満足度★★★★★
非常に簡潔だが奥深い舞台だった。家族の絆という普遍的テーマが、静かに静かに浮かび上がる秀作だ。ほとんどは夫(真島秀和)と、彼が写真だけで故郷の孤児院から選んで呼び寄せた15歳の妻セタ(岸井ゆきの)の二人芝居。舞台は1921年のアメリカ・ミルウォーキー。質素なアパートの一室で、時間は経過するが、場所が変わることはない。
時々、語り手(久保酎吉)があらわれて背景を補足説明する。「アルメニアの男は子どもを持つことを何よりも大事にしていた」とか。休憩後の後半になると、もう一人、孤児の少年ヴィンセント(升水柚希)が、時々、二人(3人)に絡み、二人の関係を変えていく。
夫婦の二人はトルコの迫害から逃れてアメリカにきたアルメニア人ということで、事前の宣伝でもそこが強調されていたが、実際の舞台では迫害の話は二人の記憶の奥底にあるもので(特に夫)、前半には全く出てこない。後半になって、夫が封印していた、自分の家族の最期を語ることがいつまでもしっくりこなかった二人の「新しい結合」の一歩となる。が、それにしても迫害の問題、民族の問題は事前に思ったより比重は低く、このドラマは夫婦、家族の物語である。
舞台には、最初からずっと、顔をくりぬかれた5人の家族写真があり、写真屋である夫は、その穴に自分の顔、妻の顔と、新しい顔を張って埋めていく。残った3人の子供の顔も新しい写真で埋めたいのだが、妻に子どもができない。そこに彼の重いトラウマと、何よりこだわる願望託されている
前半は夫が子供を求めても、それにこたえられない妻との融け合えない関係がずっと続く。最初は過去のトラウマで、新床にも入れない妻だが、それを超えて1年経ち、二年たっても妊娠しない。夫はそのためにいら立ち、妻につらく当たる。ここら辺は、今では考えられない、妻は「産む機械」的発想の夫で、何のためにこれを今やるのかと考えてしまった。
そうした発想の根元にあるのが「聖書」で、夫は食卓でいつも聖書を朗読する。しかも、妻は夫に従え、いつもつつましくあれ、と言った保守的な部分ばかり。セタは実は弁護士の娘で、教養も芸術を愛する心もあり、聖書の開明的な部分を暗誦して対抗する場面もある。「聖書」は矛盾したことが平気で共存しているので、ここは面白かった。
2時間25分(休憩15分含む)。戯曲は『悲劇喜劇』1月号に掲載。世界20国で上演されたというが、確かに、