ゴツプロ!第九回公演『無頼の女房』 公演情報 ゴツプロ!第九回公演『無頼の女房』」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.2
1-6件 / 6件中
  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    昔の文豪ってぶっ飛んでますよねぇ

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

     舞台美術も、脚本、演出、演技、照明、音響何れをとっても高い質を持った舞台だが、余りにもカッチリ組み立て過ぎず、適度な“あそび”を持たせた舞台である点がグー。

    ネタバレBOX

     言って見れば「Le Pèse-nerfs」邦題「神経の秤」を書いて最後は精神病棟で息絶えたA.ARTAUDのような、腺病質な迄に繊細な感性を持った無頼派作家を代表する太宰(役名・豊臣)と安吾(役名・塚口)、二人をモデルとした作家を中心に同じく作家業を営む二人の友人文士(役名・谷)、編集者等が出入りする塚口の家を舞台に物語は展開する。時代設定は1948年。敗戦後の1946年には戦中の配給制度が崩れた為、食糧を始めとする必要不可欠な物資が都市部では殊に入手困難という事情があった。とはいえ、かつての臣民は国民と名が変わり、アメリカを中心とした占領軍の価値観に合わせて戦争中に奉じた自らの価値観、行動には蓋をして懸命に生きることを口実にシレっとしていた大多数の大人たちが自らの倫理感を自問することは実に稀であった。それらに反抗し闇市等で幅を利かせた特高帰り、組織力と若い衆の力を動員することのできたヤクザが基本的には仕切る闇市で、それこそ生き残る為に使い走りをする戦災孤児の群れ。カストリが酒の代名詞で在り得、メチルアルコールを用いた粗悪品で目の潰れる者も多かった時代に文字に飢えた人々にカストリ雑誌が飛ぶように売れた時代でもあった。戦争中、特攻による死の恐怖を誤魔化す為に用いられた覚醒剤・通称ヒロポンが流行したのも日本政府が1956年に至る迄法に拠って禁止できなかった背景にも軍が用いていた歴史的事実があった。実際1956年迄覚醒剤はヒロポンという名称で売られ薬局で買うことができたのである。
     こんな時代に若く才能溢れる2人の作家が、戦中・戦後で全く反転してしまった世相と倫理に悩み抜いた果てに自らの精神の平衡を保とうと酒やヤクに頼らざるを得なかった心情と命を賭けたその執筆のパッションには実に深く我らに訴えるもの・ことがあり、その内実が二人のライバル(塚口VS豊臣)の文学談義や各々の念う女性達の反応によって対比されると同時に三人の作家陣、編集者陣というインテリ集団に対するお手伝いさん・多喜子の庶民的価値観、その夫で長崎できのこ雲を見て以来恐らくはぶらぶら病に罹ってそれ迄の働きぶりが嘘のように変わってだらだら過ごすようになり乍ら尚且つ経験の無い文章を書くことにだけは強い欲求を示し而も文字は下手で読みずらいが内容は実に二人の一流作家に互し、而も当時原因が分からずぶらぶら病と呼ばれた被爆者特有の体調悪化で社会的弱者になっていた対照的な視点から実直で不器用極まる庶民の一途な念を凝縮するような力を持つ詩的な文章を提示することで、ここでも演劇的対比のダイナムイムズを見事に溶け合わせている。
     今作の脚本ではこのように深刻な時代状況は表に出されず、観客の持つ知性や感性に評価は委ねられているので、何処まで作品を味わい尽くせるかは観客次第だが、兎に角余り時代背景が分からずに観る観客をも惹きつけ笑いを振りまくキャラとして登場する人物が書生・石原の存在だ。無論彼の役回りは深刻極まる内実を脱臼させる点にある。このアクションが今作をがんじがらめにする可能性のある物語の余りにもカッチリした作り、即ち予測のし易さをも拍子抜けさせてくれるのである。文頭部分でも述べた通り、役者さんの演技も皆さん極めて質の高いものだが、塚口等の治療で活躍する医師・芝山先生役に味のある演技の剣持 直明さんが居るのが嬉しい。
     今作は、上述した時代背景には一切触れていない。また観る者の解釈が尊重されるのは当然のことである。然し乍ら、この作品のように実在したそれも未だに読み継がれる普遍性を持つ作家の作品の背景を為した生き様をベースにした演劇作品を少しでも深く知る為には以上簡単に整理した事情程度の知識を具えていた方が遥かに作品の本質に迫ることができよう。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    いや~見事な舞台ですね。グッときました。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    昭和23年の日本、武骨で破天荒な男達
    作家だから、というエクスキューズがあったとしても現代の作家さんはもうちょっとスマートに生きているのではないかと
    それでも強烈な生き方に惹きつけられるが故に実在した作家さんを描いた作品には名作が多く、本作も唯一無二の傑作
    熱い血の流れる演技をされるゴツプロさんと脚本との相性がとても良かった

    笑いに溢れた舞台であったけれど、皆が必死に生きている姿そのものであり決してコメディー的な笑いでは無い事がポイント
    作家たちの壮絶な生き様に加えて腰の低い編集者たちも中々の狸
    とても一般人が入り込める隙などないのだけれど、どうにも惹きつけられる男達、女達
    そう!3名の女優さんが出演されていますが三者三様の立場で凄く良い味が滲み出ていて作品に何とも言えない深みが
    ずっと受け継がれた伝統料理みたいに日本人に合った味覚で心に深く染み込み、後に複雑な苦味が広がる大人の舞台でした

  • 実演鑑賞

    登場人物が誰がモデルだか分かれば、もっと楽しめたんだろうなあ。

    ネタバレBOX

    中原中也はわかる。
    豊臣は太宰治がモデルか?
    持っているイメージとかなり違うけど。
    あとは分からないなあ。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    ゴツプロ!二度目。中島淳彦作品も実質二作目。先般拝見した中島作品と同じく、歴史人物を題材に物した脚本。その前作(昭和の女性漫画家たちの群像劇)がかなり上出来であったので比べてしまうが、中島淳彦世界を堪能。良い。
    スズナリ10回行ってやっと1回程度(いやもっと少ないか)の本多劇場。余裕あるステージには日本家屋の広い居間(美術:田中敏恵)が古い木造家屋の濃い茶系で落ち着きがある。最奥に廊下がわたっているらしく、全面窓から緑の庭が見え、その上手寄りに庭へ出る扉、さらに上手袖はその先に部屋々々があるらしい。上手側面の壁には戸付きの棚、それを正面に見た右側(舞台前面)へ消える通路もはけ道。下手手前から袖へ玄関、そこからまっすぐ舞台奥の上方へ、二階へ上がる階段。作家の書斎に至る。
    五つの出入り通路を頻繁に行き交う動的な舞台である。見れば演出が青山勝。道学先生の作・演コンビの舞台は拝めないと思っていた(故人の作を再び青山氏が演出する事もあり得た訳だ)。その主要メンバー・かんのひとみの水を得た魚の如き存在感も初めて目にした。一挙手一投足が、美味しい。
    他俳優も特色ある存在感で役柄を演じ分け、質が高い。改めて見たゴツプロのサイトにて、所属俳優がある旨を知り、この劇団のネームが入った公演チラシを目にする頻度が高い理由も理解。
    ゴツプロ!を初めて観た舞台も別の作・演出だったが、所謂<レベル高め>?な俳優集団が傾きがちな甘めウェルメイドに堕ちず、味付け辛めで好感触。その線は今回も裏切らずであった。

    無頼派、と言えば二名の小説家を知るのみだが、事実は小説より○○の世界がそこにあり、作者が魅惑され、見つめたのだろうその眼差しに同期し、なぞって行く舞台。

    ネタバレBOX

    坂口安吾をもじった塚口圭吾をゴツプロ主宰の塚原氏が演じるが、豪胆、繊細、純な気質と、既に病魔に冒され狂気と背中合せの奇人振りをボサボサ髪で好演(ちょっと二枚目過ぎで時折「地」が出てしまうのは言っても仕方の無い所)。
    前回の作と同様、坂口安吾という人の実体と本作とのディテールの差(史実をどう「翻案」したのか)への関心から少し調べてみて、自分の知らなかったこの文学者への興味を焚き付けられた。劇中「豊臣」(おさむ)として登場する人物が太宰治であるのは説明不要であったが、後一名「谷」として登場する面倒見の良い文学者、一文字なら「檀一雄」?と当て推量したが、史実でも深い交流があったらしい(逼迫した晩年は宅へ身を寄せている)。三名の編集者たち、出入りする女中の旦那(軍隊帰り)、面倒を見ている遠縁の変わり者の男をゴツプロ俳優が固め、他に書生、豊臣、彼が連れて来るかつて坂口、というか塚口が「純愛」の相手と自分の小説にも書いて憚らなかった女性、そして主役の塚口の妻が客演。史実上の人物と符合するのがこの女性と、太宰(豊臣)、他の人物らは不明(調べれば出て来るかもだが)。塚口の「奇行」としてドラマを彩っているのが「二階から飛び降りる」、その度に女中(かんの)と書生が布団を出して庭へ飛び出す。必ず「宣言」してから飛ぶ。煮詰まった時ばかりでなく、喜ばしい出来事があったと聞いても、飛ぶ。これが作者の「翻案」だとすれば、よく発案したものだ。
    一点、物語の核である妻(史実では三千代)の描写が、前宣伝の文句から期待されるものとは違う。(妻がある時思い定めて態度を変えてから夫=塚口の生き方も変って行く、的な説明書きがあり、どう見てもこれは不要であった。いつその「瞬間」が来るのかと、私は待ちながら観ていた。まあ芝居は面白かったから良いが、核である妻はタイトルにはなっているものの、舞台から受け止めたのは一文学者と結ばれるも孤独にさいなまれる事となった彼女は、夫へを「眼差す人」であり、それ以上ではない。作者はもっと踏み込んだ人物像を想定して書いたのだろうか。(そうかも知れない。)
    もっと的確な表現がありそうだが、まだ不分明でこういう言葉にしかならない。

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