谷間の女たち 公演情報 桜美林大学パフォーミングアーツプログラム谷間の女たち」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    桜美林大学、スゴイ!
    いやー、よかった。これ、日芸や桐朋、ましてや新国立の研修生の公演より、俄然クオリティが高かったのではないかと思う。

    これを演出した森さん、出演した俳優、また企画を推進した大学関係者たちに脱帽である。

    大学で行われる演劇作品に、これだけのクオリティがあれば日本の演劇は全然問題ないんじゃないか、とか思ってしまう。

    ただ、クオリティが高かっただけに、演出面で批評しなければならないことがあると思いましたので、色々と書きました。

    (以下、ネタバレへ)

    ネタバレBOX

    (同様の内容をブログにも載せています)
    http://blog.livedoor.jp/gendaikikai/archives/51028494.html
    さてさて、ベタ褒めを先にしておいて、一つ批判をしなくてはならない点がある。

    この劇の背景は1970年のチリの社会主義政権立ち上げ時の紛争である。

    1970年という年代が何を意味しているのか、チリという場所が何を意味しているのか。それをもう少し考えられたのではないかと思う。

    当日パンフレットには「遠い」と書いてあった。確かに「戦争」や「紛争」という意味においては、今の日本のアクチュアリティからだいぶかけ離れてしまっている。

    僕らがこういった紛争をテーマにした劇を見ても、思い起こせるのは第一次大戦時か、第二次大戦時の日本である。私たちは満州を(チリにおけるスペインのように)占領しようとした歴史を持っているし、アメリカに原爆を落とされて被害者になるという歴史も持っている。

    だが、これらは1950年以前のことであり、劇中に出てくる「20世紀」という言葉からはかけ離れてしまっている。

    だから紋切り型の紛争として扱われても、私たちには「過去に、自分たちとは関係のない国で起きた戦争」に見えてしまう。

    けれど重要なことは1970年という、私たちが戦後復興を目指してきた、まさにその時代に起きたということじゃないのだろうか。

    劇中にある「搾取される国があるから、搾取する国がある」(記憶があいまいです)みたいな台詞は、「第三世界は身近に存在するのだ」という臨場感を持って迫ってくるべきだったと思うのだ。

    そうすることで、私たち(日本)が加害者であり、同時に被害者でもあるという立場を述べることになったのではないかと思う。

    (・・)
    次に、チリという立地についてである。

    私たちはいままで、アメリカに追従する形で文化の面で、社会システムの面ですごしてきた。チリも同様にアメリカという大国を隣に持ちながらすごしてきた。

    演出家が当日パンフレットで「遠い」と形容したのは、おそらく紛争のことであろうが、こうした「西欧とは違う論理で動いている国」という意味においては、日本だって十分にオリエンタルな国だし、異国なはずである。

    しかし、劇中で「女たち」は自然児として、論理を持たない独特の共同体としてしか描かれていなかった。

    もし、これが西欧や資本主義システムへの批判となるならば、「被害者である」という意識から抜け出す必要があるのではないだろうか。

    演出や演技法の面で、ことさら「これは社会問題です。きちんと考えてくださいね」というリアリズムお決まりのパターンで僕らに「退屈さ」を強いる。

    ここまで「退屈な劇」にするということは、それだけ重要な「社会問題」ということなのだろう?(これは皮肉です)

    けれど、観客席に座っている私たちは、平和な観客であり、戦争を知らない近代人なのである。

    また上演する俳優たちも、大学という温床で育っている平和な近代人なのである。

    その近代人が、自然児に一体何を見ればいいというのか? 私は、この演出からは「第三世界は絶望的だ」「第三世界は私たちの英雄だ」というメッセージしか伝わってこなかった。

    本当にそうなのだろうか? そこには、「日本人は先進国である」というオリエンタリズムが発動してやいないだろうか?

    ……前置きが長くなってしまったが、「日本は先進国である」というプライドは捨て去るべきである。韓国に譲る部分もあるだろうし、中国を抜きにして考えることはできない。ましてや、日本人はまだ東南アジアとさえ友好を築けていないのだから。

    ヨーロッパ、アメリカに追いつけ追い越せではないだろう。アジアの中でぬきんでた経済大国であることは間違いないのだから、私たちが失ってしまった「文化」というものを、他のアジアの国が失わないために教訓を残すべき立場のはずだ。

    それを、「チリの紛争」を描く際に「第三世界が私たちの英雄だ」なんていうぬるま湯に浸かったような演出でよかったのだろうか、と思う。

    それこそ、新劇人の悪い進歩史観であり、新劇人の誤った近代史観なのではないか。

    この劇によって「私たち(日本)と、チリは同胞である」という立場から、アメリカ主義や進歩史観とは異なったユートピアを描けたのではないだろうか。

    今回の演出では、「紋切り型の紛争劇」として、「ユーゴスラビアであっても、日本であっても、ドイツであっても、どこだって紛争や戦争であれば変わらなかった」とさえ受け取れてしまう。森新太郎はそれとも栗山民也や鵜山仁の真似事をして満足したのだろうか?

    私は、こういった立場は非常に気に食わない。日本がいつ先進国になったというのだろう。日本がいつアメリカを差し置いて世界の中心になったとでも言うのだろう。

    私は、そのオリエンタリズムとは決別する。

    劇そのものは非常によかったが、この劇が日本人私たちの肌に合うようには演出されなかったし、「私たちの財産」として『谷間の女たち』が名を残すはずのチャンスを無駄にしたといいたい。

    (・・)
    最後は、多少辛らつかもしれないが、劇のクオリティが高かっただけに、演出面の脆弱さ(これは演出家だけの問題ではない)が露呈してしまったように思う。

    「劇の内容」にまで踏み込んでクリエイションができるような制作体制(特にドラマトゥルク)、観客のリテラシーを問いたいところだ。

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    2010/04/24 23:54

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