満足度★★★
書を捨てよ町へ出よう
タイトルだけは目にしたことがありなんとなく文庫本を古本屋で見つけ買っていた。
慌てて劇場へ向かう新幹線の中で読んでみた。
エッセイのようなのでこれがどんな風な演劇になるのか
見当もつかず。
マームとジプシーの作品も未見で全くわからない。
寺山のこともよく知らない私が観て
全然わかってないと思うけど
観に来て良かったなと思えました。
満足度★★
作品の中で一つの視点を貫徹する必要性の無い、という事は作り手(この場合藤田氏)にとっても必要のなかっただろう、作品。
原作はドラマでもなく元々は同タイトルの著作(論じる対象も多岐にわたる)、しかも寺山の代名詞にもなり得るタイトルだから、要は作り手が寺山の仕事から何を「自分にとっての問題」として発見し、汲み出すのか、という話になるんだろう。一つの視点に立って数多ある寺山のテキストや仕事からチョイスし構成する事で、今の自分にとっての寺山修司とは。という作品になる。が、今回の舞台で藤田氏は一体何をやろうとしたのか、やりたかったのか、果たして「やりたい」何かを本当に見つけたのか、怪しいと訝ってしまう。 もちろん作者なりの「説明」というものはあるんだろうが。。
如何に抽象的な「アート」に属する作品でも何か全体としての統一感がみられたり、オチが付けられたりという事があるが、今回のにはその「感じ」が無い。何かおいしいコンテンツ(例えば又吉のインタビュー?)を並べて、お茶を濁している、間をつないでいる。 空間構成や多分野の仕事を組み合わせたりするアイデアは色々と持っているんだろう、けれども・・・自分で探してきたものでなく提供された素材を組み立てた作品なのかな、と疑問が湧く。子供の絵みたく、それとしての味わいはあっても、だったら低予算でクレヨンと画用紙でいいじゃん。と思ってしまう。藤田氏に与える玩具、前回の「小指の思い出」で感じたが、高価すぎやしないか?と思う。「大人」達は一体彼にどんなものを期待してるんだろう・・未だよく判らない訳である。 自劇団の作品はそれなりに面白く見れた。もっと「自分」発での舞台世界の構築に専念してはどうか。
(評価の高かったらしい「cocoon」は観ていないのだが、原作を読む限り、ある人々にとっては適度な刺激=「戦争への想像力の喚起」を伴う甘口のメッセージ性を持ちそう‥との印象。その社会派的イメージと相まって過大な評価をしてしまったのではないか・・・と推測。意地悪くみているつもりも、恨みも全くないのだが。)
満足度★★
ミスマッチ?
非常に期待して観に行きましたが、、、
何でしょうか、心意気はあるものの時間がない中でどうにかして作り上げた結果、内容が追いついていない空虚な作品になってしまった、、という感じがします。
このオリジナル自体が持つバイタリティみたいなエネルギーを活かし切れず、違う方向へ走ってしまったような感も否めません。
もしかしたら、藤田自身は今回表現したかったのは寺山でもこの作品でもない、全くの第三の存在なのではないかと思わせるくらいに、ズれてました。残念。
満足度★★
いろんななショーがみられた、135分
テラヤマワールドそのままに、鉄骨ハウスの組み立て、バラシに、ドラムパフォーマンス、穂村さんや、又吉さんの映像パフォーマンスショーに、昭和の匂いそのままのファッションショーなどなど、総合芸術のショーのような感じの内容でしたが、出来はもう少し。
満足度★★★★
藤田流、寺山ワールド
今、池袋ではこの初期作品と晩年作「レミング」という二つの寺山作品が同時に鑑賞できる。しかも、今作「書を捨てよ町へ出よう」は、若手の注目株、マームとジプシーの藤田貴大、レミングは大阪発で注目の維新派、松本雄吉。30歳の藤田、69歳の松本。二人がどう、寺山を料理するかが大きな見どころだ。
藤田の舞台はとてもユニーク。見る人それぞれの寺山像が浮かぶような、万華鏡のような仕上がり。お笑い芸人の又吉直樹、歌人の穂村弘の映像を効果的に使っているし、藤田が自分で咀嚼した寺山を2015年という舞台空間に再現し、記憶にとどめていく意志を感じる。
寺山の書いた同名エッセイ集「書を捨てよ」は、読んでから行った方がいいです。何倍も寺山を楽しめます。