満足度★★★★
揺れる」
アフタートークにて、安田純平さん曰く「知りたいと思うと、知りたいことはどんどん増えていく」公家義徳さん曰く「知れば知るほど、自分は何も知らないのだと思えてくる」つまり、自身の関心の度が高まれば、累乗的に知ろうという意欲が高まるということを、別の表現で語っている。中東やシリアのこと知りたいと思って、インターネットを調べてそれで理解した気になるんじゃねーよ、ということだ。
もちろん、時間は限られているし、ソースは限られている、自分に体験できることなどちっぽけなものだ。そうなると、関心を持ったとしても、とても知り尽くすことなどできないわけで、彼らが言いたいことは、けして知に対して傲慢であるなかれということだと思う。
さて、「揺れる」だ。このテキストには(訳本も見ていないので、パンフの読み書きだけれども)役名が振られておらず、ト書きもなく、詩文のようにセリフが書き綴られているという。だから、舞台の登場人物の人数もそれを割り付けた演出の理解・感性によるもので、セリフを別の人物が話していても、それが別々に発せられた言葉である保証はない。
全セリフを、1人がリーディングで済ませる舞台も可能だ。
原題はbeben,風に揺らぐような優雅なものではなく、地響きがして周辺の事物が震えるという意味らしい。むしろ「揺らぐ」の方が適切かもしれない。
走ってくる子供を射殺したスナイパー、その子供の死体、子供の母親。手をつなぐことは簡単なこと。しかし、手はつなげない。それはとてもとても難しいことだから。バルコニーから屋外を見やる若者たち、屋外に下り散らかったケーブルを片付ける中年女性、彼女は動かなくなる。路上のバスは狙撃を防ぐための盾となり、電波障害は若者たちをイライラさせる。今起こっていることは、現実なのかと自問自答する。ユリズンはこの世界をどう改変するのだろう、それともこれは改変された世界なの?理性とは、誰が持ち誰が実現するものなの。この世界はすでに理性的なのか。
観客はイライラする。阿鼻驚嘆と諦念、何かが何かが地中で蠢いていることだけは判るのだけれど。それを鎮めることは、とても簡単なことに思えるのだけれど。手をつなごう。果たして舞台の登場人物は手をつなげるのか、観客席の私たちは手をつなげるのか。
東京演劇アンサンブルの実験的な演劇。面白いかというと、うーん。でも、退屈はしなかった。そして、知りたくなった。今目の前の舞台で起きた何かを。