ある馬の物語 公演情報 世田谷パブリックシアター「ある馬の物語」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    鑑賞日2023/07/07 (金) 14:00

    価格8,800円

    成河がまさに馬!
    さらに音月桂、小西遼生ってケアード十二夜の同窓会みたい(^_^)
    ・・・なんてヌルい感想では収まるわけがない大変な傑作。以下長文。

    ネタバレBOX

    原作はトルストイの小説「ホルストメール」。恥ずかしながら本作は知らなかった。といっても、作者が書き上げてから刊行されるまで、ソ連国内で舞台化されるまではだいぶ時間が掛かったという独特な位置づけのようだ。日本でもこれまでに舞台化されたことはあったようだが、個人的には初見。

    成河扮するホルストメールという馬が自身の生涯を振り返りながら、人間とは、生きることとはを考察する。ホルストメールは独白や馬同士の会話では舞台表現上、人語を用いているが、一般的な人との接し方の上では馬として徹している。いわゆる擬人化ではないし、カワイイ的な媚びも無い。成河のいななき、鼻音、尻尾の振り、近しい人物に甘える仕草などは動物園や競馬場で見てきたまさにそれ。特に軽快なステップは絶品。
    なお、他のネームドの馬としてヴャゾプリハ(牝馬/音月桂)、ミールイ(牡馬/小西遼生)が登場するが、彼らは美男美女(?)としてのキャラ付けがもたらされており、リアリティよりかは多少デフォルメ寄りである。

    序盤、価値の低いまだら模様に産まれ、それなりに雑に扱われながらも周囲の馬、人間と接しながら健やかに育っているホルストメール。この場面では特に厩頭(春海四方)、馬番ワーシカ(小宮孝泰)の人間臭さ、土臭さが良く機能している。だが、そんな穏やかな時期も、成長と性への目覚めが災いして去勢手術を受けさせられることで変わってしまう。以後、思索と人間観察にふけるホルストメール。ヒトというものの価値観、幸福感は所有(家、土地、女etc...)という概念で概ね表現し得るし、そんなものならば馬の方が幸福であり、上等であると喝破する。

    そんなホルストメールだが、裕福で美しいセルプホフスコイ公爵(別所哲也)に駿馬としての資質を見抜かれて迎えられ、馭者フェオファン(小柳友)の世話を受けながら生涯最良の時を過ごす。この時期のホルストメールの幸福の根拠...それは愛情を受けている(公爵はあくまで駿馬としての価値を愛でているに過ぎない)からなのか、裕福な環境による美味しいエサやブラッシングなどの世話を受けられるからなのか、皆からの称賛からなのかはハッキリしないが、それはヒトでも馬でも竹でいちいち割り切るような話でもないだろう。そして、文字・言語の情報で最良な時と紹介されているだけではなく、称賛されている時の満足げな表情や公爵を待つときの誇らしげな表情、これを馬として体現している成河の芝居は圧巻というしかない。

    公爵は地位もカネも何もかもを持ち合わせた人物。だが、何にも夢中になっておらず、空虚で地に足がついていない感(貴族だからでもあるが)がある。そんな彼にも愛人のマチエがいるが、ホルストメールを出走させ、逆転勝利して興奮さなかの競馬場で他の男に転んで付いて行ってしまう。つい先ほどまでホルストメールを友人だ、いくら積まれても売らないと誇っていた公爵だが、マチエを追うべく鞭を打ち、数十kmを無理やり走らせる...。結局マチエは取り戻せず、ホルストメールはこの時の無理、怪我が祟って以前のようには走れなくなってしまう。価値を失った彼は、老婆、農家、ジプシーなどへ次々と転売されて、転落、流浪の日々を送る。
    ここで分かることは、公爵はホルストメールを愛でてはいたが、あくまで自慢の駿馬としての愛着に過ぎなかったこと。彼の趣味が絵画や骨とう品であれば、その知識と審美眼、愛着はそちらに向いていたであろうし、現代ならば車や自家用ジェットだったのかもしれない。所有物、その程度のことだったのだ。

    「所有」と並ぶ本作のテーマは「老い」
    まだら模様なうえに走れなくなった老馬ホルストメールへの周囲のヒト、馬の当たりは冷たい。だが彼は誇りを失っておらず、過去の栄華と転落をしっかりと受け止めながら、含蓄のある語りを続ける。
    一方で公爵は資産を使い果たし、周囲からは厄介がられる存在となっていた。過去の自慢話ばかりをする姿は老害そのもの。
    そんな二人が冒頭の将軍の厩舎で思わぬ再会をする。公爵はホルストメールに似たまだら模様の馬を発見するや、かつての愛馬の自慢話をする。だが、目の前のその馬がホルストメールである事には気が付かない。近寄ったホルストメールだが、公爵は一言「臭いな」と。この後に感動の再会を迎える前のフェイントの笑いかと思っていた。だが違った。気が付かないまま。
    言語を交わさない馬だから分かりようがなかった、ホルストメールが老いぼれて様変わりしたから分からなかった、公爵が耄碌していたから。それらもあるかもしれないが、そうではない。単に自慢の所有物としてしか観ていなかったからだ。

    そしてホルストメールは殺処分される。淡々と処分される馬と、落ちぶれ、老いぼれたヒト。どちらも一見は惨めな老後だ。

    ホルストメールの肉は狼らに食われ、残った骨は農具として有効活用された。
    一方の公爵の亡骸は地位に応じて立派な埋葬をされたが、そんなものはヒトの虚実と裏返しでしかなく、彼の肉も皮も何の役にも立ちはしない。
    その点だけならば馬の老と死の方がずっと有意義で上等だ。

    一貫して馬の目線から、ヒトや生きることを見透かす、問う、突きつける物語。
    だが、この演劇の終末を以ってヒトと馬のどちらが上等かなどと言う必要もない。そんな説教のようなものは必要ない。
    この戯曲の持つ圧倒的なリアリティは、観た人のリアルを捉える眼力、思考力を間違いなく刺激する。それで十分だろう。

    戯曲の威力を的確に発揮させ、音楽劇としてのエンタメをも併せ持たせた演出。役者陣の好演。
    必見の作品だった。

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    2023/07/08 22:54

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