るつぼ 公演情報 演劇ユニット King's Men (キングスメン)「るつぼ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★

    鑑賞日2024/09/25 (水) 18:30

    CoRichの説明によれば、ベテランから若手まで多彩な実力派俳優が勢ぞろいしての度肝を抜く勢いのある舞台とのことだった。で、期待も大きく初日を観劇。
    が、まるで期待外れ。演出もダメなら、役者もダメ。アーサー・ミラーの台詞・物語が少しも響いてこない。上演時間2時間半が無駄に終わってしまった。「エンディングは、席を立てないほどの衝撃」とのことだったが、違った意味での衝撃的な舞台だった。

    15人の出演者(27役)でまあまあと思えるのはエリザベスとアビゲイルという核となる女性を2役ともこなした絵里(W演出の一人である篁エリらしい)とメアリーを演じた山本麻祐くらい。
    あとは素人に毛が生えかけたか、生えもしないレベルでしかない。よくもまあ実力派俳優が勢ぞろいなどと言えたものだ。
    殊にひどいのは副総督であり裁判官を演じた中島史朗。台詞を全く覚えておらず、紙(宣誓供述書や死刑囚名簿など)や白手袋、小さな紙片に台詞を書いて、それを読むのに必死な有様で、台詞を発する時に相手の顔を見ずにそうしたカンペにばかり目を向けて(当然下向きや、ひどい時は後ろ向きで)ただ大声を発しているだけ。台詞を言っていない時もほとんどカンペしか見ずに、次にどこで自分が台詞を言わねばならないのかばかり気にしている。そんな有様では、登場人物の人間性や感情などをきちんと表現できるはずもない。
    他の役者も台詞をやりとりする際の間があわず、会話が噛み合っていないし、滑舌も悪い。
    あと子役もひどい。序盤で気を失って、このまま死ぬんじゃないかと周りの大人が騒いでいるのに、当の本人は倒れたまま首を動かしてずっと辺りをキョロキョロ見回している。その他の場面でもまるで遊んでいるかのようで、傍に居る大人の役者はそれが気になって仕方のない様子。

    衣装にも多少違和感があるが、主人公であるジョンを演じる平澤智之(W演出のもう一人である平澤トモユキ)がNEW YORKと大きくプリントされたラルフ・ローレンのTシャツなのが最悪。なぜ白無地のものにしなかったのか。しかも劇中ずっと裸足だった。裸足である必然性などどこにもないのに……。
    おまけに、背景として舞台奥に泰西の名画が映し出されるのだが、途中でPCの画面そのまま(全画像の一覧)が映し出されて、それがかなりの長時間そのままの状態での演技。ますます白けてしまった。

    演技力のない座組でやるのであれば理想を高く設定せず、まずはそれなりの戯曲を選ぶべきだろう。どんなに優れた戯曲だろうと、それを読み込み、表現する演出家や役者陣が揃わなければ作品世界を伝えることなどできはしない。

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    2024/09/26 01:03

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  • 絵里さま

    コメントをいただいているのに気づかず、失礼いたしました。
    僭越ながら反論させていただきます。

    ボッティチェッリ「プリマヴェーラ」やグランマ・モーゼス、ゴッホなどの名画にも観客それぞれの思い入れもあるでしょうから、むしろ何もない素舞台の方がよかったろうと思います。
    衣装にしても「ベースは普段着」とのことですが、舞台上にはそれっぽい衣装の人もいましたし、中途半端です。だからこそラルフローレンのTシャツが目立ってしまうのです。絵里さんのおっしゃるような意図があったのなら、むしろ全員がTシャツにジーンズもしくはチノパンで統一すべきだったでしょう。

    裸足の点については子供たちは数十年前の日本でも田舎では裸足で遊ぶのがそんなに珍しいものでもなかったし、冒頭に森の中で踊っていたという流れからならそれほど違和感がなかったのです。まああの少女たちの年代層もはっきりしていませんでしたし…。一方で主役のジョンは村の有力者らしき人物で、それならば裸足というのは考えづらいものです。さらに言えば平澤智之さんはやたらと足の指を動かす癖がおありのようで、それだけに裸足が目立ってしまうのです。
    ここで演出の話をすれば、演出家は役者の腕や指先、足先などにも注意を払っておられたのでしょうか。私が見るかぎり多くの役者さんはそうした点にまで気を使っておられませんでした。私は舞台の中央だけでなく、時折端の方に目を向けて、舞台端に居て台詞を言っていない時もきちんと舞台世界の中の人物として参加しているかどうか、傍観していたり素に戻ったりはしていないか、ハケる時は客席方ら完全に見えなくなるまで劇中の人物であるかどうか、観ているのです。そういう意味からいえば、今回の座組の役者陣で合格点を付けれる人はほとんどいませんでした。そんな細かいこと、とおっしゃるかもしれませんが、そういうものが舞台全体の空気に影響を与えるのです。演出の際にはそこまで注意を払うべきと考えています。私は一昨年も昨年も年間200本以上の舞台(主として小劇場)を観ていますし、最大では年間441本の舞台を観ています。そうした経験からいえば、今回の座組が「一人ずつの能力は非常に高く、魅力的な役者陣」とは到底思えませんし、「(役者)その人が持つ人間性や内面の厚みが滲み出る部分」があったとも思えません。

    中島史郎氏についていえば、1週間もあってあれほど覚えていないなどありえないだろうというのが正直なところです。私は初日直前もしくは公演中に主役が病気で倒れ、2~3日でダンフォースどころではない膨大な台詞や仕草を覚え、代役を見事に務め上げた役者を3人知っています。「小道具に記載して読む場面もありましたが」と書かれていますが、場面もあったどころか判事として登場して以降の全てです。自分の台詞を言うところでない時にも次はどこで台詞を言うのかカンペ以外に視線を動かしておられませんでした。口調もただ大声を出すだけで、人物像をきちんと表現しているとはとてもとても。あの初日の演技が「想定以上に魅力的であった」とおっしゃるのなら、貴ユニットの理想の程度がうかがえるというものです。

    チケプレ招待者の中には忖度まみれの感想を書く人も散見されます。今回の絶賛者のお一人はやはり絶賛している老演出家から「あいつがやたらと難しい言葉を多用するのは、結局のところ本当に演劇を理解しておらず、それを誤魔化しているんだ」と吐き捨てられておられましたし、CoRichの古いユーザーでその人を良く言う人を私は知りません。

    障がいを持つ俳優については、それを事前に知らされなければ(個人名はあげずとも、複数名の障がいを持つ役者が出演しているというだけでも)、客はその舞台だけで良し悪しを判断します。観客にとっては提供される舞台だけなのです。「知的障がいを持つ俳優が、作品を理解し、その中で自分の役を誠実に懸命に生きている、そのような姿に、私達は日々、心打たれていました」などというのは、稽古を通してのみ知りうるもので、はっきり言って自己満足の世界です。

    最後に、私が観劇仲間のCoRichユーザーに「るつぼ」の話をしたところ、その人は「あそこは前回のシェイクスピアがあまりにひどかったから、今回はチケプレに応募しようとも思わなかった」と言われました。客の目ってそういうものです。

    2024/10/08 12:32

    MINoさま、初日をご観劇いただきまして、ありがとうございます。また、詳細かつ丁寧なクチコミをいただきまして、感謝いたします。一般のお客様にこのように関心を持って主体的に観ていただけることは、演劇に携わる者として大変ありがたいことです。専門家でない方のご意見を聞く機会は限られるため、このような見方があるということ自体がとても新鮮で、興味深く拝読させていただきました。以下に一つずつ回答させていただきます。

    まず、舞台装置や音響照明等を使用せず、衣装も普段着に近い形で上演する、という形は、主宰の平澤智之が長年所属し、主演を務めておりました劇団シェイクスピア・シアターで用いられてきた舞台形式です。新鋭の若い役者が普段着で素舞台を駆け回る斬新な演劇は、当時“ジーパン・シェイクスピア”と言われ人気を博したと聞いています。この劇団を率いた故出口典雄氏の演劇界に対する業績は計り知れないもので、亡くなって数年を経た現在も氏の創り上げた世界は私達シェイクスピアを演じる数多くの役者達の中に息づいています。

    私達キングスメンでも旗揚げ公演からこのスタイルに準じた舞台形式での上演を試みております。前回今回とプロジェクタ画像の投影のみ実験的に行いましたが、実際にはこのような背景は演技とは全く関係のない、いわばオマケにすぎず、何もないほうがいいのではないかとの意見も寄せられており、今後どうするか検討中です。
    NINoさまにご観劇いただきました本番初日には、機材トラブルのためパソコン画面が映し出された時間がありました。気になったお客様に対しては申し訳ございません。同時に、むしろこのような全く場面と相いれない画を唐突に投影するという手法は、作品として非常に面白いのではないかと、MINoさまのクチコミを読んでいて感じました。一般の観客とは、演技とも本筋とも全く関係のないことに注意を引かれるものなのだとしたら、そこを活かすことも可能であると。新しい閃きを与えていただきまして、ありがとうございます。

    次に、衣装については上述の通り、私達キングスメンでも、ベースは普段着ということを徹底しております。その枠の中で、いかにそれぞれの役の個性を出すかということは、いかにも時代的な衣裳を採用するよりも難しいことではありますが、私達はそのような選択をしています。
    (かつての演劇界では、たとえば『ハムレット』であれば白いタイツを穿いたいかにも中世の王子様の恰好で登場させたものですが、今時そのような過去の時代そのままの衣裳で演じさせる舞台は既にあまりないでしょう。時代そのものの衣装を着用させることは、ある特定の時代や場所を彷彿とさせることには大変意味のあることですが、作品のメッセージ性が現代の私達に相通ずるものだと伝えたい場合は、それが却って枷となることが多々あります。)
    『るつぼ』に於いては、時代や場所の設定を“17世紀のセイレム”ではなく、従って服装に関しても現代の日常的な衣類を中心としました。厳密にいえば“おそらく現代に近い時代の、どこかの国、どこかの地域”ということが今回の設定です。それはアメリカなのかもしれないし、日本なのかもしれない、ただ「遠い時代の遠い国」ではなく、今の私達の日常と近いところであると観客に感じてもらうことが目的でした。そのためジャイルズはハッピを着ていますし、パリスやヘイルも牧師の服装はしていません。
    ご指摘いただきました主役のジョン・プロクターがラルフローレンの「NEW YORK」とロゴの入った着古されたTシャツを着ているのは、(実際にはプロクターの服装は毎公演ごとにすべて異なるので、残念ながらあのシャツは一度しか着用されていないのですが)、田舎町の労働者である彼の都会への泥臭い憧れを示すものであり、見た目のスタイルとしても特殊性のない一般の男であることをあえて示したものです。昔の物語だから、古典的な作品だから、そのような恰好をする、という先入観を持って観劇に来られたMINoさまのような一般のお客様に、「なぜこのような服装なのか」というある種の“違和感”を感じていただけたということは、狙いの通りであり、大変嬉しいご指摘です。
    更にこちらとして目新しい視点であると感じましたのは、「裸足である必然性はない」というご指摘の箇所で、この発想はとても興味深いものでした。私達は「なぜ靴を履く必然性があるのか」をまず感じます。「靴を履く」という行為には意味があるはずで、では何を履くのか、何のために履くのか、ということに一つ一つの意味と必然性があるはずです。それを逆の発想で「なぜ靴を履かないのか」と感じられるということは、とても新鮮でした。プロクターだけでなくアビゲイル率いる少女達も靴を履いていませんが、そちらに関しては気にならなかったのであれば、その理由は一体何であるのか?違いは何なのだろうか?そのような細部の感覚について考えさせられる、とてもおもしろいご意見でした。ありがとうございます。

    役者の力量について、お気に沿えなかったことは、とても残念なことですが、今回出演してくれた役者の皆さんはとても力のある方達でした。私達キングスメンは劇団という形式ではなく、主宰の平澤智之と絵里の二人以外は毎回オーディション等によって集まった個々の役者による期間限定のユニットです。ですから今回の公演に出演した役者達も皆それぞれの活動をしている個性的な面々でした。一人ずつの能力は非常に高く、魅力的な役者陣でしたので、MINoさまにとって心地よく感じられなかったのだとしたら、それはすべて制作・演出側の問題であって、出演した役者の皆さんの問題ではありません。今回の出演者の皆さんはこれからも様々な舞台に立って活躍していく方々ですので、どこかでまた再会されることもあると思います。別の舞台ではより素晴らしい演技をしていく方達だと確信しております。
    この中で、名前を挙げていただきましたメアリー役の役者は、演技も人柄も素晴らしい人物です。お褒めの言葉をいただき、私達も心より嬉しく思います。

    ダンフォース判事役の役者については、補足説明させていただきます。
    公演直前に、もともとダンフォース役であった役者が喉の故障により降板となりました。ダンフォース役は三幕四幕のメインキャストであり、出番も台詞量も莫大です。しかし当役者が8公演を演じられる状態ではなかったため、主催者側の判断として降板となり、一幕にのみパットナム役で出演していた中島史郎氏にもう一役を兼任してもらうことになりました。本番一週間前に急な役の追加をお願いしたことはこちらの責任でありますが、中島氏はこの大役を見事に演じきってくれました。台詞に関しては、ご指摘の通り小道具に記載して読む場面もありましたが、問題はそのような形式的なことよりも、中島氏の創出したダンフォースという人物が、こちらの想定以上に魅力的であったことです。観た人達から「台詞を見ていることは気づいたが全く気にならないくらい素晴らしい」という意見が多く寄せられ、その演技が公演中も日に日に深化していく様相に、一緒に舞台に立っている私達役者も驚かされました。
    私個人は、役者の魅力とは、技術以上に、その人が持つ人間性や内面の厚みが滲み出る部分にあるように思います。ダンフォース役以外の役者さん達にもすべてこのような魅力がありました。だからこそこの難解で重いと言われる作品を、一幕から温かみのある生きた舞台として演じてくれたのだと思っています。

    もう一点、重要なことを記載させていただきます。
    私達の団体では、毎公演ごとに障がいを持つ役者を幅広く起用しています。そのこと自体を売りにしているわけでも、助成を受けているわけでもないので、特にどの役者がどのような事情であるのかは公開していません。それは個人情報であり、個々の役者が進んで言うのでなければ、こらちから情報公開する類のものではありませんし、舞台上に出る以上は各人の事情をいちいち断ってから観ていただく、というものでもないと思うからです。
    しかし、今回も複数名の障がいを持つ俳優が出演していたことは事実です。
    観客席から見て、その人達が事情を持っていると見えなかったのだとしたら、それはとても嬉しいことですが、実際にはただ「寝ている」という行為だけでもその役者にとっては大変な演技である場合もあります。
    知的障がいを持つ俳優が、作品を理解し、その中で自分の役を誠実に懸命に生きている、そのような姿に、私達は日々、心打たれていました。結果的には台詞自体を発することができなかったとしても、その場にその役として存在し、役者として素晴らしい演技をしていた。その演技は計算されたものではなく、本当の心から出たものであり、そのような真実の演技を舞台の上に載せることができたことは、何にも勝る喜びだと思っています。すべての観客にではないにしても、きっとそれが伝わった人もいたと確信しています。
    私達は福祉を専門にしているわけではなく、接し方のノウハウもありません。自分達の芝居をするだけでも精一杯の中で、そのようなことに手を出すのはおこがましいと感じられるかもしれません。ですが、表現とはすべての人に平等に与えられているものであり、演じる側も観る側もそれを自由に享受していいはずであると、私個人は信じています。その中にこそ表現というものの本質的な光が見出せるのではないかと私は思うのです。
    何をもって演技力とするのか、表現というものに於いて何を最も大切にするのかは、個人の趣向であり信念によるものであって、表現する側が押し付けられるものではありません。ただ、私達が求めるものは、人間の心であり、それはどのような゜作品を上演したとしても、変わることがないと思います。

    詳細で積極的なご意見をいただき、本当にありがとうございました。いつかまたご観劇いただけますことを、心よりお待ちしております。

    2024/10/05 20:57

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