満足度★★★★
「戦後日本」の根っこを掘り出す執念の戯曲
戦前・戦後と新劇界の第一線に居た劇作家三好十郎の、敗戦直後の作品だという。雑誌に掲載されたこの戯曲に三好は魂をつぎ込んだ。その事がダイレクトに感じられる終盤の対話、というより口論、否、議論。それぞれの背景から絞り出すように吐かれる言葉。そこには戦後の「政治の季節」の巷で交わされた典型的な議論、物言いが凝縮されて書き出されている、と同時に、現在進行形で新たな時を刻んでいるかのように固唾を飲んで見させる(身につまされる)切迫感を持っていた。
書かれた当時は物資不足の混乱の下、作品の登場人物らも食糧に欠乏し苦吟する姿が、真実らしい肌合いで彫刻のように浮かび上がる。爆撃にやられて既に廃墟にひとしいこの家には、労働運動に勤しむ病弱の長男と、特攻帰りのぐれた次男、顔半分が焼けただれているが健気に皆に食事を工面する妹、自らの意思で教壇を離れた大学教授の父、世慣れた風情だが今は身を寄せるその弟、男女関係の話の中心となる女中、次男が連れてきたパンパン風の女、家賃を取り立てに来た女、父の教え子といった者らが出入りする。時代の矛盾をそれぞれに体現する彼らは、貧乏ゆえに「助け合う」、といったヒューマニズムの段階をとうに通り越して、過去を引きずりながら手のひらを返したような民主平和の日本とどう折合いを付けるかに苦しみ、時に食糧や収入よりも優先する「生きる根拠」としての思想の切実さがほとばしる。彼らは当時の日本人の根底にあったものをそれぞれの立場から言葉化し、背後に居る多くを代弁しつつ激論を戦わせる。そこには悲哀があり、敗北主義も横切るが、最後まで己の言い分を言い切った(三好に言わせられた)彼らは作品の中で昇華した。物語的に解消したのでなく、彼らをどこかで見ている人達(即ち我々)の前で言葉を(中空に架空の石板でもあるなら)刻印した、という事において昇華した。 戦争にまつわる自分たちの責任、また責任の無さについての議論は、この時から今に続き、今なお燻っている。
満足度★★★★★
日本人が、日本人であること、人間であること
終戦後一年のある一家のお話・・・・歴史学の教授の父は、配給の食べ物しか口にしない。だんだんやせ衰えていく・・・戦争前、戦争中から、公然と戦争を反対していた彼だが、戦争への責任を痛切に感じていた。
家族は、それぞれに戦争の深い傷と格闘している・・・・父と反発し、議論を戦わせる。それを傍観している者もいるし、心を痛めている者もいる・・・。
廃墟に住む、彼らの心もまた廃墟だ。
鋭い言葉が飛び交い、深い洞察を持った言葉が飛び交い、それぞれの心情が劇場中に響き渡り、あふれていく・・・・。
その舞台は、すごく生々しく、リアルな息遣いを持っていた。
すごかった。
休憩を15分を挟んでの2時間50分は、あっという間だった。
父親役の能登さんが、役作りのために減量し、面代わりしていて、びっくりしました。そして、素晴らしかったです。