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朗読劇『風が吹くとき』

朗読劇『風が吹くとき』

新国立劇場演劇研修所

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2024/08/09 (金) ~ 2024/08/12 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

ロシア(原作ではソ連)と西側諸国が開戦間近。イギリスの新聞には「予防戦争」という字句が踊る。政府の配布した核戦争への備えのパンフレット。それを頼りに老夫婦は家の中にシェルターを作ってみる。どうも核爆弾が落とされたようだ。TVもラジオも繋がらない。電気ガス水道も止まった。貯蔵した食料を頼りに政府の救援が来るまで何とか生き延びなくては。

5人のジムと5人のヒルダ。シーンシーンで入れ替わって朗読劇は続いていく。メインは石井瞭一氏と山本毬愛さんのようだ。役者は文句なし、魅力的。

一番ビビったのは19時57分頃、緊急地震速報が場内に鳴り響く。切り忘れた何人かのスマホから大音量で。観ている舞台と連動した緊迫感に「凝った演出だな、やるな。」と思ったが全く関係なかった。神奈川県で最大震度5弱を観測する地震が発生。南海トラフに散々脅かされている今、舞台の中も外も不安が満ち満ちていく。ウクライナも逆にロシアに侵攻してガスパイプライン施設を制圧中。

ネタバレBOX

1982年にイギリスで発表された漫画。1986年にアニメ映画化。昔、TVで観た記憶があるが詳細は全く覚えていない。1984年にアメリカのテレビ映画『ザ・デイ・アフター』を日本で劇場公開。ぬるい描写ながら日本以外の国で核兵器、放射能の恐怖を作品化したことが話題に。今作もその流れで評価された印象。だが散々幼少期より原爆映画を観せられてきた被爆国国民からするとやはり生ぬるい。去年観た朗読劇『ひめゆり』が秀逸な出来だったので過度に期待したが今回はイマイチ。実話の重みと比べると弱い。朗読劇にするならばメインの二人をサイレントで置いて、周囲のコロスが朗読するとかちょっと捻った方が良い。
音楽を入れて、外の描写を過剰に表現し(原作では一切見せないが)室内の二人の行き場のない閉塞感に観客を閉じ込めたい。

ちなみにアニメ映画の主題歌はデヴィッド・ボウイの「When The Wind Blows(風が吹くとき)」。
日本語吹替演出の大島渚は森繁久彌と加藤治子に吹替させた。ごく普通の老夫婦の日常が残酷な終末に呑み込まれてゆく異和感が狙い。多分、舞台化してもそこが狙い所の作品になるだろう。

逆に今回は全く違う手を使ってみるべきだった。観客に本能的な恐怖感をじわじわ感じさせるべき作品。集合的無意識が嗅ぎ取っている終末の匂いを刺激させて。
夏砂に描いた

夏砂に描いた

πTOKYO 夏の朗読祭り

πTOKYO(東京都)

2024/07/16 (火) ~ 2024/07/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

鑑賞日2024/07/21 (日) 14:00

時期の異なる2つの「夏の出逢い」を軸にしたファンタジー。進むにつれて次第に明かされる関係性が巧いし最終場面がずっと先なのもステキ。
また、観ながら「これって舞台化できるのか?」と考えて改めて「朗読劇」と「戯曲のリーディング公演」の違いに築く。
朗読劇って極めて映像的で「舞台化」はできないのではないかしら?

ミセスフィクションズのファッションウィーク

ミセスフィクションズのファッションウィーク

Mrs.fictions

駅前劇場(東京都)

2024/08/08 (木) ~ 2024/08/12 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

鑑賞日2024/08/09 (金) 14:00

135分。かえりの会除く。

ポンコツ車と五人の紳士

ポンコツ車と五人の紳士

演劇集団 富山舞台

OFF OFFシアター(東京都)

2024/08/09 (金) ~ 2024/08/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

鑑賞日2024/08/09 (金) 19:00

60分。休憩なし。

ミセスフィクションズのファッションウィーク

ミセスフィクションズのファッションウィーク

Mrs.fictions

駅前劇場(東京都)

2024/08/08 (木) ~ 2024/08/12 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

猛暑日が続く中、日頃頑張った自分へのなんだか特別なご褒美的なお祭り公演でしたね。
一言、この公演に関わるすべての方々へ精一杯の有難うの気持ちよ、届けっ!!としか言えない満たされた時間に感謝。

こんなんほろんでいい世界

こんなんほろんでいい世界

愛しのボカン大作戦

本多劇場(東京都)

2024/08/07 (水) ~ 2024/08/12 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

 物語の展開を最もダイナミック且つ緊迫感ある作品にする為に必要な大枠としての論理展開が対立構造として提起されていない為、凡庸な作品になってしまった。

ネタバレBOX

 本質的なことを示したかったことは分かるが、時代の表層に流され過ぎてはいけない。舞台美術もコテコテで内容に見合ったものになっていないのは他の総てと同様、ことのエッセンスを抽出しようとしていないからだろう。時代といえば分かったようなフリはできようが、新しさを衒って却って温故を忘却しているかのようである。尺も無駄に長い。
 以上上げた欠点は、状況設定の失敗が第1の原因だ。描かれる内容は、時代を唯漂うように浮きつ沈みつし徹底的に自分を見据えて世界と対峙することを怠り、結果何ら根底的な精神的地点にも辿り着けなかった表現者を目指す者たちが、オーディション無しで参加できるイベントに応募することで自分たちの犯してきた過ちに少しづつは気付き、様々にチャレンジしてゆく物語ではあるが、所詮己とは他者に他ならないという地点にすら自らの力で立つことができない為、更に踏み込んだ表現者たる道への参入も叶わぬことのみを知り続けてゆく構造を示しているに過ぎない。当然ダイアローグの形式を採る仲間内での台詞の遣り取りも台詞同士の間にあるべき緊張感に欠け、結果劇的緊張に欠ける。
 出演する役者陣の各々はそれなりにポテンシャルが高そうだが、それを活かせるような作品作りになっていないと感じた。残念である。
ミセスフィクションズのファッションウィーク

ミセスフィクションズのファッションウィーク

Mrs.fictions

駅前劇場(東京都)

2024/08/08 (木) ~ 2024/08/12 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

初日を拝見しました。どの団体さんも個性ある作品で面白かったです。年代的にもウルトラマンの辺りは知ってる知ってる的なところもあって。
楽しい時間ありがとうございました。

ミセスフィクションズのファッションウィーク

ミセスフィクションズのファッションウィーク

Mrs.fictions

駅前劇場(東京都)

2024/08/08 (木) ~ 2024/08/12 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

初日を拝見。何を書いてもネタバレまがいになりそうだから内容には触れないけれど、3劇団それぞれ違った楽しさ。所用があって終演後の「おわりの会」に参加できなかったのが残念だった。

BACHELEAN バチェリアン

BACHELEAN バチェリアン

FREE(S)

ウッディシアター中目黒(東京都)

2024/07/23 (火) ~ 2024/08/11 (日)公演終了

実演鑑賞

私の好みとしては

ネタバレBOX

ルックでは看護師がいいなあ。
性格ではまいピー。
ミセスフィクションズのファッションウィーク

ミセスフィクションズのファッションウィーク

Mrs.fictions

駅前劇場(東京都)

2024/08/08 (木) ~ 2024/08/12 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

幕の内弁当のような舞台で楽しめました。とくに、私のように、ウルトラマン世代のおじさんには最後の劇団さんの舞台はたまりませんでした^^ ウルトラマンプラダの最後の影絵に感動しました。もちろん、ウルトラマンプラダのコスチュームにも「おお!」となりました。

鴉よ、おれたちは弾丸をこめる

鴉よ、おれたちは弾丸をこめる

劇団うつり座

上野ストアハウス(東京都)

2024/08/07 (水) ~ 2024/08/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

チャリティーショーが行われている。歌手(yokoさん)が「鴉よ!」と聴衆に呼び掛けると皆が「鴉よ!」と呼応する。今現在の自分達を「恥で身を黒く染めた惨めな鴉」だと自認しているようだ。そこに乱入して来る二人の青年(加藤亮佑氏と徳田雄一郎氏)、手製の爆弾を投げ付ける。
逮捕され裁判に掛けられる二人。加藤亮佑氏の祖母の鴉婆(宇沙木はこさん)、徳田雄一郎氏の祖母の虎婆(青木恵さん)
率いる武装した婆集団が裁判所を占拠。婆による裁判官、検事、弁護士等を裁く民衆法廷が開廷する。

当時の批評では「三里塚闘争」を重ねて観たようだ。若き活動家共の不甲斐のなさに千年以上もの恨みを抱えた老婆姿の怨霊達が大地から這い出て猛り狂う。

プロのサックス奏者でもある徳田雄一郎氏がサックスを吹き鳴らす。
加藤亮佑氏はつまみ枝豆と勝村政信を足したよう。
宇沙木はこさんは岸田今日子みたいな貫禄。
一升瓶片手の青木恵さんはドスが効く。

ネタバレBOX

アジプロ〈agitation (扇動)とpropaganda(宣伝)〉演劇に見せかけて、徹底して意味を持たない。きっと何かのメタファーだろうと思惟させつつも、そんなものは全く何も有りはしない。あるのは純粋な狂気だけ。何一つ教訓もなく、ただ老婆軍団の暴力の発散を眺めるのみ。

面白いとは思わなかった。根本的にこの戯曲が好きじゃない。初演の1971年はちょうどアメリカン・ニューシネマの全盛期。『真夜中のカーボーイ』、『ワイルドバンチ』、『明日に向って撃て!』、『イージー・ライダー』と連発されるバッド・エンドの美学。何か逆にこの頃の影響を受けた日本の作品は気恥ずかしい。妙に空っぽ。頭でっかちで知ったふうな口を利き何一つ信じるものなど見つからないくせに、気分だけは他人よりも高みに立っている。今作も「時代の気分」なんだろうが、スカしている感覚。そうじゃないんだ、人の心を打つのは頭良さそうな言説ではない。もっとみっともない純情なんだ(···なんて言うとそれもどうにも嘘臭いが)。

超満員の客席、客層が読めなかった。演劇が武器に成り得ていた時代への憧れなのか?今じゃもう体制への憎しみすら持てやしない。全ての価値が薄っぺらくなった。自分も世界も同様に大事に思えなくなった。今作を流山児★事務所なんかが手掛けたらどうなるのか?興味はある。
鴉よ、おれたちは弾丸をこめる

鴉よ、おれたちは弾丸をこめる

劇団うつり座

上野ストアハウス(東京都)

2024/08/07 (水) ~ 2024/08/11 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 お待たせした。敗戦記念日にアップした。当初発表箇所も若干変えた処がある。

ネタバレBOX


 言うまでもなく清水 邦夫の戯曲だが、一幕四場、初演は1971年10月、新宿アートシアター。当時の演出は蜷川 幸雄氏であった。今回の演出は篠本 賢一氏。学生運動が衰退後の世代である。板上は奥に裁判官席、上手壁際に被告用の椅子が並べられ、板観客席側センターには可成り大きな四角い板が置かれているが高さは殆ど無い。従ってほぼ素舞台に近い創りである。(注:序盤場転が多いが一部を除きいちいち場転とは記していない)
 オープニングでは1968、1969と繰り返しながらヘルメットを被り、タオルをメットのY字形の穴に通して投石している学生たちの姿、1968・1969と叫びながら高所から投石する学生たちの模様は、年代からいうと日大闘争からある意味バトンを受け継いだ安田砦をイメージした攻防であると解して良かろう。ライトが照らされているのは機動隊側からのものと判断した方が良い。その他機動隊の発するガナリ、騒音が入り混じる。
 場転、2人の若者が持っていた爆弾を浮かれ騒ぐショー会場に投擲、爆発させる。忽ち捕縛され裁判シーンに。若者たちは、当時流行りの口調でアジ演説さながらの革命的論議を吹っ掛けるが敵もさる者おいそれと同調はしない。それどころか体制の根拠たる形式或いは様式(裁判という形式を始めそこで機能する裁判長、書記官、判事、検事、弁護士等というキャラ)を執拗に用いつつ対峙し俄かに結論は出ない。
 そこに、奇妙な集団が登場する。総て婆さん。各々様々な特徴を持ち、古代神話に現れる神々のようにその特徴をその名として互いを呼び合い連帯している婆さんたちである。婆さんの代表格と言えるキャラが鴉婆、虎婆ら孫を持つ婆の他に何人かがいるが、中でも鴉婆、と呼ばれる婆さんの啖呵が粋である。「あたしたちゃ、人間の恥で黒く染まった鴉なんだよ。あたしたちのこころん中にゃ、人間の骨で削り、人間の骨で作った一本の笛が、いつも絹をつんざくように鳴り響いてるんだよ・・・」で始まる啖呵だがこの啖呵に含まれる言の葉の意味の深層こそ、今作の根であり、脚本家・清水 邦夫の主張であると捉えた。
 演出の篠本 賢一氏の演出の多くは当に本質に於いてその上演回限りの表現である演劇という総合芸術の裸形を活かす為に、関わる総ての者達の気をそのエネルギーが最大化して物質化を目指すような、張り詰め硬質化するような緊張感のある舞台作りをするケースが殆どだが、今作では清水の脚本を如何に生かすか? に力点を置いているように思えた。清水作品の清水脚本らしさが実によく出た舞台になっている。
 例えば如何にも詩の好きな清水 邦夫の作品らしくのっけから狂歌、川柳、俳句やらの如き五七五文型の短詩系オンパレード。二場のラストで遂にはアポリネールの傑作・❝ミラボー橋“のパロディー迄開陳される。
 場面変わって逮捕された学生2名。嫌疑はコンサート会場への爆弾の投擲・爆破である。第八法廷裁判長以下、書記官、判事らが各々の職務に従って作業に従事し、検事は被告人らの罪を上げ、弁護士は弁護の論陣を張って議論を戦わせている。
 其処へ闖入したのが捕縛された若者の祖母らと共闘する婆さんたち。各々極めて個性的且つパワフルな婆さんたちだが、彼女らは日本が大陸と離れて大陸との間に海を抱え島として独自の歴史を刻み始めた初期に在ったとされる原始の闇の初めからあらゆる権力及び機構にケツを捲ってきたと宣たまわぬばかりの猛者たちである。というのも女性の持つ妊娠機能で胎児が暮らす子宮内に満ちる羊水の成分はほぼ海水と等しい為か、比喩としても母と海が同質視される文化的伝統は広く世界に見られる。従って彼女たちの実年齢が幾つであるのかは関係ない。彼女らの論理に従えば1万年昔に在ったとされる太古の闇の恨みは、他の誰もが無いとは言えぬ以上(もっとあからさまに言えば脚本に書かれていない以上)、彼女らがそう宣えばそれが在ったとし、その身の内に抱えていると宣えば、それを認める他は無い。そしてその身を貫く恨みに苛まれながら新たな光を与えてくれる者を求めて生存し続けているのである。と言われればそれも認めざるを得ないのではないか? 一見、無茶苦茶な論である。
 然し今現在、そして今に通じるこの情けない人権無視の体制を営々と続ける不公平な支配構造を疑わないという発想自体が、体制に毒されて来た結果だとしたら? 毒されているかも知れないという発想そのものが予め予防されてきたとしたら? 取り敢えずはその辺り迄発想を広げる処からしか始まらないのではないか? 人間は見たいものしか意識上に挙げることは出来ない。開くことが出来ない視座なら先ずは自らで自らの目を切り裂くことから始めよう。この作品はこのような戦闘への招待である。
 反逆の原動力は現生を観れば分かるようにこの情けない世界状況。先ずは足元の我が国、日本の唾棄すべき為政者共への反逆を通して見つめよう。但し彼女らの反乱は体制を論理的に分析し批判的に解消するものでは無く仮借なき弾圧を加えてくる為政者そのものへの根本的治癒、即ち解体である。そして解体は多くの場合抹殺を意味する。
 ところで闖入した婆さんたちを相手に為政者サイドは先ずその本質たる形式(様式)を以て対抗しようとする。先ず裁判形式を整えようとするのだ。彼らの殆ど本能となっている精神傾向に拠れば形を整えること即ち『正式な史実の根拠となること』であり、正しく『正義の根拠たることなのである』が、婆さんたちにとっては異なる。
 裁判長から先ず宣誓することを求められた鴉婆は「トラホームで目が見えないから読んでくれ」と要求。書記官に読まれた内容は『良心に従って真実を述べ、何事も包み隠さず、偽りを述べないことを誓います』であり正確に理解されたが婆さんは再び質問した。「誰に対して誓うのか?」についてであった。この問いに応えたのは裁判長であったが『誰に?』と訝しむような趣があり婆さんに揚げ足を取られた。鴉婆「誓うといえば昔から神様とか仏様とか」裁判長『良心に、あなたの良心に』鴉婆「ちょっとおかしい、その文句じゃ、良心に従って・・・誓いますって、従うものに誓うのは変だ」と反論される。裁判長『では言い換えます。裁判所、裁判所に向かって』鴉婆「さっき良心と言った。裁判所と良心は同じか?」裁判長『同じです』鴉婆「でもあなたの良心って言った。あなたの良心ていや私の良心、すると私の良心が裁判所か?」裁判長『いい加減にしなさい。宣誓拒否ですか』と畳みかけ『宣誓を拒否した者は五千円以下の罰金』と過料を科す。その後も二人の遣り取りで言語矛盾を犯したのは総て裁判長という大失態を冒す。これに対し齢を重ねた婆さんの問い詰めは総て極めて論理的で正鵠を射て居た為体制は体制を御していた根拠そのものである論理形式を破壊され喪った。この様にして為政者の権威は潰え、権力は単なる茶番と化した。体制を構成していた論拠を自らの失態によって喪失した権威者たちは今や何者でも無い。即ち無用の存在である。無用の者が意味ある機構を維持することはできない。裁判権そのものが裁判官から婆さんたちへ移行した。かくして廷吏らも権威を喪失した裁判官らからの命令が無い以上動くこともならない。こうして裁判権は婆さんたちの手に落ち次々と判決が下されてゆく。先ず最初に刑を言い渡され執行されたのは検事、裁判長の息子である。刑の執行方法は刺殺。罪状は傲慢にも婆たちの申し出を拒否したこと。裁判官及び刑執行人は鴉婆。この後裁判官は虎婆に変わり被告ら(書記官、判事ら)を統一裁判形式で審理。結審した罪状は人間としての義務を何もしなかったことで検事は鴉婆の孫青年A。刑の執行形式は撲殺である。執行官は居合わせた婆たち。当然婆たちの手、拳は血に塗れ血の匂いを放っている。然し此処まで深い反逆の根を持たぬ孫が、機動隊の何度目かのアナウンスを用い裁判所所長が談判を申し込んで受け入れられ第八法廷に入った際、彼の退去時に婆たちの阻止の手を阻み女性二人を含む所長を解放してしまった。人情に流され、血の匂いに迷って死刑は余りに酷だと判断した為である。
 この機を逃さず残った人質は、官憲が踏み込んで来ないのは自分達人質に危害が及ぶことを恐れてであること。危害が及んだ場合、世論が黙っていないので襲撃してこない旨説明。従って人質を総て処刑してしまえば権力は忽ち反逆者を襲撃し全滅させることを主張して対抗しようとするが、そんなことで婆たちの怨恨が収まるハズも無い。また、青年Aが裁判長として振舞うに至った虎婆の許可も無く人質の女性二人及び談判に来た裁判所所長を敵方へ戻してしまった事に対する処遇も為されていなかった為、いつの間にか裁判長席に戻った鴉婆は次の被告として孫、青年Aを指名、婆が被告として指名した事情を説明した。然し乍ら彼には鴉婆の述べることの意味する処が理解できない。婆にとっては、この事実、自分を理解し得ないこと即ち自分ら婆さんたちへの裏切りと映る。刑は執行された。判決は死刑であった。執行者は実の祖母鴉婆。これを見た裁判長は、この期に及んでほざく。『な、何たることだ、肉親同士の癖に・・・尊属殺人は犯罪の中でも最も許すべからざる・・・』と。為政者の側についた新大衆の一人として杓子定規な説教なんぞ垂れていやがる。冗談じゃねえ! 虐げられた者達の愛は、捻れ捻れてこのように悲惨な結末に辿り着く他無い、という当たり前が、とんと分からねえ、すっとこどっこい奴! 烏婆さんがその懐剣を取り落としたことすら気付かねえ癖しやがって! この時、激高する裁判長に向かって弁護士が声を掛けた。『兄さん、落ち着いて』新大衆はその親族・眷属揃って新大衆たる敗戦国家中間層を為している訳である。こんな状況の中、青年Bがお婆たちの裁判を受けたいと言い出す。官憲からは最後通告が出ているが、虎婆が裁判長席に座り審判を始める。これも愛の審判であったが、一発の銃弾によって断ち切られた。青年Bは被弾して死んだ。結果、狙撃手らの手により人質1人を含め反抗者は総て殺害される。
 ラストシーンは殺害された総ての反逆者達が立ち上がり銃に弾丸を込めて発射するシーンで終わる。死んだハズの者達が蘇って来るばかりではなく、反逆そのものである武器である銃に弾丸を込めて発射する不可解と映り易いこのラストは、単なる願望では無い。これは、無論問題になっていることの本質が、本来総てのニンゲン(生命)が平等であり当然の事ながら貧富の差や階級・階層、性差、人種、教育レベル、習俗、習慣、能力などによる差別、区別を受ける謂われも無く生存することが可能である、あったシステムが、簒奪や収奪により権力という無体な機構に従属させられたことに対する根底的反逆の意思であり、これは決して滅ぼすことなど出来ない民衆の思考だからである。
魚雷モグラ’24

魚雷モグラ’24

ウラダイコク

みらい館大明ブックカフェ特設ステージ(東京都)

2024/08/02 (金) ~ 2024/08/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 今公演はWキャスト。拝見したのは楽日、かすてらチームである。

ネタバレBOX

 物語は1945年敗戦迄あと僅かという時期の長崎での物語。この期に及んで未だ真珠湾攻撃で用いられたと同じ型の魚雷を学徒動員で造らされていた女子学生や教師、地区指導員らの日常と8月9日午前11時2分のファットマン投下時の模様を描く。ユニークなのは、戦時体制下の女子生徒たちの前に現れるのが不思議なモグラ姉弟であることだ。而もこのモグラの姉は1人の人間の女性徒に凄まじい復習の念を持っていることである。理由は、この女生徒に父母を殺されたことであったが、人間にはその記憶すらない。
 女生徒たちは戦時教育をまともに受け止め、強制される価値観や道徳観、国家観や天皇を唯一の主権者とする大日本帝国憲法下で要求された社会規範を基本的には守り所謂優等生として生きる一派と、そんなことは本意でない、謂わばドイツのエーデルヴァイス海賊団運動に邁進していた若者のように一種アナーキーで人間としてより健全な「不良」グループ一派を形成する者ら、及びどちらにも属さない一般生徒に分れていた。この中でモグラの姉に呪われていたのは優等生グループの代表格の女子であった。彼女は所謂隠れキリシタンの末裔であるから宗派はカソリックの中でも最も厳格な宗派の一つであるジェズイット系、日本で人口に膾炙している言い方ではイエズス会系ということになる。このモグラの姉は神に祈ることでこの女生徒に復讐することを強く願うが結果として彼女のみならず長崎市民全員に大変な地獄を齎してしまった。モグラの姉はそこまでは望まなかったものの結果として原爆によって件の女生徒も被害を受け、多くの友を喪いこの後も苦しむことになる。その2人の会話の中で女生徒は自分が恨まれた訳を知り謝るが自分一人に復讐をして欲しかったと述べる。モグラもそうしたかったことが分かる答弁を返すものの幾らかは復讐を果たせたことによる安堵が無い訳でもない。何れにせよ、アインシュタインが導き出した以下の公式:E=MC²のEの項目に祈りの強度によるエネルギー発生があると仮定すると或いは相関関係が設定できるかも知れない。
 ところでこの強制労働に駆り出された女生徒たちを見守る教師の態度が当時としては極めてユニークなものとして描かれているのも今作の特徴である。というのも「不良」グループを決してありきたりなレッテル貼りで区別せず、例えば‟モサ“(掏摸の隠語)に財布を掏られた中年女性に掏られた財布を取返し追い掛けて返してやる等の善行も為している子供たちの良い面も評価しているかのような態度で接している等。因みに掏られた状況は分からぬものの一般にモサは集団でことにあたり直接掏る者、シキテン(見張り)を切(す)る者、掏った獲物を受け取り別の仲間に受け渡す者等が徒党を組んで犯罪を犯すのが普通なのでリアルな発想で検証すれば、女生徒が盗まれた財布を取り戻し、持ち主に返すこと自体が可成り難易度の高いことであることは言を俟たないが、まあ、小さなこと。義侠心に溢れた健全な女学生のイメージを示すには効果的な挿話と捉えれば良かろう。被爆時のこの女性教師の態度も立派である。
 何れにせよ少し頭の回る女生徒であれば、対米開戦で用いられたと同型魚雷をこの期に及んで製造させている大日本帝国の開発力の無さを忽ち見抜き、戦争は負けると確信を持って言うだけのことは出来る。何れにせよ被爆した無数の被害者の、世界で2度目の原爆攻撃による最後の姿を史実を踏まえキノコ雲の下で実際に起こっていたシーンとして再現する数々のシーンはリアリティーに富み、今作品の白眉でもある。会場からは、観客のすすり泣きや涙が鼻に流れすすり上げる音等が多く聞かれた。
 また、効果音等は殆ど口ジャミで表現されていたこともユニークな上演形態であったが、敗戦間近の日本民衆の窮乏を示唆しているようでもあり、また日本政府の文化事業に対する熱意の無さ、無関心を示しているようでもあり、政治屋及び官僚の非文化性を如実に示してこれはこれで示唆的だ。

 ところで、何故今原爆の話なのか? 根本的な問いが観客には問われていよう。今更言うまでもないが、ロシアによる戦術核使用の脅しと準備は着々と進んでおり、第三次世界大戦が始まるのではないか? との懸念は多くの民衆に共有されている。
"Gouche"

"Gouche"

PANCETTA

小劇場B1(東京都)

2024/07/31 (水) ~ 2024/08/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★

「皆で奏でる音楽劇」

 宮沢賢治の童話「セロ弾きのゴーシュ」をもとに身体表現と音楽を融合させた作品である。

ネタバレBOX

 ゴーシュ(一宮周平)はセロ(佐藤竜)をうまく弾くことができず、楽長(佐々木ゆき)から強く注意され落ちこんでしまう。ひとり練習を重ねるゴーシュのもとにかっこうや猫、狸や鼠がやってくる。動物たちと戯れているうちにゴーシュはじょじょに上達し、やがて自身の性格も明るく前向きなものへと変わっていく。

 本作の面白い点は、ミュージシャン(加藤亜祐美、志賀千恵子、鈴木広志)の演奏を背景にゴーシュやセロと動物たちのやりとりがコミカルかつ可愛げに描かれていた点である。それぞれの動物を想定して作られたのであろう音楽を奏でながら、出演者が会場に向けかっこうの鳴き声や狸が腹を叩く音を投げかけ、観客のレスポンスを受けて演奏チームが盛り上げるという円環ができあがっていた。動物役を兼ねた佐々木ゆきと轟もよ子が達者である。

 一宮周平が時折見せるゴーシュの根深いコンプレックスとそれを乗り越えようとする姿勢、それに呼応するかのように佐藤竜演じる擬人化されたセロもまた性格がじょじょに明るくなっていくところなど、この二人の芝居があることで作品が深くなった。事前に配られた造花を観客がゴーシュに渡す場面で見せたゴーシュの戸惑い、そこから自信をつけていくという芝居が印象的である。セロを奏でる場面では二人で歌い上げるという表現も会場を沸かせていた。
第80回「a・la・ALA・Live」

第80回「a・la・ALA・Live」

a・la・ALA・Live

座・高円寺2(東京都)

2024/08/06 (火) ~ 2024/08/06 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

毎回趣向を凝らしたバラエティーショー。今回、主宰の荒山さんのユニット以外は初めて観る方々ばかり。江戸太神楽の仙若さんのパフォーマンスはシンプルながら、観ている方はハラハラドキドキ。いいですね。座・朧月は和テイストの音楽ライブ。この世界観好き。今回も楽しませてもらいました。

ナイトーシンジュク・トラップホール

ナイトーシンジュク・トラップホール

ムシラセ

新宿シアタートップス(東京都)

2024/07/16 (火) ~ 2024/07/21 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

鑑賞日2024/07/19 (金) 14:00

江戸の浮世絵師、戯作者たちとイマの融合。江戸にイマのあれこれが紛れ込んだのか江戸の人物がイマにタイムスリップしたのか?と思いながら観ていたがアレだ、江戸の人物のクローンが現代で漫画を描いている、的な?
そして、人物(及び風俗?)の活かし方/使い方の鮮やかで、改めて当時と今の共通性に気付かされる。
あと、ラストシーンも良かった。他の劇場で同趣向を観たことはあるがここでは初めてかも?

AKUTAGAWA

AKUTAGAWA

八王子車人形西川古柳座、Yara Arts Group

座・高円寺1(東京都)

2024/08/03 (土) ~ 2024/08/06 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

人形浄瑠璃=文楽では頭(かしら)と右手を操る主(おも)遣い、左手を操る左遣い、足を操る足遣いの三人遣いで人形を動かす。160年前、山岸柳吉がろくろ車(前に二つ、後ろに一つの車輪が付いた箱)に腰掛けたまま、一人で操る車人形を考案。自分の足の甲の上に片足ずつ人形の足を乗せ、両手で人形を操作しつつ腰を使って自由自在に移動が可能な車人形。これの利点は一人で一体を動かせつつ舞台上を自由に動き回れる点。ずっとこの体勢は腰がきつそうだが実に面白いアイディア。現在これを受け継ぐのは五代目家元西川古柳氏。20年前、彼に師事した米国のパペット・アーティスト、トム・リー氏とのタッグで芥川龍之介に挑む。

上手にニューヨーク在住の音楽家、辻幸生(ゆきお)氏が鎮座。太鼓尺八キーボード、インド民謡のような歌まで披露。下手には執筆中の芥川龍之介人形を操作するトム・リー氏。講談師や活弁士を思わせるウィットに富んだ口上で英語のべらんめえ口調。(正面スクリーン上部に日本語字幕が入る)。登場する何人もの車人形の声を独りで演じ分けていく。
スクリーンに映し出される影絵アニメが秀逸で車人形の動作とシンクロ。センシティヴな心の奥底を繊細に分け入っていく光と影のあわいが観客の想像力を掻き立てる。
『羅生門』『地獄変』『竜』『杜子春』『河童』に『歯車』のフランベ。特に『河童』をキーにしており、何処からかやって来る河童に悩まされる芥川のスケッチが数度挿まれる。影絵調の河童が紙を飛び出してスクリーンの中を動き回り、瓶の中に封じられる様は見事。古典芸能と最先端技術が違和感なく融合。結局何の技術を使っていようが受け取る側にきちんと伝わっていれさえすれば、それが正解。
オチのない芥川龍之介節にきょとんとするが、やはり『杜子春』の美しさ。真面目に一日一日を大切に積み重ねる尊さを今更ながら感じた。架空の世界は何処までいってもやはり架空の世界。「日々のつまらない生活こそを愛せ」みたいな格言。
ジョナサン・スウィフトのようなラディカルな『河童』にも驚いた。自殺前の代表作。これ故芥川の命日を「河童忌」と呼ぶようになったと云う。自殺する為のアリバイ作りのような。
古典と最先端の取っ組み合いはすこぶる興味深い。車人形なんか全く知らなかっただけに衝撃。

MVPはアフタートークの通訳の女性。これだけ優れた通訳を久方振りに見た。マジで評価されるべき才能。言語感覚がずば抜けている。

ネタバレBOX

何かアメリカ人から見た日本文化みたいなぬるいコラボだと思っていたら大間違い。凄く勉強になった。アフタートークでトム・リー氏が語っていた「人形というモノを通しての感情表現こそが文化言語を越えた最良の意思疎通になり得る」と云う発言が腑に落ちる。一つ間を置くことによってうまれる想像力。互いを阻害するフィルターを通してこそ互いの嘘偽りない真意が本当に伝わるのかも。

筒井康隆の『残像に口紅を』を思い出す。時間と共に一語ずつ日本語の音(おん)が消えていく世界。五十音の内のかなりが消えてしまい、残った使える言語を手繰って何とか文章を綴ろうとする作家。その時、今までどうしても自分の手で書けなかったトラウマを綴り出す。誰にも言えなかった、どうしても書けなかったどうしようもない個人的苦しみ。もしかしたら、この不足した音の中でなら書けなかった心の傷をどうにか表現出来るのかも知れない。幼児のような辿々しい言葉の連なりで無理矢理吐き出す痛みの数々。読者は打ち震える。黒沢清にこれを映画化させたかった。
『本棚より幾つか、』-短編演劇祭-

『本棚より幾つか、』-短編演劇祭-

楽園王

新宿眼科画廊(東京都)

2024/08/02 (金) ~ 2024/08/06 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

【Bプログラム】観劇。
この時期 仕事が忙しくなければ、Aプログラム・特別プログラムも観たかった と思えるほど面白かった。残念。

日常にある ちょっと奇妙で不思議な、それが今の時季にピッタリと思える演目選択の巧さ。第一の狂言「赤い靴」 第二の狂言「アオイハル」そして第三の狂言「紙風船」(作:岸田國士)であるが、「赤い靴」と「アオイハル」は何となく関連しているような感覚。受付時に3作品の紹介というか解説を貰ったが、これが名刺サイズ、その裏に小さい字でビッシリ書かれている。会場内の薄暗い中で読む気もせず、帰りの電車内で読んだが、なんと「アオイハル」は「赤い靴」の前日譚とある。物語に直接的な繋がりがないとあるが、何となくそんな気にさせるところが妙。

また「紙風船」は 何回も観ているが、今回は音響・音楽の効果によって、淡々とした日常に持ち込んだ虚実、それをメリハリの利いた物語に仕上げており実に巧い。3編とも二人芝居で、淡々とした会話が進むにつれ 滋味溢れるような心情が浮き彫りになる。しかし 物語を纏っているのは先にも記したが奇妙・不思議という世界観。この独特な味わい深さが 本公演の魅力だろう。3編に共通しているのは「赤」、そして舞台セットの小物に林檎を置くなどの拘りを見せる。

ちなみに客席は変形配置で、どこが正面でどこに座るか迷うが、そこはしっかり誘導してくれるので心配ない。
(上演時間1時間20分) 

ネタバレBOX

舞台美術は 中央斜めにベンチを配置し、その奥の壁際に机と椅子2脚。机の上にライト・花瓶そして林檎。
共通の「赤」…「赤い靴」はタイトル通り、「アオイハル」も台詞に赤い靴、「紙風船」は赤い毛糸を編む。

「赤い靴」は、ベンチに座りバスを待っている女(役名:バス停で待つ女)、そこへ赤い靴を履いた女(役名:後からやってきた女)が ゆっくり近づいてきて 「バス 来ませんね」と話しかける。それから他愛もない世間話から好かれる女性像へ話題は漂流していく。何処に辿り着くのかと思ったら、赤い靴の女はバスを待っている女の夫と浮気をしており、妻がどんな女なのか確かめに来たが…。実は不倫相手の男に殺され、霊(魂)となって現れた。「赤い靴」に因んで童話や童謡の話も。

「アオイハル」は、女子高生の部屋に男子高生が勝手に上がり込んでいる。学校では ほとんど話したこともなく、なぜ此処にいるのか。男子高生は彼女から「好きではありませんでした」という手紙(ラブレター)を貰ったと告げる。それにしては過去形で文面も相応しくない。彼は学校に侵入した男が教師を襲い それを助けようとし、逆に殺された。此処にいるのは霊で、淡い恋心を抱いていた彼女が棺に入れた別れの手紙。

「紙風船」は、何回も観ており 物語としては知っていた。日曜日の昼下がり、暇を持て余した新婚1年目の夫婦の とめどもない会話。何時しか二人は鎌倉へ空想の旅へ出る。その情景は 執筆当時のもので古い感じがするが、平々凡々とした暮らしに、ちょっとした刺激を求め楽しむ二人。鎌倉旅行はテンポよく展開し 軽快なクラシック音楽が流れる。そして音楽が変わり 日常の光景、隣家の子供と紙風船で遊ぼうと…。

3編は独立した物語であるが、何となく繋がりが感じられる。勿論この時季の「霊」を扱った話で、それは怖いという存在ではなく、この世への未練をコミカルに描いた といった印象だ。けっして暗く後ろ向きではなく、むしろ前向きでカラッとしている。どこか吹っ切れた感じで、霊でありながら、生き生きとした人物像が立ち上がるから不思議だ。最後に「紙風船」、新婚の生者2人がこれからの人生を歩んでいく、そこに日常の暮らしという地歩が描かれ前の二編との対比が鮮明になる。
次回公演も楽しみにしております。
ドウトク

ドウトク

!ll nut up fam

studio ZAP!(東京都)

2024/07/30 (火) ~ 2024/08/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

朧チームを観劇。
最近よく拝見している真田林佳さんが「死刑囚489号」。出演6人全員死刑囚の「ワンシチュエーションの会話劇」ということで、シンプルながらも面白そうと思いつつ観劇しました。

3チームのトリプルキャスト構成。何度か再演されているとのこと、人気の演目なのですね。

52号、313号、159号、23号、043号、489号の6人です。劇中では番号が出てこないので意味は無いですが、台本では先頭の数字すなわち 0,1,2,3,4,5 だけで表現されています。この6個の数字が先にあったのでしょうね。043だけ3桁ゼロパディングなのは何故だろうと思ってました。

313の森田和正さんが、SNSで考察をされてるのを見つけました。とても深く考えて役作りされているんですね。役者さんからの発信のおかげで、観劇後もまた楽しめます。ありがとうございます。

ネタバレBOX

4月にキャスト募集が公開されてて、以下のような条件が書かれていました。
・死刑囚52:主人公(男性30代〜)
・死刑囚313:暴力的な殺人鬼(男性20代〜)
・死刑囚489:純粋な殺人鬼(性別問わず20代〜)
・死刑囚23:猟奇的な殺人鬼(性別問わず20代〜)
・死刑囚159:芸術的な殺人鬼(性別問わず20代〜)
・死刑囚043:望まない殺人鬼(性別問わず40代〜)

043が40代以上なのはある程度大きな子供がいる設定だからかな。でも朧チームの沼舘ミオさんはもっと若いように思いました。

489は一人称が「僕」。チームによっては男性だったようです。6人の中でもぶっ飛んだクレイジーな役どころで、女性の方がハードル高かったのかもと思いました。真田さん元々のキャラを感じさせつつの振り切った演技が素晴らしかったです。

52は実は死刑囚ではなく、自分の関係者を殺した5人の殺人鬼に復讐するために、権力でこの場を作った。
52曰く。個人的な復讐が認められるべきであり、将来の社会はそのようになる。これはそのための、国が認めた実験である、と。

52は159、043、23をナイフで刺し、清々しいと言い放つ。313と揉み合いになり、ナイフを失う。489が313を刺して52を助ける。489は52に自分を刺させる。52は489の純粋さに、複雑な心境となる。

舞台セットはまったく無しで、とてもシンプルでした。それでも観客を引き込む、会話劇の力を見ました。再演を繰り返すほどの人気なのも納得です。
ONE DAY〜Last Run! Run!! Run!!!〜

ONE DAY〜Last Run! Run!! Run!!!〜

THE CONVOY

恵比寿ガーデンホール(東京都)

2024/07/26 (金) ~ 2024/08/04 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

8月4日、東京公演千秋楽。私は大阪も名古屋も行けないので、これが私の千秋楽。
先日行った時には撮影が入っていましたが「ちゃんとしたものを残したいので映像を確認してからでないとDVDにするかどうか決められない」と大社長がおっしゃってました。
しかし長年のファンにとってはたとえどんなシーンでも残して欲しいと思います。DVDになることを楽しみにしてパンフレットを読み込んで待っていようと思うのでした。
もうこのメンバーでの歌って踊って芝居してと言うショーは見られないかもしれませんが、また違う形でも舞台でお目にかかれますように。若者たちはしっかりCONVOY DNAを引き継いで活躍していってくださることを期待します。

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