原野のささめき 公演情報 原野のささめき」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.5
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  • 満足度★★★★

    死者たちの儀式
    オペラと題されていますが、歌手は歌詞のある歌はほとんど歌わず、テキストは録音された台詞と字幕で出されるという特殊な上演形態の作品でした。

    物語は断片的に提示され、明確には表現されないのですが、父を訪ねて行った土地で死者たちのこだまを聞くという内容で、孤独感や倦怠感を強く感じさせるものでした。

    奏者もただ演奏するだけでなく、役が割り当てられていてボディペインティングとボロボロの衣装を纏い、客席内に入ってきて演奏することもあり、舞台を観ているというよりかは儀式に参加しているような感じでした。

    ギターやコントラバスは普通に演奏されることはなく擦ったり叩いたりしてパーカッションと共にノイズを奏で、荒涼とした雰囲気をかもし出していました。
    トロンボーンは権力者の役を担っていて、それにふさわしい破壊的でかつ滑稽な響きが、この作品の中で唯一活動的であるのが印象的でした。

    田中泯さんの死の苦しみを表すようなダンスと子供たちのイノセントな佇まいの対比が美しかったです。

    音楽的には新鮮でかつ心のに突き刺さる繊細な音響構成(いわゆる「音楽」とは全然異なるタイプの音です)で素晴らしかったのですが、劇作品として観ると弱く感じました。今回は作曲家自身の演出だったのですが、他の演出家によるプロダクションを観てみたいです。

  • 満足度★★★★★

    音の渦。死と死者と、生者のためのオペラ。
    スパイラルホールという会場、そして演奏の編成からも考えて、いわゆる、朗々と歌い上げるオペラではないと思っていたら、やはりそうだった。
    四方のスピーカーから音が渦巻くステージ。
    素晴らしい組曲とそのライブ。

    ネタバレBOX

    ストーリーは説明文にあるとおり。
    物語は、ボソボソとしたモノローグと会話によって紡がれていく。また、字幕だけのシーンさえある。「歌」が直接的に物語を語るわけではない(台詞という点において)。

    「歌」は、死者と生者の「嘆き」と「唸り」であり、それらが観客を延々取り巻く。そしてそれが物語である。しかし、ストーリーを追う物語ではない。

    メキシコには有名な「死者の日」という祭りがある。骸骨の衣装を着たり、骸骨の飾り付けがされたりする。「死」や「死者」との距離がそういうお国柄ということもあるとは思う。
    「死者」が「生者」と紙一重にいて、その差が微妙な関係にある。
    「家」のイメージである扉が徐々に降りてきて、窓に蓋がされ「棺」となる。この感覚なのだろう。

    全体的に暗く、緊張感が漂う。演奏家たちも自由に舞台と客席の間を動く。麦の束を持って、風の音を執拗に鳴らす、あるいは、シューシューと口から息を吐く音を響かせたりもする。コントラバスやいろいろなモノが立てる「音」が美しい。音響の強弱と繊細さが見事であり、また、四方から聞こえてくる音も精緻に組み立てられていた。

    「死」もしくは「死者」の組曲と言っていいだろう。それをライブで演奏しているのだ。
    トロンボーンは、その楽器自体の輝きとともに生命を鳴らしていた。石川高さんの笙は、あるときは風であり、あるときは宗教であった。

    田中泯さんは死の気配を振り撒き、独舞では壮大さすら感じた。

    濃密な100分であったと言っていいと思う。
    ただし、現代音楽が苦手な人には100分の苦行であったかもしれない。

    もっとも、この内容のチラシ等を見て、いわゆる朗々と歌い上げるオペラを想像して来た観客はわずかではないだろうか。なんと言っても会場が、スパイラルホールであるわけだし。

    一点だけ気になったのは、数人の少女たちが出てくることだ。他の出演者が指の先まで、意味として観客に晒している(演奏者も歌い手も踊り手もすべて)のにもかかわらず、彼女たちの緊張感のなさは、全体を弛ませてしまっていた。
    イノセントなアイコンとして(天使的)の活用だったのだろうと思われるが、歩き方も不安げで、表情もシーンごとに定まらず、さまざますぎていた。きちんと意味と理由を説明して演出していたのだろうか、とちょっと思った。あるいは、それを含めての演出なのかもしれないのだが。

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