満足度★★★★
日本国憲法の特異性
ジェームス三木脚本作品を過去1本観て1本読んだ気がするが、記憶にある舞台の方はきっちり説明してくれるが意外性がない、という印象だった(演出・演技の問題だったかも知れないが)。今回の舞台は、きっちりとした憲法作成への言及と構成が説得力を持って迫ってきた。「史実」、とりわけ由来の是非が問題化される案件を扱うドラマとしては、きっちりしている事は重要だ。日本に縁のある女性として草案作成に加わったベアテ・シロタ・ゴードンの20代前半という若さを舞台上で目にした発見は、「情熱」に他ならず、未曽有の大戦を終えた時点の人間の状態を「覚醒」でなく、その逆とみる向きに対して、はっきり前者を見せつける内実そのもののドラマと言えた。
軽快さ、緩急ある演出が「きっちり」感を中和して心地よい。
さてこの憲法。作品中、日本の在野の憲法研究グループによる草案にも言及されるものの、ドラマの登場人物は作成グループのメンバー(とGHQの担当官)のみであり、史実も憲法作成者が彼ら米国人である事を否定しない。背景として、連合国占領下の「政府」は戦前からの連続性ある政府であり、彼らの出す憲法草案は体制の変革をもたらすものでは到底なく、一方で他国の干渉を目前にして「民主的な憲法」制定のタイムリミットが迫っている状況があったと説明されていた。他国人による突貫工事の憲法作成は、特殊という他ない。
しかしこの特殊は、少なくとも戦後日本にとって僥倖であった。もし日本のアイデンティティにとって問題があるとすれば、憲法が彼らによって作られた事ではない。発布したのは日本政府であって国民にとっては「押し付けられた感」はなかったはずだ。むしろ歓迎した。誰しも民主主義が占領という外圧なしに実現したとは、理解しなかっただろう。問題は、手の平を返してアメリカ礼賛へと豹変した多くの日本人の根底にある特性そのものであって、「憲法がどうした」程度の問題ではない(もっと根深い)。例えば、問題の一つは、戦争を自ら総括できない体質を温存している事だろう。状況を客観冷静に見据えて対応できない日本の弱点はそこから来ている、と思う。
戦後レジームからの脱却を唱える安倍氏は、そうした重要案件について判断できる能力がなく、しかも米国からの要請によって米国依存を脱却しようとしている意味で、「悪しき」戦後レジームの継承者だ。
満足度★★★
憲法に込めた、情熱を知る
日本国憲法の草案を作ったGHQ民政局のベアテ・シロタのことはよく知られている。草案を作ったメンバーらがいかに情熱を傾けて作業をしたかを、ベアテを主人公に描いている。
青年劇場は1998年の初演後も、何度も上演してきた。今回は、国会で安全保障関連法案が審議されているというタイミング。場合によっては自衛隊員が外国で戦争に加わるかもしれないという法案だけに、演劇界でも力が入っているのだ。
語り手として、89歳となり今に生きるベアテ・シロタ・ゴードンを置き、45年当時のベアテに今回が初舞台の新人、高木アヤ乃を抜擢。彼女の堂々たる舞台は、注目に値すると思う。特に、第一幕の最後のシーンには、思わずもらい泣きしてしまう迫力があった。
国家として戦争を放棄するという宣言をしたインパクトは大きかった。また、ベアテが日本在住での経験を基にして作り上げた「女性の人権」に関する条項は、画期的だった。憲法に込めた、メンバーたちの情熱を舞台は余すところなく伝えている。
それで十分であるのだが、今回は締めくくりに、この70年間日本が戦争に参加せず、一人も殺さず、一人も殺されなかったのはこの憲法があったからだと現在のベアテがとうとうと語る。人によっては、この部分で舞台観劇の熱が冷めてしまったかもしれない。上演する側としては、今なぜこれをやるのかとアピールしたかったかもしれないが、ある意味、言わずもがなである。個人的には、なくてもよかったような気がする。
後日談をやるのであれば、朝鮮戦争が起きる中で、米国が日本に対して、憲法の条文に手をつけずに警察予備隊(自衛隊)を作らせたことも含めた方がよかったのではないか。事実上の軍隊を「自衛隊」として軍隊ではないから憲法9条に違反しない、という論理は、「軍事を使ってでも積極的に守る」のが「平和」だと言い張っている今の政権のやり口とまったく同じなのだから。
それでも、憲法の成り立ちに疎い、特に若い人にはお勧めしたい。「平和」は努力しないと守られないということを知るためにも。