満足度★★★★
鑑賞日2020/03/04 (水) 14:00
座席1階
物語はまず、雑誌の編集部を舞台にスタート。アメリカでは珍しくないと思うのだが、対人関係や職場に不満を募らせてしまったおとなしい社員が突然切れて、乱射事件を引き起こす。問題はここからスタートする。
事件に巻き込まれ、すんでのところで生き永らえた同僚、事件の直前にスタバにさぼりにいってしまい、巻き込まれなかったものの遺体が次々と運び出される現場を目撃した同僚、そして、別の部屋にいてまったく事件を見ていない上司。この3人がいずれも、その事件をネタに本を出そうとする。これもアメリカではよくあることかもしれない。版権争いに加わっていくのだ。
あまりにもあざといというか、人の不幸をネタに一儲けするという「マスゴミ」と言ってしまえばそれまでだ。だが、大事件をどう伝えていくかはジャーナリズムの本質であり、まっとうな仕事である。それではそのやり方に問題があったかといえば、事件現場を目撃した人に直接あたって話を聞くかどうかは取材のイロハのイである。
メディアのおぞましさを描いてはいるが、この舞台がそれだけかというとそれは短絡的だ。
書かれる人の立場を考えながらきちんと仁義を切って取材をし、どこまで踏み込んで書くのかは、ジャーナリストとしての矜持であり、事件記者それぞれのありようにかかわってくる。だから答えは一つではない。ただ一つ、現場も見ていないのにさも見ていたように書くのは捏造に等しい、とは言わなければならない。
答えは一つではないのだから、ラストシーンを見ると演出の古城十忍さんもかなり迷ったのだろうと推察する。事件を消費して生きていくメディア、そしてそれを見る人たちの前では、事件の関係者が事件の影響を拭い去って人生の新しい一歩をどう踏み出すかということに焦点が当たらず終わってしまう。グロリアの原作は読んだことはないが、もっと事件関係者のもがきみたいなものが前面に出ていたら、この舞台の印象はかなり違ったものになるだろう、と思った。