満足度★★★★
21世紀の鎮魂儀礼
コラボ的作品を最近好んで観始めた事もあって(半ば実験である「異種配合」は当たり外れも多いが)、今回の観劇、当日券の列に1時間並んだ甲斐はあった。予備知識無し、休憩含め2時間のあいだ五感を刺激され通しであった。横浜創造都市センター(元BankART。石造建造物)が会場である時点で「実験的」パフォーマンスが何となく予想されたが、内容は想像の範囲をはるかに凌ぎ、言葉にならない何ものかを強烈に叩き付けられた感覚を引きずって会場を後にした。
超越された感もさる事ながら、登場する役者の取り合わせの妙、場面の緩急、生で鳴らされる音楽、音響も印象的だった(作られた感=温かさを感じさせるものがあり、決して突き放すばかりでない、の意)。
特に聴覚の刺激。台詞の発語もまた、音としてあった。
冒頭近くで、ジェット機の轟音が振動とともに暗転の場内を埋め尽くす。今作品の題材とされる「日航ジャンボ機墜落事件」に連想を繋げる、状況の再現。直接には関連のないシーンが、暗転も挟みつつ波のように寄せたり引いたり、感覚をくすぐる。これらを包む音楽、また静寂。
私の座った席からは、この鋭角状に細長い建物の尖端に当たる、正面の二重に据えられた扉の嵌め込み硝子を通じて行き来する車のライトが相当量かすめ、目をくらませる。だが不思議に外界との隔絶感は大きく、逆に秘儀に参加しているかの感興が増幅するのだ。
人物らは歌のような物を言ったり、叫んだりする。外国訛りで日本語を口にする外国籍らしい二人、覚えたての日本語を喋る四歳くらいの女の子、小学生の女の子、中学生の男の子。「日本語の操り手」として未習熟な彼らの口を介する事により言葉が純化され、蒸留された水滴のように落ちる。一方、大人の飴屋は吃音者のように、山川は吼える事しか知らない傷だらけの狼のように、言葉を吐き落とす。
観客が徐々に導かれて行くのは、現実に訪れる「死」の瞬間・場所である。その時間その状況が、私達の身にも訪れ得ること、否、今私達はその「死へ向かう時間」を生きているということ。
「グランギニョル」を意訳して言い換えるとすれば、「死の予感」を喚起することとなろうか。不条理な死(死はそれじたい不条理)を真顔で嘆いたところで、それは避けがたいもの、個人が自身の内部で折合いを付けるしかない類のものだ。多くの演劇は、その殺伐とした「死」に、つまり「生」に、彩りや意味を与えんとして人と社会、人と人との関係を描く。ところがグランギニョルが描き出そうとするのは、生を当面長らえるための「死」の脚色ではなく、脚色を撤去した無意味で不条理な「死」すなわち「生」の姿だ。
対峙する相手は人間(や社会)ではなくもはや運命、神、あるいは真理(法則?)である。この作品が(日航機事故を扱ったにもかかわらず)「非日本的」な匂いを発する理由はそこにあるかも知れない。
もっともあの突然で無差別な「死」、現場に居合わせてしまった人々のありさま、また同様に死に直面する存在としての人間を「嘆いてみせる」行為とは、「死」を思い出させる儀式に他ならず、能をあげるまでもなく鎮魂はその抹香臭さを疎まれながら連綿と、生者のために儀式として執り行われてきた。勝手な解釈だがグランギニョル未来は祭儀なるものを現在に捉え返し、息を吹き込む試みを試みた、のでもあるか。「真の闇を知り、真の光を見る」ために・・ ただ、闇を見据えるには私たちの精神は脆い。物語性の補助があってどうにか、チラ見できる程度で。意味の解体とセットである所の不条理な死のストーリーは日常の精神回復機能の前で風化していく。(9/6修正)(10/5気まぐれに若干修正)
グランギニョル未来
相性が合わず途中退出。クラウドファンディングをされていたので、もしかしたら今後も継続されるのでしょうか。どういう風に変わっていくのか興味あり。
満足度★
観念的なやり取りに辟易。私には長い2時間でした。
イス席があまりなく、私を含め、客の大半は立ち見。
だが、残念ながら、足腰の疲れを忘れさせるほど魅惑的な作品とは言いがたく、荒んだ未来を舞台に「入口」と「出口」をめぐる観念的なやり取りが続いてワケが分からず、お話としての面白みはかなり稀薄。
美術評論家による脚本は、予測にたがわず、シナリオの素人による手すさびでしかなかった。
キャストには演奏家やホーミー歌唱家もいて、劇中でパフォーマンスも披露。
しかしお話が空疎なため“コラボレート”もへったくれもなく、劇からは独立したただのパフォーマンスにしか感じられない。
劇がほぼ脚本から解き放たれる終盤に至って、ようやく作品は精彩を放ち出すも、時すでに遅し、でした。
日航機の墜落事故を暗示する轟音など、音響に重きが置かれる本作ではただでさえ人声が聞き取りづらいのに、セリフをわざと間欠的に喋ったり、割れ声でがなったりするのにも不満。