我らがジョーク 公演情報 我らがジョーク」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 5.0
1-2件 / 2件中
  • どこか傍観者を装う演技

    まず、25分遅れて観劇したため、彼らの『我らがジョーク』の本質的完結に触れることができたかといえば、大いに疑問である。

    この舞台は大学演劇学科の稽古場と、キャンパスからの脱獄を図る二部構成だ。多摩美大が2時間の長編作品を上演すること自体、珍しい機会であるが、今回はストリートプレイを やや試みたのだろう。
    通常、年配男性に「理解できないな」とコメントされる彼らの作品は、幾何学的な台詞やダンスを多用する傾向がある。そうした過去公演と比べれば、『我らがジョーク』は演劇スタジオというリアリズムに則った空間設定、稽古中であるという話の筋はしっかりしているかもしれない。

    ただし、私は彼らが「ストリートプレイ」を追求せず、「多摩美らしさ」を隠せなかったことに対し、安堵している。


    25mほどの長い舞台空間に、数人の役者同士が「群」をなす。
    それは、演技中だろうと、休憩中だろうと、関係ない。
    “非常に自然な、現代の若者における内輪”のリアリズムを表現した「コミュニケーション」が、その片方の群れAで交わされる。当然ながら、もう一方の群Bでも交わされるわけだが、この「コミュニケーション」が互いに影響し合い、新たな展開を作り出すことはない。

    つまり、演劇スタジオなる確固たる空間設定がなされておきながらも、右と左では“異なる舞台が同時並行に、全く同一の目的を持ち進む”構成である。

    ネタバレBOX


    私は群れの人数について「数人」と記したが、孤立し、ホワイトボードに稽古成果を落書きする者もカウントされる。あるいは、時折、客席から顔を出す演出家も、その「数人」に含まれる可能性もある。


    こうしたコミュニケーションの断片化は、観客を混乱させ、ストーリーとしての道筋すら否定してしまう。


    それに比べれば、第二部の「脱獄コメディ」は、よりストーリープレイの要素があり、大衆に支持される演劇の基礎を有していた。
    劇団員が「アメリカのセックス・シンボル」マリリン・モンローへ変装する際、彼らはカーテンを開け、大鏡を出現させてしまった。
    そこで化粧を塗りたくる、「女優」と、中央の観客席が一つの
    板の上に「共演」している「画」は、前代未聞だろう。

    楽屋の女優と、本番中の観客が触れ合うことは、演出家が思いもよらなかった盲点だからである。


    このマリリン・モンローたちは、皆が ホワイトのスカートを着用し、時には観客の男性を挑発する。
    現代の日本の女子高校生も、マンホールから吹き上げる風圧を受けた時、「マリリン・モンローだ…ふあ」とおどける。この女性の知名度を示す逸話だ。


    しかし、多摩美大出身劇団である『宗教劇団ピャー!!!』に比べると、消極的演出だろう。
    一人の女性のみが、自らの腕とスカートを「釣り糸」方式により連動し、「マリリン・モンローのパロディ」を画策していた。ところが、彼女でさえ、ヒラヒラのパンツを履いていたのである。
    思い切りの良さが足りない。



    『我らがジョーク』を発表した彼らは、多摩美大の学長を名指しで批判し、「人間のごみくず」とまで罵った。床暖房の欠如、トイレの故障、機材を含めた施設の老朽化を、彼らはパンフレット紙面で嘆いている。


    しかし、最後の演説とも捉えることができる、「多摩美大批判」は、観客を不安と興奮の渦の当事者にした。
    60年代安保闘争以来の、“騒ぎ立てるレベルではないが、確かな、まっすぐの反発”だろう。


    米・ミシガン大学のロバート・アラン・ヘイバーは、1960年代「民主的社会を求める学生たち」( SDS)を結成した。
    『ミシガン・デイリー』の編集責任者を務め、彼の仲間と全世界に訴えたのが1968年「世代のための行動計画」=ポートヒューロン声明である。
    もちろん、人種差別撤廃を要求した“反抗者”だ。


    同時代、ジュリアン・ベックという演出家が、新しい演劇様式「リビングシアター」を生み出し、世界中を回った。
    「リビング」だからチケット要らず。終演後、観客が発する声は「戦争やめろ!」である。



    彼らはストーリープレイを志向していない。多摩美大学長には一刻も早く辞めてほしい。

    なら、問おう。


    「あなたがたは、若き演出家ジュリアンなのか?」
    と。
  • 満足度★★★★★

    アート引っ越しセンター
    「空間の使い方?どうでも良い!」という所に笑った。

    そうなんだよな、いくら表現の仕方が上手くなったってしょうがないんだよな。

    「暗喩の時代は終わった」

    若い人もそう思っててくれて嬉しい・。

    と言っても昔の学生運動とかセクト的なアレじゃなく、あくまで柔らかな表現で。

    途中退席が多かったのが、それぞれの観客のどういう意図だったのか分からないケド、
    けたたましい足音、扉の音に聞こえたのでそういうことなのかと自分は思った(苦笑

    個人的には今年入って一番好きかな。

    ネタバレBOX

    「この学校は何も教えてくれない」

    ってのに若いうちに気づいただけでもめっけものだと思う(笑

    演劇を見ていて思うのは、
    「学校」とか呼ばれる所、
    あるいは
    「演出家」と人から呼ばれる人たちは、
    役者・演出家には誰も何も教えてくれないのだな、ということ。

    以前、若手演出家コンクールを見ていて思ったのだけれど、
    審査員たちがビックリする位自分と同じことを考えていた。

    ・・そうだよな、散々ぱら舞台ばっか見ていれば、いい加減同じことに気づいて当然。

    ただ、それ以上にビックリしたのは、
    その老人たちの慈愛に満ちたように見えた端的な一言一言が、
    若手の演出家らには「厳しい」と捉えられたように感じられたこと。

    おそらくは、今まで優しく教えてくれた誰よりも
    親身なコトバを投げかけていて、
    もし自分が同じ立場ならば、
    唇をかみしめて自分の胸に一字一句刻んで一生忘れないに違いないと思ったのに。

    いくつかの審査員のエピソードを聞いた時点で、
    何人かの演出家に未来が無いことがたちどころに分かった。

    一生のうちに、本当に親身なコトバを投げかけられる機会は、驚くほど少ない。

    だからこそ、言葉を紡ぐ人たちは、
    そうした機会を一生の宝物にして全ての源泉にしなければならないように自分には感じられる。

    自分もあまり勉強する機会が無かったので学内の事情は推測するだけだったのだけれど、
    役者の掛け声に反応した観客の何人かの声、応援は、
    彼らの一生の宝モノになるのではないかと思った。

    この作品がどうの、というのでなく、
    この先の人生にその声がどんな役割を果たすのか、が、
    この作品の場合とても重要なのかな、と思った。

    最終日に行って良かった(笑

このページのQRコードです。

拡大