マーシー、朝の憂鬱,昼の倦怠,夜にトけて水飴 公演情報 マーシー、朝の憂鬱,昼の倦怠,夜にトけて水飴」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.0
1-4件 / 4件中
  • 満足度★★★★

    あれこれと予想外。
    「未来のルンバと引越しを巡る物語」という一文から想像してた内容とはちょっと違ったり。
    哲学的なタイトルと説明文から受けてた印象とはまた違ったり。

    そんなあたりが観ていて「あれ、こうなるんだ」と気になったり。


    全体的には嫌いじゃなかったですけどね。

    ネタバレBOX

    ちょいちょい気になるところもありましたが
    マミーが台本持ったままだったのは演出とも思えず、特に気になりましたね。


    でも、全体的には嫌いじゃなかったです。


    窓空けるところは外光によって台詞も変えてたのかなー。
  • 満足度★★★★

    楽しめました
    COoMOoNOの浮遊感のあるファンタジックな世界が好きなのですが、今回は結構シビアなお話でしたね。このワンフロアで3人はそこそこフツーかと思いますが。やっぱり生活水準を落とすのは難しい。人間奢っちゃだめだな~と、勝手に反省。質素倹約でいきます。

  • 満足度★★★

    少し強引かも…
    第一印象は、具象化出来るが、敢えて抽象的な演出を行い、観客に感じ取ってもらう。その何か...詩、小説の一節を切り取ったような。

    そして本公演は、無機質な物体に心を通わせるような感じであった。通常では考えない、または感じないことを表現しようとしている。その描き方、手法が強引のように思える。
    敢えてテーマを潜在化することによっての問題提起だろうか。
    芸術性の訴求か、大衆的な観せ方か…。

    ネタバレBOX

    梗概(捉えているか不安で)は、5LDKの豪邸からワンルームへ引っ越してくることになった家族、私アンナ(舟橋杏美)、パパ(畑中研人)、マミー(伊集院もと子)の話。家具等をどのように収納するか、全てを持ってくることが出来ない。ある事情(マミーの浪費か?)により家計破綻になったようだ。
    また、私の仲良し”マーシー”(久保佳絵)...「人型ロボット」のイメージであるが、新しい家には持ち込めない。電気の消費量が多く維持するのが難しい、というのが理由である。何気ないレイアウトを話す親子であるが、パパ(目が見えなくなった)、マミー(専業主婦→パート)は環境の変化に対応しようとしている。表層的にはこのような内容だった。
    舞台には基本、脚立1つ。表現はキャストのパントマイムのみ。変化しようとしている日常生活の中に、得体の知れない不気味さを感じる。雰囲気は明るく無邪気であるが、近い将来の暗澹たる思い...その潜在的な不安がピタッと肌に付くようで気持ち悪い。

    さて、マーシーは開演前から踊っている。その立ち振る舞いには、透明感があるようだ。先にも記載したが、具象と抽象の間にあるような描き方、観せ方は、自分の感性の乏しさもあり、付いていくのが難しかった。雰囲気のある芝居...それを十分感じ取れず、狭間に落ちたようなもどかしさがある。

    気になることが...マミーが台本(?)を手に読んでいるような。確かに文字が書いてあり、視線も読んでいるようであった。しかし、マミーは本公演の作・演出家なのだが...。

    とても不思議な感覚の公演であった。
  • 満足度★★★★★

    狭き門ではあるにゃ
    長風呂の好きな少女アンナは、引っ越すことになった。

    ネタバレBOX

    パパは目が見えなくなって真実が見えるようになっているかも知れない。{当然、オイディップス王を下敷きにしているのは、リーフレットにパパ(目が見えなくなった)と書かれていることから明白だろう}
    今迄住んでいた5LDKからワンルームへの引っ越しである。現在、その引っ越し先に来ているのだが、家具などは未だ入っておらず、マーシーという名の進化型ルンバ(他の家電のコントロールもすれば、アンナの最も大切な遊び相手も務める他、部屋の掃除をしたり、家事の手伝いをしたりと万能である。が、唯一の欠点は、電力を多量に食うことだ)マミーは、引っ越し作業で忙しい中、アンナの身の回りの世話を焼き、マミーとして必要だと思う事を為している。だが、アンナにマミーのイメージしていることの全体像は見えていない。
     然し大きな住居から極端に狭い部屋に引っ越して来る訳だ。何があってそうなったのかは直接的には語られない。が、マーシーは、電力を物凄く食うので部屋の狭さもあり、引っ越した先には置けないこと、これは、マミーからアンナへの強制である。唯一の救いと思われたのが、アンナの親友の家に貰われることになったことだった。それなら、何時でも遊びに行ける、アンナはそう思った。そう思ったのだが、マミーは「その家を訪れてはならない」と告げる。(因みにその理由は告げられない。だが、当然想像するではないか? 社会的階層が決定的に違ってしまったのだということを。マーシーの消費する電気代も払えない。今迄住んでいた住居の五分の一にも満たない住まいに引っ越す。パパは障害者だ。マミーはパートで働いている。他に家族の経済を支える者は誰も居ないのだ。アンナの立場に立てば、あまつさえ引っ越して来た先には、浴槽はおろかシャワーさえないのだ!! 最後の部分は科白でも状況は語られているが。 少なくとも観客はこの()内に書かれている程度のことは瞬時に想像しなければならない。それができなければ楽しめない)
    もう理解できたと思うが、この物語は、マシュマロで出来ていた少女が乙女になってゆく話とでも解釈しておきたい。手法はポエティックな側面がふんだんにあるので、詩的感性を持たない人にはちんぷんかんぷんかも知れない。作家は、可也古典にも通じているようだし、インテリだろう。従って、観る側の古典の知識も不可欠である。サンボリックな詩に対する認識も不可欠である。ボードレールを起点とすれば、ランボー、ベルレーヌ、マラルメ、ヴァレリー程度は最低限フォローしたい。できればラフォルグ、シュッペルビエール辺り、そして20世紀の大詩人、ジャック・プレヴェール迄はフォローしたい所だ。国は異なるし時代も異なる部分はあるにせよ、リルケ、ゲーテ、ヘルダーリン等もフォローできれば良い。まあ、ホメーロスまで遡ることはないにせよ、できれば象徴派に近いならず者インテリであるフランス最大の大詩人、フランソワ・ヴィヨンまでは、関係があると言えるかも知れない。ダンテ、ロートレアモン、ミルトンは外しておく。傾向が違うと考えるからだ。
    一方、リーフレットには、虚しさに言及した箇所があるのだが、これも男の感じている根本的な虚しさとは質が異なる点は指摘しておくべきであろう。女性で男と同等の存在の虚しさを感じることができるのは、唯一、石胎女だけであろう。知能を持つ動物が、♀を大切にするのは、♂が産む性ではないからである。産めないということは、未来を孕めないということと同義であるから、♂の感じる虚無感は♀の比ではない。これは、宿命である。同時にアイデンティティに関しても♂はその完成形を持たない。尤もエリクソンの定義とは異なるが。エリクソンは自分ほどペシミスティックにアイデンティティを捉えていない。(社会学の講義でも哲学の講義でもないからこれ以上詳しくは書かないが興味のある方はご自分で勉強されたい)本当に虚しさを語るのであれば、最低限、ルバイヤートだけは読んでおいて欲しい。言う迄もなく、ペルシャの大天才、オマルカイヤームになる詩である。
    とはいえ、この作家、生活実感の中で生起する事柄に関しては実に的確にまた具体的に捉えている。従って作品としてキチンとした纏まりを具えているから、オマルカイヤ―ムについては、宿題としておきたい。(もし、興味が湧いたら読んでちょ)
    ルンバの精と言うべきか、ダンサーが登場するが、身体能力の高さとリズムにシンクロナイズした動き、止めには感心した。更に、♀が、成長してゆく過程を非常に興味深く考えさせて貰った。また少女から乙女、女性に変態してゆく成長の物語でもある。(変態という言葉は、生物学で用いるコンセプトで使っているが、大衆レベルでは、とんでもない意味があるので変容と読み変えて貰って結構である。但し、女性の思春期の変化は、変容という生ぬるい言葉では表現しきれないと考えて生物学用語を用いている)

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