三人姉妹 公演情報 三人姉妹」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.7
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  • 満足度★★★★★

    <ジャズ組曲>
    どう表現して良いやら困惑する類の衝撃。一度観なきゃ判らない<地点>をこの1年の間に3作ばかり続けて観たが、今回のはこの劇団の特徴(最大のそれは台詞を不自然な音節で区切って言う)が、一番判りやすい成功の形を見せている舞台ではないかと思った。昨秋の「光のない。」(KAAT神奈川芸術劇場)の壮大さには触れる言葉すらなく、どちらが優れているかという比較の問題では元よりないが‥。
    地点版「三人姉妹」は、元の戯曲を全く知らないと難解を極めるに違いない。ただし、テキストが紡ぐ「物語」と、舞台上で繰り広げられる俳優の身体によって起こされる(台詞の発語も含めた)「事態」とは、何一つ関係を持たないと言い切って誰も(演出も?)文句は言わないだろうと断言したい位「並行」し「自立」している。「テキスト」と「舞台上の事態」の両方の波長が同調したり奇妙なマッチングを示す事もあるが、両者はそれぞれに屹立しているのだ。地点はよく古典を舞台化するが、戯曲紹介として優れた舞台と言える舞台とも違い、よく知られた古典戯曲の<懐を借りて>遊ぶ姿勢を超越している。否、遊んではいるが、土俵は<地点>の側のそれなのである。
    観客の目、「物語」を肯定的に捉える人には恐らくこう見える‥「自然な表現術を奪われた人間(俳優)」を通して語られる事によってテキストの底にある感情や生命力が圧縮され、エネルギーそのものとなって放出される(その想定の中では、俳優の立つ瀬はテキストにある)。逆に「物語」に懐疑的であれば、これを解体するパフォーマンスと理解する事も可だが、こちらの結論は陳腐に思える。「舞台上の事態」がテキストに依存していなければ解体の必要が生じない。
    <地点訛り>の発語について、俳優それぞれの個性に応じた確立のされ方をしている事に、今回気づいた。つまり、地点はずっとこれで行くのだ。地点訛り(否、<地点語>と言ってしまったほうがインパクトを伝えやすいかも知れない)は方法論として既定路線となっており、俳優はそれぞれの地点語を、幅を持つ表現のツールとして育み続けている。その成果を最大限発揮する場としての、三人姉妹であったとも言えるか知れない。
    演出者が当日パンフに、この作品にまつわる「リアリズム」の語を指して地点の舞台も正に「リアルだ」と書いていた。俳優にリアルに語らせてしまうテキストの持つ力の事を言ったのか、「これが我々のリアルだ、ははは」と笑っているのか、判らない。ただ、こんなのリアルじゃない、と言った瞬間「リアルとは何だ」との問いに答えられない自分が居る、事だけは確かだ。
    とにかく俳優は動きづめ、場面は複雑に変化して休む事なく、1時間半と思えない密度だった(もっと長いかと)。笑った。

    ネタバレBOX

    三人姉妹は強引にまとめれば、没落貴族的設定の下あれこれあって、最終的に「身分の確かな人」を得られなかった状況が露呈した段で、三人は寄り添い、ある種の達観でもって時代の変遷を見、あくまで人生の意味を見出そうとするいじましい会話で締めくくられるお話。事は経済的な問題で、だから「働かねば」と言わせつつも、それを強いる何者かに(心までは)敗北するまじという意気が台詞に込められている。ロシアの革命前夜と言える時代に書かれたテキストが今も廃れずに読まれている。今の日本も、事は経済であり、しかしそれに敗北するまじと登場人物に言わせたい時代だが、地点版「三人姉妹」の舞台で現代の照射が意図されたように見えたかと言えば、それは無い(というか読み取らせない)。ただし、古典の再現でなく「現在」の言葉になっている。「吃音する者」の口を通しては「書かれた過去の言葉」にはなり得ないという事だろうか。
    表題は、劇中しつこくリフレインされるショスタコーヴィチ作「ジャズ組曲」ワルツ2番という4分程度の曲。最後「ジャン!」と気持ちよく終わる曲だが途中で流れるのはカットアウトした消化不良バージョン。最後の最後の「ジャン!」を期待しつつラストで流れた曲を追っていると、「ジャン」に役者の叫びが重なって、カタルシス無し。あれこれ、狙いなのかと考えてしまう。
  • 満足度★★★★★

    三人姉妹はどこにいて、何を夢見、そしてどこへ向かうのか、をたっぷりと見せる
    地点の作品は、いつも刺激的だ。
    強靱な役者さんたちと、彼らを高める演出で、観客の期待を決して裏切らない。

    ネタバレBOX

    2008年版の『三人姉妹』は、(ほとんど)「動かない『三人姉妹』」であった。
    同じポーズのまま、台の上に座って台詞を言う。
    独特の「地点イントネーション」が、音楽のようにさえ聞こえ、心地良かった。

    今回の『三人姉妹』は2008年とは違うだろうと思っていたが、本当にまったく違っていた。

    舞台の上には、塀のように透明なアクリルボードが立っている。
    それが、粉状のもので、白く汚され、舞台の向こう側が見えない。
    天井からは、白樺を模したであろう、樹木が吊されている。

    塀の向こう側に役者たちが登場する。
    2人ずつが、組んずほぐれずのように床を這い、その様はエロティックであり、ため息のような声もして、艶めかしくもある。

    彼らは塀のこちら側に登場するのだが、やはり、それぞれが他人の身体にまとわりついている。
    エロティックというよりは、「格闘技」のように見えてくる。
    「(ほとんど)動かなかった2008年版とは逆で来たか!」と思った。

    その意味は何だったのだろうか。

    2008年版では、動かない3人姉妹で、台詞の絡みもすっぱり、すっきりとしていて、クールであった。しかし、舞台の上には、「3人姉妹たちの確固たる世界」があった。
    3人の姉妹は「3人姉妹」であったわけだ。

    その「3人姉妹の世界」と「彼女たちを取り巻く世界」の関係として見せていたように思う。
    「彼女たちを取り巻く世界」からの働き掛けによって(スーパーマーケットのカートのようなものが出てきたりとか)、彼女たちは、文字通り動き出す(台から降りて)。

    今回の作品で「関係性」を見ると、「鬱陶しさ」が爆発している。
    言葉を発するときには特に、発していないときにも、他人がねっとり身体にまとわりついて、大きな負担となっている。
    これは、人と人との濃厚な、そして、面倒臭い人間関係を見せていたのではないか。
    実際、これをやられたらイヤだろうな、というぐらいにしつこい。
    とにかく延々と。

    ロシアではどうなのかは知らないが、思い浮かぶのは、田舎生活における人間関係の濃厚さや面倒臭さではないか(そういう田舎の実感はないが、イメージとして)。
    3人姉妹が、首までどっぷりと漬かっていて、(たぶん)うんざりとしている状況を表しているのだろう。

    アクリルの壁は、こちら側とあちら側の境界であり、世界(社会)との関係(性)ではないか。
    押して広げたり、狭めたり、力を使う。
    粉で汚れているので、透明アクリル壁越しでも、あちら側は、よく見えない。

    ノックのように、ドンドンと叩く音がしたり、叫び声が聞こえたりする。
    それは、届いていないが、聞こえている。

    その様も、田舎暮らしの彼女たちにとってのストレスではないか。

    2008年版では、彼女たちが憧れる「モスクヴァ」(そう発音していた。今回も)という言葉が、とにかく印象的に発せられていて、その言葉だけが、台詞の中でぽーんと浮かんでいた。
    その発声から、彼女たちの憧れの強さを感じたのだ。

    今回も「モスクヴァ」である。
    発声は2008年版ほどではないが、やはり印象的に響いている。

    彼女たちは、まとわりつく「今、この場所」から、涼やかに響く「モスクヴァ」に憧れていく。

    今回の作品で特筆すべきは、中隊長のヴェルシーニン。
    彼の存在がクローズアップされていた。
    彼が、彼女たちと「モスクヴァ」をつなぐ存在であり、そのことで、彼女たちの「モスクヴァ」への憧れがジリジリと増していくのだ。

    ヴェルシーニンは、それを知ってか知らずか、自由に振る舞う。

    地点の作品には、クスッとしてしまうようなユーモアが、必ずある。
    生理的に笑ってしまうというか、そんな感じだ。

    今回、その部分が多いし、大きい。
    ヴェルシーニンの自由さに、笑いが生まれる。
    ダジャレのような言い間違いから、客席を通って、外に出るといった演出まであり、声を立てて笑ってしまった。
    また、アンドレの歌にも笑った。

    そうした笑いと対をなすのが、撃ち殺されるトゥーゼンバフ。
    彼が前面に登場してから、常に銃声があり、倒れるということを繰り返し、彼の行く末を早くから見せていく。

    3人姉妹を巡る恋物語についても、登場人物たちの肉体が絡み合う演出が効いてくる。
    恋愛の濃厚さとともに、それが孕む面倒臭さをも示しているようだ。
    そこまでを含めての、「状況」なのだろう。

    特に、ヴェルシーニンとマーシャの語り合いは、濃厚であり、濃厚であるからこそ、哀しくもある。

    各シーンは、ロシア的な音楽を挟むことでつながっている。
    かつて観た「モスクワのユーゴザーパド劇場」の作品を思い起こした。
    ロシアつながりで、それへのオマージュとか、そんなものはないだろうが、音楽だけでなく、その演出にも「ロシア」臭さをたっぷりと感じた。

    ラスト近く、長女のオーリガが客席に宣言するように台詞を言う。
    首まで漬かっていた状況から「ひとつ抜けた」感を感じた。
    ここでは、誰もまとわりつかないのだ。

    作品の前半は「今日」という言葉が台詞の中で象徴的に数多く使われ、後半にかけては「明日」が同じように強調されていた。
    「今日」から「明日」へのメッセージであり、未来に続くということを宣言していたのではないか。
    それはつまり、観客への強いメッセージでもあったのではないかと思った。

    それにしても、地点は、いつも役者さんたちに、肉体的にもストレスな演出を強いる。
    今回も、全編、寝技、格闘技のように力が入った絡み合いの中で、台詞を言わせる。最初から最後まで力の入れ具合はマックスである。

    強靱な役者さんたちがいるからそこの、あの演出、この演出が実現できるのではないか。
    彼らには、ほかのカンパニーの作品でも出会ってみたいと思わせる。

    3人姉妹を演じた、安部聡子さん、河野早紀さん、窪田史恵さんは、やっぱりいい。今回も、安部聡子さんは凄いなと思う。
    ヴェルシーニンを演じた小林洋平さんには、自由さのリズムを感じ、余裕さえあるように見える演技だった。
    そのほかの役者さんたちも、もちろん良い。

    アンダースローも一度、行ってみたい。だけど京都は遠い。
  • 満足度★★★★

    七転八倒
    大好きな戯曲なのもあり、大いに笑わせてもらった〜。ヤバいもの観たい人にお薦めです。あらすじと登場人物を頭に入れてから観るといいと思います。前知識ゼロだともったいないかと。

    ネタバレBOX

    汚れた透明の壁が客席に一番迫ってきたところが、私にとってのクライマックス。三人姉妹が客席の方に向かって、立ったまま動かず、はっきりとセリフを言うところ。あそこで終わってくれてたらな〜。

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