『義務ナジウム』リーディング公演 公演情報 大野城まどかぴあ「『義務ナジウム』リーディング公演」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★

    500円ならそう文句は言えない。
    過疎の村での秘祭をモチーフにした本作。
    しかし、ここから先を描くべきところで作品は終わっている。
    まだ物語は始まっていないのだ。

    物語が始まり、何か秘密がある。それが明かされ対立(諍い)などが起こり、そして一応の解決をみる(先がはっきり示されない場合もある)。

    最近こんな作品を見ることが多い。
    もちろんこれは多くの物語の一定型であり、よくあるパターンだ。
    だが、私のいう「こんな作品」とは、本当に描くべき話や人間は「この先にこそあるのに描かれていない」作品のことだ。

    登場人物たちは最後にはそれぞれの決意をして終わる。
    しかし、我々観客が見たいドラマはその先にあるものだ。
    作品内で見せられたところまでは始まりでしかなく、登場人物たちの葛藤や決意など、一般人の多くが、形は違えど経験済みの「当たり前」のことでしかない。
    我々はその先を知りたい。
    彼らはどうやって生きていくのか。未知の世界を生き抜くのか。


    また、演出もありきたりで浅すぎる。
    面白いところがないとは言わないが、「感情が高ぶったところでは大声を出す」などという演出は考えがなさ過ぎる。
    そんな事をするのは子供か本当に考えのない人間くらいで、怒りや激情を表すにはもっと豊かな表現がいくらもあるだろう。


    個人的なことを言わせて貰えば、ナレーター役の方が、最初はそれほど気にならなかったのだが、後半になるにつれ気になって仕方なかった。
    意味深な動きや感情過多な喋りが段々癇に障ってきた。
    もちろんこれは個人的に感じただけなので、誰もがそうだとは思わない。


    さて、リーディング公演だったわけだが、今まで見たリーディングに比べるとある意味成功ではないかと思っている。
    今まで見たものの感想の多くは、「本公演で観たい」だったが、この作品は違った。
    本公演を観ていないので憶測だけで失礼な事を言わせていただくが、この作品を本公演で観ていたら役者の動きなどに物足りなさを感じ頭を抱えていたのではないかと思う。
    しかし、リーディング公演であるがゆえに、役者の声だけを聞きながら自分の想像の中で役者を動かすことが出来た。
    もうひとつ失礼を付け加えると、役者の声(声質ではなく、演技や間)も良かったわけではない。
    役者や場面によっては酷いものがあった。


    しかし、題名にも書いた通り500円ならそう文句を言うこともないとは思う。

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    2010/10/23 23:52

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  • たかさき@福岡様、


    ひとまずはご納得いただけたようで感謝いたします。
    全て万事解決、とはいきませんが、合意が目的ではありませんので問題のない範囲であろうと思います。

    今回のやり取りにより、私がコリッチで書き続けることについてはたかさき様から許可を頂きましたので、これからも心置きなく書くことが出来ます。

    もちろん、書いたものの出来が悪ければご批判頂いてけっこうです。
    観た演劇作品についての討論とともに(というより、本来作品についてこそ語るべきです)、発展的な展開ができることを望みます。

    立場の違いの問題は、個人的にお話するのならまだしも、オフィシャルな場では、それを越えて語り合うことはこれからも出来ないでしょう(逆を言えば、その立場内でなら話し合えることを意味します)。


    それでは、お忙しいでしょうに、長々とお付き合いありがとうございました。

    次回は、作品内容について語り合えることを期待しています。

    2010/11/03 22:50

    あのー、一部に追加説明したいこと等はございますが、今回ここまでお書きいただければ、私から特に申し上げることはないという思いになっています。
    その他の京さんの考えやご主張の少なくない部分に同意できます。

    京さんから、当初の文章への追加の説明をいただいており、前回コメントしたとおり、このレベルであれば批判できなかっただろうと思います。

    他にもまったく同感な部分、敬意を表すべき意思表明があります。
    あらためて、京さんがここまでの立場をご表明いただいたことについて、敬意を表します。

    ・ 当初の文章を修正いただいたこと、
    ・ 精進すると表明いただいたこと、
    ・ その表明の上で、今後も書く意図を表明されていること、
    ・ 好き嫌いや主観客観のとらえ方で、ほぼ合意できたこと、

    により、今回私が批評の批評を行った目的は、これまでと今回の京さんのコメントを拝見して、大部分が達成されました。

    ほかにも追加説明したい部分がありますが、私が当初の文章に対し取り上げたかったことはほぼ解決しております。

    ひとまず、ここで一部を完結とできればと思います。

    その他の論点については、ご満足いく回答ができるか自信がありませんが、しばらく期間をおいてあらためてコメントいたします。

    共通理解が目的とし難いこと、言葉の定義の問題、立場の問題が解決しておらず、どのように続けるのがよいのか考えたいと思います。

    2010/11/03 12:29

    たかさき@福岡様、


    ご返答ありがとうございます。


    たかさき様の今回の公演に関するコメントを読み直させていただきました。



    前提として、以下の部分に於いては、議論を行う為にはほぼ同意と捉えていただいて構いません。

    ーーーーーーーーーーーーーーーー



    好き嫌いを超えた感想というためには、作者・演出家がやりたいこと(狙い)から出発する必要があると私は考えています。
    作者・演出家がやりたいことを理解しないままの意見は、好き嫌いの範疇を超えないと私は考えています。

    作者・演出家が狙いとしたことを、まずは、なんとか理解する。
    その上で、
    ・そこを狙うならば、ここに矛盾があるのではないか?
    ・そこを狙うならば、こうやった方がいいのではないか?
    であれば、好き嫌いを超えた批評になると私は思います。

    ーーーーーーーーーーーーーー

    これは議論する為の基本ルールですから、一方だけに当てはまるものではありませんよね?
    当然たかさき様の方もこのルールを守っていただかないと、


    しかし、全コメントを読み直して見ても、たかさき様は(作品に関し)ご自分のご意見を仰ってはいません。


    たかさき様が作品について断言された部分として、2つめのコメントで、

    >今回の作品は、京さんの言う「スタート地点に至るまでの登場人物たちの動き」に着目したモノで、それが作家の書きたいモノの核です。作品の構成からそれは堅いでしょう。

    こう書かれておいでですが、「なぜそう考えたか」が一切書かれておりませんね。
    「作品の構成からそれは堅い」とは何をもってそう考えたのですか?
    「観れば分るだろう」は根拠にはなりませんよ。私も同じ言葉で返してしまえば永遠に平行が続くだけの不毛な会話だからです。
    これ、「オレはそう思ったからそうなんだ。」と同じ論法ですからね。

    そして、他の部分については、たかさき様はご自分のご意見を書かれてはおりません。
    私の意見を否定している部分はいくつも散見できますが、それに対する、ご自分のご意見は一切ありませんでした。
    私たち2人は対峙してすらいないのですから、あなたのご意見が分らないままでは論争はできません。


    たかさき様は私の文章に関して、大まかに言えば、根拠が足りない(または示さず)作品批判を行っている。ということを問題のひとつとされておいでだと思いますが、ならば、「そうじゃないと思う。」ではなく、根拠を示し反対意見を述べて下さい。





    次に、前回頂いたコメントに対し返答いたします。


    >しかし、京さんにとって、一観客同士として議論することができない。ということは理解しました。

    >上記3点はいずれも、私の意志とは異なりますし、認められません。
    京さんが、そのように考えていることは理解しました。

    等ですが、
    私(京)が「そう考えている」のではなく、(京を含む)多くの人間が(普通・一般的には)そう取りますよ。と言ってるのです。

    たかさき様が、「認めない」ことはもちろん(私を含め多くの人が)分っています。しかし、たかさき様の書き方では「そう捉えられても仕方ない」ですよ。とお教えしたのです。
    (他の部分にも関連することですが)これは「後付け」ではありません。
    「一般的な」社会人なら当たり前過ぎて、そこまで書かなくても分るだろうと思ったからです。

    「どう思っているか」ではなく「どう見えるか」が重要視されるのは演劇も社会も同じでしょう?



    >多くの人がどううけとるかは、多くの人の判断でいいのではないでしょうか?それは私の意思と違うこともあるでしょうし、京さんの意思と違うこともあるでしょう。

    そんなことは当たり前です。

    他の部分でも書かれておいでですが、「ご覧いただいている方に判断を委ねたい」のは最終的には当たり前の事であり、それ以前に、自分の意見を出す→最終的な判断は見る者に委ねる。
    となるのではないですか?
    自分の判断を、(根拠を示さないまま)一切述べず、判断は他の人任せとは無責任ではないですか?
    少なくとも私は自分の意見は述べていますよ。



    >今回、京さんの文章を読むと、前半部は、作家・演出が狙いとしたことへの理解なしに、進んでいるように私には思えました。
    (その先がみたいのだのあたり)


    「その先」の説明は以前致しましたよね?
    ただ、ここについてはじっくりと語る必要があると考えますので、(他の「後付け」のことにも関わってくるので複雑になります)、必要であれば別にご説明します。


    >作者はその手前までの人間を書く事を、狙いとしていると私は考え、ここを理解し、前提とした上で、ここから出発しないと、好き嫌いの範疇を超えないと、私は考えます。

    「なぜ」そう考えたのですか?
    それが示されていません。よって、「なんとなくそう思った」だけ「感情で言ってみた」だけと同じ程度の説得力しか持ちません。


    >京さんの主張は、この作品がやりたいことを理解せずに、作品が目指すものと違うものを観たいという主張と私は理解しました。(現に成立していると私は考える。)
    これは、好き嫌いの範疇と私は考えました。


    これもです。
    「なぜ」がありません。
    ただ、あなたが考えただけで根拠はないのですね?



    次に、「誤り」に関しての部分です。

    >1 作品の狙いを十分理解せず、不十分な検証で、自分の好き嫌いを我々と客観意見のようにかいた。

    同じ事を書くのは疲れるのですが、「なぜ」、「作品の狙いを十分理解せず」、「不十分な検証」だと考え、「自分の好き嫌い」だと判断したのですか?

    これも当たり前ではありますが、一応の断りを入れます。
    「我々」は「私」を含めた複数です。
    そして、これも当たり前ですが、「私」が思ってもいないことを「我々」とは(基本的に)書きません。

    またもや当たり前の前提ですが、「完全な主観」や「完全な客観」というものは存在しません。
    「一番最初に思ったこと」は「主観」でしょう。しかし、我々は、今までの経験や知識、他人の意見とすり合わせ「客観」を作るのではないですか?
    それが議論というものでしょう。

    上の文に関しては、「だから私は主観でものを言ってる」という意味ではありません。
    (当然)主観からはじまってはいるが、客観性を持たせるよう努力している。という意味です。


    >2(好き嫌いではないという前提で)十分な検討なしに「感情が高ぶったところでは大声を出す」の表面上の批判にとどまり、その不十分な例示一つを一般化して、ありきたりで浅すぎると飛躍的な断定の根拠とした

    ここについても以前ご説明はしましたが、作品内容に関わることなので、「その先」と同じように必要であれば説明し直します。



    >これは、私が感じるだけですので、他の部分も含め反論はもちろんお受けするとして、ご覧いただいている方に委ねたいと思います。

    ここもですが、逃げないで下さい。
    「あなたが感じた主観」の話でしたら、話し合う必要は生まれないのですよ?
    そして、「ご覧いただいている方に委ね」るのであれば、議題にする必要すらなくなるでしょう?

    ここまでのあなたはいちゃもんをつけているだけで、「何の意見も述べず、判断は他人任せ」ですが、どうなんですか?



    >ご自分は芝居の厳しい批評をするのに、ご自分の批評に対して批評されると、京さんはそれを恫喝・言論統制とおっしゃっています。


    違います。
    私は謝罪するべきような事を書いていないのに、「謝罪要請(要求ではなく検討ですので、違う言葉に変えました)」をされたのです。
    私が、「恫喝・言論統制」と言ったのはこのことです。

    私は演劇人ではありませんし表現者でもありません。
    しかし、誰もが見ることができるウェブ上に、「作品(演劇作品と対にするため、作品と言えるレベルかは置いておいてこの表現にしておきます。)」をで発表したのですから、この作品(書いたもの)の出来不出来についての批判は受けますが、それ以外についての理不尽な要請はおかしいとおもいます。
    しかも、たかさき様は立場上、主催者側の人間です。
    主催者側の人間が、迷惑行為・妨害行為などを行っていない客に対し「謝れ」は明らかに行き過ぎとは思いませんか?
    あなたがどれほど関わっているかが問題ではないですよ。それこそ「形式上」の問題、世間がどう見るかなのです。


    >ここまで書かれる人が、一般観客と自己定義されるのも私には違和感があります。自分は一般観客だから、ひどいことをいわれる筋合いはない。といっているように私が思える部分も一部ありました。

    では、どこまでが「一般観客」ですか?
    私は「関係者ではなく、招待券などで入ったわけでもない」んですよ?

    そして、後半も「一般観客だから、ひどいことをいわれる筋合いはない」のではありません。
    主催者側が客に対し「こんな意見はいけない」と言うのはおかしい。と言っているのです。
    「演出意図からしてこの意見は的外れだ」と思ったならば、根拠を示し、そこで発展的な論争をすればいいだけで、「謝罪」する必要はないでしょう?

    「私がひどいと思ったかどうか」
    など関係ありません。


    >好き嫌いで酷評していると私が思える人が、やってる側に伝わる言葉で書けるようになってほしい。または十分な検証に基づいて書いて欲しいと望んでいました。


    ここに関しては、素直に受け止めます。
    たかさき様には、私の感想は好き嫌いで書いているようにしか見えなかった。それならもっと読む者を納得させる文章を書くべきだ。
    ということですね。
    精進いたします。



    >批評されたら、排除しようとしている。というのはちょっとひどいと私は思います。


    は、上で説明したので、誤解だとわかっていただけると思います。


    >今回のような、私には雑駁な中傷と思えるようなものは、私は書いてほしくない。せめてブログで書いて欲しいと私は思います。

    なぜブログならOKでコリッチはダメなのかが分りません。が、「雑駁」の部分がダメなのだろうと私は理解しました。
    なぜなら、私は「中傷」はしていないからです。
    後にも書いてあるとおり、「中傷」だと感じたのは、たかさき様の主観でしかないですよね?





    >京さんの文章で多いのは、後付けでの自分の都合のいい説明です。


    このことに行きましょう。



    >一つの単語は、たいてい複数の概念を含みます。

    これはその通りです。


    >京さんが、よく使う手は、複数の概念のうちの最も自分に都合のいい部分を後付けで取り上げ、これが真意だった。それは普通の読解力で辿りつける。という主張です。


    「最も自分に都合のいい部分」
    ここに関しては、たかさき様の文章にこそ目立つロジックです。
    (何度も申しますが)私の文章力が足りないせいで読みきれない部分が出るのは私の不手際ですが、「○○という言葉は、××という意味も含んでいる」というのはよくある事で、私はそれほど深いことなど書いておりません。
    「後付け」と仰るのも、「この文書はこういう意味です」と書いているのは「補足説明」であり、「新たな解釈・説明」などは行っておりません。
    「補足説明」をしなければ、質問に対しお答えすることすら出来ません。


    >言葉には複数の意味があるので、そのすべての言葉をいろいろに読み替えて、理解するという作業を要求されたと


    上に書いた事により、「すべての言葉をいろいろに読み替え」させるほどの複雑な事は行っておりません。
    あくまで、以前の言葉を元に、それを膨らませる(これを「でっち上げる」等の意味に取らないで下さい。「深く掘り下げた」等であり、新しく作ったわけではありません)よう補足したのです。





    >>出来の悪かった舞台は貶します。

    >たとえば、貶すは「よい点は無視し、わざわざ悪い点ばかりとりあげて非難する。くさす。」(日本国語大辞典)とあります。
    貶すは、そこまでひどくない意味で使われるケースがあり、非難する程度の意味に捉えています。


    ここのところ、私は読み間違いをしているかとも思いますので、仮説を立てた上で答えますが、「貶す」の辞書的な意味を超えた範疇で、私がこの言葉を使った。と言いたいのでしょうか?
    たかさき様の文章からするとそうでもないような気がして判断がつかないのですが・・・。

    「貶す」の意味を幾つかの辞書で調べてみたところ、「悪く言う」程度のものもありましたが、「よい点は無視し、わざわざ悪い点ばかりとりあげて非難する。くさす。」もありました。
    「よい点は無視し」では確かに語弊がありますね。誰もが素直に受け取れない可能性はありますので、この言葉はあまり使わないようにしましょう。



    >誠実、というのは私の独自の定義で言うならば、相手に伝わるように努力する。になります。または十分な根拠を示す。です。
    京さんが、京さんの独自の定義において誠実であることはわかります。

    京さんの書き方が一般的に誠実なものかどうかは、ご覧いただいている方に判断を委ねたいと思います。


    これは私は「充分とはもちろん言えないがしている」と答えます。
    伝わるよう努力して書いているのは事実ですし、不誠実な対応をしているというならご指摘頂きたいです。

    それから、「一般的に誠実なものかどうかは、ご覧いただいている方に判断を委ねたい」と、また逃げを打っていますが、つまり「たかさき様は、私は誠実ではないと感じている」ということですよね(この文章からはそう読み取れますよ)?

    しかし、以前たかさき様はこう書かれております。


    >ここまで掘り下げた中で、議論をかみ合わせることを指向し、かつ、乱暴ではない言葉遣いで対応ができる方は極めて限られており、誠実に対応していただいていると考えています。

    あなた自身が「誠実だ」と書いているのですよ。嘘なら書かないで下さい。自己矛盾を起こしてますよ(ここだけに限らず、他でも見受けられることです)。



    >>好評価の意見に対しては的外れでも、歓迎・(または)スルーであるのに対し


    ここですが、私は別にこのこと自体に文句があるわけではありません。
    (的を射ていても)批判に対しては、劇団・主催者側から文句が来るのに(作品批判に対するやり取りではなく、それこそ感情的なものばかりです。)、褒めていれば(的外れでも)歓迎というのは、ダブルスタンダードではないかと言いたいのです。


    >こういうサイトでは、見ている人に不快を与えないような筆力を備えて書くなどの配慮が、良識ある人に求められると私は考えます。


    ですが、私は人に不快を与えるような乱暴な物言い等は一切行っておりません。
    「筆力を備え」ろと言うなら、「筆力のない者は書くな」ということですね。それなら私以外にもたくさんの方が当てはまりますよ?
    私の例を出すなら、「不快に思う」文章を書く方はいらっしゃいます。
    しかし、それこそ不快でしょうし、私が言うべき事などではありませんから、言ったりはしません。
    自由に感想を書けるサイト(と私は認識しておりました)でそんな事をするのはそれこそ言論統制でしょう。私は何様ですか。



    >私の文章で、京さんに対し、もっとも乱暴な言葉づかいをしたのは
    >いさぎ悪い。
    だと私は考えています。
    しかし、これには根拠を示していると私は思いますし、読んでいる方に共感が得られると私は考えています。


    ここですが、探してみましたが、根拠と言えるよえなものは見つけ出せませんでした。
    たかさき様が主張なさるのは結局「後付け説明だ」という事に尽きます。
    そして、そのことについては説明致しました。
    もちろん、説明というのは後から付いてくるものですし、文章も長くなってますから、その印象が拭えない、という事であれば仕方のない事です。


    >一方、京さんの言葉で同じくらい乱暴なのが
    >自覚していないのならあなたは愚か者です。
    >自覚しようとしていないならあなたは卑劣漢です。
    の部分だと私は考えています。
    私には十分な根拠の提示を見つけることができません。読んだ方の判断に委ねたいと思います。


    ここは確かに説明していませんね。
    が、元の文章にあるように「書くのも馬鹿らしく」なるほどで説明がいらないと思うからです。
    上で引用した文は、元の文ではその上に書いている、


    >もしも、今回のやり取りが誰かに頼まれたものでしたら、観客や他地方からの信用を失うだけだからお止めになった方が賢明です。
    もしも、ご自分のご意思でしたら、それは救いようのないことだと思います。


    たかさき様、私は、舐められ・馬鹿にされることには慣れていますので、それに対して腹は立てませんが、あなたを含め(いままで食ってかかった方々)の「この程度で丸め込める」という魂胆が、「私にすら」見えてしまうことは悲しいばかりです。
    もっと上等な仕掛けをして下さい。



    ここに直接はかかります。
    「あなたが誰かから言われたなら」という仮定が最初に入っていますので、基本的には私の個人的予測ではありますが、人を馬鹿にしているのがまるわかりの文章を書いておいて(それは私の解釈の方が間違っている。と、根拠も示さず断言したことからも、私を見下してかかっていることは明白です。)、他の公演の感想については今まで何も言ってこなかったのに(むしろ同調していることすらありました。)今回に限り、必要以上に絡んで来るのは何かあると思わない方が不思議ではないですか。
    酷評というなら、他の公演の方が酷いことを書いていることもありますよ?
    それが根拠です。
    これも「後付け」と仰るでしょうが、やはり読め取れないほどのことなど書いてないと思うのです。


    そして、これも同じで、あなたがどう思っているかではなく、どう見えるか、ということです。




    >>「そんな事をするのは子供か本当に考えのない人間くらい」
    >関係者が一般観客を恫喝するというのは如何なものかと思います。

    これについては、乱暴を超えたレベルにいっていると私は思いました。なので、取り消すか謝罪を検討すべきレベルと考えます。と意見表明しました


    この2つですが、どちらについても、謝罪・取り消しの必要はないと考えます。

    「そんな事をするのは子供か本当に考えのない人間くらい」
    は、演出・演技上の問題を指しているのであって、「そんな演技・演出ではこう見えるぞ」という批評にあたると考えます。ただし、分りにくい。というご批判なら受け付けます。


    「関係者が一般観客を恫喝するというのは如何なものか」
    も、これはあなたが「していない」と仰っているだけであって、「受け手の問題」というとり方をしてしまえば、私は「主催者側から謝罪しろとは、恫喝されているように感じた」となります。
    これもまた同じです。
    どう思ったか、ではなく、どう取られるかです。
    あなたが感想を書いた立場で、「役者が下手だった」とか「演出が幼稚だ」と書いたとしましょう。
    そこで主催者側から、「なんて酷い言い草だ、謝罪しろ。」となったらおかしいとは思いませんか?
    第三者ならもっとハッキリ分るでしょう。
    観客の自由な感想を許さないとは表現者として失格ではないですか。



    >その他、今回、いくつかの成果はあったと考えています。

    ひとつには「蛇足ではありますが、たかさき様は私に筆力がないと仰いました。
    それを否定する気はありません。」と表記していただくに至ったこと。

    京さんの説明をきく中で、当初の文章が修正され、根拠が明確になり、批評が強化されたこと。

    また、以下の点で合意に至れたことは、私はたいへん大きいと思っています。
    (反論忘れでなければですが)
    「十分な事実の提示と分析があり思考の過程が明確なものは、好き嫌いを超えた価値をもつ。というところもおそらく同じ考えではないかと推測しています。」


    この部分については、細かい事をいえば微妙に違ってきてしまいますが、概ね異論はありません。




    >私の批評で不快な思いをさせたことと思いますが、同様に、ご自分の書かれるものが劇団にどのような思いをさせるのか、一度立ち止まって考えていただければ幸いです。


    たかさき様は論拠もご自分のご意見もほぼ書かれておりませんので、批評にはあたりません。
    また、ここまでの事で私は腹を立てたりはいたしておりません。

    ただし、「ここまで」のことです。
    ここからの部分には腹を立てております。


    「ご自分の書かれるものが劇団にどのような思いをさせるのか」

    これはどういう意味ですか?

    何度も書きましたが私は劇団に対する誹謗中傷など一切行っておりません。
    誹謗中傷とは、例えば「(もちろんそんな事実は一切知りませんが)○○劇団の誰々と誰々デキてるらしいよ。」などではありませんか?

    お金を取って作品を発表する者に対し、作品がつまらなかったらつまらないと言うのがどうしていけないのですか?
    批判されたくないなら発表しなければいいでしょう。
    どこがつまらなかったかも私は出来るだけ書くようにはしています。

    劇団の誰かが、「酷い酷評されてショックだ」というなら、次はもっといい物を作って評価を上げればいいだけの話ではないですか。

    そして、たかさき様が、「劇団にどのような思いをさせるのか」を知っているというなら、劇団の誰かからそんな訴えがあり(京の書くものが嫌だ。とか)、今回の書き込みに出た、という証明になりませんか?



    >面白いことが期待できない芝居は観に行かなければすみます。ブログの批評もみなければすみます。CoRichは福岡の演劇ポータルサイトとして機能しており、みなければすむサイトではありません。CoRichには書かれずにブログのみで書かれるのも見識だと思います。無論、どうされるかは京さんの選択です。


    「面白いことが期待出来ない」なら観に行きません(もちろん期待度には度合いがありますが)。
    最初から「つまらないけど行こう」なんて人はいないでしょう。
    期待値がある・興味のある題材だ。など、何かしらがあって行くのです。

    「CoRichは福岡の演劇ポータルサイトとして機能しており、みなければすむサイトではありません。」
    これについては納得いかないのですが、私はコリッチもブログ同様に興味がない感想については読みません。そして、そういう使い方の人はけっこういるように見受けます。
    私の文章を読みたくなければ、それこそ読まなければいいのです。

    私は、いろんな感想があっていいと思うので、たとえ不快だろうが多彩な感想もコリッチのひとつだと思うのですが、
    「CoRichには書かれずにブログのみで書かれるのも見識」
    とは、あなたはそうは思わないのですね。
    賛辞一色、または批判一色のサイトなど不健全だとは思いませんか。
    「どうされるかは京さんの選択」と、また逃げを打っていますが、「お前は邪魔だから出て行け」と言っている事になぜ気付かないのですか?
    表現の自由は演劇の基本でしょう。
    その上で全ては批評されるべきなのです。


    以上の理由から、
    「京さんの選択」
    ならば、出て行きません。
    私は福岡コリッチの偏向した感想を不健全だと思っているからです。
    バランスがあり(面白い物は褒め・つまらなければ批判する)、私よりも素晴らしい書き手が現れてくれれば(私に文章力がある、と「私が思っている」との誤解無きよう)、私ごときが書く必要はないので無理に書いたりはせず、喜んで退散いたします。

    2010/11/01 02:54

    コメントありがとうございます。
    「京さんにとってありえない。」というだけで、独自の見解になっているように思えます。

    「わかりました、一観客同士で議論しましょう。」ということは京さんにとってありえないとしても、私はそういう議論を行ったことがあります。
    この一事で、多くの挙証、そこから派生するご主張を相対化していると思います。

    しかし、京さんにとって、一観客同士として議論することができない。ということは理解しました。

    >議論を続けるという事は、あなたは、これに「諾」と答えたということになるです。
    >「そう思われても構わない」と答えたのと同じことになるのですよ?
    >あなた自身にそのつもりがなくても、これを読んだ多くの人がそう取ると思います。

    上記3点はいずれも、私の意志とは異なりますし、認められません。
    京さんが、そのように考えていることは理解しました。

    多くの人がどううけとるかは、多くの人の判断でいいのではないでしょうか?それは私の意思と違うこともあるでしょうし、京さんの意思と違うこともあるでしょう。


    ひきつづき一観客の立場からの私見を述べさせていただきます。
    (議論を続けることが、「>「そう思われても構わない」と答えたのと同じことになるのですよ?」などのご主張については、認められません。と回答いたします。)

    これが、京さんの議論を続ける条件に合わないのであれば、ご回答頂く必要はありませんし、そのことについて問題にもしません。

    京さんが共通理解は無理だとおっしゃっておりますが、今回のことについて、共通理解は、断念しました。
    よって以下は、共通理解を求めるものではありません。私の私見です。
    スルーされても不誠実だとは思いません。

    また、質問への回答をしていない部分があります。共通理解を目標にしなければ不毛だと私は思いますが、改めてご質問されればできる限り回答します。

    言葉の定義や、議論のルールの共有を行って、議論をしたいと思っておりましたが、その部分でさらに争点が拡がっているため、共通理解を目的にしたものはあきらめ、芝居の感想についての私の私見を述べることを目的とさせて頂きたいと思います。

    ——
    好き嫌いを超えた感想というためには、作者・演出家がやりたいこと(狙い)から出発する必要があると私は考えています。
    作者・演出家がやりたいことを理解しないままの意見は、好き嫌いの範疇を超えないと私は考えています。

    作者・演出家が狙いとしたことを、まずは、なんとか理解する。
    その上で、
    ・そこを狙うならば、ここに矛盾があるのではないか?
    ・そこを狙うならば、こうやった方がいいのではないか?
    であれば、好き嫌いを超えた批評になると私は思います。

    今回、京さんの文章を読むと、前半部は、作家・演出が狙いとしたことへの理解なしに、進んでいるように私には思えました。
    (その先がみたいのだのあたり)

    作者はその手前までの人間を書く事を、狙いとしていると私は考え、ここを理解し、前提とした上で、ここから出発しないと、好き嫌いの範疇を超えないと、私は考えます。

    京さんの主張は、この作品がやりたいことを理解せずに、作品が目指すものと違うものを観たいという主張と私は理解しました。(現に成立していると私は考える。)
    これは、好き嫌いの範疇と私は考えました。

    京さんの当初の文章が「私は」という表記であれば、主観意見なので、突っ込みようがありません。しかし「我々は」という客観表記だったので、そこには少なくない誤りがあると私は考えました。

    今回、一番いいたかったのは、「好き嫌いを超えていると言うためには、作品の狙いの理解から出発すべき」ということなのですが、裾野から理解を積み上げて、この共通理解に達することはできませんでした。残念です。
    共通理解に至れば、この意見は客観性を帯びますが、今の段階では私の主観的な考えに過ぎません。
    ご覧いただいている方に委ねたいと思います。


    京さんの当初の文章については、私には以下の誤りがあると感じました。

    1 作品の狙いを十分理解せず、不十分な検証で、自分の好き嫌いを我々と客観意見のようにかいた。
    2(好き嫌いではないという前提で)十分な検討なしに「感情が高ぶったところでは大声を出す」の表面上の批判にとどまり、その不十分な例示一つを一般化して、ありきたりで浅すぎると飛躍的な断定の根拠とした

    (京さんの脳内には、十分な理論構築がされている可能性まで否定していません。)
    (また、個人の主観、好き嫌いで書いたということで、その外形があるならば、ツッコミようはありません(ここは今回私が主張したいもうひとつの大きな部分です。))

    これは、私が感じるだけですので、他の部分も含め反論はもちろんお受けするとして、ご覧いただいている方に委ねたいと思います。

    >恫喝・言論統制を行う、

    行っていません。

    ご自分は芝居の厳しい批評をするのに、ご自分の批評に対して批評されると、京さんはそれを恫喝・言論統制とおっしゃっています。

    また、私は「謝罪を検討するレベル」という表現しています。これは謝罪要求ではないです。
    謝罪に値する表現をされていると私は考えますが、一歩引いたところから「謝罪を検討するレベル」と表現しています。

    ここまで書かれる人が、一般観客と自己定義されるのも私には違和感があります。自分は一般観客だから、ひどいことをいわれる筋合いはない。といっているように私が思える部分も一部ありました。
    (基本姿勢は批判ウェルカムだと理解しています。)

    言葉の定義次第ですが、私の定義では「一般観客」にはなりません。
    京さんが一般観客か否か、これはご覧頂いた方に委ねたいと思います。

    >「福岡の演劇人は、酷評を出すような気に食わない観客を恫喝してでも排除する」です。これが望みですか?

    望みません。恫喝も排除もしていません。
    好き嫌いで酷評していると私が思える人が、やってる側に伝わる言葉で書けるようになってほしい。または十分な検証に基づいて書いて欲しいと望んでいました。

    批評されたら、排除しようとしている。というのはちょっとひどいと私は思います。
    ご自分も同じ経験をされていると思いますが。

    伝わるように書く努力をされるか、相当な根拠・十分な思考・それを伝える筆力を備えたものを書くように努められるならば、どんどん書いて欲しいと私は思います。
    今回のような、私には雑駁な中傷と思えるようなものは、私は書いてほしくない。せめてブログで書いて欲しいと私は思います。
    これは、個人的な希望に過ぎず、どうされるかは京さんの主体的な選択です。いうまでもなく、京さんの言論を統制するものではありません。

    それを読んで、苦々しく思うのも、批評の批評をするのも、私の主体的な選択となります。

    -----

    京さんの文章で多いのは、後付けでの自分の都合のいい説明です。

    一つの単語は、たいてい複数の概念を含みます。
    京さんが、よく使う手は、複数の概念のうちの最も自分に都合のいい部分を後付けで取り上げ、これが真意だった。それは普通の読解力で辿りつける。という主張です。

    いくつか、例示します。

    >考えがなさ過ぎる。とは「安易」との意味にも取れますが、文字通り「考えが足りない・浅い」とも読めませんか?
    >これは暗喩といって、「その演出ではこんな風に見えてしまいますよ」という意味です。
    >私は、「感情が昂ぶったら大声を出すことは有り得ない」と言っているのではなく、正にたかさき様の仰る通り、「脚本上・演技上、適切」ではない。ということを問題にしている
    >この「先」というのは単純な「ストーリーの先」という意味だけでしか取れないようなら分りにくいでしょうが、「一歩先」「一段上」読みかえれば分ると思います。「そんな事は書いてない」とは言えません。そういう読み取りは充分普通に行われることです。

    >言葉の裏の裏まで読む必要はないですが、その言葉に含まれる意味も考えて下さい。
    >書いているそのままのことしか読み取れないようではどうかと思います。特に演劇に関わる人間は。
    >たかさき様のあまりに表面しか読まない文章読解能力の方に問題があると思います。
    >今までたかさき様が、言葉を表面だけでしかご理解されていない事、言葉に含まれる意味をご理解されていない事、そしてなにより、その表面上の言葉を自分流に曲解することだけで理論を進められてきた事で証明されると思います。

    これは、私とは、議論のルールにおいて、立場の違いが相当にあります。
    私の言葉の定義では、こういうのが「言葉遊びです」
    京さんの立場からすれば、私の読解力がないことが問題だそうです。
    自分流の曲解がどちらに多いのかもあわせて、ご覧いただいている方に判断を委ねたいと思います。

    当初の文章に、事後説明による修正を加えた文章をつくってみました。この内容であれば、おそらく私も突っ込むことはなかったと思います。当初とは読む側の印象は大きく変わっていると私は思いました。
    (許可いただければコメントに載せます)

    演劇を見るときは、当然、裏の裏までみます。こういうサイトの投稿では、ストレートに読みます。
    言葉には複数の意味があるので、そのすべての言葉をいろいろに読み替えて、理解するという作業を要求されたと私は受け止めていますが、これが正当な要求なのかは、ご覧いただいている方に委ねたいと思います。

    >出来の悪かった舞台は貶します。

    たとえば、貶すは「よい点は無視し、わざわざ悪い点ばかりとりあげて非難する。くさす。」(日本国語大辞典)とあります。
    貶すは、そこまでひどくない意味で使われるケースがあり、非難する程度の意味に捉えています。



    >私は特殊な言葉遣いは一切しておりません。

    この京さんのご主張は、ご覧いただいている方に判断を委ねたいと思います。

    >個人の好みで感想・劇評を書くものではない。という事を覚えておいて下さい。

    京さんが、個人の好みで乾燥・劇評を書いているかどうかは、ご覧いただいている方に判断を委ねたいと思います。

    >演劇作品に対しもっと誠実に感想を書くべきだ

    誠実、というのは私の独自の定義で言うならば、相手に伝わるように努力する。になります。または十分な根拠を示す。です。
    京さんが、京さんの独自の定義において誠実であることはわかります。

    京さんの書き方が一般的に誠実なものかどうかは、ご覧いただいている方に判断を委ねたいと思います。


    >好評価の意見に対しては的外れでも、歓迎・(または)スルーであるのに対し

    これ、気持ちはわかります。
    けど、演劇を娯楽としてみて、楽しんで観て、楽しい気分になっている思いを、阻害する面もあるかと私は思います。
    (今回の件については、私にも同様の罪があることを自覚しています。)

    こういうサイトでは、見ている人に不快を与えないような筆力を備えて書くなどの配慮が、良識ある人に求められると私は考えます。
    (ご自分のブログであれば、条件は違います。)
    (私の個人的希望であり、どうされるかは、京さんの主体的判断です。)


    -----

    私の文章で、京さんに対し、もっとも乱暴な言葉づかいをしたのは
    >いさぎ悪い。
    だと私は考えています。
    しかし、これには根拠を示していると私は思いますし、読んでいる方に共感が得られると私は考えています。

    一方、京さんの言葉で同じくらい乱暴なのが
    >自覚していないのならあなたは愚か者です。
    >自覚しようとしていないならあなたは卑劣漢です。
    の部分だと私は考えています。
    私には十分な根拠の提示を見つけることができません。読んだ方の判断に委ねたいと思います。

    また、京さんの
    >「そんな事をするのは子供か本当に考えのない人間くらい」
    >関係者が一般観客を恫喝するというのは如何なものかと思います。

    これについては、乱暴を超えたレベルにいっていると私は思いました。なので、取り消すか謝罪を検討すべきレベルと考えます。と意見表明しました。

    前者については、<実は、暗喩です。>と説明されていますが、これは、ご自分でも言い過ぎを自覚され、発言を修正いただいたのだと私は考えています。
    これは、今回の成果の一つだと私は思います。

    >「誰に対する謝罪なのか」などはっきり仰らず

    これは、普通にいけば、対象はすぐに分かると思いますが・・・
    謝罪要求をしたみたいにいわれると不本意ですので、これ以上は申しません。自らお考えいただき、言うまでもありませんが、謝罪を検討するしないは京さんのご選択です。

    その他、今回、いくつかの成果はあったと考えています。

    ひとつには「蛇足ではありますが、たかさき様は私に筆力がないと仰いました。
    それを否定する気はありません。」と表記していただくに至ったこと。

    京さんの説明をきく中で、当初の文章が修正され、根拠が明確になり、批評が強化されたこと。

    また、以下の点で合意に至れたことは、私はたいへん大きいと思っています。
    (反論忘れでなければですが)
    「十分な事実の提示と分析があり思考の過程が明確なものは、好き嫌いを超えた価値をもつ。というところもおそらく同じ考えではないかと推測しています。」

    私の批評で不快な思いをさせたことと思いますが、同様に、ご自分の書かれるものが劇団にどのような思いをさせるのか、一度立ち止まって考えていただければ幸いです。

    面白いことが期待できない芝居は観に行かなければすみます。ブログの批評もみなければすみます。CoRichは福岡の演劇ポータルサイトとして機能しており、みなければすむサイトではありません。CoRichには書かれずにブログのみで書かれるのも見識だと思います。無論、どうされるかは京さんの選択です。

    2010/10/31 19:44

    たかさき@福岡様


    お返事ありがとうございます。

    まず最初にお聞きしますが、たかさき様は私の文章の全文をお読みになっていないのではないですか?


    >関係者なのにうんぬんという言い方をされないのであれば、立場はどちらでもかまいません。
    関係者であることで、発言に制約が求められるならば、そこまでのハンデ戦は難しいですね・・・

    >一観客でもあるFPAPのたかさきが、なら、問題ありません。


    この部分などを読んでいると、とてもご自分の仰っていることの意味を、ご自分で理解されていないのでは、と思ってしまいます。




    「作品についてお互いが別の見地から議論しあう」ことは私としましても歓迎したいところです。
    しかし、FPAPが関係している公演で、たかさき様と「同じ一般観客として」議論しあうことは無理です。


    前回のコメントではご理解頂けなかったようですので、もっと率直な言葉で説明させて頂きます。


    ・「一観客でもあるFPAPのたかさき」
    これがありえないという事から説明いたします。

    上にも書いたように、「FPAPが関係している公演では」無理です。
    FPAPが関係していない舞台での話であれば、一般観客のたかさき様と議論することもあるでしょう。
    しかし、今回の舞台に関しては、「関係者であるたかさき様」としてしか語ることはできません。
    たかさき様はこのコリッチではFPAPの所属であることをプロフィールに入れておいでですよね?
    とすれば、基本的にこのサイト上では「FPAPのたかさき」が発言しているのです。
    ですから、少なくとも「FPAPが関係している作品に関して」は、「一般観客=FPAPのたかさき」はあり得ないのです。

    一つだけ簡単に示すなら、「関係者であるたかさき様」と「京」が議論することしかできないのです。



    ・>関係者なのにうんぬんという言い方をされないのであれば、立場はどちらでもかまいません。

    この部分ですが、「関係者なのにうんぬん」と言うつもりは、(基本的には)ありません。
    それは、「関係者ならこんなこと知っているだろう(また逆に、なぜ知らないんだ)」といった意味合いのことを言うつもりはない。という事です。



    ・>関係者であることで、発言に制約が求められるならば、そこまでのハンデ戦は難しいですね・・・


    「関係者であることで、発言に制約が求められる」のは当たり前のことではないのですか?
    私から制約を求めることはありませんが、職業上・倫理上で当然あるだろうと予測いたします。
    「ハンデ戦」などと言われるとなんだかゲームのようで気を悪くされる方がいるのではないかと察するのですが・・・。
    「あなたの周りに」という意味ですよ。



    ・発言内容が誰にでも読めるような公のものとする。

    このことをOKされた意味はお分りですか?
    私が前回のコメントで書いたことをもう一度転載します。

    >一部の人から見ればたかさき様は福岡演劇を代表する方と見られることと思います。
    そのあなたが、(一般の人から見れば)観客に謝罪要求を出し、恫喝・言論統制を行う、というのは、たかさき様の願っているだろう「福岡演劇の発展」の阻害にしかなりませんよ?
    あなたの行ったことは、一般人から見れば、「福岡の演劇人は、酷評を出すような気に食わない観客を恫喝してでも排除する」です。
    これが望みですか?

    議論を続けるという事は、あなたは、これに「諾」と答えたということになるです。
    「そう思われても構わない」と答えたのと同じことになるのですよ?
    あなた自身にそのつもりがなくても、これを読んだ多くの人がそう取ると思います。

    たかさき様は今までのコメントで何度か「そう書いてない・だったらそのままのことを書けばいい」の旨書かれています。
    上に引用した文は分りにくくなど書いておりませんのでお分かりいただけるよう願います。



    さて、議論することに関して私の見解を示します。

    ・今回の作品に関しては、公の場に於いて、「たかさき」様と「京」は、「関係者」と「観客」としてしか語ることはできない。


    ・議論は、作品のこと(質)、演劇の表現について語るつもりはあっても、感情的なこと(単純な例だと、「誰々はがんばっている」とか)については語るつもりはない。


    ・(「京」に文章力がないことを否定する気はないが)たかさき様には、「国語能力・日本語能力」がないとしか思えないので、議論をするどころか、議論の為の共通の土台すら作れないと考える。
    つまり、議論にならない。
    これは、今までたかさき様が、言葉を表面だけでしかご理解されていない事、言葉に含まれる意味をご理解されていない事、そしてなにより、その表面上の言葉を自分流に曲解することだけで理論を進められてきた事で証明されると思います。


    以上をしっかりご納得の上ならば、

    ・私の感想から始まった論争に関して私からそっぽを向くような失礼をするつもりはない。

    ということです。

    そして続けるなら、

    ・(そのつもりがあったかどうかなどは関係なく)たかさき様が関係者であるにもかかわらず、一般観客を装って論争を仕掛けたこと。
    問題は、「論争を仕掛けたこと」ではなく「観客を装った」ことです。

    ・その上で、「謝罪要求」まで出したこと。
    また、そのことを質問しても、「誰に対する謝罪なのか」などはっきり仰らず、以降触れようともしておられません。

    以上の点に関しまして、私からたかさき様に問い質すつもりです。
    この点は、演劇の「表現の自由」にも関わることだと思いますので、はずれる話題ではないと考えます。


    もう一度言いますが、これはたかさき様に非常に分が悪い結果になると思いますよ。
    このまま進めていけば、たかさき様ご自身のお立場を危うくすることもあるのではないですか?
    またもしも、何も起こらなければ、福岡の演劇界は、それを許すような(観客への恫喝等)排他的な腐ったところだと世間に示すのと同義になってしまいますよ?


    誤解無きようお願いしたいのですが、私があなた様を心配する義理は全くありません。
    しかし、この慇懃無礼な文章も親切心から書いております。
    もう一度ご再考の上お返事下さい。

    2010/10/31 00:01

    >公に誰もが見れるものであること(プライバシーなどの問題を除き、密室会議は好みません)。

    問題ありません。

    >FPAPのたかさきが、その立場で書いている。と世間に認識されても構わない。

    関係者なのにうんぬんという言い方をされないのであれば、立場はどちらでもかまいません。
    関係者であることで、発言に制約が求められるならば、そこまでのハンデ戦は難しいですね・・・

    形式性の強い関係者で状況は大して知らないのですが、すべてをパーフェクトに知っている内部関係者として、発言を受け取られると、迷惑をかける先もありますので。

    一観客でもあるFPAPのたかさきが、なら、問題ありません。

    「共通理解」だけ。

    共通理解は、「合意できる点を明らかにし、最終的に意見が異なる場合も相手の意見を自分とは違うけれども、理解はできる。」

    という意味であれば、大丈夫でしょうか?

    2010/10/27 22:24

    たかさき@福岡様

    お返事ありがとうございます。


    今回は箇条書きに、各設問に答えさせていただきます。


    >まず、前提となる、
    ・ 議論を深め、できるならば共通理解に達したい。
    ・ 演劇というメディアにとってできるならばプラスになることをしたい。
    ということは、おおむね共有できていると思っていいですよね。

    この点ですが、ここから違います。
    細かい言葉の問題まで書くと煩雑になるのでそこは書きませんが、

    「・ 議論を深め、できるならば共通理解に達したい。」

    議論のベースは同一軸上でないとまずいですが、共通理解に達する必要はないと思います。
    (実際には違うのですが後の設問で答えます)我々はひとつの問題を議論する立場にいるだけで、「合意」することが最終目標ではないからです。

    「・ 演劇というメディアにとってできるならばプラスになることをしたい。」

    私にはそんなおこがましい思いはありません。
    演劇を観て楽しみたい。感想を書くならば、制作者たちの労に対し誠実に感想を書きたい。そう思っているだけです。
    もちろん、面白い・出来のいい舞台は褒めるし、出来の悪かった舞台は貶します。
    詰まらなかったのに褒めるのは不誠実だと思っているからです。




    >>これには、もちろん「私」も含んではいますが、複数の意味です。

    この点も答えると細かくなるので難しいですが、
    まず、たかさき様は勘違いをしておられます。


    >「登場人物の「この先の話」を知りたいと、我々(=私および多くの人)が考えている」
    という表現には、

    1 京さんがそう考えている
    2 (京さんをのぞく)多くの人がそう考えている

    の二つが同時に含まれますよね。



    ですが、「二つが同時に含まれ」ることはありません。
    なぜならこの二つは別の論点(論法と言った方がわかりやすいでしょうか)から語られているからです。
    そして、どちらも間違っています。

    1.は「京」という私個人を指していますよね?
    「我々」とは複数です。個人ではありません。

    2.は「京」をなぜか除外していますね。
    たかさき様も書かれた通り、「我々」とは、「私および多くの人」です。
    「私個人」をわざわざ除外するということは、「私」は一般の観客(批評家なども含めた意味で)からは別次元で見ている。ということにもなります。
    そして、私はこんな見方はしていません。たかさき様もそこは私と同じだと思うのですが?

    だとすれば、この二つは前提として成立たない、と結論付けられると思います。

    当然、「必要条件を満たしている」ません。


    これ以降の2人の思い違いについてですが、「我々」という言葉を読み間違えている時点で、「我々2人」の意思が疎通することはなかったのです。
    ですから、「お互い未熟だった」のではなく、言葉の意味を知らなかったたかさき様の落ち度です。
    私は特殊な言葉遣いは一切しておりません。


    この後の「合意」いただいた点に関してはとばします。



    さて、一番の問題と思われる、

    >>たかさき様は(どの程度係わっておられるかは知りませんが)この芝居の関係者ですよね?


    ですが、


    >京さんも自分の書いたものが絶対とは思ってませんよね?私もそうです。書いたものに対する批判は、基本的にウェルカムであり、立場を超えて(匿名とかは除く)、内容で判断したいというお考えかと思いますが、いかがでしょうか?

    ここの部分は同じ意見です。(但し、私は匿名もアリだと思ってます。)


    ですが、直接芝居に関わっていない(直接でないだろうことは知っています)とはいえ、「共催団体に名を連ねている団体」のトップ(と私は認識しています)が、「関係者だけどセーフ」とは言えないでしょう。
    「FPAPのたかさき」の看板を背負ったままで「一般客と同じ」とは無理がありすぎます。


    上の方の設問で「ひとつの問題を議論する立場」と書いてはいますが、この前提は成立たないのです。
    もちろん、「私たちが個人的な知り合いで、芝居の感想を言い合う」だけならなんの問題もありません。
    しかし、公の場で、同じ立場はありえません。


    ご提案頂いた、スレッドの件ですが、

    ・公に誰もが見れるものであること(プライバシーなどの問題を除き、密室会議は好みません)。
    ・FPAPのたかさきが、その立場で書いている。と世間に認識されても構わない。

    以上2点は最低条件です。

    私としては、たかさき様と意思の疎通も、議論の合意に至ることも無理ではないかと思っております。


    老婆心ながら言わせて頂きますが、一部の人から見ればたかさき様は福岡演劇を代表する方と見られることと思います。
    そのあなたが、(一般の人から見れば)観客に謝罪要求を出し、恫喝・言論統制を行う、というのは、たかさき様の願っているだろう「福岡演劇の発展」の阻害にしかなりませんよ?
    あなたの行ったことは、一般人から見れば、「福岡の演劇人は、酷評を出すような気に食わない観客を恫喝してでも排除する」です。
    これが望みですか?

    もしも、今回のやり取りが誰かに頼まれたものでしたら、観客や他地方からの信用を失うだけだからお止めになった方が賢明です。
    もしも、ご自分のご意思でしたら、それは救いようのないことだと思います。


    たかさき様、私は、舐められ・馬鹿にされることには慣れていますので、それに対して腹は立てませんが、あなたを含め(いままで食ってかかった方々)の「この程度で丸め込める」という魂胆が、「私にすら」見えてしまうことは悲しいばかりです。
    もっと上等な仕掛けをして下さい。

    書くのも馬鹿らしくはありますが、「そんなつもりはない」とは言わないで下さい。
    自覚していないのならあなたは愚か者です。
    自覚しようとしていないならあなたは卑劣漢です。

    2010/10/27 21:03

    京様

    お返事ありがとうございます。
    さて、論点がだいぶ増えてきました。どう議論を組み立てていくか考えております。基本に立ち返ります。(争点、質問にはちゃんと回答します。)

    まず、前提となる、
    ・ 議論を深め、できるならば共通理解に達したい。
    ・ 演劇というメディアにとってできるならばプラスになることをしたい。
    ということは、おおむね共有できていると思っていいですよね。

    それと、言葉に対する感覚が、異なるので、ここである程度の共通のルールを確認する必要があるかと思います。言葉の定義も詰める必要がありそうです。
    これは、改めて確認します。

    >これには、もちろん「私」も含んではいますが、複数の意味です。

    我々のやりとりを俯瞰していて、ここ、なんか、議論がかみ合ってないなーとおもっていたのですが、この部分の行き違いの理由がわかったような気がします。

    ここ精緻につめたいと思います。

    「登場人物の「この先の話」を知りたいと、我々(=私および多くの人)が考えている」
    という表現には、

    1 京さんがそう考えている
    2 (京さんをのぞく)多くの人がそう考えている

    の二つが同時に含まれますよね。

    私は以下のように考えて、書きました。

    我々がそう考えている以上、我々の中に京さんが含まれる。よって、「京さんはそう考えている」と言いうる(必要条件を満たしている)。

    京さんが言っている主張は
    「私はそのように考えているし、私以外の多くの人も考えていると言いうるだろう。私だけが考えているのではない。」ということですよね。
    京さんの主張は、そうだろうと思っています。

    (おそらく、ここまでは、大丈夫だと思います。)

    ここから先で、行き違いが起こっていると推測するのですが、

    私は、京さんが「私(京さん)は、実はそう考えていなかったのだ。我々には、多くの人が含まれ、私は含まれないのだと主張しようとしている」。と受け止めていました。

    京さんは、高崎が「私(京さん)だけがそう考えているのであり、多くの人は考えていないと主張しようとしている」と受け止めていたのではないかと推測しました。

    じゃないですかね。
    で、あれば、この件は、お互い未熟だった。くらいで解決にできればと思います。


    次に、合意できる点を書きます

    >私は文章の中で演劇の楽しみは一元的なものである。などとは書いておりません。

    同意です。最初からそういう立場だと理解しています。

    >芝居の感想・コメントの返信に於いては誠実に対応しております。

    今回の私のコメントにおいて、全体として、まったく同感です。敬意を払います。

    ここまで掘り下げた中で、議論をかみ合わせることを指向し、かつ、乱暴ではない言葉遣いで対応ができる方は極めて限られており、誠実に対応していただいていると考えています。
    また、好き嫌いとそれ以外をわける。ということを念頭におかれて書かれる方も、限られており、この点も敬意を払っております。
    十分な事実の提示と分析があり思考の過程が明確なものは、好き嫌いを超えた価値をもつ。というところもおそらく同じ考えではないかと推測しています。


    >たかさき様が確信なさっている根拠については、薄弱すぎて根拠にもなっていないと考えます

    今の段階では、その通りです。

    >好評価の意見に対しては的外れでも、歓迎・(または)スルーである

    おっしゃるとおりの事実だと思います。
    的はずれな根拠による好評価にはツッコミを入れたくなる思いは理解できます。

    >これは「完全とはもちろん言えないが、ある程度は読み取っているつもりだ」という意味です。

    主張の内容、了解いたしました。

    >ルールを外れたものになっているとは思っておりません。

    同感です。

    >たかさき様は(どの程度係わっておられるかは知りませんが)この芝居の関係者ですよね?

    これは、うかつでした。
    私個人は、今回のリーディング公演にほとんど関わっておらず、一観客として書いています。が、共催団体に名を連ねている団体のメンバーである以上、そこは事前に立場を明確にするべきでした。
    失礼いたしました。

    改めて、確認いたします。

    京さんも自分の書いたものが絶対とは思ってませんよね?私もそうです。書いたものに対する批判は、基本的にウェルカムであり、立場を超えて(匿名とかは除く)、内容で判断したいというお考えかと思いますが、いかがでしょうか?
    (確かにここは、事前に確認が必要な部分でした。)

    私としては、関係者ではない立場とご理解いただき、同じ観客としての立場で議論を続けたいと思いますが、いかがでしょうか?
    (けっして無理強いするものではありません。)

    (ちなみに関係者でもセーフの範囲だと思っていますが、ご指摘により、立場を明確にしたいと思います。)

    2010/10/27 18:45

    たかさき@福岡様

    >、「登場人物の「この先の話」を知りたいと、私が考えている」とお考えなら

    の部分ですが、「我々」というのは、「私個人」という意味ではなく、「多くの人間、一般的」などの意味で使うことをご存知でしょうか?
    これには、もちろん「私」も含んではいますが、複数の意味です。

    そして、

    >本当に描くべき話や人間は「この先にこそあるのに描かれていない」作品のことだ。

    と書いておりますので、意図は充分読みとれると考えます。
    この「先」というのは単純な「ストーリーの先」という意味だけでしか取れないようなら分りにくいでしょうが、「一歩先」「一段上」読みかえれば分ると思います。
    「そんな事は書いてない」とは言えません。そういう読み取りは充分普通に行われることです。

    ですので、

    >妥当な文章の理解だと思っています。私に間違いがあるとは思えません。あるとすれば京さんの文章の方でしょう

    には納得いきません。
    たかさき様のあまりに表面しか読まない文章読解能力の方に問題があると思います。

    また、

    >>想定される多くの客層の好き嫌いを提示
    >しているわけでもありません。

    この部分は、その上の文章と同じ根拠によってのご意見との事ですが、一体どんな根拠なのか、というか、たかさき様のご意見が根拠になっているとも思えません。
    何が言いたいのでしょうか?

    しかし、この二つの部分については、たかさき様も「了解」したとの事ですので、蒸し返す必要はないかと思います。


    また、

    >現代演劇が見せようとするモノ(=演劇の楽しみ)は、たいへん多様です。その理解が不足していると思います。

    に関してですが、私は文章の中で演劇の楽しみは一元的なものである。などとは書いておりません。
    「演劇の楽しみのひとつとして」とまで入れないと分りにくかったでしょうか?
    もちろん私も演劇の多様性については(十分ではありませんが)理解しております。

    また、

    >今回の作品は、京さんの言う「スタート地点に至るまでの登場人物たちの動き」に着目したモノで、それが作家の書きたいモノの核です。

    ということですが、たかさき様は作者の意図をご存知なのですね?
    これは作者が「「その先、ひとつ上」を描ききれなかった」わけではなく、「最初から「そこ止まり」のものを目指した」と理解しますが、よろしいんですか?


    それから、

    >「「感情が高ぶったところでは大声を出す」などという演出は考えがなさ過ぎる。」は、だれがどう読んでも、「大声出すのが安易でよくない」としか読めません。

    >とうていそのようなことは書いていないのに、後付的に書き、真意はこうだったというような言い方が通用するのでしょうか?

    ですが、

    考えがなさ過ぎる。

    とは「安易」との意味にも取れますが、文字通り「考えが足りない・浅い」とも読めませんか?

    そして、

    >そんな事をするのは子供か本当に考えのない人間くらいで、怒りや激情を表すにはもっと豊かな表現がいくらもあるだろう。

    これは暗喩といって、「その演出ではこんな風に見えてしまいますよ」という意味です。

    >知的誠実・文章への誠意に照らして

    と言われますが、書いているそのままのことしか読み取れないようではどうかと思います。
    特に演劇に関わる人間は。


    それからご質問の後半部分ですが、

    >問題にすべきは、その大声を出す演技は前提として受け入れた上で

    からを指します。
    これ以降のご意見ははっきりと明言せず、推測・並列の可能性を指していますので、たかさき様の考えだとハッキリとは取り難くなっています。

    たかさき様は私の文章に対し「無理がある」「いさぎ悪い」と仰いますが、たかさき様こそ言葉遊びはやめませんか?

    >しかし「しっかり背景が読み取れていない」中、

    これが充分できる観客がどれほどいると思いますか?
    私の元の文章とはニュアンスを変えているのもズルイですね。

    >その背景を読み取ることができずに

    と、この言葉を先に出したのはたかさき様です。
    それを受けて、

    >しっかり背景が読み取れている、というつもりはありませんが

    と、返したのです。
    これは「完全とはもちろん言えないが、ある程度は読み取っているつもりだ」という意味です。


    たかさき様が、「私が好き嫌いで書いている」と「確信」なさっているなら、その意見を変える事は無理でしょうから、押し付けるつもりはありません。
    ですが、たかさき様が確信なさっている根拠については、薄弱すぎて根拠にもなっていないと考えますので、私の方としては、たかさき様は自分の思い込み、想定内でしか考えない人だと思うしかありません。


    最後に

    >相当な根拠、十分な思考、それを伝える筆力なしでやっていい範囲を超えていると考えます。
    取り消し、謝罪を検討すべきレベルだと思います。

    この謝罪要求ですが、誰に対してですか?
    やっていい範囲を超える、と言いますが、本当に越えていますか?
    私は誹謗中傷したわけでもありません、批評(批判気味とはいえ)しただけです。

    こりっち福岡ではよく思うことですが、好評価の意見に対しては的外れでも、歓迎・(または)スルーであるのに対し、批判的な意見には(制作者が)噛み付くというのはどうなんですか?

    たかさき様は(どの程度係わっておられるかは知りませんが)この芝居の関係者ですよね?
    関係者が一般観客を恫喝するというのは如何なものかと思います。

    たかさき様には私の方が「福岡演劇を批判的にしか書かない偏屈」と映っておいででしょうが、演劇作品に対しもっと誠実に感想を書くべきだと私は思っています。(これこそが個人の感想ですよね? 思いますが、他人に対し強要はしません。)

    たかさき様はご自分で、

    >チケット料金500円も妥当。
    これが800-1000位でもいいな
    1200-1500だったら、批判的に書くと思う。

    と書かれていますよね。
    これは、「500円だから好意的に書いた。1500円の価値はない」と言ってるのと同じですよ?

    また、

    『>今回の作品は、京さんの言う「スタート地点に至るまでの登場人物たちの動き」に着目したモノで、それが作家の書きたいモノの核です。

    ということですが、たかさき様は作者の意図をご存知なのですね?
    これは作者が「「その先、ひとつ上」を描ききれなかった」わけではなく、「最初から「そこ止まり」のものを目指した」と理解しますが、よろしいんですか?』

    この部分もどうですか?

    これは酷いことを言っているとは思いませんか?
    あなたには「相当な根拠、十分な思考、それを伝える筆力」を有した上で書いていますか?



    最後に付け加えさせていただきますが、
    今回のレス、たかさき様のルールをしっかり守ったものかは分りません。
    ルールをしっかり読んで守ることばかりを気にすると、「同じ土俵の上」ではなく「たかさき様の土俵の上」でしか語れなくなることになると思ったからです。
    かといって、ルールを外れたものになっているとは思っておりません。

    私が自分の文章で反省すべき点は、言葉が足りないことであり、芝居の感想・コメントの返信に於いては誠実に対応しております。


    蛇足ではありますが、たかさき様は私に筆力がないと仰いました。
    それを否定する気はありません。
    ですが、たかさき様には国語力がありません。
    演劇関係者なのですから自分にだけ通る理論で全て押し通せると思わないで下さい。
    言葉の裏の裏まで読む必要はないですが、その言葉に含まれる意味も考えて下さい。
    「一般」とはたかさき様を指すのではなく、「多くの人・世間一般(狭い世間ではなく)」を指すのですよ。

    2010/10/26 17:55


    京様

    ていねいにご説明いただきありがとうございます。最終的には、共通の認識に至れるような気がしています。あまり細かすぎる言葉のニュアンスを問題にすると、議論そのものが成立しないので、適度なところにとどめるようにします。

    >、「登場人物の「この先の話」を知りたいと、私が考えている」とお考えなら

    そう考えています。

    現に「我々観客が見たい」「我々はその先を知りたい」とお書きになっていますので。
    妥当な文章の理解だと思っています。私に間違いがあるとは思えません。あるとすれば京さんの文章の方でしょう。
    (見せるべき、見せてこそ演劇、話ではなく生き様あたりの表現のバリエーションも含有します。)

    しかしこの説明を聞いて、「そう考えていない。」ということを、了解します。

    >>想定される多くの客層の好き嫌いを提示
    >しているわけでもありません。

    していると思います。(根拠は上に同じ)
    しかしこの説明を聞いて、「しているわけではない」ということを、了解します。

    >演劇の楽しみとは(中略)にあるのではないかと思うのです。

    このご主張を興味深く読みました。演劇の楽しみとしてたいへん有力なモノだと思います。
    しかし、やはり多分に個人の好き嫌いの範囲でしかありません。
    現代演劇が見せようとするモノ(=演劇の楽しみ)は、たいへん多様です。その理解が不足していると思います。

    今回の作品は、京さんの言う「スタート地点に至るまでの登場人物たちの動き」に着目したモノで、それが作家の書きたいモノの核です。作品の構成からそれは堅いでしょう。

    そして、それには、どうにもこうにもケチのつけようがありません。
    その作品内部でとどまる限り、好きか嫌いかしか言えません。
    枠を広げて、社会へのアプローチとして有効か無効かは言えるかもしれません。

    好き嫌いでおっしゃっていると思います。

    >たかさき様の後半部分の論旨ですが、「そうであるかもしれないが、こうかもしれない」との発言ばかりで何も仰っていないも同然

    後半部分はどこからどこまでを指していますか?
    「何も仰っていないも同然」には、今回のコメントでもっとも大きな誤りが含まれているように思います。

    >私は、「感情が昂ぶったら大声を出すことは有り得ない」と言っているのではなく、正にたかさき様の仰る通り、「脚本上・演技上、適切」ではない。ということを問題にしている

    この主張はいくらなんでも無理があると思います。後付にすぎます。
    当初の記述に、それをうかがえる記述は全くないですよ。
    「「感情が高ぶったところでは大声を出す」などという演出は考えがなさ過ぎる。」は、だれがどう読んでも、「大声出すのが安易でよくない」としか読めません。

    好意的立場で、京さんの真意や実際にとらえていたということは理解します。ですが、とうていそのようなことは書いていないのに、後付的に書き、真意はこうだったというような言い方が通用するのでしょうか?
    「私の文章力がないせいで分りにくく」というレベルでもありません。一般に意図的な議論のすり替えといいます。そこは自分が書いたものの責任をちゃんと認めませんか?

    大声演技の件については、まずここをクリアにしてもらいたいと思います。

    >「演出はまだ充分に仕事をしていない。もっと考えることがたくさんあった。」ということを言いたかったからです。

    そうならば、そういえばいいと思います。その表現ならば、共存できるご主張です。
    私は7-3でそうは思いませんが、7-3程度なので、京さんの考えを否定するには足りません。

    しかし「しっかり背景が読み取れていない」中、公の場で、「そんな事をするのは子供か本当に考えのない人間くらい」と書くのは、京さんの知的誠実・文章への誠意に照らしてアリなのですか?

    必要以上に過激な言葉を使うのは、真意が伝わらないし、それ以上に事実と異なった印象を見ている人に与えます。
    感情的になって書いたのでは無いと思いますがそのように見られます。

    相当な根拠、十分な思考、それを伝える筆力なしでやっていい範囲を超えていると考えます。
    取り消し、謝罪を検討すべきレベルだと思います。

    >失礼ながら、たかさき様から今回提案いただいたような事は、観劇中、観劇後に、充分とまでは言えまなくとも既に検証済みのことです。

    短時間でここまでの分析が出てきていることからして、そうだと確信します。

    しかし、いさぎ悪い姿勢です。

    勇気を持っておっしゃったことは多とします。京さんも苦しいことを言っている自覚があると思います。しかし当初に書いた文章があまりに雑駁にすぎる。公表したモノにちゃんと責任をもってほしい。
    ここは劇作家も演出家も劇評家等も等価であるべきです。
    そのような雑駁な当初の文章で、そこまでの酷評が許されるのか、理解に苦しみます。

    >もうひとつは私の憶測ですが、たかさき様は、私が好き嫌いで感想を書いているとお思いではないでしょうか。

    一応確認しますが、動機ではなく、内容のことですよね?
    京さんは好き嫌いで感想を書いていると確信しています。

    というより、当初にかかれた文章はそうとしかなっていません。
    好き嫌いで感想を書かないことを目標とし意識していることは了解しました。これだけでも福岡に限られた存在だと思います。しかしながら、今回だけでいえば、目標を実現する力量をお持ちではないと思います。

    大声の件ですが、あそこまで分析されれば、(好き嫌いの度合いを完璧には廃せないまでも)好き嫌いを超えた力に至ると考えます。
    私はそうは思いませんし反論もありますが、一つの考え方として否定しがたく成立すると思います。

    2010/10/25 21:12

    たかさき@福岡様、


    >そこに興味のある方が多い

    というのが何を指しているのか今ひとつわからないので、たかさき様の意図を憶測で書かせて頂きますが、「登場人物の「この先の話」を知りたいと、私が考えている」とお考えならそれは間違いです。
    そして、

    >想定される多くの客層の好き嫌いを提示

    しているわけでもありません。

    演劇の楽しみとは(全てが、とまでは言いませんが)誰もが分りきっている、ありきたりなドラマを見せる事で成立つのではなく、登場する人間がひとつのハードルを越えたその先、それを見せる為にあるのではないかと思うのです。

    特にこの作品は、隠された事実をそれぞれの立場から乗り越えようとする人々の話です。
    ラストに提示された事柄では、彼等はスタート地点に立っただけだとは言えませんか。
    そこまでの彼等は定番のキャラクターでしかなく、生きている人間だとはとても言えない完成度でした。
    秘祭を行う者、隠す者、非難する者、受け入れる者。
    それほど衝撃的でもない秘密と定番のキャラクターたち。

    ここまでに定番しか出て来ず、それから1歩も進んでいない状態なのに、ここで終わるというのは作品の性質上からいっても問題だと思います。


    それから、たかさき様の後半部分の論旨ですが、「そうであるかもしれないが、こうかもしれない」との発言ばかりで何も仰っていないも同然ですので、あまり返答をする意味はないかと思います。


    いくつか言うなら、

    >「感情が高ぶったときに大声を出す」という現象は、実際にありえます。

    などは「もちろんそうです。」としか返答できません。
    大声を出す人もいれば、出さない人もいるでしょう。
    私は、「感情が昂ぶったら大声を出すことは有り得ない」と言っているのではなく、正にたかさき様の仰る通り、「脚本上・演技上、適切」ではない。ということを問題にしているのです。
    儀式の隣の間でのシーン、あそこでの怒声は明らかに役者が頑張ってボルテージを上げているように見えました。
    キャラクターとしても、主婦(名前失念)があんな簡単な怒声しか出せないのは、キャラクターを軽くさせるだけだし、同じように「怒鳴る」という演出でいくのなら、それまでの村の歴史を背負った怒りの声でなくてはおかしいとは思いませんか。
    あそこで彼女は「ただ怒鳴っただけ」だったのです。
    この部分だけをみても、「役者に「怒鳴る」演技が無理だと判断したなら別の演技をさせる」という別の演出をたてもしなかったことが分ると思います。


    私の文章力がないせいで分りにくく申し訳ないことではありますが、

    >ある程度演出家が考えた結果の可能性は十分にありその背景を読み取ることができずに、「そんな事をするのは子供か本当に考えのない人間くらい」と言ってしまうのは結果として誤りを犯していると思います。

    という点。
    もちろん、私が、しっかり背景が読み取れている、というつもりはありませんが、敢えて過激な言葉で表現させていただいたのは、
    「演出はまだ充分に仕事をしていない。もっと考えることがたくさんあった。」ということを言いたかったからです。


    最後に2点。

    失礼ながら、たかさき様から今回提案いただいたような事は、観劇中、観劇後に、充分とまでは言えまなくとも既に検証済みのことです。
    その上で書かせていただいたものです。


    もうひとつは私の憶測ですが、たかさき様は、私が好き嫌いで感想を書いているとお思いではないでしょうか。
    私の個人的感想は、ナレーターの方の部分だけで、他の部分には個人の好み入れておりません。
    私の好みだけで感想を書いたら全く違ったものになります。
    個人の好みで感想・劇評を書くものではない。という事を覚えておいて下さい。

    2010/10/24 22:40

    >しかし、我々観客が見たいドラマはその先にあるものだ。

    これって、人によるかなと思ったのですがどうでしょうか。
    もちろんテレビドラマなれした、多くの人達は、そこに興味のある方が多いというのはよくわかります。同感です。
    この指摘は作品の問題点への指摘というよりは、想定される多くの客層の好き嫌いを提示していると理解しています。

    >また、演出もありきたりで浅すぎる。

    企画趣旨、稽古期間(料金に反映)から、一定の程度には演出家が考えた結果と推測しており、最短距離に進んだのは正解だと思います。

    たしかに「感情が高ぶったところでは大声を出す」はステレオタイプで、その警戒が先立つのは私も同じくです。しかし、芝居を見慣れた人が陥りやすいポイントだと思います。「感情が高ぶったときに大声を出す」という現象は、実際にありえます。

    問題にすべきは、その大声を出す演技は前提として受け入れた上で、脚本上・演技上、適切かどうかを検証すべきだとおもいます。(その思考の過程を経た上で、ありきたりで浅すぎるという結論に至る可能性はあるかもしれません。)

    ある程度演出家が考えた結果の可能性は十分にあり、その背景を読み取ることができずに、「そんな事をするのは子供か本当に考えのない人間くらい」と言ってしまうのは結果として誤りを犯していると思います。

    もちろん、演出家が無警戒にその選択をした可能性も外目には否定できないことも補足します。私も推測しているだけです。

    2010/10/24 13:13

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