デンギョー! 公演情報 小松台東「デンギョー!」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    「待ちわびている社長の不在」

     ある電気工務店の詰所の人間模様が、現代における会社のあり方を浮かび上がらせる2013年初演の三演である。

    ネタバレBOX

     宮崎県の片田舎にある電気工務店「宮崎電業」は社長の森が入院してからというもの社内にほころびが生じ始めていた。電工出身の叩き上げである営業部長の鈴木達郎(瓜生和成)は、東京の銀行から呼び寄せた執行役員の阿部光男(尾方宣久)を紹介するが、電工の職員たちからはよそ者扱いされてしまう。現場主任の甲斐嵩(五十嵐明)は電工一筋の職人肌で、同期の鈴木ら上層部が勝手に物事を進めることに不信感を抱いていた。この紹介の場面で鈴木が電工たちの前で数回「おはようございます」を繰り返す場面が、上層部と現場組の溝を浮かび上がらせる。

     時間を見つけて詰所に趣く阿部に、電工たちは少しずつ心を開き始める。若手の戸高大輔(関口アナン)は学生時代からの付き合いの妻と結婚を決め家を買ったばかり、上昇志向が強く「電工では終わりません」と決意を述べる。戸高と同期の岩切修(吉田電話)はところどころ抜けた性格で皆に怒られてばかりのようだが、底抜けに明るいムードメーカーである。社員たちの口から語られるのは不在である社長の存在の大きさである。事務員の安田小春(竹原千恵)は社長の斡旋で電工の安田学(松本哲也)と結ばれることになった。下請会社の田原電気から出向している田原秀樹(佐藤達)は親子二代で仕事を受けており、新人の関和也(土屋翔)の教育係でもある。社長が贔屓にしていたスナックを営んでいた女性の娘である壱岐幸恵(平田舞)は、グレかけていたところを半ば強引に拾われ真っ当な勤め人になった。皆が待ちわびていた社長の突然の死を鈴木が告げると、電工たちはある意外な行動を起こすことを決める。

     皆が話題にする不在の人物が大きな存在を占める本作を観ていて、私は三島由紀夫の『サド侯爵夫人』を想起した。『サド』が浮き彫りにしたのは絢爛な王政からフランス革命勃発による貴族の危機だったが、本作ではいっときは栄華を極めた人格者によるワンマン経営が衰退する過程である。経営者が変わるだけで社内の雰囲気がガラリと変わったり、外部から呼び寄せた人材に敵対する様がとてもリアルで共感を覚えた観客は少なくなかったのではないだろうか。電材屋の米良産業から営業に来ている綟川剛(依田啓嗣)が当初チャラチャラした長髪の青年で甲斐にドヤサれていたが、ケンタッキーの差し入れを頻繁に持っていくようになってから打ち解け、甲斐と朝まで飲んだ翌朝は短髪にするなど、世代間対立と和解を描くことにも成功していた。

     登場人物も皆魅力的であり、人間の二面性を描くことに成功していた。事実上のトップとして会社を引っ張っていかねばならない営業部長の鈴木のぎこちない身のこなし、終始座ったままの目に双肩にかかったプレッシャーを垣間見る思いがした。他方で彼はフィリピンパブで知り合った女性と再婚を決めたり、そのことをバツイチの甲斐やいい歳をして独身の長友浩二(今村裕次郎)に自慢したり、そこから長友と田原、壱岐の三角関係を描くなど、よくも悪くも公私混同甚だしい職場ならではの特徴を生かした作劇が秀逸であった。

     本作初演の11年前から社会状況は変化し企業コンプライアンスやハラスメントに対する世間の目は一層厳しくなった。社員のプライベートの詮索や恫喝まがいの叱責といった描写に違和感を覚える観客に向けたアナウンスはあってもよかったかもしれない。むしろ私は時代設定が2024年へ変更されたこの三演を観ていてもあまり違和感を抱かなかったことに軽い戦慄を覚えた。やがてラストシーンで社長の葬儀を終えた翌朝に皆でにこやかにラジオ体操を終え、真顔に戻り仕事モードへと切り替えようとするときの表情の変化で頂点に達した。それはケン・ローチ監督の『家族を想うとき』を観た時にも感じた、なにがあっても、どんなことがあっても翌朝は仕事に向かわなければならないという労働者の性に胸が押しつぶされる思いがしたからに他ならない。

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    2024/06/03 08:19

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