寝巻きに、カフカを
身体にグサリと突き刺さる台詞。
「心臓、消化、」をエンドレスに放つキャスト。たかだか「肉体のパーツ」を言語化したに過ぎない。
しかし、こうしたリピートに胸が灼熱になり、ある種の拒絶感覚さえ覚える、そんなシーンであった。
公演場所のSTスポットは 演劇専用劇場=アクトシアターではなく、芸術空間=アートスペースに活用されてきたところだ。『宗教劇団ピャー!!』といった、世の中が退避してしまう演劇スタイルを採用する劇団からすれば、そのミニ・キャパシティは「鬼に金棒」である。
ttuは「文学前衛論」だと思った。
昆虫は いわざとなれば食用である。某芸人は「芋虫を食べた」らしいが、生態学的な「共生」を
クローズアップするなら、人類の命運を握っている存在だろう。
アインシュタインは「蜜蜂が絶滅したら人類は4年で滅ぶ」と分析した。
授粉の主たる媒介者がいなくなると、果実が実らない。種も土壌に育たず、広域の植物が衰退する。
動物、ヒトにも多大な影響が生じる生物サイクルについては小3の
子どもでも解るはずだ。
話は変わるが、私は高級果実・マスクメロンを生育したことがある。
ところが、「授粉」という原理を忘れてしまった結果、巨大マスクメロンは収穫できなかった。
ということは、逆に人口的にヒトが農家の役割を果たさなくとも、小粒マスクメロンは収穫できたのだ。
媒介者は もちろん「昆虫農家」である。昆虫はIT社会におけるサーバーのごとく、この地球上に羽ばたかなければならないプレイヤーなのだと実感した。
満足度★★★★
無題1104(14-142)
14:00の回(快晴)。13:42受付、13:45開場。舞台奥、ドア(木)枠、そこから客席手前まで赤い絨毯、丸電球が幾つも天井に、眺めると小さなミラーボールまである。13:59前説(90分)〜15:35終演、15:44〜山田さんのトーク〜15:55終了。
「カフカ」…「変身(1915)」しか読んでおらず、それさえもほとんど覚えていない。突然の変態はカネゴンみたいなものだったのか…。
当パンに「出典」として短編、日記や、劇中流れる「夢の中へ(←唯一知っていたのはこれ)」などの記載。
コラージュ、切片、再構成。
vol.1「海は、いま、このとき、あなたの、左手にある。(2011/12@ROCKET CAFE)」デュラスから観ていて、その後もメルヴィル、太宰、ビューヒナー、カフカ…と接点のない作家ばかりでしたが、着想、構想がとても興味深く、いつも観に来てしまいます。「ヴォイツェク」を読もうと全集を借りたら、「初稿1」から「再稿」まで5編あるうえに、本そのものが重く、通勤時間では難しい。
始めての劇場公演。いままでは、カフェ、何もないビルの一室、民家、理髪店2階…、予め他の目的のために用意された空間を異物である人(作者、演者、観客)と物語で造り変え埋めてゆく、そんな過程が面白かった。空想の物語のための空間ではなく、日々の営みのための空間であった所。
一旦。
満足度★★
夢の中へ
カフカの短編や日記をコラージュした作品ですが、一般にイメージされる不条理や皮肉といった要素があまり強く打ち出されていなくて、健康的な雰囲気が漂っていたのが新鮮でした。
眠りに誘う様な暗闇の中での台詞のリレーで始まり、明るくなってからは『掟の門』や『ある学会報告』、『判決』等がある時は演じられ、ある時は語られて展開しました。
特定の単語にアクセントを付けたり、間を空けたりする独特の台詞回しと、パントマイムやダンスによる身体表現が特徴的でしたが、動きに関してはテクストに対してそのまま過ぎて、もっとイメージの飛躍があっても良いと思いました。
意図してのことだとは思いますが、演技のスタイルや衣装が子供っぽくて、作品の内容にあまり合っていない様に感じられました。
チラシに描かれた『掟の門』の漫画、飛行機のフライトを想起させる受付スタッフの格好やアナウンス、薬の説明書を思わせる当日パンフレット等、上演以外の要素にも趣向を凝らしていたのは良かったのですが、様々な手法を用いた演出も含めて、それらが有機的に関連せず、作品としての強度に繋がらないもどかしさを覚えました。