寂しさにまつわる宴会 公演情報 寂しさにまつわる宴会」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 5.0
1-1件 / 1件中
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    寂しいからなのかな、とふと思う。私がなんでも多めにしてしまうのは、寂しいからなのかなと思う。
    買わなくていい量の日用品を買う時。
    作らなくていい量の料理をつくる時。
    どんな文章もつい長くなってしまう時。
    演劇を観るのも、映画を観るのも、本を読むのも、音楽を聴くのも、お酒を飲むのも、銭湯に行くのも、セックスをするのも、結婚や妊娠や出産ですら、そして文章を書くのだって、私が好んでやっていることは全部全部、本当は寂しいからなんじゃないかな、と思うことが結構、というか、いつもあって。だけど、その生活や仕事や芸術や性交のどれをしたって結局全く寂しくない気持ちにはならなくて。
    そのとき、私にとって「寂しさ」という穴は終わりのある窪みではなく、どこか果てしない場所に繋がっている四次元ポケットみたいなもののように思うのだけれど、この演劇によって一瞬そんな宇宙のような場所で何かに繋がった気がした。

    projectumï『寂しさにまつわる宴会』
    私はこれをわりと覚悟して、そして必ずという強い気持ちで観にいった。

    この演劇を観ている間もやっぱり私は寂しかったのだけれど、少しだけ、わずか一瞬だったけど全く寂しくない瞬間があって、そのときに、そのときにこそ私の身体は涙を流した。それは果てしのない場所から届くサインみたいだった。お人形遊びをしている子どもとお人形のように、私という人間を上から見て、操っている何かがいて、その何かと目が合ったような、あるいはその何かと決別するみたいな。たとえるならそんな感覚で。

    それは、理屈じゃどうこう説明できないもので、でもたまに日常生活でもある。
    その人にしか言えない言葉を伝えたり、伝えられたとき。
    その人にしか見せられない姿になったり、なられたりするとき。
    そして、その人としか見られない景色を二人だけで見たような気がするとき。
    それは手紙のような文章を書いているときや、自らの意思で熱望したセックスをしているとき、真夜中の散歩で朝や昼とは全く違う顔をした駅や店や公園に辿り着くときとも言えるのかもしれないけれど、解像度を上げるとそうじゃなくて「触れられたところのない場所に触れ、触れられる」ということなんだとなんとなく思う。

    これまで宝塚という大きな舞台を手がける中で、いわゆる「推し活」についても、もっと言うならばこの国の産業としてのスターシステム、資本主義としての芸術、そしてそこに生じる諸問題を間近で見てきた上田久美子さんがその側面(それもどちらかというとネガティブな)を描く、という点において様々な感想が寄せられていることもなんとなく知っていたし、ストーリーにおいてなされるあらゆる視点からの議論についても理解はできた。
    でも、正直なところ、私にとっては、そういったストーリーやその設えよりも、この演劇のそこかしこに隙間なく配合される「寂しさ」が胸に迫った。
    (続きはネタバレBOXへ)

    ネタバレBOX

    『寂しさにまつわる宴会』は、大衆演劇を舞台に、その俳優とその俳優の推し活をする観客の、言葉を選ばずにいうならば、売れない俳優とそのヤバいファンを巡る物語だった。
    工場勤務から帰宅しては夜毎ゲームの課金によってお金と時間を溶かしていたある一人の人間が、ひょんなことから大衆演劇の劇場に辿り着き、数回目の観劇で自身の存在に気づき声をかけてくれた俳優、ほとんどセリフの持たないその俳優に熱をあげていく、という話だった。そして、その熱の出力は日に日に暴走し、周囲のファンや劇団にとっては迷惑客として出禁となり、それによって俳優もまた劇団を追われることになる、という話だった。

    劇団を出禁になったファンと劇団を追放された俳優。一見決して交わらなさそうな二人の人間が、歪んだ執着と無気力によって奇妙な共存関係を築き、その行き場のなさからやはり奇妙な同居生活を始め、やがて家をも無くし、路上生活者となる。そうして、灼熱の太陽の下で互いを刺し合い、文字通り体ごとアスファルトに溶けるように一つになる、姿や形、内臓すらもどちらがどちらなのか分からなくなるように一体化していく、といったラストは圧巻だった。
    何が圧巻って、やっぱり俳優が体現する、いや再現する「寂しさ」が圧巻だった。
    一人で生まれて、一人で死んでいくしかない人間の孤独、その穴は結局埋めようのないものなのだという真理と、しかし一瞬でも他者と一体になれたと思うこと、それを希求してしまうことによって、やはり一瞬、その穴は果てしのない場所に繋がる。たとえ思い上がりでも、傲慢でも繋がったような気がする、してしまうという体感。それが殺人(やあるいはそのような行為)であることはもちろん倫理的に良いわけが断じてないのだけど、そういった狂気のような寂しさを抱えている人間の姿に私は恐ろしくもたしかに共感をしてしまったのだと思う。
    もう少し踏み込んで言うと、それが私の場合は、(この物語における)推し活や殺人(やあるいはそのような行為)でないだけなのではないかと思った。
    買わなくていい量の日用品を買う時、
    作らなくていい量の料理をつくる時、
    どんな文章もつい長くなってしまう時、
    人と一緒に大きなお風呂に入る時、異常な頻度で芸術を見たり、お酒を飲んだり、セックスをしたり、結婚や妊娠や出産ですら、そして文章を書くのだって、私が好んでやっていることの全部と根本的には変わらないのではないかと思った。

    ちなみに、この「宴会」は「余興」と定義されていて、「物語をぶっ通しで上演する」という形をとっておらず、合間に上田さんによる語りや、観客参加型のアンケートなどがとられる形式になっていた。
    その中で、「会場の寂しさ指数を測定する」という試みがあった。それは、観客がどのくらい「寂しさ」を感じているのかを音で測る、というもので、寂しさを感じない、時々感じる、いつも感じる、無回答の4つから自身の自認に合うものの時にひとつ手を叩く、というものだった。
    プライバシー保護の観点から観客は目を閉じてそれを行うのだけど、私の観劇した回で私が感じる限り「寂しさをいつも感じる」という項目で手を叩いた人間は一人だった。一人分の音だった。
    重なる音を感知しなかったのが私の勘違いでなければ、それは私一人だった。
    宴会場にパチン、と響いたその音を私は他のどれよりも大きな音に感じて、とても寂しかった。
    そして、自分の中にある「寂しさ」がはじめて具現化された瞬間であるようにも感じた。
    目的に沿って綺麗に整えられた劇場ではなく、生活とあまりに密接な銭湯、その宴会場という雑多な場所であるからこそその体感は余計に生々しいものに思えた。

    私にはこの作品を良いとか悪いとか、よくできているとかそうじゃないとか、そういうことでは語れない。だけど、こういう言い方がふさわしいかは分からないけど、芥川賞の候補作や受賞作のような純文学を読み終えたような感触がいつまでも残った。(念のためですが、芥川賞という「権威」に準えたくてそう例えたのではなく、私は毎年その候補作を全て読むという楽しみを恒例としており、あくまで芸術における「好み」という点で私の中で同じ引き出しに入った、という意味です)

    私にとって、この作品は見たことのない演劇であると同時に、文学でもあった。
    演劇においては、舞台上で見たその風景を記憶をたぐり寄せ反芻することができるけれど、文学においてはそれを自分の想像で補ったり、彩っていく。そのことによって、特定の風景だけではない、いくつも風景が身体の中で発生し、熱さられ、やがて揮発し、私の身体を循環する空気になる。そういう感触があった。だから、到底忘れられるはずがないというか、取り込んでしまったという感覚が最も近かった。
    そして、大きなショックとともにそのことを喜ぶ心身があった。
    それはまるで、灼熱の太陽の下で、誰かと一つになれたように。

    私が涙したのは、三河家諒さんが『愛燦燦』を、「人は哀しい、哀しいものですね」と歌ったとき。竹中香子さんが「怒り」に変換された底知れぬ「寂しさ」を全身にまとって、そこに立っていたとき。そして、上田久美子さんが自身の言葉と語りで「寂しさ」を開示された(ように感じた)ときだった。
    そのとき少しだけ私の中を循環する計り知れない「寂しさ」が救われた気がした。
    宇宙のような果てしのない場所で一瞬何かに繋がった気がした。
    触れられたところのない場所に触れ、触れられた気がした。
    そして、その後もやっぱり私は猛烈に寂しかった。温泉とお酒と焼きそばの、自分の好きな匂いが混ざり合う宴会場で、愛する演劇を観て、とても寂しかった。
    人は哀しいもので、かよわいもので、かわいいもので、人生は不思議なもので、嬉しいもので、私はやっぱり独りなのだなと、そう思った。
    今日も今日とてまた文章は長くなった。
    私は今も寂しいのだと、心からそう思う。

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