白衛軍 The White Guard 公演情報 新国立劇場「白衛軍 The White Guard」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    ブルガーコフ作品だと気付いたので急遽予定を組み、足を運んだ(チケットも余裕で取れた)。
    劇場都合なのかどうなのか・・新国立主催公演では久々の中劇場。つい2階席を懐具合と相談して買ってしまい、残念な観劇となる確率が高いのだが、今回は二階からでも舞台が近く感じ、役者の姿も声もしっかり入って来た。(劇場都合なのか・・と疑問がもたげたのは小劇場が似つかわしい舞台に思えたので。)
    ロシア革命前夜、ではなく革命直後のウクライナを、大ロシア帝国の王ツァーリを主と仰ぐ「白衛軍」側の家族の目線で描いた作品だ。スターリン支配下のソ連で苦悩の作家人生を送ったブルガーコフを題材にした劇団印象の前作をおぼろに思い出しながら、劇としては面白く観た。ソ連に組み込まれる以前のウクライナとロシアの関係(地続きに隣接するヨーロッパの国々の事情は測りがたいものがある)や、闘う者たちが帰依する対象(何に殉ずるのか)を相対的に評する視点があり、だからこそドラマを描くのだ、という作者の声が聴こえるような気がする。
    物語の主人公はトゥルビン家の兄弟アレクセイ(白衛軍の部隊を率いる大佐)とニコライ(若さで血沸き戦いに漕がれている)、そして界隈のマドンナ・エレーナ。舞台はこの家の広い居間で旧知の者(殆どが軍人)が出入りする。この家の人たちに憧れて遠方からやってきた若い学生(従兄弟)が唯一の非軍人。厳しい戦いを強いられている白衛軍だが、ドイツの支援が期待され、エレーナの夫は「政府の用事」と称して序盤にベルリンへ赴くのだが、ついにドイツ軍は援軍をよこさず、白衛軍は敗北する。白衛軍の指導的立場であったゲトマン率いるゲトマン軍に属するレオニードもエレーナ目当てに家に出入りする一人だが、戦いの終盤においてこのゲトマンの逃亡を目の当たりにする。
    作者は白衛軍の目線でドラマを描き出しながらも、陣営の正当性を主張するものでは勿論ない、のだが、ただ、国内のロシア支配から脱却せんとする民主勢力ペトリューラ軍は残虐に描く。日本における日本赤軍事件が象徴する「左翼」「過激派」のイメージに近い。そして終幕、ウクライナ首都キエフを陥落したのはロシアから進軍したボルシェビキであり、民衆は早くも彼らを歓迎し、それを自嘲気味に揶揄する白衛軍の居間の会話が「平和」の時間の中で交わされる。
    古いロシアによる支配による平和秩序を尊ぶ白衛軍は歴史の必然のように表舞台から退場し、新たな時代を迎えた瞬間で物語は幕を閉じる。トゥルビン家の長男・アレクセイ大佐が戦闘で死に、それを目の当たりにした同じく建物内に追い詰められたその弟は命からがら帰還するが、精神を病む。
    敗北の悲劇を経て、訪れた日常において人間が平和を享受する尊さを描きながらも、人間が「平和ゆえに」腑抜けて行く予感が漂う(とは穿った読みかも知れぬが)ラスト、人生の喜劇を滲ませる。

    装置、音響が優れ、演出の勝利にも思える(ワンツーワークスの古城氏が今年の記憶に残る演劇作品として本作の「二幕」を挙げていた。二幕って・・)。
    戦闘シーンの頻出する芝居だが、ある局面で舞台奥にある箱の中でかなりの衝撃だと分かる爆発音が鳴る。(銃の音もちゃちい火薬の鉄砲ではなく十分に衝撃音を出すものを使っている。)
    ほぼ邸の居間が舞台。冒頭から秀逸であったのは、ロシア人気質というものを恐らくは体現しようとした男らの言動。妙に人懐っこく、喧嘩っ早く、日本人感覚では甘えん坊と揶揄されかねない人物像をそれぞれ作っていた。
    現代のウクライナ・ロシア戦争を「評価」する際においても感ずる事だが、あまりに無自覚な自己投影(相手も自分らと同じ文化を有しているという前提)によって価値判断をしていないか・・。
    他国領土に侵攻したロシアの行為は許されるものではないが、許す許さないを超えて事態は動く。そこでは「違反者=絶対悪」という単純思考では物事の先行きは見通せない事実に直面させられる。
    ウクライナの西欧への接近は長い近隣の歴史の流れの中ではどう意味づけられるか・・100年前のウクライナの歴史という一つの点を、「他者(他国民)」理解の補助線を引くために活用し、文脈を見て行く態度を獲得していく事が肝要ではないかと思えてならない。「知る」という事は押しなべて人の人に対する「断罪」という愚かさを遠ざける側に機能するのだと思うし、そうありたい。「面白い!」とかみしめた味の中身は、そういう事であったかも。

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    2024/12/20 08:59

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