頭でっかちなやつなのかな? やっぱりそうなのか?」と身構えたのだが……。
    続いて、小学生の男子2人が舞台の上へ。
    この2人のやり取りで、そうした危惧は吹き飛ばされたと言っていい。

    “ぼく”役の百花亜希さんと、鈴木役の小角まやさんである。
    この2人のエネルギーというか、勢いというか、噛み合わせというか、“舞台の上の強さ”に、一気に作品へ引き込まれた。

    後はもう、そこには「面白い」しかなかった。

    “ぼく”の家での、他人から見れば、ほんのたわいないエピソードも、“ぼく”から見れば、それなりのことであって、彼の“今”はこうした数々の要素によって作られていくのだな、ということを感じさせた。

    友だちの鈴木くんとのやり取りもそうである。
    見栄のようなものを張ったり、自分のことを見せたり見せなかったりと、すでに彼の中では確実に「(彼の)演劇」は始まっているのだ。

    鈴木くんも同じで「鈴木」であることで、「普通」(どこにでもいる、ありきたりの)という言葉にこだわって、すでに「(彼の)演劇」は始まっていたのだ。

    彼を取り巻くいろいろな出来事だけが彼を形作るのではなく、彼自身が「彼を演じていくこと」で彼が形作られていくということ。

    「演じる」ということは、「対話」でもあるということが、そこに示されていた。
    一人芝居もあるだろ、という突っ込みもしたいところだが、彼を形作るには「対話」が必要なのだ。

    ここが「演劇」なのではないか。
    割としつこく「演じること」について登場人物たちは要所要所で言及する。

    ラスト近くでジャージ先生が“ぼく”に、「俺はお前だ」的なことを言う。続けて「悪の組織の一員になる」的なことも言う。

    それって、「大人になっていくこと」は、すなわち「“役割”を演じていくこと」であり、つまり、「演じること」は「悪」であるということを言っているのではないか。

    しかし、これは「演劇」である。『演劇』というタイトルまで付けた「演劇」である。

    「演じること」=「悪」であるというのは、子どもの“ぼく”から見た大人の姿であって、何かに流されていくことで、自分を偽る=演じることは「悪いこと」であると思ってしまう。いや正しくは「大人になった自分を子どものときの自分が見た姿」なのではないか。「(不承知ながら)役割を演じている自分の姿」が哀しくて。

    さらに言うと、大勢に流され、「自分が本当には思っていないことを、仕方なく口にしてしまう」「演じている=偽っている自分」がいることを自覚した者(大人)が思うことなのだろう。
    自覚があるかないかということは大きな問題だ。

    先に書いた通りに“ぼく”の「演劇」は始まりつつある。
    「ぼくの演劇」は、自我の形成、すなわち、「自分というものを形作っていく」ことにほかならないのではないか。

    「演じること」が悪いのではない。
    「演じること」は「偽りを形作る」ものではなく、「自分を形作る」ものであるということだ。

    「キャラ」を作る、なんていう言葉があるが、「キャラ」を作ることで「自分のポジション」を確保したりする。
    誰もが、自己防衛のために、あるいは無意識にそうしたことを行っているのではないか。

    家の自分と学校の自分、友だちの前での自分がある。
    全部「同じだ」と言い切れる人はいないのではないか。

    これは「人生」を「演劇」にたとえるのではなく、「生きるために、演じること」を、さらに「演じることで、成長していくこと」を見せた作品ではないか。

    先生たちの会話はとてもスリリングで緊迫感があった。
    対して、小学生の“ぼく”の世界は、その「リアル」とは別の「彼にとってのリアル」がある。
    実に“演劇的”で、イマジネーションを見事に膨らませ、虚実がない交ぜになった演出でそれを表していた。

    それは、成長期における児童から少年への端境期でもあり、彼の世界が広がり、虚実で表されているように、狭間でもがく少年の姿なのだ。
    そし、虚実の、この両者の世界の対比が、「演劇」であった。

    そして、第二次性徴的な発育とともに、アレのでっかい作り物が2つの玉を従えて登場するのも、少年期への扉であり、もがく少年の姿でもある。さらに言えば、そうした演出は、「演劇的な楽しさ」でもある。やっぱりこれは「演劇」だったのだ。

    少年の成長と大人の自分との対比、それを「演劇」という手法で、虚実という形にし、さらに時間と空間を交差させて見せていく手法は素晴らしいと思った。

    舞台の上には「情熱と青臭さ」が炸裂していた。
    「ああ! 演劇だ!」と思った。
    作品ごと抱きしめてやりたいほどの「情熱と青臭さ」の愛おしさ。

    久しぶりに観ていて熱くなった。
    意外と言うか、実に「真っ当」で、「オーソドックス」な「演劇」がそこにあったと言っていい。

    キャラということでは、小角まやさんは、アマヤドリなどでのイメージでは、作品中の保健の先生タイプなのだが、小学生・鈴木くんでは、観たこともない爆発感があった。(当たり前だけど)その姿にはためらいも何もなく、実にストレートで、キラキラし素敵であり、ぼく役の百花亜希さんとのコンビネーションは抜群だった。

    百花亜希さんの健気な姿と視線には、グッと来るものがあった。
    特に家のシーンから「何もない」と苦悩するシーンや、“あの子”を連れ出すあたりのスピード感と熱量は素晴らしかった。

    ジャージ先生の東谷英人さん、柏倉先生の井上裕朗さんの台詞のバトルは良かった。井上裕朗さんのねちっこさは、たまらない。本多先生の井上裕朗さんの苦悩を抑えた感じもいい。

    保護者会の代表的な渡邊りょうさんの、最初は柔らかくって、本多先生に詰め寄るところの、目の恐さは、なかなか。モンペにしか見えない大原研二さんも迫力があった。DVのエピソードが効いてきて、恐さが増した。
    ホームレスな人とスクールカウンセラーを演じた中田顕史郎さんも良かった。ツバが盛んに飛んでいた。熱い台詞がいいのだ。

    この日はプレビュー公演だったので、これから回を重ねるごとに、さらに良くなっていくのではないかと思う。

    ラストに谷さん(?)が何か言葉を発していたようだが、聞き取れなかったのは残念。
    オープニングのパートを受けての、つまり、作品を括る大カッコの閉じの部分にあたるのではないかと思ったのだが。

    『演劇』というタイトルは、結局「どうなのよ」と思ってしまった。
    公演中、「演」という単語が出るたびに意識してしまうし、少々直接的すぎないかと思った。
    「演劇を見慣れた皆さまへ。−これは特殊な「演劇」です」も大げさすぎやしないか、とも思ったが、まあキャッチフレーズなのでしょうがないか、とも。

    逆に「演劇好きで、気になるのならば、演劇っぽさ満載なので観たほうがいい!」というのが結論である。

    「演じる」あるいは「演出する」ということで言うと、役者さんや演出の人たちは、この作品をどう見るのかが、非常に気になった。

    劇場に行ってから知ったのだが、活動休止公演だと言う(HPに大きく書いてあったのに、まったく見てなかった・笑)。
    これを見逃すとこの先2年は見られないことになったので、観て良かったと思った。
    2年という期間限定なので、どこかに行くとかなのかな。

    そして、蜷川さんの訃報を、この作品の前説のようなオープニングで知った。
    テレビや写真で見る最近の蜷川さんの姿は痛々しくって、心配していたのだが、衝撃だった。オープニングで観客とともに蜷川さんへ15秒間の黙祷を捧げた。

    まだまだ書きたいことはあるのだが、これぐらいにしておく。
  • 満足度★★★★★

    活動休止前になるとヤッてくれるんだよなぁ。
    沢山演劇を見てきた方ほど、?????これでいいのか????となると思います。
    それはきっと小劇場演劇の「あるべき論」が染み付いてしまってるからじゃないでしょうか。
    私にはとてもとても魅力的でした。
    児童演劇のような世界から、大人たちの苦闘するシリアスな世界まで。
    とてつもなく馬鹿らしいことから、時間を自由に行き来する演劇ならではの世界まで。
    とても振幅の広い、小劇場演劇の可能性を全部詰め込んだような作品でした。

    色々な装置や照明に工夫を凝らし、俳優陣の命懸けを見られた気がします。
    前回休止前のプルーフもそうでしたが、今回で再び休止に入るようです。
    「プルーフ」が伝説になったように、この「演劇」も伝説になるのかもしれません。

    最低、あと4回はみて、この公演に込められた全部を心に叩き込みたいと思います。

  • 満足度

    プレビューだからしょうがないのか
    冒頭で蜷川さんのことに触れ、事前に色々とハードルが上がり休止公演とのことで...それでいて演出が谷さんということで期待値が上がってしまっているのです。結果としては「え、これで休止でいいの?」という印象でした。事前に劇団員の降板など大変な騒動もあったようですが、それを含めてもっと上を目指せるであろうプレビューでした。

    ネタバレBOX

    回り舞台や対面式の客席など、色んなところが色々とやってきた手法を使っているので、斬新さや目新しさはないのだけれど、ある意味無難なやり方を選んでいるのかなぁと思ってしまいました。
    これでもっと洗練されて完成度が高くなればいいのですが、このままでは安っぽい何かの劣化版のように見えてなりませんでした。休止前ですが、もっと高みを求めたいです。

このページのQRコードです。

拡大