実演鑑賞
満足度★★★★★
劇場に着いて上演時間を確認。三時間。おっと。次の予定は断念し、今日はこれ一本と腹を決めて観劇に臨んだ。
大作となるのも分かる大テーマ。1980年代に起きた中国での薬害問題(事件)を、血液製剤を作る科学者たちと、貧困脱却のため売血が隆盛となった河南省の農民の両側から描く(両者の接点はある)。
中国?と訝る向きもあろうし自分もその一人だったが、この戯曲を書いた女性作家は名前に中国系が入り、米国に生まれてから生育期に台北、沖縄、北京と居所を転々としている。中国で起きた血液製剤を介してのHIV感染(日本でもあったが同じ構図)と闘った実在の女性研究者を題材にこの作品は書かれ、英国で2019年初演、日本での今公演が二回目だという。
人間が描かれている。前方の列で間近に観たせいもあるか、人物のかすかな表情の揺れも見えた。「エイズは西欧の病気だ」と言い放ち、「血液収集のスピードをこれまでの三倍で」との外国製薬企業が提示した条件を飲んで契約をした「兄」。他に先を越されたくなかった彼は、同じ研究者でもある弟のその妻(清水直子)に、新設する血液センターの所長に就くよう懇願する。最終的ここでの無理が、安全後回し・効率優先の処置・管理を招き、やがて薬害への道をたどっていく。
彼女の夫は平穏な家庭生活を望み、彼女は科学者としての正義を望む。冒頭の場面は仲の良い弟夫婦の宅に、兄が若い新人研究員(女性)を連れてくる楽しい場面。明るい前途を信じる彼らの間では、ユーモアの滲む会話が弾む。そこからボタンが一つ一つ、掛け違って行く過程が描かれていく。
彼らが住む都会の場面が舞台の平場で描かれると、今度は舞台上を横断する大きな台の上で、二役を担う俳優が、農民たちの生活場面を演じる。鉱山労働の期間を終えて兄弟が戻ってきた故郷では、貧困にあっても明るさを忘れない彼らの暮らしがあるが(その明るさの大きな要素として次世代への期待がある)、その暮らしにも少しずつ、影が落ちる。
抽象的な舞台(美術)と具体性の高い台詞劇の対照が緊張をもたらし、異化され通しなのだが、人物たちの真情が芝居を膨らませていく。
「告発」に向かう妻に「君が居なくなったら何にもならない」とあくまで引き留めようとする夫が、彼女の思いを理解し送り出す場面。だが結果的に彼女は当局に捕えられ、夫も捕まりスンでの所で命を残される。数ヶ月の実刑を被るのは兄。その妻となったかの若い研究者は、夫と共に地獄への道をひたすら進んで行く。
この件があって「もう自分にやれる事はない(やれる事は全てやった)」と観念した妻は、かつて献血(売血)の現場での事故に立ち会った農民の家族と出会い、エイズを発症した彼らの置かれた現実を知る。そして再び「告発」へと踏み出す。そして決定的な決別の時が来る。家族を愛しながらももっと大きなもののために踏み出す彼女の穏やかな表情、夫に対する失望を悔しさと共に吐き出され、何も言葉が出ない夫。パンフによれば、作者の父がこの題材を彼女に提供したと言う。父はかつてこの女性と同じ職場にいた事があり、彼女は救国の徒=ジャンヌダルクのように言われていたという。
貧困から抜け出すため(それは家族の誰か=子どもたちのためでもある)売血を選んだ家族(河南省では多くの人間がこれで収入を得る事となった)は、妻を亡くした長兄の一人娘を除き、皆売血をした。長兄も最初拒んでいたが、娘のために信念を曲げた。次兄夫婦とその息子、遠方の姉とその息子、祖父たちは、場面が変わるたびに体の各所に少しずつ、斑点を持ち始める。息子にもそれが出た。娘は大学に合格する。深い事情を知らない娘に、父親は絶望の中の希望に語り掛ける。お前はこれから沢山を学ばなければならん、だから帰って来るな、いいか前だけを見ろ、どこまでも自分の道を行け。
報われない死と対峙する者、一縷の望みを託す者、そして託された者、人の命が辿るシンプルな形が、真情が、胸を打つ。
実演鑑賞
満足度★★★★
珍しく現代中国の地方(河南省)を舞台とした社会問題劇である。となると、現・中国で中国語で書かれるはずも。上演されるわけもなく、れっきとした英語でかかれたイギリスの芝居である。独裁国家のもとにあっては、かの地の生活の現実は知る由もなく、わずかにその地に地縁血縁のある作者によりこのような演劇が上演されるのは貴重な例と言っていいだろう。
1990年ごろまで、中国は文化革命による社会の混乱、保守化によってことに農村部は疲弊していた。そんな河南省の農村の兄弟は老父を抱え、ようやく生産性の低い馬鈴薯の栽培から花卉栽培に移行しようとしていたが、兄はさらに鄧小平の唱える、開放施策に乗って新しい仕事に挑もうとしていた。地を這うような農業を離れ、農民たちの売血センターを作り、そこから取り出す血漿を販売しようという計画である。計画は順調に進むが、センターの看護婦の知識の未熟から売血時の事故にあった弟は会社からの賠償金で生きるようになり、兄は専門家の研究者を妻にして会社を支配することになる。
つまりは、農民たちは農業労働で搾り取られる状態から直接自らの血液を売って、安楽な暮らすことになったのだ。しかし性急な施策は未成熟の医療環境もあって、売血によって感染が広まるHIVの感染を広げることになる。しかし、農民たちは一度味わった安逸な生活を捨てられないし、売血の商売を知った施政者たちはそれで生き続けようとする。(95年ごろ)ドラマの主人公たちの家族もまた、それぞれの自らの利益の思惑で分裂していく。幸せは、生命か、金か。
デュレンマットが1950年代に書いた「貴婦人の来訪」と同じテーマが、ここでも問われる。自らの欲望によって背負わされた重荷を持つ人々は破滅が待つ閻魔の王宮に引き出される。2004年には、中国の調査で3万人弱、海外のNGOの調査によれば50万人以上にお感染者がいるという。現状はよくわからない。
三つに分かれ、自在に移動できる円形の三つの一メール半ほどの高い平台とその前に置かれた机と数客の椅子だけの舞台で、破滅に向かう農民兄弟の家族の多くのシーンがほとんど直結でテンポよくつながれていく。中国で起きた事件の経緯は、情報封鎖されている国のことだから、ドラマとして知るだけなのだが、いかにもありそうな話、と感じるのは、日本でも売血によるこのような感染事故(B型肝炎事故)はあったからだ。
現に大きなコロナの感染があり、ドラマのような人為的な犯罪事件もあれば、人知が及ばないための事故もある。そのたびに、このように人間の知恵は良かれとも、悪知恵にも働いていくものだと、改めて知ることになる。これはまさにそういう警告のドラマである。日本人が知らない中国の人間家族関係は少し特殊でなじみがなく、そこは翻訳物ではあるが、もう少し整理してわかりよくしてもよいのではないかと思った。その点では、演出の真鍋卓嗣はこのところ腕を上げてきているのだから。
実演鑑賞
満足度★★★
今作で描かれるのは日本で言うところの「薬害エイズ事件」。1980年代、厚生省と製薬企業5社は血友病患者に対し、ウイルスを加熱処理で不活性化していない非加熱製剤を流通させ、全血友病患者の4割をHIVに感染させた。製造元のミドリ十字は危険性が問題視されていたにも関わらず、在庫処理の為黙って捌き続けた。
1993年頃から1996年頃まで中国河南省(かなんしょう)政府が血液売買を奨励。同じ針を使い回し、血漿成分以外を体内に戻す際、複数人の血液を混ぜたものを使った。河南省の58郡において各平均2万人の農民が売血し、100万人近くがHIV感染。未だに住民の7割が感染して「エイズ村」と呼ばれる地域は数多い。そして残された100万人近くの「エイズ孤児」。
トンネルをイメージしたセット、三基の並べられた長机が道となっている。中央の長机は回転可動式。地獄へと続く地下鉄の線路内のイメージか。映画『エンゼル・ハート』では鉄の檻のような古めかしいエレベーターで地獄堕ちを表現していた。
目当ての清水直子さんはクライマックスで見せ場が待っている。地獄そのものの現実の中で、最後まで「なりたかった自分」になろうと藻掻く。地獄に光を照らす為に、自らを犠牲にする。「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」というカトリックの神父の言葉を思い出した。
滝佑里さんは久我美子を思わせる昭和美人。寅さんのマドンナなんか似合いそう。清楚で品格のある彼女が地獄に堕ちてゆく様が見所。
果たして幸せとは何なのか?カポジ肉腫の斑点が身体中を埋め尽くす。死を前に人は家族の幸福を願う。せめてお前だけでも幸せに生きてくれ。自分を犠牲にしてでも灯したい“希望”、それだけでも己の人生に何某かの意味があったのだと信じたかった人々の話。
実演鑑賞
満足度★★★★
舞台の上で演じられると言うより、舞台の上に置かれた長テーブルの上で演じられ(時々下に降りるが)、しかもその長テーブルの真ん中の部分が廻り舞台になっているという変わった演出。同じ俳優が2役演じるので、それがわかっていないと最初は混乱するかもしれない。ストーリーはまあまあ面白い。鄧小平時代の中国が物語の舞台として設定されているのもなにか象徴的な意味合いが感じられる。