イモンドの勝負 公演情報 キューブ「イモンドの勝負」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    時代の先端を行くナンセンスで不条理(absurd)な唯一無二の舞台。ケラリーノ・サンドロヴィッチが日本演劇に独自の世界を開いて見せて30年を超える。
    戯曲作家としてだけではない。その舞台表現のために意中の俳優を集めたナイロン100℃を率いて座頭としてのリーダーシップ。正直に言って、「フローズン・ビーチ」のころまでは、真価がよくわかっていなかった。ほかにないというが、別役実があるじゃないか、日本の喜劇にはナンセンスの伝統があるじゃないか、だが、そんなことを言っているうちにケラは小さな演劇社会の俗論を振り返りもせず、さまざまな演劇の世界に自らのナンセンスを持ち込み、検証し(岸田國士からカフカ、オールビーまで)、ケラならではの世界を創り上げたのだ。この三十年、ケラが作った作品と、その出演者たちの演劇経験は、教条主義が主流だった日本の演劇の地殻変動を深いところで促してきた。
    最近の例をあげれば、阿佐スパの「老いと建築」の村岡希美、長塚圭史にその影響を濃く見ることができる。すごいとしか言いようがない。
    そのナイロン100℃の47回目の公演。出発の原点に戻って、ナンセンスを描くという「イモンドの勝負」は本年掉尾を飾る秀作だった。
    この舞台、ストーリーは、もちろんある。しかし、ストーリーの役割は普通の演劇作品と違って、多義的で漠然としている。不幸な家族環境から、孤児院(院長・犬山イヌコ)で育ったスズキタモツ(大倉孝二)が選ばれてスポーツの世界選手権に参加する、というのがメインの筋立てだが、タモツの不幸な肉親関係の葛藤とか、探偵が政府高官に依頼されて四つの謎を探るとか、それぞれに結構波乱万丈の脇筋のストーリーが組まれていて、それが複合的にナンセンスな笑いとともに展開する。タイトルの「イモンド」というのも結局なんだかよくわからない。(戯曲で調べて見ればどこかで言っているのかもしれないが、そんなことはどうでもよく客が勝手に想像して、誤解すればいいのである)
    舞台では様々なナンセンスな警句が次々に放たれ、笑っているうちに忘れてしまうが、私が気に入ったのは「ミステリの犯人は必ずしも登場人物である必要はない」、ミステリにとっても演劇にとっても、チョー不条理でナンセンスなテーゼである。通りがかりの町の人がみな尾行していることを知っている探偵(山内圭哉)が、犯人を尾行する、とか、話としてはクライマックスになる世界選手権の競技がじゃんけんで、タモツはどこまでも勝ち続け,相手は後出しをしても勝てない。万人熱狂の勝ち負けを笑い飛ばす。一方では「生きていて仕方のない人なんか、二割くらいしかいませんよ」と平然と言ってのける。
    出演者は長年のナイロン100°Cnのメンバーに、赤堀雅秋、山内圭哉 池谷のぶえの客演。客演と言ってもこの劇団とは共演も多かった俳優たちだから今回はすっかりケラの世界になじんでいる。
    ケラの舞台が時代を超えても古びない要因に、前世紀の後半から、大衆の支持をえて、表現文化の底流を形創るようになった音楽、映像表現を巧みに舞台に取り入れていることがある。もともとミュージシャンだったから、音楽のカンがよく、映像も、上田大樹という個性的でケラと合う作家と組む。今回もそこも鮮やかに決まっている。連鎖劇のようなタイトル映像が出てきただけで観客は嬉しいのだ。変な被り物の動物も、出てきただけで可笑しいが、なんだかわからない。これで、一幕1時間45分。15分の休憩をはさんで二幕1時間20分。3時間20分がダレない。ひょっとすると、これ以上はないかも、と思わせる充実した公演だった。
    ケラも作品数の多い作家だから、井上ひさしと同じですべてが成功とは言えない。だが、後年(それがはるか先の時代であっても)ケラを再発掘しようとすれば、必ず「イモンドの勝負」は再演の候補になるだろう。この作品にはケラのナンセンスが集約されている。



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    2021/11/28 12:00

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