満足度★★★★
鑑賞日2019/08/11 (日) 14:00
この舞台、劇中劇の素人演技を役者が演じ、この演じられる舞台を全体として虚構であることを前提として観客が観ているという構造になっている。同時に、役者は各人物として日常の会話・行為を演じながら、素人演技も演じなくてはならず、この二重構造が虚実を入子にして、観客の舞台の対象化がしづらい、言い換えれば、観客自身の舞台認識を揺るがす効果を生じている。
劇中劇がある舞台は幾つもあるが、この舞台がまたややこしいのは、舞台上の登場人物が、
殺人の確定的な故意を未必の故意として処理するために、模擬裁判を演じるという構図を取っていることにある。真実(江口の殺害)→虚偽(未必の故意)→虚偽(模擬裁判)→虚偽(クミ子と江口の約束)→真実(クミ子の死)→真実(消防団員内での内輪もめ)→虚偽(証人教師の懐柔)→真実(教師の殺害)という進行で、ひたすら虚実を行き来するのだ。
サスペンスとしてなかなか上質なのだが、この虚実のないまぜが、安部公房作品らしく、とても気持ちの悪い、閉じられた世界での心理葛藤劇としている。場面転換も多く、そのたびに、とてつもない不安感が横溢し、眩暈を覚えそうになる。
薦められえるか言えば、難しなあ。やはり、気分悪くなるもの。
作品の価値は高いと思えるのだけれど。でも、この戯曲に臨んだことには、拍手、拍手。