S高原から 公演情報 青年団「S高原から」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    病を抱え、療養を要する人たちが暮らす高原のサナトリウムを舞台に、そこで生活をする人や働く人、入れ替わり立ち替わり面会に訪れる人たちの交流が会話を通じて描かれていく。
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    ネタバレBOX

    患者がスタッフや面会に訪れた友人と比較的明るく会話をしていることもあり、場所が療養所であるほかは一見自由に過ごしているように見えるのだが、コーヒーが飲めなかったり、テニスができなかったり、おもむろに眠気を訴えたりすることで、やはり何かしら制限をかけなければならない病を伴った身体であるということが伝わる。特段お腹を痛そうにするだとか、息を切らすだとか、そういった素振りをしないにもかかわらず、俳優たちが言葉の端々、身体の隅々を使って体と心の揺らぎを体現して見せる様子が見事だった。

    登場人物は16名。
    入院して半年の患者・村西(木村巴秋)とその恋人と思しき面会人・良子(瀬戸ゆりか)と良子の友人・久恵(田崎小春)。一時は名を馳せた画家・西岡(吉田庸)とそのかつての恋人であり面会人の雅美(村田牧子)、サナトリウム内で西岡の絵のモデルをしている患者・明子(南風盛もえ)。入院歴4年の福島(中藤奨)の元に挙って訪れるのは、古くからの友人である鈴本(串尾一輝)と坂口(井上みなみ)と恋人と思しき友子(和田華子)。その傍らで何やら騒がしいのが、患者の中でも年少に見える喜美子(山田遥野)と過保護なまでに甲斐甲斐しく喜美子の面倒を見る茂樹(松井壮大)の一風変わった兄妹。そして、新たに入院した患者の本間(永山由里恵)と医者の松木(大竹直)、看護人の藤沢(南波圭)と川上(島田曜蔵)である。

    患者とその面会人や家族で構成されるコミュニティは大きく分けて4つあり、そこが時にすれ違ったり、交わったりすることで患者の置かれている状況や心情が炙り出されるようでもあった。私がとりわけ印象的だったのが、患者と恋人や元恋人(恋人と明確に定義はされていないかもしれない特別な間柄も含む)との会話、その温度や質感のコントラストだった。そこにはやはりそれぞれの「死との直面」があった。未来を描ききれずに別れを決めた良子の葛藤にも、その別れを良子の友人から代弁された村西の狼狽にも、つとめて明るく周囲と会話を交わし、蝋燭の火が消えるかのように時折姿を消す福島の背中、隣に座るだけでその孤独を包み込むような友子のたおやかさにもそれぞれ同じだけ胸をかき乱された。
    ここにきて絵を描くことの本質と同時に死生観をもまっさらに見つめ直すような西岡の落ち着き、何も語らずしてその余白の中に多くの想像を導いた明子、その様子を複雑な心を秘めつつ見守るようでもある雅美。静かな三角関係が伝える、そこはかとない終末の気配にも心を揺すぶられた。
    劇中のどの会話を切り取っても、とても静かなお芝居なのに驚くまでの饒舌さがあった。それは、生の饒舌さであり、同時に死のそれでもあるように思えた。サナトリウムでなくとも、昨日も今日も明日もどこかで誰かと誰かの間で交わされている言葉と会話、沈黙と行間にもきっと同じものが流れているはずで、つまり、これらは、生まれた時から死に向かう私たちのリアルそのものなのだった。停滞にも滞留にも似た時間、達観にも諦観にも似た横顔、高原の上と下では当たり前に空気や温度が違うのと同じようにそこに生じる人と人の懸隔。大きな出来事は起きない静かな時間の中で、その瀬戸際でこそはじめてうねる人々の心。死が訪れる先はその当人だけではないということを改めて気付かされるような、そして、それは、生を感じることが当人だけでは難しいということでもあるのではないだろか、と。
    孤独を縁取りながら照らす。そんな演劇だった。

    少し余談になってしまうのだが、こまばアゴラ劇場に通った日々についても少し振り返りたい。私は演劇を観たり、取材したりしているわりにはこまばアゴラ劇場に、青年団の演劇に、ひいては“静かな演劇”に出会うのが遅かった方だと自覚している。正直なところ、それまでの私はどちらかというと、客入れの曲がガンガンかかり、最後にM0のボリュームが上がって暗転、明転した時から演劇が始まる、そんな演劇ばかりを好んで観ていた。だから、最初はこの静けさをどう受け取っていいのかがまるでわからなかった。静かに始まって静かに終わっていく演劇に慣れていなかった私はその見方がわからず、突然来たことない土地で迷子になったような気持ちだった。こんなにも答えのもらえない演劇があるのか。そう思った。答えをもらおうとすること自体が違ったのだ、と今では分かるけど、そう教えてくれたのが、紛れもないこまばアゴラ劇場で上演された数々の演劇だった。「聞こえてくるものだけを聞く」「見えているものだけを見る」のではなく、その奥で聞こえずとも確かにある声、見えずとも確かにある風景、そういうことに耳を澄ませたり、目を凝らしたりすることを、その豊かさを、私は時間をかけながらこの劇場で学んだような気がしている。



    静かであることの饒舌さ、沈黙や行間、停滞の中にこそ潜む真意。言葉の一つ一つを、台詞の一言一言を文字にしたら、どれもが際して大きな意味はないように見える。淡々と語られる言葉、粛々と過ごされる日々。だけど、だけどだ、その言葉を俳優が口にする度に、あの空間でその一言が発される度に、強烈に死と生が絡み付いていく。拭いきれない死はいつもとても静かで、静かなときほど存在感を増す隣人とも言える。『S高原から』という作品はそんな静かな死の饒舌さ、その実感を改めて私に握らせた。こまばアゴラ劇場で出会ったいくつもの演劇、そして、閉じゆくその空間の中で見つめた二つの“静かな演劇”。それらの存在は、私の心をとても騒がしくした。静けさから導かれたその騒めきをこうして文字に託しながら、改めてそう痛感している。

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    2024/06/29 23:35

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