汚れた手 公演情報 汚れた手」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.5
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  • 満足度★★★★★

    目的のためなら手段を選ばないなら,それは,マクベスの血ぬられた手と同じ
    サルトルの『汚れた手』を観た。この話は,オルグの委員長と書記の対立を核心としている。組合の委員長は,暴走し,組合本部をあざむいて独自の路線にひきずりこむ。組合本部は,書記に委員長を説得させ,きかないなら殺害しても良いということになる。

    問題は,オルグの委員長は,結構汚いやり方で交渉をまとめ,これがむしろ正論なのだとゆずらない。このため,純粋な書記は,恋人を奪われたと感じた時点で,撃ち殺してしまう。ところが,その直後,組合の路線は見事に亡き委員長の予言した方向に進み始める。

    この作品は,書記の恋人が,政策論争を聴いているうちに,しろうとだったのに何か委員長の思想に魅了されていく点が見事に描かれていた。人のしあわせは,固定観念にとらわれるべきでなく,ある部分汚れた部分も乗り越えていくべきなのかもしれない。

    書記にとって,そのように,目的のためなら手段を選ばないなら,それは,マクベスの血ぬられた手と同じになる。くりかえし,くりかえし,暴力による殺害と,政権交代が起こるに過ぎないのだから。しかし,この作品では,むしろ,書記が敗北して終わる。

    サルトルの『汚れた手』は,素晴らしいものだった。このような有名な演劇では,観客にもすごい人が混じっている。踊る大捜査線のとぼけた署長役の人だった。プライベートな時間を邪魔してはいけない。でも,休憩時間でも,もう一度近くでひとりコーヒーを飲んでいた。

    さて,問題は,サルトル『汚れた手』だ。』六場3-4景を再確認しよう。

    君か,何の用だ。
    窓越しで,私は,あなたとユゴーの会話を聴いていた。あなたを,どうしても一人残していけなかった。愛しているの,私は,ユゴーが拳銃で,あなたを撃つのなら,それを私が身体をはって,阻止したい。
    君は,いつから,そんな気持ちを私に抱くようになったのかね。
    私はね,いつだって,夢の中で生きて来たのよ。
    でも,あなたに会って,本当に好きなものがわかったのよ。
    そうか,君は,私ならキスしても,笑い出さないのかな。試してみようか。

    そうか,おまえたちは,私ユゴーを,ずっと裏切っていたのか。
    黙れ,エドレル,おまえは,もう組合に抹殺されるのだ。
    ぼくの手は,震えてなんかいないぞ。
    やがて,新しい時代は来る。
    おまえのような日和見主義のやつには,未来はないのだ。
    エドレル,私は,ちゃんとお前の目を見て,発砲できるのだ。

    さて,この巧妙にできた作品は,一時,反共政策に利用される危惧があって,上演を停止されていたという。三時間の回想が終わるとともに,芝居も終わってしまう。

    ネタバレBOX

    サルトルの著作活動には,一貫した核はない。時代とともに,揺れ動いた,と長谷川宏は,『同時代人サルトル』の中で述べている。

    演劇人としては,唐十郎・菅孝行・津野海太郎も大きな影響を受けている。新劇に対する反逆!だった。日本における「戦後」が,そのイメージを膨らめた。サルトルは,1905年に生まれている。やがて,サルトルの人気は,レヴィ=ストロースに奪われていくことになる。

    サルトルの戯曲は,古典的である。サルトルは,雄弁が好きで,突発的な行為がある。おのれの生き方を,厳しく自問する登場人物が存在する。自由は安んじて,手に入れてはいけない。追いつめられ,苦悶してこそ獲得できるものなのだ。戦後には,そのようなサルトルが人気者となったのだ。

    サルトルは,党と大衆が,予定調和になる幻想に当初支配されていた。大衆というものは,政治のために生きてはいない。生活の中に,ときどき政治を生きるに過ぎない。近代社会は,著しく「知識」偏重である。1956年.10月,ハンガリー事件において,党と大衆の距離間に,深く幻滅してしまう。

    サルトルは,戯曲をとおして,自らの思想・観念を表現した。たとえば,『汚れた手』は,その良い例である。

    革命家たちが,たいへんな迫力で,路線について,口角泡を飛ばす。そのような緊迫した場面のあいだに,新米革命家の妻・ジェシカは,政治に無縁で,なぜかエロチックで,チャーミングな小娘だ。場違いなほど浮いたギャルは,少しずつ演劇に溶け込んでいく。夫ユーゴーが,エドレルを暗殺しようとしているからだ。

    この演劇の核は,ユーゴーが理想主義であるのに対し,エドレルは,多少汚い手段を使っても,大量殺戮などを回避できた方が賢明だとする対立に収束される。ユーゴーは,いわば子どもであって,エドレルは大人であった。小娘のジェシカは,次第に,政治にめざめ,大人であるエドレルに引かれていくのだ。
  • 満足度★★★★

    驚きの長さなのに、厭きなかった
    サルトルの芝居を観るのは、初めてだし、外国の革命や内戦事情などに、疎いので、理解できるだろうかと不安でしたが、人間の本質を深く抉った内容で、私にも共感できる普遍性があり、飽きずに観劇することができました。

    だけど、終わって時計を見たら、3時間40分近くの長い上演時間に改めて驚愕!

    正直、途中でウトウトしてしまった部分もありましたが、観て良かったと思える公演でした。

    主役のユゴー役の中西さんの台詞が、所々、明瞭に聞こえず、しばらくは、心が舞台に吸い寄せられずにいたのですが、エドレルが登場してからは、私も彼の言葉に感化され、説得力のある彼の台詞を通して、ユゴーやジェシカの気持ちが痛い程理解できて、心が痛くなったりもしました。

    サルトルって、相当凄い人なんだと、実感した舞台でした。

    ネタバレBOX

    宝塚のレビューでお目に掛るような、大階段だけのセット。

    でも、この空間を違和感なく、作品の世界に導く動きが随所に見えて、驚きました。

    具体的な革命の内容には精通していない私でも、普遍的な、革命の矛盾や、人間の思想のあやふやさが、きめ細かく描かれた芝居で、至る所で、共感できる瞬間がありました。

    人間は、思想や理念とは関わりなく、信頼に足る人物には、心惹かれてしまうという、心の襞が精密に描写されていて、ジェシカが、エドレルに惹かれて行く心情も痛い程わかるし、彼の暗殺を命じられたユゴーの苦悩と葛藤も、自分のことのように、胸に刺さりました。

    ユゴーが、エドレルを殺した理由を、時代の変化の中で、自ら許容できずに、殺されることを選ぶラストシーンは、大変納得できる場面でしたが、最後に、ユゴーが、階段を転げ落ちて来る部分は、蛇足だったような気もします。
    映画ではないので、どうしても、役者さんが、怪我しないように、自らを庇うような動きが見え、ラストの衝撃を持続させないようで、とても残念に思いました。

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