生きてる風/ ブタに真珠の首飾り 公演情報 アマヤドリ「生きてる風/ ブタに真珠の首飾り」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    『生きてる風』

    昨年から延期になった公演。

    「ひきこもり」の意味合いが微妙に異なってきた時代の「社会的ひきこもり」。
    なのだが、ひきこもりの人たちについて語っているようで、どうやらそれだけではなさそうだ。

    ネタバレBOX

    <似合う服理論>

    「ひきこもり」の意味合いが微妙に異なってきた時代の「社会的ひきこもり」。
    なのだが、ひきこもりの人たちについて語っているようで、どうやらそれだけではなさそうだ。

    すなわち、「人のアイデンティティー」はどこから生まれ、それを変えることはできるのか? ということではないか。

    作中で「似合う服を選ぶ」というワードが示すように、それを「自分でできる人」もいれば「他人してもらうことでしかできない人」がいる。
    「自分に似合う服」を選べた人は、「(社会での)居場所」が確保できる。

    それが「ひきこもり」という「服」の人もいる。
    その服を着替えたいと願っている人もいる。
    それの手助けが「支援事業」ではないだろうか。

    どんな服を着るかは自由だし、それが似合う似合わないを決めるのは、本当は自分なのだが、社会がそれをすべて許すわけではなく、社会、あるいはもっと狭い学校のような生活圏や、さらに狭い「家族」から「その服は着替えたほうがいいよ」というような、圧力(同調圧力の場合もある)が、常にかかってくる。

    その圧力がまるで「正しい」ようにかけられている人たちが、いわゆる「ひきこもり」の人たちであり、その圧力があるから逆に「着替えることが困難」になっている場合もあろう。

    そうした葛藤と、諦念とがいり混じった人々が、深夜から未明、そして夜明けの短い時間に混ざり合う。

    当然「答えはない」。
    それは「似合う似合わない」は、結局のところ自分次第であるということだからだろう。

    人々は、それを確認し、その場を去って行く。
    ある人は「着替えよう」と考え、ある人は「今のままでいい」と考えて。

    「ひきこもり」を描いているが、「似合う服理論」とでもいう考え方は、実のところすべての人に当てはまるのではないかと思った。

    自分が着ている服(貼られた「レッテル」)は本当に自分に合っているのか、今着ている服は自分で選んだものではないが、自分の意思で着替えることはできるのか(一度貼られてしまった「レッテル」を張り換えることは可能か)などなど。

    高校デビュー、大学デビューという言葉があるように、人生のタイミングに合わせてなんとか着替えたいと思う人もあれば、今のままの服でいい人もいるわけで、舞台の上の「ひきこもり」の人と同じかもしれない。

    個人的には、アマヤドリなので、もう一歩踏み込んだテーゼとか問いかけが欲しかった。

    「着替えたい人」竹前総次郎は、不器用(わざと?)ながら人との接触を試みようとしていたのが印象的。

    総次郎の妹・瀬奈は、正論で攻めてきていい感じに恐かった。
    一史の少し達観した感じ。
    一史の兄・譲は、弟がそんな感じなのに、やっぱりありがちな正論で、やんわり弟を責めているようだった。
    そんなわけで、はばゆりなさんと、河原翔太さん、沼田星麻さんが印象に残った。

    ラストにかかる曲は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド 「サンデー・モーニング」。
    個人的には「月曜日の朝」のほうがしっくりくるのだが、歌詞的にはそんな感じだろう。

    アマヤドリは、セットがカッコいい。今回もシンプルだけとカッコ良い。
    そして、未明からの照明の具合もよかった。

    ちょっと気になったのが、「ゲームをする女」。
    舞台を観ていたときには「ゲーム」をしているようには見えなかった。
    ヘッドホンをして画面を見ていることはわかったのだが、それがゲームだったとは。
    相関図を見て「ゲームをしている」とわかったのだが、それでいいのだろうか、演劇的には。

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    2021/03/26 14:18

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