満足度★★★★
ナチ政権発足時のベルリンフィル国有化が素材になっている。この作者が名を挙げた「三億円事件」や「東京裁判」も歴史的大事件を背景にしたものだが、いずれもこの大事件に巻き込まれたごく普通の職業人を登場させていて、彼らの視点が社会と人間へのユニークな切り口を見せて成功した。だが、今回の作品は(そしてほかの多くの作品にも共通することだが)、ドラマの軸になるオケの指揮者(芸術家)とナチの宣伝相(権力者)が主役となって自らの主張を表明する。ユダヤ人のV奏者や、指揮者秘書、間に入るオケの事務局長なども登場するが、本人たちが直接対決するし、彼らに生活の空気がほとんどない。結局はナチ(権力)に抵抗しても、芸術家は押し切られる、という政治事件の経緯を見せられただけになってしまった。
それはそれで面白いし、大きな権威(たとえば国家)の力が市民生活へも迫ってくる昨今の状況の中で意味のないことではないとは思うが、それならば、翻って、この作者が突然、新国立劇場に免罪符のように起用されている現実はどう考えているのだろう。
新国立劇場が、設立当初から国家権力と反権力の基盤を持つ日本の現代演劇の対立の構図を引きずってきたのは、いささかでも演劇に関心のある人ならだれでも知っていることで、十年もたたない昔にも権力が芸術を支配しようとした芸術監督事件が起きた。
多くの現代演劇のリーダーたちは、慎重に距離を置き、警戒を怠らない。現に新国立劇場支配を試みた文部官僚が天下ったトヨタ財団が新国立劇場の有力サポーターである。
この一年の風姿花伝の試みは、ユニークで意味のある試みであったとは思う。一人の人間が演劇人生であふれるような創造力に恵まれるのはそんなに長い時期ではない。野田、ケラ、三谷、平田、みな最盛期には年に5本を超える創作劇を発表して多くの若い観客を集め、廣く文化界でも注目を浴びた。その時期に劇場がなくて発表できない、と言う事は演劇にとっては致命的である。それを劇場として補佐しようというのは新しい視点だ。しかし、上に上げた彼らは、ほとんど独力で、そこを乗り切って自分の演劇の地盤を固めたのだ。
今回の連続公演はパラドックス定数にはかなり荷が重かったのではないだろうか。後半は再演の内容の絞りが甘くなって、かなりくたびれていた。これで野木萌葱という作者の資質もかなり明らかになった。私が見たのは、ここ以外では、上野の地下、711などで、小さなスペースでの上演では面白く見られるが、百席以上の劇場になるとどうだろう。俳優で埋められる、という問題ではなさそうな気がする。
しかし、この作者の常識の盲点を突いたような論理の「突っ込み」はなかなか面白い。時に馬まで出してしまう大胆さも(魚を出すのは失敗したが)得難い才能だ。乱作にならないよう、旧作は少し大きな劇場で演出を預けて(和田憲明・演出はさすがに劇団公演とは大きく違っていた)作品の魅力を広げることも大事だろうと思う。