平田オリザ・演劇展vol.6 公演情報 青年団「平田オリザ・演劇展vol.6」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    「隣にいても一人」を複数観劇。昨年幾つか同作品の公演情報をみて気になっていた。近作と思いきや2000年の作。まず韓国版から観る事となり、知らない作品なので台詞(字幕)を追うのに目が忙しくなったが、会場からは開幕からあちこちからクスリと笑いが聴こえた。何度か見て行くと「この場面でこの役者はどう出るか」と期待を込めて見る感じになるから、先走り笑いが漏れるのも判るが、最初は原因の判らない笑いにいささか混乱した。
    「夫婦とは何か」について再考を促す作品で、破綻は元々あるがそれを最後まで見せる。笑いどころのある作品でチームによって違いが出るその部分が面白い。複数バージョンを見る醍醐味だ。

    ネタバレBOX

    破綻が決定的なのは、戯曲でも自己言及しているが、離婚が決定している夫婦それぞれの弟と妹がある朝突然「夫婦になっていた」と、戸惑いながら伝える二人に対し、まず弟の兄が言う、「そもそも何でそこで『夫婦になっていた』という表現になるんだ?」に表れており、ネックではある。換言すればその処理は役者に委ねられている。自宅に戻ってうとうとしたはずが、起きてみたら男の部屋におり、男は机に突っ伏して寝ていた・・。男も女も、互いに「夫婦になった」と確信している事が判った・・そのように数時間前の事を回想して語る二人だが、確信したのなら、もはや戸惑い続けることも、互いの兄や姉に相談することもない。確信できなければ相談するという流れにもなるだろうが、その時点で「これは夫婦になったという事である、という飛躍した解釈には走れない」、となる。「転校生」みたく突然有り得ない事が起きた、という事実を確信した時点で、二人はある秘密を共有する二人と自覚したなら、その秘密の意味を「夫婦になる」という行動によって検証しようとするだろう。そこに至る前段として、相手を伴侶として満更でないと自ら判定を下す、という選択行為があるはずで、「自分たちも戸惑っているんだ」という今だ判定せざる者の相談の形にはなり得ないのだ。逆に伴侶として不足があると感じたなら、不可思議な現象じたいを「何かの間違い」として忘れようとする、それだけだ。
    ただ、神秘を受け容れたとしても男の側と女の側に温度差や、解釈の違いがある場合も考えられる。夫婦となる(=結婚?)とは何か、についての認識は、結局のところ互いの本当のところは判らない以上、定まらない。お互いを探りながら、同居しやがて家族を形成していく単位である事は認めつつ、それ以外の諸々は何も決まっていない、何のルールもない。「夫婦になる」という言葉でしか表せない状態についてのみ合意したという事態は、どんな夫婦についても同じではないか・・。
    ただ、互いの一方的な思い入れを実現しようと(同床異夢?)結婚に至った夫婦(兄姉夫婦のような?)よりは、この二人のように、まず「夫婦になる」事を受け入れ、その他のことは成り行きで、話し合ってやって行こうという構えでいる方がうまく行くようにも見えるし、本来そういうものではないか、という含意がこの戯曲にはまあありそうだ。

    ただしこの戯曲では「二人がなぜ互いを受け入れることを<選択>したか」までは言及していない。というより、伏せている。実はそこが肝心で、例えば木引・吉田コンビは容姿への根源的な自信がありそれを意識化しないように制御しているタイプに見え、相手の事も十分値踏みしているがそれを口にせず、「困っている」アピールを兄姉にする事で自分の「選択」の痕跡をごまかしている、という匂いがある。・・しかし見合いが普通だった時代も事情は同じく、「選んだ」にしても不安は大きかったろうし、「選択」の罪を帳消ししても誰も文句は言うまい。
    一方林・梅津夫婦では女が「運命を受け容れていく強さ」を湛え、男は自分のような小説家目指すバイト男(ダメ男とも言える)に嫁が来たことをほくそ笑んでいる(有頂天を抑えている)姿がある。
    韓国版以外は平田オリザ演出だが、リアクションや台詞も俳優によって変えてあり、平田氏はそういう作り手だったかと、認識を新たにした。

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    2019/03/11 08:38

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