酔いどれシューベルト 公演情報 劇団東京イボンヌ「酔いどれシューベルト」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    二度用いられる「アヴェ・マリア」の使い方は、特に気に入った。'(華4つ☆)

    ネタバレBOX

     今回、生演奏を入れていない分、舞台は広めに使っている。言う迄もなく音楽は抽象的な芸術だ。殊に西洋音階は謂わば東洋や中東の音階がアナログだとしたら、デジタルだろう。キッチリ音符で再現すべき音を記帳し、それに従って演奏されるから中間的音階が無い。その分、個的才能のみならず、オーケストラのような多くの人々がコンダクターの指揮に従って演奏する曲を作ることが可能だ。この前提になるのは、基本を同一の規則に従わせることだ。丁度、数学が定理や数に関する約束事で絶対を構成し其処に個々の演奏者の才能を花咲かせることができるように。無論、バロックの頃のように楽器自体が結構不自由で微妙な音が出た時代は兎も角、中東の人々や我々アジア系に馴染みのある音は、クラシックでは、中々表現されない。
    一方東京イボンヌは、クラシック音楽と演劇の融合を殊に目指してきたのであるから、身体という生ものにこの絶対を対置させる訳である。従って表現を効果的足らしめる為には、相当根源的な方法を編み出さねばならぬ、この点に目指している世界を実現する困難がある。
     さて、作品の評に入ろうか。舞台美術の落ち着いた色調と自分達が過ごした小学校の木造校舎の床のような板張の、而もワックス掛けをしていないくすんだ感じは、余計にシューベルトの曲を楽しませる。下手のバーカウンター、樽を用いたテーブルに粗末な木製椅子、上手奥の出捌け、バーカン手前と奥の壁に掛かったランプ等、全体に少し暗めの照明も音楽を聴くには最適だろう。だが、シューベルトの科白にはもう少し工夫が欲しい。唯飲んだくれて「俺は駄目だ」と言っているだけでは、物語りは動かない。動かす為に自分なら、先ず彼の天才故の徹底的な孤独、孤立を表すような科白を伏線として敷く。その上でなら「俺は駄目だ」の科白を然るべき場所に用いることは一向に構わない。この伏線の後にクラウディアにふられる経緯を展開するなら、観客は思わず知らず、彼の孤立の深まりを破滅に向かう必然性を享受するだろう。無論、クラウディアの選択の根底にあった貧しさと援助者・バロンの豊かさ、貴族、平民という身分意識の抱える根本的な社会的問題つまり差別を意識させることすらない民衆による王制支持と、その差別構造故にシューベルトに懸想するエリザベスは、彼に会えたことの矛盾迄含めて屹立し合うもの・ことをドラマとして効果的に用いることができよう。そうすることで、バロンが献金によって爵位を得たように金次第でどうにでもなる階級という社会システムの本質を暴き(それが現代世界を席巻している新資本主義そのものであることも)、ミミがクラウディアも街角に立ったことがあることを明かして描かれた舞台がぐっと深みを増したように、そしてシューベルトが、悲しみの余りクラウディアを想起させるミミとの関係を持ち、為に死に至ったことの強く、底の無い孤独をも、最後の最後にクラウディアに看取られて逝く時に彼女が彼に彼自身の創作の秘密を明かしたような生き様がドラマとして屹立するように思う。

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    2019/11/29 13:25

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  • 福島さま、皆さま
    ハンダラです。遅くなり申し訳ありません。
    アップしました。

    2019/11/29 13:28

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