書を捨てよ町へ出よう 公演情報 書を捨てよ町へ出よう」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 2.7
1-6件 / 6件中
  • 満足度★★★

    書を捨てよ町へ出よう
    タイトルだけは目にしたことがありなんとなく文庫本を古本屋で見つけ買っていた。

    慌てて劇場へ向かう新幹線の中で読んでみた。
    エッセイのようなのでこれがどんな風な演劇になるのか
    見当もつかず。

    マームとジプシーの作品も未見で全くわからない。


    寺山のこともよく知らない私が観て
    全然わかってないと思うけど
    観に来て良かったなと思えました。

    ネタバレBOX

    ミナの衣装がとにかく素敵で。
    これが作品に合うのかと言えばどうなのか。
    でも目は楽しかったしワクワクしてた。

    目の解剖から始まり
    ガチャガチャとパイプを組み立てる中のセリフは聴こえないところも多々あったけど
    そこはさほど大事じゃないんだろうなぁと思い
    視覚だけで追っていた。

    虚構なのか現実なのか
    大人なのか子どもなのか
    曖昧なその感じは
    村上虹郎19歳になろうとしている青年の危ういものがよく合っていたと思う。


    最後の女優二人のセリフを聞いて涙があふれたのはなんでなんだろ。

    青柳いづみ・・・恐るべし
    今後も観たい役者さん。

    音楽もかっこよかったし
    又吉さんより穂村さんの映像が面白くて好きでした。

  • 満足度★★

    作品の中で一つの視点を貫徹する必要性の無い、という事は作り手(この場合藤田氏)にとっても必要のなかっただろう、作品。
    原作はドラマでもなく元々は同タイトルの著作(論じる対象も多岐にわたる)、しかも寺山の代名詞にもなり得るタイトルだから、要は作り手が寺山の仕事から何を「自分にとっての問題」として発見し、汲み出すのか、という話になるんだろう。一つの視点に立って数多ある寺山のテキストや仕事からチョイスし構成する事で、今の自分にとっての寺山修司とは。という作品になる。が、今回の舞台で藤田氏は一体何をやろうとしたのか、やりたかったのか、果たして「やりたい」何かを本当に見つけたのか、怪しいと訝ってしまう。 もちろん作者なりの「説明」というものはあるんだろうが。。
     如何に抽象的な「アート」に属する作品でも何か全体としての統一感がみられたり、オチが付けられたりという事があるが、今回のにはその「感じ」が無い。何かおいしいコンテンツ(例えば又吉のインタビュー?)を並べて、お茶を濁している、間をつないでいる。 空間構成や多分野の仕事を組み合わせたりするアイデアは色々と持っているんだろう、けれども・・・自分で探してきたものでなく提供された素材を組み立てた作品なのかな、と疑問が湧く。子供の絵みたく、それとしての味わいはあっても、だったら低予算でクレヨンと画用紙でいいじゃん。と思ってしまう。藤田氏に与える玩具、前回の「小指の思い出」で感じたが、高価すぎやしないか?と思う。「大人」達は一体彼にどんなものを期待してるんだろう・・未だよく判らない訳である。 自劇団の作品はそれなりに面白く見れた。もっと「自分」発での舞台世界の構築に専念してはどうか。

    (評価の高かったらしい「cocoon」は観ていないのだが、原作を読む限り、ある人々にとっては適度な刺激=「戦争への想像力の喚起」を伴う甘口のメッセージ性を持ちそう‥との印象。その社会派的イメージと相まって過大な評価をしてしまったのではないか・・・と推測。意地悪くみているつもりも、恨みも全くないのだが。)

    ネタバレBOX

    例えば足場を組む、そういう所から芝居を始める、悪くない始まりだ。眼球の話も期待を持たせるにバッチリ。だがそれ以降、混迷する。 キャスター付きの足場を位置替えしたりして、場面を転換するが、何のためにその場面がそうである必要があるのか、必然性のみえない所で場転の作業だけが生じている。これをもって「労働者を食わせるために仕事がある」、それは有りだ、という思想でも良いだろう。だがそれならそれを示唆する別の何かがあり、二つを繋いで「示唆」を読み取る、その材料は欲しい。
     ファッションショー的な場面もあった。後から読めば衣裳スタッフがそういった仕事もやっている人で、だからあれをやったのか?・・・だとしたら安直だ(というか意味がよく判らない)。 音響とは別にドラマーが生演奏をする。ジャズ系のうまい叩き手だが、演奏者自身がこの劇に対しどういう構え方で叩いているのかがこれまた判らない。何らかの指示はもちろんしたのだろうが、見る側からすると方向性が不明。映像で登場する二名の話も同様。それらの「要素」そのものは興味深く見れたりするのだが、それらが構成する全体は何であり、どう全体に貢献しているのか分からないんである。
     そりゃ、映像に出た二人はその道のプロだし、ドラマーも衣裳担当も、もっと言えば照明も音響も、プロだからそれ自体で「ウマいなァ」「綺麗だなァ」と賞味できる。さて、いったい演出はどこにいるのか。
    これと、これを使って一つ舞台をお願いします、と依頼され、確かにそれらを使って作りました。うまく繋げたでしょ?それが何か? と言っている声が聞こえる、ほどひどくはなかったと、思う。 その声が聞こえるような舞台とは、失礼ながら白井晃演出のそれ。三作観たうちのどの舞台にも感じてしまった。
  • 満足度★★

    ミスマッチ?
    非常に期待して観に行きましたが、、、

    何でしょうか、心意気はあるものの時間がない中でどうにかして作り上げた結果、内容が追いついていない空虚な作品になってしまった、、という感じがします。

    このオリジナル自体が持つバイタリティみたいなエネルギーを活かし切れず、違う方向へ走ってしまったような感も否めません。

    もしかしたら、藤田自身は今回表現したかったのは寺山でもこの作品でもない、全くの第三の存在なのではないかと思わせるくらいに、ズれてました。残念。

    ネタバレBOX

    パイプの組み立て、解体時の雑音が、セリフとかぶり、聞きにくい。
    夏の公演で見た、目の解体が同じように出てきたところに工夫が見られない。
    なんで同じことをしたんだろう??
  • 満足度★★

    いろんななショーがみられた、135分
    テラヤマワールドそのままに、鉄骨ハウスの組み立て、バラシに、ドラムパフォーマンス、穂村さんや、又吉さんの映像パフォーマンスショーに、昭和の匂いそのままのファッションショーなどなど、総合芸術のショーのような感じの内容でしたが、出来はもう少し。

  • 満足度★★★

    ネタばれ
    ネタばれ

    ネタバレBOX

    マームとジプシーの【書を捨てよ、町へ出よう】を観劇。

    時代も世代も感覚も全く違う作・演出の藤田貴大が、寺山修司とどのように対峙するかが興味の一点である。

    始まりは前作と同じ様な眼球の解剖から始まり、背景ではパイプイントレを組んで、無機質な造形物が組まれて行く。
    そしてライフルで人を虐殺する若者、虹郎の人生、妹の強姦、叔母の姥捨て、そして寺山の母親ハツとの確執など寺山修司色満載である。
    だが決して藤田の表現方法はいつもと変わらず、反復であり、物語性すら求めない違和感を感じるスタイルは健在だ。
    そして寺山が描く望郷感も藤田が描くととんでもない地獄絵図になってしまうのは、彼に対する反骨精神とも取れるが、
    それはまるで寺山が藤田との出会い待っていたかのようでも思えるが、実の処、これは全くの偶然の出会いでしかない。
    それは寺山修司のあの名言【出会いの偶然性を想像力によって組織する】を藤田がただ体現しただけだろう。
    そして未だに分かるようで分からないアングラ演劇と寺山修司という奇妙な存在と今作は、結局誰もが分からずに終わってしまうと思いきや、
    舞台で流れる映像の中で、作家・又吉直樹に答えを言わせるという何とも藤田らしい?いやいや寺山修司に対する尊敬の念を示した終わり方で幕を閉じるのである。

    難解であり、苦痛であり、そして受け身で観劇しようものなら駄作であるが、
    それを取り払う勇気があれば、とんでもない傑作なのである。

    お勧めである。

  • 満足度★★★★

    藤田流、寺山ワールド
    今、池袋ではこの初期作品と晩年作「レミング」という二つの寺山作品が同時に鑑賞できる。しかも、今作「書を捨てよ町へ出よう」は、若手の注目株、マームとジプシーの藤田貴大、レミングは大阪発で注目の維新派、松本雄吉。30歳の藤田、69歳の松本。二人がどう、寺山を料理するかが大きな見どころだ。

    藤田の舞台はとてもユニーク。見る人それぞれの寺山像が浮かぶような、万華鏡のような仕上がり。お笑い芸人の又吉直樹、歌人の穂村弘の映像を効果的に使っているし、藤田が自分で咀嚼した寺山を2015年という舞台空間に再現し、記憶にとどめていく意志を感じる。

    寺山の書いた同名エッセイ集「書を捨てよ」は、読んでから行った方がいいです。何倍も寺山を楽しめます。

    ネタバレBOX

    客席通路で役者が着替えるなど、客席も舞台だ。見るなら、後方の席を取るべし。

このページのQRコードです。

拡大