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「流れる」と「光環(コロナ)」
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公演情報
劇団あはひ「
「流れる」と「光環(コロナ)」
」の観てきた!クチコミとコメント
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ハンダラ(10417)
実演鑑賞
満足度
★★
光環を拝見。アップしたハズが載っていなかったので再送。
ネタバレBOX
板上はフラット。観客席側下手コーナーをAとし時計回りにB,C,Dとする。板中央に大きく白い正方形。このセンターに水を湛えた趣の真円。B・Dを結ぶ対角線を延長した線上に中心から遠くに行くにつれて小さくなる正方形がスモールb・cを各々の頂点として飛び石の如く置かれている。下手奥最小の四角形の面積を1とすると次は4その次は9でACを結ぶ対角線中心に完全なシンメトリーを為している。C・Dの中間辺りに天井からカーテンのような布が下ろされ床迄届いている、この幕の幅は50㎝程か。時折、ホリゾントやこのカーテン状の幕に文字が映し出される。
原案はPoeの「Purloined Letter」だそうで、当初今作のタイトルはLettersであったが上演直前に変更された。能を意識して作られているというが、足捌きはすり足でなく、現在の日本人一般の通常の歩き方である。偉く能書きの多いアフタートークが付いていたが、観客が舞台を観て能とデリダ哲学との関係、ラカンとの関係をどう読み解くと考えているのか? そもそも作品というものの性質は、作家の手を離れた瞬間から作家も知らない何者(なにもの)かになるのではないのか? そのようにしなければ作品は単に作家の「従属物」に貶められてしまうだろう。
敢えて善意に解釈すれば「光環」(コロナ)という作品は、詩人、哲学者、能作家、小説家、批評家等々を散々引用しつつ、存在と非在或は138億年前にあったとされるビッグバンとその後3×10⁻44乗秒の間に膨張して始源宇宙ができたとされる説に関わって必然的に提起される問題即ち“存在と無の関係”つまり宇宙に完全な無が在り得るか否か、が浮かんでこよう。自分の知る限り現在の宇宙認識に於いて完全な真空は無いと考えられていた。だとすると量子論的宇宙というものを考え更に一般相対性理論を同時に成り立たせる統一的論理を構築しなければならないが、それが出来て居ない現段階で無理に思考した時点に於ける、我らヒトの思考の揺らぎをこそ描いていると言えよう。唯、その描き方が引用の織物として表現されて居る為に極めて焦点を結びにくい。(兎に角、原案がポー、参照・引用は東浩紀、村上春樹、ヴァレリー、岡田利規、世阿弥、パウル・ツェラン、バッハマン、ラカン等々のオンパレードである。)このピンボケ感覚が一種の疎外感のようにしか表現されていない点で作劇法としては弱いと感じるのだ。ところで相対性理論と量子論の統一理論形成の話だが、時間を事物変化の経緯と捉えるなら初期のエネルギーと炎の塊のような何かがビッグバン後の3×10⁻44乗秒で拡散したとするなら炎とエネルギー時点で既に時間は存在したということになるのではないか? 而も時間は事物変化の経緯と規定したのであれば、この定義と矛盾する。
「野獣降臨 」で野田は主人公の絶対的孤独を宇宙船と地球の交信が途絶えた時間に於ける絶対的孤独として描き主人公というコアに収束させることに成功したが、「光環」に於いてはこのような主体が存在しないことも今作の弱さの原因である。余りに引用ばかりであるのみならず、アフターミーティングで作家自身が語った所によればシテとワキを入れ替えるという作業をしているとのこと。能をベースにしているということも語っており、{能に於いては実際に異界の者(神、精霊、亡霊、鬼等)がシテとされることも多いのに、(態々今作では本来の脇役である側をシテとし、実舞台で主役である者が実はワキだった、と言及していた訳だ。)}が作品を観た限り逆転させたと言っていたのが間違いではなく事実であったとすれば、この操作によって焦点化が不可能になってしまった。
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2022/04/19 08:33
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