CoRich舞台芸術アワード!2021

「『砂の女』」への投票一覧

1-3件 / 3件中

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投票者 もらったコメント
はみ~にょはみ~にょ(1099)

4位に投票

実演鑑賞

わぁ怖い。恐ろしい。いつの時代にもあるであろう閉塞感。舞台全体がいや、客席までも砂まみれな体感を感じてしまった。あぁ、ねっとりだわ。

ガチャピンガチャピン(492)

3位に投票

実演鑑賞

観てきました。 現実的じゃない設定で、気軽に楽しめるタイプの芝居ではない。プロジェクションマッピングなどの演出は、さすがケラさん。とにかく仲村トオルさんが良い☆

旗森旗森(728)

8位に投票

実演鑑賞

かって親しんだ世界をいま、目前に見て、それに勝る興奮を感じられるか、そこが、古典を再演する肝だろう。「砂の女」(1962)は日本の戦後文学の里程標となった作品、作者自身の脚本による映画(1964・勅使河原宏監督)もまた、世界的な評価を得た。その後、芝居にもなったようだが、草月ホールで見たような、見なかったような。それから六十年。
今回はケラリーノサンドロヴィッチによる舞台化である。
『鳥のように、飛び立ちたいと願う自由もあれば、巣ごもって、誰からも邪魔されまいと願う自由もある。飛砂におそわれ、埋もれていく、ある貧しい海辺の村にとらえられた一人の男が、村の女と、砂掻きの仕事から、いかにして脱出をなしえたか――色も、匂いもない、砂との闘いを通じて、その二つの自由の関係を追求してみたのが、この作品である。砂を舐めてみなければ、おそらく希望の味も分るまい。』というのは安部公房自身の言葉だ。このシンプルな構造の中で、作者は戦後日本の課題を二人の男女に託して描いたわけだが、それを世紀を超えた今、舞台で見るとどうか。
コロナ禍で、全国に「非常事態」が拡がろうかという酷暑のなかのでトラムの公演は、観客の肌にも砂がこびりついてくるような迫力のある舞台だった。古典を今に生かしたケラの力量は大したものだ。それは、丁寧に追われる原作のストーリーの功績よりも、脚本・演出家の舞台あらではの工夫がこの成功につながっている。この欄で言えば、筋は原作で周知なのだから、いまさら「ネタばれ」でもあるまい。舞台に積み上げられたその細かい演劇ならではのネタが見事な舞台だった。
観客は老若男女取り混ぜた芝居好きで満席だった。舞台の上も下も芝居好きが集まった一夜の愉しみがここにあった。コロナの憂さも晴れようというものである。..少し長くて十五分の休憩をはさんで二時間五十分。..











そのネタバレから行けば、まず、場面設定。昭和二年生まれの男が昭和三十年に僻村で砂の穴に落ちる。
舞台は砂に囲まれた崩れ落ちそうな家の一杯セット。周囲が砂の高い壁に囲まれていて、村人たちはその上から縄梯子をかけて上り下りする。褐色で統一された家には、無色のマッピングで時に砂が滑り落ちる。原作の時代設定は変えていないのに観客を異質の世界に運んでいく。加藤ちかの美術とマッピングの使い方がリアルで実にうまい。
男は仲村トオル、女は緒川たまき。映画の岡田英治、岸田今日子で刷り込まれている二人の役柄だが、全く違う。映画では、眉をひそめて登場する複雑な感じの不機嫌な二人だが、こちらは肉感的で即物的。この配役で、作品が現代につながった。
例えば二幕の幕開けの場面。雨が降ってきたと妄想するシーンの繰り返し。ソラメントウナベスの曲(昭和三十年代にはもっともはやったラテン音楽だった)で二人が躍るシーン。このあたりは原作にないが、ケラが演出した優れたシーンだ、それに続く上野洋子の音楽。
上野洋子の不思議な演奏もこの劇世界に大きく貢献している。ここで、作品の持つ抽象性が担保された。今までのケラ作品(例えばカフカ連作)とは別の世界を作り出した。
ラジオの効果的な使い方。原作の時代にはまだテレビが普及していない。メディアと生活を巧みに取り入れて、外の生活と仲の生活をドラマにしている。
こういう、演劇で遭遇するさまざまの問題を、現代に通じるように細かく処理しているところが今回の上演の「ネタ」だろう。ここまでくれば、原作の終末は全部ではなくとも少しは変えて見たくなったのではないだろうか。原作通りで幕は下りるが、ここは、ケラによる新しい結末も見て見たかったような気がする。芝居を見てきて、この結末はなぁ、とも感じたのである。


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